第10話
「――ヨシオくんッ!!聞いているのかしら!」
ユキナの絶叫が続いていた。俺の目の前では、一ノ瀬モモエと名乗った後輩が、まだ瞳に大粒の涙を溜めたまま、それでも嬉しそうに何度も頭を下げ続けている。俺が発した、たった一言の約束を、まるで世界で最も価値のある宝物のように受け止めて。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます、先輩……!」
「私の言ったこと、聞いてなかったの!? どうして、どうして私の言うことを信じてくれないのよ! あんなに危険だって言ったじゃない!」
感謝の言葉と、怒りの罵声。
二人の少女の声が、俺の頭の中で不協和音を奏でる。片方は、この世界で誰にも認識されなくなった孤独な一年生。もう片方は、俺にしか認識できない嫉妬深い神様。そして、その中心にいるのが、俺。
「この女は危険よ! ヨシオくんを自分の世界に引きずり込もうとしているの!そんなことも分からないの!?」
ユキナは、わなわなと体をこわばらせながら俺に詰め寄ってきている。その体から放たれる濃密な気配は、あからさまな敵意に満ちていた。もちろん、その敵意は俺にではなく、目の前でまだぺこぺこと頭を下げているモモエに向けられている。
その敵意が、物理的な現象を引き起こした。
俺たちのすぐそばにあった廊下の窓ガラスが、ピシッ、と小さな音を立ててひとりでにひび割れたのだ。蜘蛛の巣状に広がった亀裂が、西日の光を乱反射させている。
「え……?」
その音に、ようやくモモエが顔を上げた。彼女は、ひび割れた窓ガラスを見て不思議そうに首を傾げている。
「今の音、なんですかね? 建て付けが悪いのかな、この学校」
のんきなことを言っている。原因は、俺の隣で憤怒のオーラを放っているこの神様なのだが。もちろん、モモエにはその姿は見えていない。彼女の目には、俺が何もない空間に向かって難しい顔をしているようにしか映っていないだろう。
「先輩? どうしました?」
「ヨシオくん! 早くこの小娘を追い払いなさい!さもないと、この校舎ごと吹き飛ばしてやるわ!」
物騒なことを言うな。
俺は、内心で悪態をつきながら二人の間でどうしたものかと頭を悩ませた。このままここにいても、ユキナの癇癪がエスカレートしてどんな被害が出るか分からない。それに、いつまでも廊下の真ん中で立ち話をしているわけにもいかなかった。
「……とにかく、場所を変えよう。詳しい話を、あんたの部室で聞く」
俺は、半ば強引にそう言うとモモエの腕を軽く掴んだ。彼女は、一瞬驚いたように肩を揺らしたが、すぐにこくこくと頷いた。
「は、はい! 分かりました!」
「なっ……! ヨシオくん、今、その女の手を……!許さない、絶対に許さないわ!」
ユキナの怨嗟の声が背中に突き刺さるのを感じながら、俺はモモエを促して再び北校舎へと足を向けた。もう、どうにでもなれ、という気分だった。自分で蒔いた種だ。刈り取るしかない。
俺たちがその場を離れた直後、背後でガシャン! とガラスが砕け散る派手な音がしたが、俺は聞こえないふりをした。
◇
再び戻ってきた、北校舎三階、『民俗学研究会』の部室。
がらんとした、殺風景な部屋だった。いくつかの長机とパイプ椅子が乱雑に置かれているだけで、他にめぼしい備品はない。壁には、日本各地の妖怪や奇祭の写真らしきものが、画鋲で無造作に貼り付けられている。そのラインナップの偏り具合から、この部活が極めて個人的な趣味で運営されていることがうかがえた。
「ど、どうぞ……。散らかってますけど……」
モモエは、頬を赤らめながら俺にパイプ椅子を勧めてきた。俺は、黙ってそれに腰を下ろす。ユキナは、俺のすぐ後ろに仁王立ちしたまま腕を組んで、部屋の隅々までを値踏みするように見回していた。その瞳には、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいる。
「……ひどい部屋ね。オカルト趣味のガラクタばかり。こんな場所に、私のヨシオくんを連れ込むなんて、万死に値するわ」
もちろん、その声は俺にしか聞こえない。
モモエは、おずおずと俺の向かいの椅子に腰を下ろすと、改めて深々と頭を下げた。
「あの……本当に、ありがとうございます。先輩が来てくれなかったら、私、どうなっていたか……」
「礼はいい。それより、説明しろ。一体、何をしたんだ。あんたが言ってた、オカルト的な儀式ってのは」
俺が本題を切り出すと、モモエは少しだけ顔を曇らせた。その瞳に、恐怖の色がよぎる。
「それが……よく、覚えてないんです」
「覚えてない?」
「はい……。すごく、怖かったことだけは覚えてるんですけど……。一週間前の夜、どうしても寂しくて誰かと繋がりたくて……。それで、図書室で見つけた古い本に載ってた儀式を試してみたんです。確か、『合わせ鏡の儀式』とか、そんな名前だったような……」
合わせ鏡。オカルトの世界では、よく聞く単語だ。未来が見えるとか、悪魔が呼び出せるとか、様々なバリエーションがあったはずだ。
「一人で、深夜の学校に忍び込んで……。美術室で、大きな姿見を二枚、向かい合わせにして……。その間に、自分が座って……」
モモエは、思い出すようにぽつり、ぽつりと語り始めた。その声は、わずかに震えている。
「そうよ、そうよ。そんな胡散臭い儀式に手を出すから、罰が当たったのよ。自業自得じゃない。ねえ、ヨシオくん、そう思うでしょう?」
ユキナが、俺の耳元で囁きかけてくる。俺は、それを無視してモモエの話の続きを促した。
「それで、どうなった」
「……鏡の中に、もう一人の私が、現れたんです」
彼女は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「最初は、ただ反射しているだけだと思ったんです。でも、違った。鏡の中の私は、私とは違う動きをして……にたぁって、笑ったんです。そして、こっちにおいで、って……手招きを……」
そこまで言うと、モモエはぶるりと体を震わせた。よほど、恐ろしい光景だったのだろう。顔は真っ青になっている。
「その後の記憶が、曖昧で……。気がついたら朝になってて、美術室の床で倒れてたんです。そして、学校に行っても家に帰っても、誰も私のことに気づいてくれなくなってて……」
話を聞く限り、典型的な怪異との遭遇譚だった。おそらく、彼女は儀式の過程で鏡の向こう側の世界の『何か』と入れ替わってしまったのだろう。その結果、こちらの世界の人間からは認識されない、中途半端な存在になってしまった。
「……ふん。馬鹿な小娘ね。鏡の向こうは、古来からあちら側の世界と繋がる扉だって言われているのに。そんなことも知らずに、安易に手を出して」
ユキナが、呆れ果てたように吐き捨てた。
その時だった。
俺たちが座っている長机が、ガタッ、と小さく揺れた。
「え?」
モモエが、驚いたように声を上げる。
俺は、すぐに原因を察した。ユキナだ。彼女が、不機嫌さのあまり無意識のうちに力を漏らしているのだ。
「どうやら、この部屋にも何か『いる』みたいですね……!」
しかし、モモエはそれを別の霊的な現象だと解釈したようだった。彼女は、恐怖で青ざめていた顔から一転、オカルト好きな人としての好奇心に満ちた表情で、きょろきょろと部屋の中を見回し始めた。
「大丈夫です、先輩! 私が、この邪気を祓ってみせます!私、オカルトには強いんです!」
そう言うと、彼女は制服のポケットから何やらごそごそと取り出した。
それは、小さなビニール袋に入った粗塩だった。
「くらえ、悪霊退散!」
モモエは、威勢のいい掛け声と共にその塩を部屋の四隅に向かってばら撒き始めた。パラパラと、乾いた音が床に響く。
その行為が、ユキナをさらに刺激した。
「……なんですって? この私が、悪霊ですって……?こんな下級な半端モノの分際で……!」
ユキナの気配が、さらに冷たく鋭利なものに変わっていく。
今度は、壁に貼られていたポスターが風もないのに揺れ始めている。
「ひぃっ! こ、効果がない……!? なんて強い怨念なの……!」
モモエは、怯えながらも今度は懐から一枚のお札を取り出した。ミミズが這ったような、拙い文字で『悪霊退散』と書かれている。手作り感満載の、いかにも効果のなさそうなお札だった。
「こうなったら、私のとっておきのお札で……!」
「やめろ!」
俺は、思わず叫んでいた。
これ以上、彼女にユキナを刺激させるわけにはいかない。本気で怒らせたら、窓ガラスが割れるくらいでは済まなくなる。
「え、せ、先輩?」
俺の剣幕に、モモエはきょとんとした顔で、お札を構えたまま固まった。
「……その、塩とか、お札とかはもういい。多分、効果ないから」
「で、でも、このままじゃ先輩が危ないです! 先輩には、強力な悪霊が取り憑いているんですよ!」
「そうよ! 私は、そこらの悪霊なんかとは格が違う、由緒正しい神よ! こんな安物のお札で祓えると思ったら、大間違いなんだから!」
モモエの心配と、ユキナの怒声が、同時に俺に降りかかる。
頭が、痛くなってきた。
「……とにかく、落ち着け。俺は大丈夫だ。それより、お前の問題を解決するのが先だろう」
俺は、なんとか話題を元に戻そうと試みた。
「儀式に使った道具とか、参考にした本とか、何か残ってないのか?元に戻る方法が、どこかに書かれてるかもしれない」
俺の言葉に、モモエははっとしたように顔を上げた。
「あ……。そういえば、本は図書室に返したと思います。すごく古い、郷土資料の棚にあった本で……」
「郷土資料……」
「はい。この辺りの、昔の言い伝えとかが載ってる本でした。確か、装丁がボロボロで、題名もかすれて読めなかったような……」
曖昧な情報だが、それでも手がかりにはなるかもしれない。
俺は、椅子から立ち上がった。
「よし、行くぞ。図書室だ」
「え、今からですか?」
「当たり前だろ。善は急げ、だ」
俺は、これ以上このカオスな空間にいたくなかった。一刻も早く、ここから脱出したかったのだ。
「は、はい! 分かりました!」
モモエは、元気よく返事をするとぱたぱたと俺の後に続いた。
その背後で、ユキナが「私のヨシオくんに命令しないで!」と、まだ何やら叫んでいたが、俺はそれを完全に無視した。
こうして、俺と、透明な後輩と、嫉妬深い神様による、オカルトじみた事件に対する本格的な調査が始まったのだった。
◇
放課後の図書室は、静まり返っていた。
高い天井まで届く、巨大な本棚。その間を、数人の生徒がまるで幽霊のように静かに歩き回っている。ページをめくる、かすかな音だけがこの空間の時を刻んでいた。
俺たちは、その一番奥にある郷土資料のコーナーへと向かった。普段、生徒が立ち入ることなど滅多にない、埃っぽい一角だ。
「この辺りのはずなんですけど……」
モモエは、背伸びをしながら一番下の棚を指さした。そこには、背表紙が焼けページが黄ばんだ、いかにも古そうな本が乱雑に詰め込まれている。
「この中の一冊、だったと思うんですが……」
「片っ端から、見ていくしかないな」
俺は、しゃがみ込むと一番手前にあった分厚い本を手に取った。ずしりと重い。表紙には『中央市史 民俗編』と書かれていた。
「……ヨシオくん。本当に、あんな小娘の言うことを信じるの?」
俺の背後から、ユキナが不満そうな声で囁きかけてくる。彼女は、部室での一件以来ずっとこの調子だった。
「どうせ、ろくなことにならないわよ。早く帰りましょう? 家に帰って、二人きりでゆっくりしましょうよ」
『……静かにしてろ。』
「もう、ヨシオ君ったら。こんな女、放っておけばいいのに……」
そういう問題ではない。
俺は、内心でため息をつきながら本のページをめくり始めた。古い紙の、乾いた匂いがする。書かれているのは、この土地の成り立ちや祭りの変遷など、退屈な情報ばかりだった。
「あ、これかも……!」
隣で本を探していたモモエが、小さな声を上げた。
彼女が手にしていたのは、俺が持っている本よりもさらに古く、装丁がぼろぼろになった一冊だった。表紙には題名すら書かれていない。
「この本、見覚えがあります! 確か、この中に……」
モモエは、その本を床に置くと慎重にページをめくり始めた。俺も、彼女の隣にしゃがみ込みその内容をのぞき込む。
書かれているのは、手書きの、崩れたような文字だった。どうやら、誰かが個人的にまとめた民話集のようなものらしい。
「あった……! これです、『合わせ鏡の友』……!」
彼女が指さしたページには、墨で描かれた不気味な挿絵と共に、例の儀式に関する記述があった。
俺たちは、食い入るようにその文章を読んだ。
――満月の夜、二枚の合わせ鏡の間に座し、己が影に問いかければ、鏡の向こうより友来たる。されど、友は汝の席を欲し、汝を向こうへと誘わん。友の手を取りてはならぬ。さすれば、汝は永遠に鏡の中をさまようこととならん――
「……まんまと、誘いに乗っちまったわけか」
俺が呆れたように言うと、モモエは「うぅ……」と顔を覆ってうずくまった。
「だって、鏡の中の私が、すごく優しそうに笑うから……。もう、一人じゃないよって、言ってくれたから……」
孤独な人間の心につけ込む、典型的な怪異の手口だ。
問題は、元に戻る方法が書かれているかどうかだ。俺は、ページの続きを読む。
しかし、そこには儀式の危険性がつらつらと書かれているだけで、解決策については一言も触れられていなかった。
「……駄目、みたいですね」
モモエが、消え入りそうな声で言った。
その肩は、小さく震えている。せっかく見つけた手がかりが何の役にも立たなかったことで、絶望しているのだろう。
「だから、言ったじゃない。無駄だって」
ユキナが、追い打ちをかけるように冷たく言い放った。
その時だった。
俺たちのすぐそばの本棚から、一冊の本がするりと滑り落ちてきた。
ドンッ、という鈍い音を立てて床に落ちる。
「ひゃっ!?」
モモエが、悲鳴を上げて飛びのいた。
俺は、すぐにそれがユキナの仕業だと分かった。彼女が、その不機嫌さを持て余してまたポルターガイスト現象を起こしたのだ。
「……な、なんなんですか、今の……!」
モモエは、怯えた目で床に落ちた本と、何もない空間――ユキナが立っている場所を、交互に見ている。
「やっぱり、この図書館、何かいますよ! しかも、相当強力なのが……!」
「ええ、いるわよ。あなたみたいな、招かれざる客を追い出すための、ここの守り神がね」
ユキナは、ふふん、と勝ち誇ったように胸を張った。
俺は、頭を抱えたくなった。
この二人が揃うと、ろくなことにならない。
「……とにかく、今日はもう終わりだ。日が暮れる。帰るぞ」
俺は、半ば強引に調査を打ち切ることにした。
これ以上ここにいても、ユキナの機嫌を損ねるだけで何の進展もなさそうだ。
「で、でも、手がかりが……」
「また明日、考えればいい。何か、方法はあるはずだ」
俺は、何の根拠もなくそう言った。
それは、モモエを安心させるための言葉であると同時に、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
モモエは、しばらくうつむいていたが、やがてこくりと頷いた。
「……分かり、ました。すみません、先輩。私のせいで、付き合わせちゃって……」
「気にするな。約束しただろ」
俺は、そう言うと立ち上がって彼女に手を差し伸べた。
モモエは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに微笑むと、その小さな手を俺の手に重ねた。
柔らかく、そして、ちゃんと温かい、人間の手の感触。
その瞬間、背後から今まで感じたこともないような絶対零度の気配が立ち上ったのを、俺は確かに感じた。
振り返るのが、怖かった。
◇
すっかり日の暮れた道を、三人(?)で歩く。
俺の右側にはモモエが、そして左側にはぴったりと腕を組んで離れないユキナがいる。
ユキナは、図書室での一件以来一言も口を利かなかった。ただ、その全身から「不機嫌です」というオーラを放ち続け、時折、俺の腕をぎゅうっと強く締め付けてくるだけだ。その力は、人間のそれとは思えないほど強く、少し痛い。
「あの……先輩」
しばらく黙って隣を歩いていたモモエが、おずおずと口を開いた。
「はい?」
「先輩って、どうして私のことが見えるんですか? 何か、特別な力でもあるんですか?」
核心を突く質問だった。
俺は、どう答えたものか少しだけ迷った。
「……さあな。生まれつき、としか言いようがない」
「生まれつき……」
「ああ。物心ついた時から、普通の人には見えないものが、見えたり聞こえたりした。ただ、それだけだ」
俺は、ユキナのことは伏せて曖昧に答えた。
モモエは、そうだったんですね、と納得したように頷いた。
「じゃあ、先輩も、ずっと一人で……?」
「……まあ、な」
その言葉に、彼女はきゅっと唇を結んだ。
その表情には、同情と、そしてそれ以上の、何か共感に近い感情が浮かんでいるように見えた。
「そっか……。じゃあ、私の気持ち、分かってくれますか? 誰にも、自分の見ている世界を理解してもらえない、その寂しさが」
「……ああ」
俺は、短く答えることしかできなかった。
その寂しさを、俺は痛いほど知っている。
だからこそ、彼女を放っておけなかったのだ。
「私、先輩がいてくれて、本当によかったです」
モモエは、心の底からそう言った。
そして、満面の笑みを俺に向けた。
その笑顔は、夕暮れの光の中でやけに眩しく見えた。
俺は、その笑顔からなぜか目をそらすことができなかった。
ぎりり、と。
左腕に、骨が軋むほどの力が込められた。
見ると、ユキナが能面のような無表情で俺の腕を睨みつけていた。その瞳の奥では、嫉妬の黒い炎がごうごうと燃え上がっている。
まずい。これは、本当にまずいかもしれない。
「じゃあ、私、こっちなので! 明日も、よろしくお願いします!」
幸いにも、ちょうど分かれ道に差しかかった。
モモエは、俺に深々と頭を下げるとぱたぱたと軽い足取りで坂道の向こうへと消えていった。
その姿が見えなくなるまで見送った後、俺は恐る恐る、隣に立つ神様の方へと視線を向けた。
「……さて、と」
ユキナは、にっこりと、それはもう完璧な笑顔で俺を見上げていた。
だが、その瞳は全く笑っていなかった。
「ヨシオくん? 何か、私に言うことはないかしら?」
その声は、春の小川のせせらぎのように穏やかで、それでいて真冬のシベリアから吹き付けるブリザードのように、冷たかった。
俺は、ただ乾いた喉をごくりと鳴らすことしかできなかった。
◇
家に帰るなり、ユキナの尋問が始まった。
俺は、自室の椅子に座らされ、その周りを仁王立ちの彼女が、まるで獲物を追い詰める肉食獣のようにぐるぐると歩き回っている。
「どうして、あんな小娘を助けるの? 言ってみなさい」
「……放っておけなかった。それだけだ」
「放っておけなかった? ふーん。じゃあ、私が『行くな』って言った時、どうして私の言うことを聞いてくれなかったのかしら? 私より、あんな、どこの馬の骨とも分からない小娘の方が、あなたにとっては大事だって言うの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういうわけ!? はっきりしないと、分からないじゃない!」
彼女は、バンッ! と俺の勉強机を平手で叩いた。分厚い参考書が、数冊、床に落ちる。
その剣幕に、俺は思わず体を縮こまらせた。
「いい、ヨシオくん。よく聞いて。あの子は、危険よ。自分の欲望のために、平気で禁術に手を出すような人間よ。そんな人間が、あなたのそばにいて、あなたに良い影響を与えるはずがないわ。あの子は、あなたを不幸にする疫病神よ!」
まくしたてるユキナの言葉は、正論のようでもあり、ただの嫉妬からくる暴論のようでもあった。
俺は、疲労困憊の頭でなんとか反論の言葉を探した。
「……だとしても、見殺しにはできない」
「どうして!?」
「……あいつの気持ちが、少しだけ、分かるからだ」
俺がそう言うと、ユキナの動きがぴたりと止まった。
彼女は、驚いたような顔で俺を見つめている。
「誰にも理解されない孤独。世界から、自分だけが取り残されたような感覚。……俺も、お前がいなかったら、ああなっていたかもしれない。だから、見て見ぬふりは、できなかった」
それは、俺の本心だった。
ユキナは、しばらくの間何も言わずに、ただ俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳に浮かんでいた激しい怒りの炎が、少しずつ鎮火していくのが分かった。
やがて、彼女はふう、と大きなため息をついた。
「……本当に、あなたってお人好しなんだから」
その声には、呆れと、そしてほんの少しの諦めのような響きがあった。
「分かったわ。あなたが、そこまで言うなら、もう何も言わない。好きにしなさい」
意外な言葉だった。
てっきり、もっと徹底的に反対されるものだと思っていた。
「ただし」
ユキナは、俺の目の前にしゃがみ込むと、俺の膝の上にそっと自分の両手を置いた。
そして、下から俺の顔をのぞき込むようにして、真剣な瞳で言った。
「条件があるわ。あの子を助けるのは、今回だけ。そして、これ以上あの子と必要以上に親しくするのは禁止。特に、手をつなぐなんて、もってのほかよ。いいわね?」
「……ああ」
「それから、何をするにも必ず私の許可を取ること。私に黙って、勝手な行動はしないって、約束して」
「……分かった」
「返事だけはいいのよね……。まあ、いいわ。約束、だからね? もし破ったら……」
ユキナは、そこで言葉を切ると、にこり、と微笑んだ。
それは、今まで見たどの笑顔よりも、恐ろしかった。
「……その時は、あの子、消しちゃうから」
冗談には、聞こえなかった。
俺は、こくりと固い唾を飲み込むことしかできなかった。
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