第12話

 俺の目の前で、一ノ瀬モモエは自信満々に胸を張っていた。

 その瞳は純粋な探究心と根拠のない自信によって、夕暮れの薄暗い昇降口の中できらきらと輝いている。その輝きは、俺にひどく嫌な予感を抱かせた。こういうタイプの人間が「いい考えがある」と言い出す時、その考えは十中八九ろくでもないものに決まっている。


「いい考えですって? この状況で? どうせまた何かくだらない儀式でも始めるつもりなんでしょう」


 俺の左腕に絡みつくように立っているユキナが、冷ややかに吐き捨てた。もちろんその声はモモエには聞こえていない。彼女は俺が何もない空間に向かってわずかに視線を動かしたのを、不思議そうに見ているだけだ。


「それで、そのいい考えとやらは何なんだ」


 俺はユキナの囁きを無視して、できるだけ平静を装って尋ねた。頼むから、常識的な範囲の答えであってくれ。そんな万に一つの可能性に満たない願いを込めて。


「はい! この鏡に染みついた強い負の残留思念……これを浄化するためには、それ相応の力を持った『聖なる水』が必要だと思うんです!」


「聖なる水、ねえ。具体的には?」

「私が作ります!」


 モモエは、びしっと敬礼のようなポーズをとって言い放った。

 終わった。俺のささやかな願いは、今木っ端微塵に砕け散った。


「……お前が、作る?」

「はい! 私の趣味である、オカルトへの知識。そして、先輩を護りたいという清らかな乙女の祈りを込めて、最強の聖水を作り上げてみせます! 材料は水道水と食塩と、あとできればレモン汁があれば完璧です!」

「レモン汁……」


 もはや、どこから指摘すればいいのか分からない。聖水というより、ドレッシングでも作るつもりなのか。


「ぷっ……! くくく……! 聖水ですって! 水道水と塩とレモン汁で! ねえヨシオくん、聞いた? この小娘、本気でそんなものであちら側の世界の呪いを祓えると信じているのよ! ああ、おかしい! 腹がよじれるわ!」


 ユキナが俺の隣で腹を抱えて笑い転げている。その姿はもちろんモモエには見えない。彼女は急に黙り込んだ俺を前にして、自分の提案に何か不備があったのだろうかと不安そうな顔で首を傾げている。


「あ、あの……先輩? もしかして、レモン汁は邪道でしたかね……?」


「……いや、もうそれでいい。好きにしてくれ」


 俺は考えることを放棄した。まともに取り合うだけ、エネルギーの無駄だ。どうせ効果などないだろうが、彼女の気が済むならそれに付き合うしかない。俺は、そう約束してしまったのだから。


「本当ですか!? やったあ! じゃあ明日の放課後、早速準備してきますね! 場所は私たちの部室で!」


 私たちの、という言葉にユキナの笑い声がぴたりと止んだ。そして絶対零度の視線が、無邪気にはしゃぐモモエに突き刺さる。


「……まあ、いいわ。好きにやらせておきましょう。どうせあんなもので浄化できるような、生易しい呪いではないもの。自分の無力さを思い知って、せいぜい絶望すればいいのよ」


 ユキナは勝ち誇ったようにそう言うと、再び俺の腕にぎゅうっと自分の体を密着させてきた。

 こうして翌日の放課後、俺はモモエ特製の聖水作り(という名の奇妙な実験)に付き合わされることになったのだった。



「ではこれより『対・鏡面呪縛用特殊聖水精製儀式』を執り行います!」


 民俗学研究会の部室に、モモエのやけに張りのある声が響き渡った。

 長机の上には、家庭科室から拝借してきたのであろう大きなガラスボウルが鎮座している。その周りにはペットボトルに入った水道水、スーパーのビニール袋に入った粗塩、そしてなぜか一個まるごとのレモンが厳かに並べられていた。


「まずは、器となるボウルを清めます!」


 モモエはそう言うと、どこで手に入れたのか神主が使うような御幣(もちろん手作り感満載の粗末なものだ)を取り出し、ボウルの上で意味のなさそうな動きで左右に振った。


「……茶番ね。見てるこっちが恥ずかしくなってくるわ」


 俺の背後、いつもの女王様専用席と化した椅子にふんぞり返って座っているユキナが、心底軽蔑しきった声で呟いた。俺は、その言葉に内心で同意しながらも黙ってモモエの奇行を見守っていた。

 ボウルを清め(たつもりになっ)た後、彼女は恭しくペットボトルの蓋を開け、中の水をボウルへと注ぎ始めた。ちょろちょろと、間の抜けた音が静かな部室に響く。


「次に、浄化の力を宿す塩を投入します!」


 モモエはビニール袋から粗塩を一つまみすると、それをパラパラと水の中に振りかけた。水面に、小さな波紋が広がる。


「そして最後に、魔を滅する聖なる果実、レモンの果汁を加えます!」


 彼女は持参したナイフでレモンを真っ二つに切ると、その断面をボウルの上で力いっぱい絞り始めた。酸っぱい香りが、ふわりと部屋に広がる。数滴の果汁がぽた、ぽたと水面に落ちた。


「……よし! これでベースは完成です! あとはこれに、私の清らかなる祈りの力を込めるだけ……!」


 モモエは満足そうに頷くと、ボウルの前でおもむろに合掌した。そしてぶつぶつと、何か呪文のようなものを唱え始める。


「……なむあみだぶつ……はれるや……ちちんぷいぷい……?」


 節操がなさすぎる。仏教とキリスト教と日本の民間のおまじないが、見事なまでに融合していた。彼女のオカルト知識がいかに広く、そして浅いものであるかがよく分かる光景だった。

 俺は壁に貼られた一つ目小僧の絵を眺めながら、この不毛な時間が早く終わることだけをただひたすらに願っていた。


 数分後。

 祈りの儀式(?)を終えたモモエは、達成感に満ちた顔で顔を上げた。


「できました! これが私が作り出した奇跡の水、『聖水グレートモモエスペシャル』です!」


 すごい名前だ。小学生が考えた必殺技のようだった。

 彼女は完成した聖水(という名のただの塩レモン水)を空のペットボトルに慎重に移し替えると、その蓋を固く閉めた。


「さあ先輩! これを持ってあの鏡へ行きましょう! 今度こそ、あいつを浄化してみせます!」


「……ああ」


 俺は気の抜けた返事をしながら、椅子から立ち上がった。

 正直、全く期待はしていなかった。だが彼女のこの純粋な熱意を見ていると、それを無下にするのも何だか気が引けたのだ。



 俺たちは再び、閑散とした昇降口の姿見の前に立っていた。

 モモエは手にしたペットボトルを、まるで伝説の剣でも構えるかのように両手で固く握りしめている。その顔は、これから最終決戦にでも臨むかのように真剣そのものだった。


「いいですか先輩。私が浄化を開始したら、何があっても私から離れないでください。呪いが、先輩に飛び火するかもしれませんから」


「……分かった」


「では、行きます!」


 彼女は深呼吸を一つすると、ペットボトルの蓋を開けた。そしておもむろに、自分の指先に中の液体を数滴垂らす。


「聖なる力よ、我が指先に集え! いでよ、浄化の光!」


 モモエは意味不明な呪文を叫ぶと、その濡れた指先で鏡の右下の隅にあるあの黒い染みに、勢いよく触れた。

 もちろん、何も起きなかった。

 浄化の光などどこからも放たれない。黒い染みは依然として、そこに不吉に存在し続けている。ただ鏡の表面が、彼女の指先で少し濡れただけだ。


「……あれ?」


 モモエが間の抜けた声を上げた。

 予想通りの結果に、俺は内心で大きなため息をついた。


「だから言ったじゃない。無駄だって」


 俺の背後で、ユキナが勝ち誇ったように言った。

 その時だった。

 今まで何の変化もなかった黒い染みが、じわりとわずかにその面積を広げたように見えた。


『……ん?』


 気のせいか?

 俺は目を凝らして、もう一度染みを観察する。

 間違いない。さっきよりもほんの少しだけ黒い部分が大きくなっている。そしてその中心の闇が、より一層深くなったような気がした。


「……どうやら、逆効果だったみたいね」


 ユキナが面白そうに言った。


「あの小娘の、中途半端なオカルト知識と自己満足な祈りが、逆に呪いを刺激してしまったようよ。負の感情の染みっていうのは、生半可な浄化行為を行うと反発して、より強力になることがあるの」


 まずいことになった。

 良かれと思ってやったことが、完全に裏目に出ている。


「お、おかしいな……。私の計算では、この聖水で一撃で消滅するはずだったのに……」


 モモエは自分の指先と黒い染みを交互に見ながら、まだ首を傾げている。彼女は自分の聖水が呪いを活性化させてしまったことには、まだ気づいていないようだった。


「こうなったら、直接かけるしかありませんね!」


 彼女はそう言うとペットボトルを振りかぶり、中の液体を鏡に向かってばしゃり、と派手にぶちまけた。

 塩レモン水が、鏡の表面を伝って床にだらだらと滴り落ちる。


 その瞬間。

 黒い染みが、ぶわりとまるで生き物のように脈動した。

 そしてその中心から、どす黒い霧のようなものが、もわりと溢れ出してきたのだ。


「ひっ……!?」


 さすがのモモエも目の前の異常事態に気づき、小さな悲鳴を上げた。

 溢れ出した黒い霧は実体を持たないにもかかわらず、周囲の空気を急速に冷やしていく。昇降口の温度が数度、一気に下がったのが肌で感じられた。


「……だから、やめておけと言ったのよ」


 ユキナがやれやれ、と肩をすくめた。

 黒い霧は収まるどころか、どんどんその量を増していく。それはまるで鏡の向こう側から、こちらの世界へと何かを呼び込もうとしているかのようだった。


『おい、どうするんだこれ』


 俺はユキナに助けを求めるように、内心で尋ねた。


「さあ? あの小娘が自分で蒔いた種でしょう。自分で刈り取らせればいいじゃない」


 冷たい返事。

 彼女は、この状況を高みの見物と洒落込むつもりのようだった。

 だがこのまま放置しておけば、何が起きるか分からない。最悪の場合、鏡の向こうから本当に何か良くないものが出てきてしまうかもしれない。


「こ、こうなったら……!」


 追い詰められたモモエは再び制服のポケットに手を入れると、今度は例の手作り感満載のお札を数枚取り出した。


「悪霊退散!悪霊退散!」


 彼女は半ばやけくそになったように叫びながら、そのお札を黒い霧が噴き出している染みの上にぺたぺたと貼り付け始めた。

 その行為が、さらなる悲劇を呼んだ。

 お札が触れた瞬間、黒い霧はまるでガソリンをかけられた炎のように、ごう、と音を立てて激しく燃え上がったのだ。


「きゃあああああっ!」


 モモエはあまりのことに、その場に尻もちをついてしまった。

 鏡の表面で黒い炎が、不気味に揺らめいている。それは物理的な炎ではない。もっと霊的な、魂を直接焼き尽くすかのような冷たい炎だった。


「……あらあら。本当に、面白いことをしてくれるわねあの子」


 ユキナは感心したように、手を叩いている。

 もう俺が介入するしかない。

 俺は尻もちをついているモモエの前に立つと、黒い炎が燃え盛る鏡と対峙した。


「先輩!? 危ないです!」


「……分かってる」


 俺はゆっくりと、右手を前に突き出した。

 そして意識を集中させる。

 俺の、この生まれつきの体質。普通の人には見えないものが見え、聞こえ、そしてほんの少しだけ干渉できる、この力。

 それを今、ここで使う。


『……消えろ』


 俺は心の中で強く、そう念じた。

 俺の右手から目には見えない、微かな力が放たれる。

 それはユキナのような神の力ではない。ただの人間の、ささやかな抵抗。

 だがその力は、確かに黒い炎に届いていた。

 俺の意思に反発するように、炎はさらに激しく燃え盛る。

 鏡の奥から怨嗟に満ちた声が、直接俺の頭の中に響いてきた。


 ――ジャマスルナ……ジャマスルナ……!


「ぐっ……!」


 頭が割れるように痛い。

 だがここで引くわけにはいかなかった。

 俺は歯を食いしばり、さらに強く念を込める。


『お前の居場所はここじゃない。還れ』


 俺と、鏡の向こうの『何か』との静かな綱引き。

 数秒だったか、あるいは数分だったか。

 やがて鏡の表面で燃え盛っていた黒い炎が、まるで力尽きたかのようにすっとその勢いを弱めていった。

 そして最後には、完全に消え失せた。

 後に残ったのは焦げ跡一つない清浄な鏡の表面と、そこに貼られた数枚の情けないお札だけだった。


「……はあ、はあ……」


 全身から、どっと力が抜ける。

 俺は、その場に片膝をついた。

 大したことをしたわけではない。だが精神的な消耗がひどかった。


「……先輩!」


 モモエが慌てて駆け寄ってきて、俺の肩を支えてくれた。

 その顔は、恐怖と驚きと、そして尊敬のような複雑な色をたたえていた。


「……へえ。やるじゃない、ヨシオくん」


 俺の背後で、ユキナが初めて感心したような声を上げた。


「私の助けもなしにあそこまでやるとは、思わなかったわ。少しは見直してあげてもいいかもね」


 その声は、どこか楽しそうだった。

 俺はモモエの肩を借りながら、ゆっくりと立ち上がった。

 鏡の表面に貼られたお札を一枚、剥がしてみる。

 その下にあった黒い染みは、消えてはいなかった。

 だがさっきよりもほんの少しだけ、その色が薄くなっているような気がした。


「……少しは、効果があったのか……?」


 俺の呟きに、誰も答える者はいなかった。

 ただ西日が差し込む静かな昇降口で、三人の(うち一人は見えないが)高校生が、一枚の鏡を前に呆然と立ち尽くしているだけだった。



 結局その日の調査は、それで終わりになった。

 俺の消耗が激しかったのもあるが、それ以上にモモエが自分のしでかしたことの重大さに気づき、すっかり意気消沈してしまったからだ。

 帰り道、彼女は何度も何度も俺に頭を下げていた。


「すみません先輩……。私のせいで、あんな危険な目に……」


「気にするな。結果的に少しだけ、呪いは弱まったんだ。お前の聖水(?)とやらのおかげかもしれないぞ」


 俺は、何の根拠もなくそう言って彼女を慰めた。

 半分は本当だ。彼女の無謀な行動がなければ、俺も自分の力を使おうとは思わなかっただろう。

 その言葉に、モモエは少しだけ元気を取り戻したようだった。


「本当ですか……? じゃあ私の聖水も、全くの無駄ではなかった……?」


「ああ。多分な」


「そっか……! よかった……!」


 彼女は、ぱあっと顔を輝かせた。

 その単純さが、少しだけ羨ましく思えた。

 俺の左腕には相変わらず、ユキナがぴったりと寄り添っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る