動く人体模型の話(四)
涼香はどこか疲れた面持ちを浮かべていた。身を竦ませるように風に抗いながら、僕らは川沿いの小径を歩く。伏し目がちな彼女の眼差しには、言葉にならない不安の影が宿っていた。歩幅こそ揃っていたが、互いの胸の内には異なる想いが静かに渦巻いていた。肌を刺す冬の冷気が、言葉を交わす隙間を塞ぐように降り注ぎ、僕たちはその沈黙に身を委ねながら帰路へと足を向けた。
電車に乗り込むや否や、涼香は重くしていた口を開き一言発した。
「教えてほしい」
菊井の話を聞いても彼女は結論に辿り付くことができなかったのであろう。人には得意、不得意が存在する。
僕が導き出した真相について結論から告げた。人体模型を動かしたのは飛鳥井泉で間違いないであろう。
彼女は予想通りの反応をした。
「つまり、飛鳥井さんが人体模型を動かしていたってことだね。詳しく教えてほしい。考えに至った理由はあるんだよね?」
好奇心に絡めとられた鋭い眼光が僕に襲いかかる。
「菊井君は犯人を知っていたんだよね。新聞部を動員して、この事件の犯人のことを調べたんだと思う。菊井君が特定の犯人を知っていることを前提に僕は彼に質問をしたんだ」
「うん。菊井は、答えられる箇所だけは答えるってスタンスで私たちと話していたよね」
犯人とは関係のない話題になると饒舌になり、僕らが確信に近づくと押し黙る菊井の様子に涼香も気がついていたらしい。
「僕はサッカー部と演劇部の生徒に対して同じ質問をした。質問の内容はその部員の中でアリバイがない人物はいるかどうか。彼の口からは把握できるはずがないという答えが返ってきた。つまり、サッカー部や演劇部の生徒の中に犯人がいた場合、新聞部は個々のアリバイを調査するうことなく犯人を見つけたことになる」
「個々のアリバイを調査することなく犯人を見つけるってことは、具体的にはどんなことが考えられるの?」
涼香は眉をひそめる。
「うーん。そうだね。二つ考えられる。一つ目は、犯人が明確な証拠を現場に落としていったとかが考えられるかな。理科室の人体模型の前に、犯人しか持っていないハンカチだとか、ボールペンが落ちていたとかかな。僕らが警察であれば、犯人の指紋とか血痕とかもそれに該当するね。新聞部は重大な証拠を得ることができて犯人を見つけることができた」
涼香は不満げな顔をする。
「それなら、同じ証拠を見つけるまで、私たちが犯人を見つけることはできないじゃない?」
もし、新聞部が重大な証拠を握っていたとすれば、その証拠を見つけるまで犯人を特定することはできないであろう。
「でもね。新聞部が特定の証拠を掴んでいるということはなっかたんじゃないかな」
「どうして、そう言えるの?」
菊井の発言はうろ覚えであるが、できる限り彼の自慢気な口調を真似よう。鼻の穴を小さくして言葉を発する。
「手掛かりが何一つない状況の中で、取材力だけを武器に犯人を特定することができたんだよ。これこそが帝陵高校新聞部の底力だ!」
涼香は「すごーい。似てるね」と微笑む。そして、「うんうん」と声に合わせて頷く。
新聞部には何一つ手掛かりがなかったのだ。新聞部は取材力だけを武器にしていた。
「うん。言ってた。証拠なんてなかったんだね!」
新聞部が使った手法は、もう一つの手法であろう。
「二つ目は、動機から犯人を探る方法だね」
警察であっても物的証拠がない場合には動機から探ることがあるという。動機は犯行の理由や目的を理解するために極めて重要な要素であり、動機が追加の証拠を見つける手掛かりになる場合も多い。
しかも、犯行は人体模型を動かしたこと。高校生でもある。動機さえ明白にすれば犯人からの自供を得るのは容易であるのではないかと推測できる。
「飛鳥井さんには人体模型を動かす理由があったってこと?」
涼香が僕に問う。
そう。その理由を探るため、僕は菊井にいくつかの質問を重ねた。
「たぶん、僕の推測した理由であっているんじゃないかな」
彼女は無言で僕のことを見つめる。要するに、続きを早く話せということらしい。
「理由の前に、飛鳥井さんが人体模型をどうやって運んだかを話してもいい?」
涼香は頷く。
「まず、廊下に人影がないことを確認した後、理科室に行き、人体模型を自分の部室まで移動させた。人体模型を返す時も人影を気にしていたと思うよ」
「彼女は一人で人体模型を運んだってこと? あんな重たいものどうやって」
「グランドピアノ運搬車が部室にあるんじゃないのかな。文化祭で披露するために、体育館まで生徒がピアノを運んだことがあるんだよね? 専用の運搬車が部室にあるはずだよ」
涼香はその見識に「なるほど」と、共鳴の言葉を唱えてくれた。
「でも、どうして人体模型なんて部室に持っていく必要があったの?」
「それが彼女の動機の部分だね。飛鳥井さんはピアノを人体模型に弾いてほしかったんだよ」
「はぁ?」と涼香は鋭い目線を僕に刺す。
「もう少し詳しく言うと、ピアノを弾いているよう人体模型には自分の分身になっててほしかったんだよ。部室の扉は施錠することができる。四階の扉は全て曇りガラスになっているだろ? 人体模型がピアノの椅子に座らせた。外から見ればあたかも人がピアノを演奏しているみたいじゃないか」
「どうして、わざわざそんなことを……」
「休みたかったんだよ。だから、人体模型に演奏させるフリをさせた」
「でも、人体模型は鍵盤を叩けないよね?」
「テープの録音を流しても誰も気がつくことはないんじゃないかな。最近のオーディオ機器の性能は凄くいいから」
涼香の眉を寄せた顔は、見るからに不満顔と表現できるだろう。
「そもそも、どうして、そこまでして休みたかったの?」
「彼女は特待生でこの学校に入学しているんだろ。練習ができないことをみんなに告げたくなかったんじゃないかな」
ピアノを演奏することに特別な才能を認められ、この帝陵高校に入学し優遇もされてきたのだ。僕にだって少しくらい飛鳥井泉の気持ちはわかる。練習がしたくないなんて誰にも言えなかったのであろう。
「彼女の立場からすればそうかもしれないけど、飛鳥井さんって授業と授業の間の休憩時間中も指の特訓をするくらい練習熱心だったんだよね。練習を怠けたかったなんて、なんだか不自然じゃない?」
別に彼女は練習をサボるために、こんな小細工をしていたわけではない。
「彼女は練習がしたくてもできなかったんじゃないかな。今は病院に通院しているんだよね?」
涼香は頷く。
「彼女は重度の低血圧症だったんだと思う」
涼香は目を丸くする。
「なんで決めつけることができるの。根拠はあるの?」
涼香がこの根拠で納得するかは分からぬが、伝えてみることにしよう。
「飛鳥井さんが授業中に堂々と飲食していたものは、トマトジュースとドライフルーツだったよね?」
涼香は「あぁ、カリウムね」と呟く。
トマトジュースやドライフルーツにはカリウムが豊富に含まれている。カリウムは体内のナトリウムとのバランスを保つ役割があるとされ、そのナトリウムは血圧を上昇させる作用がある。また、カリウムには他にも血管の拡張作用や心臓の収縮リズムの維持など血流の改善効果があるため、重度の低血圧症の人間には、改善効果が期待できると生物の授業で習った気がする。
「でも、単純にトマトジュースやドライフルーツが好きだった可能性もあるよね。断言はできないじゃない」
涼香の言うように断言することなどできない。徹底的に彼女のことを取材して、自供させない限り、今回の場合は根拠と述べることはできないだろう。ただ、説得力を増すことくらいなら、できるのではないか。
「彼女は十二月に症状を発症した。人体模型を移動させた日には必ずサッカー部の練習があった。そこに何かしらの因果関係があるとしたら。どうかな?」
涼香は「そっか。天候の悪い日だったのね」と、納得している様子である。一般的には天気が悪い日には気圧が下がる。
「今の話は根拠とは言えないね。可能性を話しただけだよ。真実をどうしても知りたいのなら、飛鳥井さんに問い詰めるしかないね。涼香はどうしたい?」
彼女は数瞬も迷うことはなく告げた。
「必要ない!」
「どうして?」
「古賀先生が休んでいることと、人体模型が移動したことには関係性がなさそうだから」
僕の出した結論、飛鳥井が重度の低気圧症を隠すために人体模型を移動させたという論に涼香は納得を示した。
つまり、人体模型が移動した理由に古賀は関与していない。
もしかしたら、菊井の話を聞き終えた時から、彼女の結論は出ていたのかもしれない。涼香が最後に望みをかけているものは、人体模型の首吊り事件の方だ。
電車は次の駅で涼香の最寄りの駅へ到着する。
早口で話した。涼香に質問を問いかける時間はまだ少しはありそうだ。僕からも彼女に一つだけ聞きたいことがあった。
どちらかといえば、古賀先生の休職した理由を調査するにあたって、この質問の方が重要であろう。
彼女の降りる駅のホームが見えてきた。
彼女への問い。聞いてみるか。
ただちに回答を求めているわけではないので、このタイミングで問うことが妥当なのかもしれない。
「涼香?」
彼女の瞳が僕の眼とぶつかる。
意を決して僕は彼女に尋ねた。
「君は、人体模型が首吊りした事件のことで僕に隠していることがあるよね?」
停車の瞬間、車両は徐々に傾斜し、僕と涼香は敏感に体重を移動させた。
「やっぱり気がついていたんだね」
電車のドアが開いた。
昨日は彼女の唇が僕の頬を掠めていた時間だ。
涼香は電車を降りて僕の方へ振り返って言った。
「解き明かしてみてよ。その謎を——」
それが、涼香と話した最後の言葉になった。
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