動く人体模型の話(三)

 理科室を出た僕らは、すぐに菊井のいる教室に向かったが彼を捕まえることはできなかった。菊井がD組の教室に戻ってきたのは昼休憩が終わる三分前のことで、彼から話を聞くのは放課後を利用することにした。

 放課後、落ち着いて話ができる場所はないかと菊井に尋ねた。

 彼の案内で、僕と涼香が向かったのは新聞部の部室だった。

 一階の印刷室に隣接した部屋の扉を開けると、予想に反して、内部には思いのほか多くの生徒が居合わせていた。

「みんな部員なの?」

 涼香が訊く。

 ざっと数えるだけでも二十名ほど視認できた。

「これだけじゃないよ。受験が終わるまで休部している三年もいる」

「菊井君は進路決まったんだっけ?」

「まぁな。一昨日決まったよ」

 菊井は照れくさそうに頬を緩める。

「そう。おめでとう」と、涼香が言うので僕も同じ言葉を重ねた。

 クラスには、菊井のように進路が決まった生徒が増えているようだ。かくも多くの賞賛が、他人事のように人望の薄い僕の耳をかすめていった。

 菊井に導かれるまま部室の奥へと足を踏み入れると、彼の姿に気づいた生徒たちが一斉に立ち上がった。

「おつかれさまです!」

 僕にお辞儀をされたみたいで身を縮ませる。挨拶くらいはしようと首だけを下げた。

「みんな礼儀がなってる。体育会系みたいね」

 菊井は「そりゃあ、そうさ」と、頭を高く保って告げる。

「そこに座って!」

 案内されたのは部室の一番奥の席で、僕と涼香は窓に背を向けて座った。

「帝陵高校新聞部といえば、全国に実績を誇る活動を行なっている。全国大会や県のコンクールとか、新聞部の競技会でも確固たる地位を築いている。それに、帝陵新聞という名前は知っているだろ? 生徒以外にも帝陵新聞に関する問い合わせが届くほどだ。自分で言うのもなんだけど、地道な取材と斬新な企画力では他校と比べても群を抜いている。特に去年はSNSを発信したことが話題になったな」

 菊井は自身の携帯電話を机に置き、画面を僕たちに見せる。

「ほら、この記事! 文化祭で軽音楽部が披露している映像を配信したら再生回数が数百万だぞ。他の記事だって、見ろ!?」

 菊井は興奮気味に携帯電話に映る情報を変えていく。

「SNSを利用して新聞を発信することは俺が提案したんだ」

 菊井は自慢げだ。

「俺がここに入るずっと前から新聞部は帝陵高校伝統の部活なんだよ。これからも新聞部は発展する」

 菊井は、教室内に響くよう高らかに宣言した。残る生徒に向かって激励の言葉であったのだろう。自然と拍手を送ってしまう。

「で、君達の要件はなんだったっけ?」

 先程まで退屈そうに話を聞いていた涼香が少し、机に身を乗り出すのがわかった。

「理科室の人体模型が歩く話は知ってる?」

「もちろん! 学校の七不思議にもなってるよな。二人の生徒が行方不明だって話だろ?」

「その七不思議の話ではなくて。今年の十二月にサッカー部が目撃した出来事なんだけど。天候不良でグラウンドが使用できないサッカー部が校舎で練習する際に体験した話なんだけど」

 菊井は「あぁ、そっちか」と、自身の手を叩く。

「七不思議に関係する話しは新聞部で徹底的に調べているんだよ。もちろん、その話も知っている。理科室にある人体模型が自然と動いたとしか考えられない事象をサッカー部が目撃したんだよね。ちなみに、深夜に忍び込んだ生徒が二人、行方不明になった話の真相も新聞部は握っているぞ」

「ごめん。行方不明の方は、あまり気にならないかな」と、涼香は冷淡だ。

「そっか。まぁいい。で、君はサッカー部が見たその現象を知りたいと……何が知りたい?」

 涼香が口を固く結んで僕の方へ向く。助け船がほしいという合図だ。

「その現象が起こった日、四階でサッカー部以外に活動をしていた生徒がいたかどうかを知りたい」

 菊井が僕の方へ顔を向けた。

「つまり、君達は四階にいた人物の誰かが人体模型を動かしたのではないかと疑っているわけだね?」

「そういうことだね」

「なるほど。新聞部もその結論には辿りついた。驚くなよ……しかも、犯人を見つけることができたんだ」

「本当に?」と、涼香が目を丸くさせる。

 菊井は、その反応を見て肩を後ろに反らして自慢げだ。

「手掛かりが何一つない状況の中で、取材力だけを武器に犯人を特定することができたんだよ。これこそが帝陵高校新聞部の底力だな」

「犯人は誰だったの?」

 涼香が菊井に詰めよる。

「この話の真相は新聞部だけの秘密事項なんだよ。動かした犯人のプライバシーがあるからな。あくまでも個人の情報を他人に共有するかどうかの選択の権利は、その個人が持つべきものだからな。決して他人が個人の尊厳を奪ってはいけない。個人のプライバシーを侵害する行為はこの伝統ある新聞に傷をつける行為になってしまうからな」

「こっそり教えてもらうことはできない? 私達が誰かに言うことはないから」

「内緒で話すこともできないな。プライバシーが侵害された個人が情報を修正する機会を奪うことになってしまう。君達を信頼していないわけではないが、事実と異なる内容が広まってしまう危険性もあるだろ。こうやって、こっそりと伝える話っていうのは、正確性や公平性の欠如によって情報が歪曲されるリスクが高いんだよ」

 菊井の言っていることは正しい。人のプライバシーを尊重する責任を抱え報道に取り組む、まさに名門校の新聞部といった感じか。

「それなら、犯人のことは教えてもらわなくてもいい。僕らの質問に応えられる範囲で解答をもらうことはできないかな?」

 僕の問いに、菊井は目の下に皺をつくり苦い顔をする。

「ううーん。根幹に関わる部分は応えることはできないが、それでいいのか?」

「もちろん!」

 続けて、涼香も「お願い!」と重ねる。

 菊井は眉間に皺を寄せ、声を小さくして語りはじめた。

「サッカー部が人体模型が移動している事象を発見したのは3日間あった。どれも十二月の出来事だ。その三日間で四階で活動していた部活は演劇部、美術部、軽音楽部、ピアノ部、顧問の先生や科学や物理、生物の担当教員も四階に出入りしていた。全員の名前が必要か?」

 菊井は不敵な笑みを浮かべながら僕たちに聞く。

 僕は首を横に振る。犯人候補から外すことができる人間の情報は必要ないだろう。

「その三日間で全ての日に四階にいた生徒を教えてほしい。毎日、活動をしていたわけではないよね?」

 菊井が小さく舌打ちをするのが伝わった。

「そうだな。美術部と軽音楽部は三日間全ての日にいたわけではない。それと、職員会議があって、教員も全ての日にはいなかった」

「ってことは、演劇部とピアノ部が候補ってこと?」

 涼香が僕に確かめる。

「まぁ、そうだね。それとサッカー部も候補に含めるべきだね」

「あぁ。そうね!」

 涼香が相槌を打つ。

「犯人が同一犯であることの前提だけどね」

 サッカー部が目撃した三回の人体模型の移動である。人体模型を移動させた犯人が別々の人物であるならば、それぞれの日のアリバイを調べる必要があるのだが——。

「犯人は同一犯だとして考えた方が良さそうだね」

 僕は菊井の顔を覗きながら呟いた。さきほど、菊井は犯人の尊厳を説明する際に『個人』という言葉を多様していた。一旦、犯人が複数人いるという仮説は除外した方がいいかもしれない。

「四階の教室の並び順について教えてくれない?」

 菊井に尋ねるが、彼は口を尖らせる。

「実際に行って確かめればいいじゃないか?」

 確かに彼の言うとおりなのかもしれないが、これから犯人候補達の行動を聞こうとするところだ。菊井から情報を聞きだすにも四階の教室の並びを把握しておいた方が頭の中で想像しやすい。

「ごめん。教えて!」

 涼香が煽る。

 菊井は溜息をついてから、嫌々にも説明してくれた。

「講堂階段の方から順に言っていく。メモでも取ってくれ!」

 校舎東側には二階建ての大きな講堂がある。講堂には、本館二階からでも入ることができて、その近くにある階段を生徒は講堂階段と呼んでいた。

 涼香は鞄からスケッチブックを取り出す。いつかの時に見た、あのスケッチブックだ。テーブル上に広げ、カラーペンも出す。訳があって僕は涼香の鞄から目を背ける。

「講堂階段を登ると、目の前に見えるのが美術室だ。廊下を進んでいくと男子トイレ、洗面所、女子トイレがあるな。次に見えるのが演劇部の部室だ。隣の生物実験室は先生がいない時は常に鍵がかかっている。並んでいるのが人体模型がある理科室だ」

 そこまでは僕も授業で立ち寄ることがあるので馴染みがあった。

「生物室は常に鍵がかかっているのに、理科室は鍵がかかっていない時があるんだね?」

 一度、話を遮り、気になったことを菊井に尋ねた。

「あぁ。もちろん、理科室内の実験準備室の中は入れないようになっているが、実験準備室以外は解放されている。薬品関係や備品は実験準備室の中にあるからな!」

 僕は「ありがとう」と頭を下げ、「続けて」と中断させた話の続きを促す。

「理科室の隣に中央階段があるよな? 本館東から西に進むと中央階段手前には空き教室があるな。ここは施錠がしてあって生徒が入ることはできない。次に軽音楽部が使う視聴覚室、ピアノ部の部室が並びにあって、最後が音楽室だ。一番奥には副階段があるな」

 持っていたスケッチブックにカラーペンを走らせた涼香が僕らにそれを共有する。即座に作成された校内教室の図面は、緻密さと洗練された造形美まであり、思わず見惚れてしまった。

「サッカー部は、この講堂階段と中央階段、副階段の三か所で練習していたのよね?」

「その認識で合ってる」

「走り込みの最中に理科室の中の人体模型がないことに気がついたと聞いたけど、サッカー部の走り込みをしてた場所って、講堂階段から中央階段の間ってこと?」

 涼香は自分で作成した図面に手を当てながら尋ねる。そんな細かい話、いくら菊井であっても……と、菊井に目を向ければ、彼の口は動きはじめていた。

「その通りだ。四階の講堂階段から中央階段は人の出入りが多くはない。だから、いつも走り込みはその間で行なっているみたいだな」

 涼香は「うーん。なるほど」と頬に手を当て、考えながら目線を僕にくれた。

「まず、サッカー部の中に犯人がいる場合を考えてみようか? 例えば、練習で人体模型を使ってたとは考えられないかな。ドリブルの練習を人に見立てて行なっていたとか」

 問われた僕は首を傾げる。

「ボールを使ってドリブルの練習か。かなり目立ちそうだね」

「例えばの話よ。練習に参加していた人数が奇数で、一人だけ人体模型をペアを組んでストレッチをしたとか」

 それは死んだ魚とダンスをしているようなものだ。考えたくもない。そもそも、練習道具として人体模型を使ったのであれば、その情報はサッカー部の全体に共有されるのではないか。小野田は僕らに、目撃したのは、それぞれ違う人物だと言った。

「どれも少し、無理がありそうだね。練習でこっそり使う理由が見つからないな」

「悪ふざけとか、嫌いな先輩がいるとして、その人を驚かせるためにとか?」

「うーん。どうだろうね」

 さきほどの論よりは可能性があるのではないか。ただ、冬の大事な大会を控え真面目に練習する部員たちの中で、悪ふざけとは考えにくい。しかも、四階でサッカー部は練習をしていた。嫌いな先輩に嫌がらせをするにしても、もう少し目撃されるリスクが少ない方法を考えるのではないか。

 僕から案も出さずに、否定ばかりするのは忍びない。

「サッカー部の中で三日間とも練習に参加していて、アリバイがない人物はいたの?」

 菊井に訊く。

「一人一人の動きを三日間も把握している人物がいると思うか?」

 いないと思う。

 菊井率いる新聞部調査能力には目を見張るものを感じる。それ故、少し期待が過ぎたかもしれない。

「サッカー部の検証はひとまず置いておいた方がいいかもしれないね」

 涼香が提案する。

 僕は同意した。

「次は演劇部のことを聞かせてほしい。演劇部はその日何をやっていたの?」

 涼香が菊井の方に身体を向けた。

「決まってだろ。帯を締めて受け身の練習をしていたと思うか?」

 涼香が子馬鹿にされたのが癪に障る。当の涼香はなんとも思っていないようだが……。

「つまり、演劇の練習をしてたってことだね。部屋を抜けることは全員ができたの?」

 今度は、僕が菊井に尋ねる。

「出番の人間だけ舞台で演じて、残りの部員は外から演技をチェックしていたみたいだな」

「あまりイメージができないな。演劇部の部室って、どんな感じなのかな。まさかステージや緞帳があるわけではないよね?」

「そんなもん、あるわけないだろ。イメージするなら机と椅子がない教室だな」

 それなら、部員全てが監視役になっているということだが、三日間の部員のアリバイを聞けば、菊井にこう返されるだろう。

『一人一人の動きを三日間も把握している人物がいると思うか?』と。しかし、敢えて、質問をしてみよう。

「演劇部の人達のアリバイは把握しているの?」

 菊井は唖然と口を開き呆れ顔を僕に見せつけた。

「君は学習しない人だねぇ」

 良い反応である。

 他に何かヒントになるようなことを聞くことができないかと考えてみる。だが、困ったものだ。思ったよりも質問が出てこない。

「例えばさ!」と、耳元の声で涼香の顔が近くにあることに気がつく。

「劇の道具として、こっそりと人体模型を拝借していたとは考えられない?」

 確かに、その可能性はあるな。

「演劇部が練習していた劇の題材はなんだったの?」

 僕の質問に菊井の目は輝く。

「ミシェルに見せる」

 おそらく、それが劇の題材なのだろう。

『ミシェルに見せる』

 その題材を僕は知らない。涼香の顔を窺うと、彼女も点とした目を見開いていた。学識を有する涼香が知らないということは、その作品はオリジナル作品なのだろう。

「ごめん。それって、どんな話なの?」

「フランス人パティシエの元で弟子についた日本人高校生の話だ。ケーキやデザートを作ったことがない高校生が一人前のパティシエになるまでの話だな。脚本は演劇部部長の宇野沢康太うのさわこうたのオリジナルだ」

 なるほど。デザート作りの経験のない高校生が修行をし、お客さんにミシェルをミシェルとして見せれるようになるまでのサクセスストーリーなのだろう。なぜ、その未経験の主人公がパティシエを目指そうと思ったのかは気になるが、菊井に聞けば話が長くなりそうであるので想いは封印することにしよう。

「その演劇で内臓が飛び出た人形を敢えて使うとすれば、どんなシーンが考えられるかな。解剖シーンとか交通事故のシーンとかあったのかな。律希はどう思う?」

 パティシエを目指す高校生の青春劇に解剖のシーンや激しい事故のシーンが描かれるだろうか。僕が無言でいると涼香が仮説を膨らませる。

「主人公がプロスポーツ選手を目指していたが事故に遭うところからストーリーがはじまるとか。人体模型を使っても不思議ではないよね。心鬱な主人公が出会ったのがお菓子作りだった。どう?」

 どう、と聞かれも返答のしようがない。「面白いと思う」と、有耶無耶な返事になってしまった。

「悪いが小道具としては使っていない!」

 菊井は皮肉めいた笑みを浮かべながら呟いた。彼の断言により、反証の材料を隠し持っていることが伝わる。散々、僕らの会話を聞きながら、手玉に取るとは趣味が悪い。

「どうして、そう言い切れるの?」

 純粋な瞳は菊井へ向く。

「ビデオを撮影しながら演技の練習をしていたんだよ。演技の細かい箇所の指導はビデオをチェックしながら行なうらしい。演技基部が撮影したそのビデオを細部にわたり新聞部は見たんだ。残念ながら、人体模型が使われる箇所はなかったよ」

 菊井は誇らしげに言う。

 涼香は「それなら否定できるね」と、明るい口調で発した。決して、気を落とすことをせず、新たな仮説を彼女は思案する。

「観客として人体模型を椅子に座らせていたってことは考えられない? 演劇部の部員にあがり症な人がいて、観客の目線を増やしたかったからとか」

 観客はかぼちゃと思え、と演劇やパーフォーマンスの世界では使われることがある。それは、居並ぶ観客の頭をかぼちゃ畑だと思えば緊張しないであろうという励ましの言葉である。練習の段階で無機物に鑑賞させるのは、生身の人間が座る本番での緊張を助長する行為になってしまうのでは……。

 ある種、その比喩と真逆の励ましとも思える。

「なかなか、想像できないよね」と、案を口にもせずに否定だけをしてしまった。

 涼香も可能性を一つ一つ排除している段階なのであろう。

 慌てて、「こうやって可能性を追及してくれると助かるよ」とお礼を告げるが、そもそも僕の言葉に気を静めた様子などなかった。

「ビデオは演劇の全体像を映し出していたんだよね?」

 僕が菊井に訊く。

「そうだな」

「教室の扉が舞台の袖の役割になっていたんだよね。演者は扉から出入りしていた?」

「そうだな」

「基本的には教室のドアは空いていたということだね」

 菊井は再び「そうだな」と壊れたロボットのように同じ言葉を重ねる。ただ、その表情は若干の苦みを帯びている。少しは核心を突いているのかもしれない。

 演劇中に演劇部の横を人体模型を担ぐ生徒は横切らなかった。演技部の部室の隣は生物実験室になっており、さきほどの菊井の話によれば、その部屋は常に施錠してあるという。生物実験室の隣が人体模型が置かれている理科室だ。

「それなら、理科室から講堂階段の間を人体模型が移動したとは考えにくいかもしれない」

 涼香の描いた図面を指さし、彼女に説明するように告げた。

「うん。理科室から先の中央階段から副階段の間にいた生徒が犯人の可能性が高いね」

 もちろん、前提には演劇部が盗んでいないことであるのだが。

「ピアノ部の生徒の話も先に聞いた方がいいかもね」

 涼香が探求心を示す。

 溜息を漏らしつつも菊井が説明をはじめた。

「ピアノ部の部員は一名だけ。飛鳥井泉あすかいいずみだけだ。ピアノ部は飛鳥井泉のためだけに新設された部活だ。彼女は帝陵高校に特待生で入学している。彼女の演奏を聴いたことはないか?」

 我が帝陵高校には多彩な人材が集うというが、天才ピアニストもいたとは存じ上げなかった。

「飛鳥井泉さんってピアノ部に在籍していたんだね。もちろん、彼女の演奏は聴いたことがある。優美な旋律が一つ下の私の教室まで舞い降りてくる。たまに心を魅了する時はない?」

 涼香が僕の顔を覗く。

 “ない!”と、断言できたが口にはしない。

 騒がしい日常の中で一つの雑音として認識していたかもしれないが、そのメロディは思い出せなかった。

「彼女みたいな人が天才と称されるのかもしれない。凄く日常生活も変わってたみたいだから」

「どんな風に変わってたの?」

「うーん。休み時間になるとヘッドフォンをして、机を鍵盤に見立てて練習してるらしいよ。自分の世界だけで生きているというか。演奏へのこだわりは凄いものがあったみたい。一度、彼女が文化祭で演奏を披露したことがあって。依頼した文化祭実行委員会の委員がピアノを運ばされたって愚痴っているのを聞いたことがある。体育館にもピアノはあるけど、どうやら自分が普段使っているピアノを使わないと気が済まなかったらしいの。四階から体育館まで実行委員の生徒に運ばせたと聞いたよ。それに、こんな話も聞いたわ。授業中にも関わらず堂々とトマトジュースを飲んだり、ドライフルーツを食べてたみたい。先生も飛鳥井さんにだけは注意できないというか……」

 孤独に自己を貫くとは僕に似て非なるものを感じる。異なる箇所といえば、特別な才が存在するか、しないかの違いだろう。

「その飛鳥井さんは毎日ピアノ部で練習していたのかい?」

「ほとんど毎日聴こえていたはずだけど……」

 涼香は確信の乏しさを示した。

「学校で練習するより、専門のプロの先生が教えるピアノ教室とか専用のレッスンスタジオに通うのが一般的ではないの?」

 僕の知識外のことだからテーブルに座る他の二人に聞いた。目の前の二人であれば知識はあるかもしれない。

「専門の先生が学校まで来てくれていたんだよ」

 応えてくれたのは菊井だった。

「学校が飛鳥井泉のために特別に予算を取って専門の先生を雇ってたんだ」

「毎日、特別な講師が来てくれていたの?」

「いや、毎日ではない。週に二回程度だったらしいな」

 思慮深い態度が菊井の言葉の端から伝わってきた。もしかしたら、人体模型が移動した理由の根幹を成しているのかもしれない。

「講師の先生が来ない日は、彼女は一人で練習をしていたということ?

「そういうことだ」

「彼女が練習をする姿を菊井君は見たことがある?」

「ない。彼女は練習中には、常に部室の鍵を閉めて練習をしていたんだ」

 もう一つ、さきほどから心に留まる問いがある。

「彼女は三年生なの?」

「違う。私たちの一学年下だわ」

 今度は涼香が応えてくれた。

「彼女は、もう学校では練習していない?」

「うん。練習はしていない」

 控えめな声から、内なる事情の複雑さを感じる。涼香も菊井も、飛鳥井に対する質問を過去の逸話のように語ってくれた。

「どうして?」と、図々しくも涼香に聞く。特別な事情が存在するはず。たぶん、菊井に聴いても解答は得られないだろう。

「最近、病院に通っていると聞く。少し体調を崩しちゃったみたいね。菊井君なら彼女の具体的な症状を知っているんじゃない?」

 洞察を求められた菊井は自分の口に罰点印を指でつくる。これこそが、彼の語るプライベートなことであるのだろう。

「大丈夫。なんとなくだけど、事の真相がわかったよ。ありがとう!」

 僕は席を立ち、菊井に礼を告げた。

「わかったの?」と、涼香は僕を見上げる。

 彼女の期待するような真相ではないだろう。人体模型の移動現象が古賀の休職の理由に起因することはないであろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る