動く人体模型の話(一)

 帝陵高校の理科室は、夜になると二重鍵で封じられる。施錠の理由は掲示されない。知っている者は黙り、知らない者だけが噂を続ける。

 あの部屋では、誰もいないはずの夜に、しゃがれた声が喉の奥で擦れるのだと。

 その夜、六人が忍び込んだ。

 四人は見張りに回り、二人が獲物である黒板脇の人体模型を撮って戻る段取りになっていた。

 肝試しである。

 笑って帰るはずの遊びだった。

 二人は四階へ進んだ。

 段差を踏む。

 トン、トン、トン、トン、トン。

 靴底に吸い付く冷たさが階段の芯から立ちのぼる。非常口の緑が壁を病的に染め、廊下は息を浅くする。二人は懐中電灯を胸の高さで固く握り、理科室のドアに指をかけた。ゆっくり押す。ホルマリンの匂いが、薄皮のように鼻腔へ貼りつく。

 部屋を照らす。

 黒板の脇には何も置かれていない。

 それが最初の異常だった。そこにあるはずのものが、ない。人体模型があるはずなのに。人の形が抜け落ちた闇だけが立っている。

 床がかすかに鳴った。

 革靴の擦れでも、布の摩擦でもない。乾いた硬質なものが、一定の間合いで床を叩いた。


 ト、…ト、…ト、トトトトトト。


 耳の奥で骨伝導のように響く。

 窓際に月が沈みかけ、逆光の中で影が動いた。

 懐中電灯の円が震える。光は肋骨の影を拾い、露わな色相が一瞬ぬらりと光った。

 人体模型が、歩いていた。

 ゆっくり。確実に。

 膝の曲がり方だけが、人間のそれとちがう。


 ト、…ト、…ト、トトトトトト。


 声が出ない。息ばかりが喉に突っかかる。

 懐中電灯を持たないほうの生徒が、反射でスマートフォンを掲げ、連写する。


 カシャ、カシャ、カシャ


「お、お、おい。なに撮っているんだよ。に、逃げなきゃ」

「すごいじゃん」

 撮るほどに、被写体は近づく。

「おい。やべぇよ。こわいよ。逃げよ」

「やどよ、すごいじゃん」

 内臓の色、縫合の跡、塗膜の剥がれまでが克明に記録される。

 スマホを構える生徒は、自分の指先で強く画面を押し続けている。

「すごいじゃん」

 人射し指が反対方向に曲がる。

「すごいじゃん」

 今度は親指の骨が折れる音がした。

 逃げよう。懐中電灯を持つ男は振り返り、ドアノブに手を伸ばす。

 回る。だが、開かない。錆ではない。内側から指で押さえられているような、柔らかくも譲らない拒絶。

 背後で音がする。


 ト、…ト、…ト、トトトトトト。


 呼吸と歩みの間隔が合っていく

「うわぁああ!」

 怒鳴り声が、廊下の奥を裂いた。

 四人は笑い混じりに駆けてくる。

 計画通りの茶番の悲鳴だと思った。

 

 扉を開けた。

 中は静かだ。

 先に校舎に入った二人はいない。

 床に懐中電灯が転がり、画面の割れたスマホが置いてある。

 誰かが言った。

「すごいじゃん」

 揺れの残光が天井のタイルを撫でている。

 一人がスマホを拾い上げた。

 指紋の汗がまだ乾いていない。

 ギャラリーには最新の写真が並ぶ。

 そこには、ドアのすぐ脇でこちらを向く人体模型が映っていた。画面を掲げ、本能的に同じ方向に向かう。

 スマホを持った生徒がドアの脇を見る。

 人体模型は黒板の脇に立っていた。

「すごいじゃん」

 別の一人が言った。

「すごいじゃん」

 別のもう一人も言う、

 スマホを持つ生徒は咄嗟に声をあげた。

「やべぇぞ!」

 反射で廊下へ飛び出す。

 背後で、音が鳴る。

 

 ト、…ト、…ト、トトトトトト。


「すごいじゃん」

「やばぇって、逃げるぞ」

 スマホを持つ生徒は、同級生の頬を何発も叩いた。

 同じように違う生徒も、また違う同級生の頬を叩いている。

 叩かれた二人の生徒は意識を取り戻したようで、「うわぁぁぁぁ」と同時に叫びながら教室を出て、廊下を走っていく。

 その後を、残りの二人の生徒も追いかけた。


 最初に校舎へ入った二人は、いまも行方不明のままだ。

 捜索は続いているが、どこへ消えたのかは誰にもわからない。

 以来、理科室は夜に二重に施錠され、廊下の非常灯だけが一定の緑を滲ませる。開かずの扉の曇りガラス越しに、ときおり影が横切る。


 ト、…ト、…ト、トトトトトト。


 廊下に響く音がある。

 誰かが、あれは遊び相手を探しているのだと言った。だが遊びにしては、戻ってこない者が多すぎる。理科室の棚には、いつのまにか空の標本瓶が増え、ラベルの剥がれ跡だけが白く残っている。瓶の口は、人の喉のように小さく、密閉の音は口を噤む音とよく似ていた。

 夜が落ちるたび、扉の向こうで歩幅が揃っていく。月が曇り、非常灯だけになると、影は窓際へ寄る。そこに立つ何かは、じっと外を見ている。見張り役のいるべき方角を。次の二つがやって来る気配のする方角を。




「で、この話が古賀先生の休職した理由と関係あるのかい?」

 語り手の西園寺麻衣子さいおんじまいこには聞こえぬように涼香の耳元で呟いた。幸いにも我が教室内は騒がしい。

「うん。これが、西園寺さんが言う、古賀先生が休職した理由なの」

 苦い顔をし、疑心暗鬼に涼香が応えた。

「つまり、古賀先生は七不思議を恐れていた。特に、この動く人体模型の話は古賀先生にとって耐えられない恐怖だったはず」

「本気で言ってる」

「うん」と涼香が頷く。

 たしかに、古賀の担当教科は物理であった。恐らく、理科室に出入りすることも多いだろう。次の日の授業の準備などは、その場所で行なわれていた。

 細い目をしたままの西園寺に率直な疑問を投げかけた。

「二人の生徒が学園から消えたのに世間は騒がなかったのかな?」

 仮に、人体模型の力によって二人の生徒が消えたとしよう。世間を震撼させたはずのミステリアスな重大事件がこの学校で発生していたにも関わらず、僕はその失踪事件を今になって知った。

「私たちがまだ生まれるずっと前の出来事だったのよ」

 西園寺は何故か得意げな表情をする。

「スマートフォンのカメラ機能を使って人体模型の写真を撮ったんだよね?」

 僕らが生まれるずっと前にその機能があったのだろうか。

「そうらしいわね」

「その時代にスマホあったの」

「未来から届いたのかもしれない」

「なるほど。生徒たちは、どうしてスマホの使い方がわかったのかな」

「説明書があったんじゃないかな」

「読んだってこと? スマホと一緒に説明書も未来から届いたの? 人体模型近付いてくるのに、落ち着いて説明書を読んだの? すごいじゃんって言っている人が読んだの?」

「うるさい」と静かな声で西園寺に言われた。

 涼香からも「揶揄うんだったら、あっちに行ってて」と怒られる。

 僕は小さくなることにした。

「古賀先生は夜の時間に理科室に出入りすることはなかったのかな?」

 涼香が訊く。

「さぁ?」と、西園寺の口調は軽い。

 すると、別の方向から言葉が入ってきた。

「夜中、古賀先生が理科室の教室にいる姿、見たことあるけど」

 横耳を立て聞いていた小野田がこちらに身を乗り出してきた。

「どうして小野田君が知ってるの?」

「俺、サッカー部だっただろ。雨の時は校舎内で筋トレするんだけど。サッカー部の練習場所は本館四階と中央階段の踊り場。四階には理科室があるだろう? 部活帰りの時間になっても古賀が作業をしている様子を見たことがある」

 夜に理科室の扉が開いていたことになる。

「扉、封印は解かれたの?」

 涼香は西園寺の方へ白い目を向けた。

「きっと、古賀先生は隠された秘密の鍵を見つけたみたいね。だからこそ、古賀先生だけは夜の理科室に入ることができた。そもそも、厳重に戸締りをしていることが七不思議を証明しているわよね。古賀先生が秘密の鍵を見つけてしまったことは不運でしかないわね」

 西園寺は、揺らぎのない穏やかな声で言い切った。

 理科室には実験器具や化学薬品があり、誤った取り扱いをすると危険な事故に繋がる可能性もある。鍵をかけることで不適切なアクセスや学生による無許可の侵入を防いでいるのであろう。

 堪らず、僕が訊ねた。

「帝陵高校に限らずしも、理科室には施錠をするものではないのかな?」

「うるさい」

 西園寺はしかめ面を見せる。

「もう一つの七不思議もあるわ」

「聞かせて」と涼香が言う。

「理科室は四階にあるでしょ。四階と言えば死の階。そして最上階よね? 屋上も近い。学校の屋上で起こる不思議な現象の話しは知っているかな」

 僕と涼香、なぜか小野田までもが同時に首を振った。

「夜に屋上に忍び込んだ生徒が聞いたの。キーという奇声のような叫び声を。これも学校の七不思議の一つだわ」

 どうして、逸話の人物はこうも夜な夜な学校に忍び込むのか。

「また逸話?」

「違うわ。実際にその奇声を聞いた生徒は何人もいる。有名な話じゃない」

「それって。風の音とか生き物の泣き声なんじゃない?」

 涼香が質問を重ねる。

 屋上は風の通り道になりやすい場所である。風が強まると、建物や物体との摩擦や振動によって“キー”という音が発生することもあるのではないか。

「そういうものは、噂としては面白いからね」

 やんわりと僕もそれが怪奇現象とは言い切れないと否定した。

 西園寺は顔を赤くして、口を捲くし立てる。

「じゃあさ。じゃあさ! いっとくけどさ。自動販売機の飲み物がお金を入れていないのにどんどんと、どんどんと落ちてくる七不思議は知っている。どう。知らないでしょ。えっ?」

 西園寺は興奮すると雑な喋り方になるらしい。

 こっちのが怪奇だ。

「ただの自販機メーカーの機械トラブルでしょ」

 涼香の冷淡な声に、西園寺は反論を述べない。

 ちょうど、予鈴が鳴り響いた。僕たちは小さく西園寺に頭を下げて、教室に戻ることにした。


 教室に向かう途中、僕は涼香に訊ねた。

「涼香が最後の気になってた事件があるって言ってたと思うけど、この話しじゃないよね」

「いえ。この話だよ」

「古賀先生が七不思議に恐れて、学校に来ることができなくなった?」

「そう」

 僕は、ついつい苦笑いを浮かべてしまった。 

「古賀先生が七不思議を怖がっていた根拠って、まさか西園寺の話しで終わりじゃないよね?」

 僕の疑心暗鬼は涼香に投げかける。

 涼香は首を振った。

「それだけだったら私も調査をしようと思わなかった。だけど、現に人体模型が動いたって証言をする人がいるの」

 僕は「まさか?」と、疑惑を漏らす。

「そうだよねっ?」と、涼香は後ろを振り向いた。

 さきほどから身を乗り出し話を聞いているサッカー部の小野田が僕らの後ろにいた。

「どうして君が?」

 僕らの後ろにいるんだい。

「来るように栗原に言われたからだよ」と小野田が素っ気なく言う。

「で、人体模型の話、詳しく教えて」

 涼香は小野田に話を促した。

「あぁ。つい最近の十二月のことだ。冬の大会、つまり俺たちにとって最後の大会に向けて練習をしてたんだ。練習も気合が入っていて、天候が悪くても校舎内でもできる練習を部員達はしていた。でな、廊下では禁止されてる走り込みなんかも、人の少ない四階で内緒で行なっていたんだよ。だから、部員たちは理科室の様子を見ることができた。ある部員が理科室内の異変に気がついた。人体模型がなかったんだ」

「四階の教室のドアって、全部、曇りガラスなんだよね?」

 涼香が質問する。これは、僕への補足のための質問だろう。

「あぁ。全部の教室が曇りガラスだ。理科室も例外ではない。でも、人体模型は理科室の入口の隣に立っていただろう? 曇りガラス越しでもシルエットは見える。その日は、模型の影がなかったんだ。理科室を覗くと、たしかにその模型がなくなっていた。何かで使うために持ち出されたのだろうと、最初は気にしなかったんだけどな。恐ろしいことが起きたんだ」

 言葉を切った小野田は僕たちの反応を伺っているようだ。

 すでに予鈴が鳴って数分がすぎている。

「でっ」と話を急ぐように促す。

「なんと。練習終わりに理科室を覗くと元の場所に人体模型はあったんだ。どうしてそれが不思議なのかと言えばな。サッカー部が四階の三つある階段の踊り場をすべて占領して練習していたんだ。つまり、誰かが階段を使って運んだ形跡はない。かといって、四階で部活をしていた生徒達に聞けば、人体模型を動かしたということもなかった。では、どうして人体模型は理科室の元の場所に戻ったのか。人目を忍んでトイレとかの死角に隠れて、戻ってきたとしか考えられないだろ。人体模型が動いたんだ」

「君の勘違いじゃないの?」

 僕が言うと、小野田は首を何度も横に振った。

「一日だけではないんだよ。サッカー部がその怪奇現象を目撃したのは計三回。目撃した人物もそれぞれ違う。誰かの見間違いってわけではないんだよ。それとな。古賀先生がその現象を恐れていたという根拠もあるんだ」

 小野田が僕の眼光を見入る。聞き洩らすまいと、耳を傾けているから、早く告げてほしい。

「人体模型が自殺をしようとしてたんだよ」

「はぁ。自殺って言った?」と、思わず聞き返してしまった。

「人体模型は命を絶つほど追い込まれていたんだな」

 小野田が真顔で告げる。

 長い人生で苦悩は一過性のものに過ぎないと、未来への希望を捨て去るべきではないと、人体模型に諭した者などこの学園にいないはずだ。

 だからといって、自殺を選ぶはずはないと断言できる。

 —―それは、人体の形をした、ただの模型なのだから。

「詳しい状況を教えてくれない?」

 涼香が訊く。

「サッカー部の練習中に古賀先生の叫び声が聴こえたんだよ。俺ら急いで理科室に駆けつけたら、ドアの前で古賀先生が腰を抜かして座っていた。恐怖で目が見開いていて、俺らもその先を見たら、首を吊った人体模型があったんだよ。俺も声を挙げて驚いちゃったよ。すぐに実際の人間が首を吊っているわけではないって気がついたけど、あれはグロかったな。わざわざ天井のクロスが剝がされてて、縄をひっかけていた。内臓が机の上に散らばってて、今思い出しても刺激的な光景だよ。でも、古賀先生は、すぐに立ち上がって震えた声で俺らに告げたんだ。『このことは誰にも言ってはいけない』って、秘密にしてほしいってさ」

「口止めをされたってことかい。口止めの理由は何か言っていなかった?」

 小野田は首を横に振る。

「古賀先生は、慌ててドアを閉めて、部屋を施錠して、理科室の中に入っていったよ」

 涼香が僕の顔を覗き込んでいるのが気配でわかる。

 だが、もし僕に何かを期待しているのだとしたら、それは大きな見当違いだ。小野田の話を聞いても、特に気づいたことなどない。

 もし、誰かが古賀を脅かそうとして理科室に首吊り模型を仕掛けたのだとしたら、それは悪質を通り越した、悪意そのものと言うべきだろう。

 そんな嫌がらせが、新年になってもなお続いていたのだとすれば……

「充分、古賀先生が休職した理由になっただろうね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る