弁当が捨てられる悪戯が流行ったのは知ってる?(七)

 志村の華奢な体格から活気とエネルギーを感じたのは、彼の口元に起因するものだろう。

「お前ら、誰だよ?」

 挑発的な眼差しで、彼は僕と涼香を射抜くように見つめた。周囲に己の存在を誇示するかのように声を張り上げてはいたが、その奥には、深い孤独への怯えが確かに宿っているようにも思えた。

 実際、涼香が「廃棄物所に弁当を捨てていたことがあるよね?」と問いかけたとき、彼の胸中に渦巻く葛藤の重さが空気の温度で伝わってきた。

「ここだと、少し話しにくいよね?」

 僕の言葉に志村は勢いよく立ち上がる。舌を打ち鳴らして、苛立ちを露わに教室から出てくれた。

 一つ上の階の階段の踊り場は今日も人の気配がなかった。

 志村は踊り場の壁に背中をつけて腰を落とし、「で?」と、涼香に水を向けた。

「五月の末頃、志村君が廃棄物所で弁当を捨ててる姿を目撃した人がいる」

「別に悪いことはしてねーよ」

 軽々しくも弁当を捨てた行為は認めてくれた。

「どうして弁当を捨てていたの?」

「おまえに関係ないだろ?」

 そうかもしれない。涼香が被害者という立場にあるのなら、問い詰める権利はあるが、彼女は単なる傍観者にすぎない。火事の現場で遠目からカメラを構える近隣住民と大差はないのだ。

「これは私の想像なんだけど。志村君は、自分自身の弁当を捨てていたんじゃない?」

 志村は目を細め、頬杖をついた。

 一連の動作には、内に秘めた苛立ちがありありと表れていた。

「志村君は、毎日のように二人の女性から弁当を受け取っていたのではないかな。一人は母親、もう一人は弁当屋で働く恋人。どちらの弁当も、志村君にとっては断ることのできなかった。志村君はまだ学生であり、家庭や社会との関係性において自らの立場を明確にするのは難しい年齢でしょ。恋人との交際を家族に伝えられなかった可能性もあるし、仮に母親に知られた場合、家庭内での軋轢や偏見を生むことを恐れていたのかもしれない。一方で、恋人にとって弁当づくりは単なる日課ではなく、だからこそ、志村君にとっても、その思いを無下にすることはできなかった」

 志村は突如として立ち会がる。

「そうだよ。食べたくない方の弁当を選んで俺は捨てていた。おまえに責められるようなことはしてないよな?」

 仰る通りである。愛情を込め作った人には罪悪感を抱くだろうが、涼香に詫びを入れる必要はない。それに、涼香だって、志村を責めていたわけでなない。

「私は、真実を知りたいだけ。志村君に謝罪を迫っているわけではないよ。古賀先生と弁当屋の彼女が売店の横に位置する会議室の中で口論をしていたらしい。聞きたいのはそのことなの。古賀先生と彼女がした口論の内容を志村君は知っているんじゃない?」

 志村は唇を噛みしめる。

 知られたくない不都合など誰にだって存在する。

「お願い! 古賀先生が休職した理由を調べているの」

 涼香の言葉に志村は鼻で笑う。

「どうして、古賀の休んだ理由なんて調べているんだよ!?」

「私を救ってくれた人だから」

「あぁ。なるほど。あいつ見かけによらず良い先生だったもんな。なんか、おまえにも理由はあったのか」

「まぁね……」

「俺もあいつには感謝している」

 涼香が「えっ?」と驚く。

「なにも変じゃないだろ。俺を救ってくれた」

 涼香は無言のまま、志村の目をじっと見つめていた。

「悪いが弁当屋のアイツとの口論が理宇裕で古賀が休んだ訳ではないよ」

「どうして、そう言えるの?」

「しつこい奴だな」

 志村は、わざとらしく溜息をついてから告げた。

「口論の内容を知ってるからだよ。弁当屋のアイツと付き合うことになって、勉強なんてしなくたっていいって諭された。俺の成績はどんどんと落ちたんだよ。元々、たいした成績なんて取ってなかったけどな。まぁ、勉強をやらなかったのは俺の責任だよ。試験の結果が悪くて追試を受けることになったんだけど、その前日にアイツから別れを告げられた。聞けば、好きな人ができたみたいで。しかも、それが同じクラスの今池だった。ムカついてさ。試験なんて受けないって古賀に八つ当たりしたんだよ。そしてら、古賀の奴、弁当屋のアイツのこと呼び出してさ、『売店にはもう来るな!』って怒鳴ったらしい。校長にも言ったみたいで心満腹弁当はこの学園から追い出された」

 おおよそ、そんなことだろうとは察していた。

 弁当屋のその女は『悪いことをしたとは思っていない』と、古賀を相手に恋愛の自由を訴えたのではないか。志村の気持ちも考えろと熱弁を奮う古賀に『捨てた物に興味はない』と、冷徹な姿勢を示したのであろう。

 扉の向こうから漏れた二つの言葉を、生徒が大げさに受け取ってしまった。最初から、その程度の誤解だろうと見当はついていた。



「じゃあ、古賀先生は……」

 涼香は脆弱な声で問いかける。

「その口論は解決している。鉄槌が下った弁当屋のアイツも別の場所で細々と営業を続けているよ。古賀が休んだ理由に俺らの事情は関係ない。納得したか?」

 涼香は渋々と頷く。

「これでいいよな」と言い残し、志村は踵を返してその場を去っていった。


 その日も、僕は涼香と並んで帰路についた。

 彼女は意気消沈したまま、身を縮こませながら歩き、やがて電車に乗り込んだ。

 外の光はすでに翳り始めており、車窓からは街灯の明滅が断片的に射し込む。まだラッシュアワーには早く、車内の乗客はまばらだった。

 ドアの開閉にあわせて、冬の冷気がふと入り込む。それは奇妙なほど心地よい。

 この冷たささえ感じなくなる頃には、涼香の姿も、もうここにはない。

 沈黙のまま数分が過ぎたのち、涼香がぽつりと呟いた。

「藤岡さんは本当に志村君のことを大事に想ってたから、関係ない別の人の弁当を捨ててしまった。志村君は弁当屋の彼女のことを想っていたから、何も言いだせなかった。紐解けば、それぞれに理由があった。聞かなければ、わからなかったこと、それって私が干渉しすぎているってことなのかな」

「どうしたの急に?」と僕は涼香の顔を下から覗いた。

「……古賀先生って、すごい先生だと思う。生徒一人のために、真剣になれるなんて、なかなかできることじゃないよね。今日の志村君の話を聞いて、改めてそう思った。先生のやったことは、たとえ強引でも、先生なりの覚悟があったんだよね。誰かのために本気で怒れる人って、強いよ。……でも、ちょっとだけ怖いとも思っちゃった。変かな? だって、古賀先生のした主張って、自分の信じた“正しさ”で、他人の感情をすべて代弁しちゃうことにならないかな。志村君が何を抱えていたかとか、弁当屋の彼女がどんな気持ちだったかとか、それを本当に理すべて解してたのかな。古賀先生を疑うわけじゃないんだよ。私は、たぶん、自分が誰かの想いを勝手に決めつける側になるのが怖いだけ。私が愚かなだけなの。どんなに綺麗な理由でも、他人の声を聞かずに動いてしまったら、それはもう優しさじゃない気がする。もしかしたら、志村君や私みたいに助けられたと思う人がいる一方で、憎んでいる人もいるんじゃないかな。そんな風に思っちゃった」

 涼香と共にいくつかの事件を紐解いていく中で、僕は涼香に対して思うことがあった。

 過去の出来事を丹念に紐解いて、誰も傷つけないように語ろうとする涼香の優しさは、むしろ彼女自身を縛ってしまっているような気がしていた

「結論だけで自分の考えを導き出すことって、そこまで駄目なことなのかな?」

「律希らしいね?」と涼香はなぜか寂しそうに笑った。

「また、振り出しに戻ってしまったね?」

 電車の手すりに身を預けた涼香が、心痛の響きを抑えるように声にした。

「そうだね。今回も古賀先生が休んだ理由ではなかったみたいだね」

 古賀先生の周辺事情に関する調査から二週間が経過していた。卒業文集の提出期限は二月中である。時間がないことに焦る気持ちもあるのだろうか。

「進学カリキュラムの生徒達の弁当を捨てた犯人も分かっていないよね。その犯人が原因で心を病んでしまった可能性もない?」

 手掛かりとなりそうな情報がなくなってしまったのだ。微かな望みではあるが涼香に提案してみた。

「それは可能性として低いんじゃない? そもそも私たちが一連の弁当を捨てた犯人を探していたのは、会議室の口論の情報があったから。それが関係ないとなれば、古賀先生が関わっていたという根拠はなくなる」

「ここまで調べて、一連の弁当を捨てた犯人は気にならないの?」

「もちろん、気になるよ。でもね、高校生活は残り僅か。目的から逸れることはできない。弁当を捨てた犯人のことは、もう探さない。それに、まだ最後に一つだけ、心当たりがある事件を知っているの」

 彼女の表情は固いままで、希望を抱いているようには感じない。

「それって?」

「私だって、聞いた話だからさ。明日、学校で聞いてみようよ。時間的にこれが最後のチャンスだね。高校生活の最後をこんなことに付き合わせちゃってゴメンね」

「気にしないで。別にやることがあるわけでもないし。なんだかんだで涼香とこういった時間を最後にすごせるのも貴重だよ」

 正直な言葉を伝えたくなった。

 この瞬間の不滅を望んで、尊くも思っている。

 列車は涼香が降りる駅に到着しようとしている。

「感謝している。もし、解決できなくても、最後まで古賀先生のことを想い行動すれば後悔はしない。だから、あと少しだけ、私に時間をちょうだい」

 彼女が頭を下げた。

「わかってるって! そんな畏まらないでよ」

 やがて、あげた顔は、まばゆいほどの笑顔であった。

「律希。私も高校生活の最後に、あなたといれて楽しいよ」

 電車のドアが開く。

 涼香の降りる駅である。

 再び、外界の冷気が車内に流れてくる。

 身を縮ませた僕に、彼女は急に顔を近づけた。

 動けなかった僕の頬に、彼女の唇が触れた。

 それは、数瞬であった。

 

「じゃっ! また、明日!」


 気がつけば彼女は電車を降りていた。

 人混みの流れる風が彼女の髪を揺らす。ホームで鳴るメロディと共に姿が消え去っていく様子が、まるで詩的な美しさを湛えていた。

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