弁当が捨てられる悪戯が流行ったのは知ってる?(三)
弁当事件の捜査は、昨日と同じく昼休みの時間に再開された。
僕らが向かう先は学年一の秀才と称される向井陽菜のいるE組の教室であった。
「あのさ。カリキュラムにいる人達って全員、あんな感じなの?」
E組の教室に入る前、僕は立ち止まり、涼香に聞いた。
昨日の森崎夏樹といい、八嶋勇人といい、随分とぶっきら棒な対応をされた。
「まぁ、変わっている人は多いかな。みんな入試の二次試験が近づいて来ているから気が立っているのは間違いないね」
「それにしても、昨日の八嶋の態度はなかったと思うけど」
もう少し、柔らかい口調で会話を断ることもできたはずだ。
「八嶋はね。私に対しては特に酷いかな」
「どうして?」
「私と成績の順位も近かったの。向こうが勝手に私のことをライバル視していた。カリキュラムに参加していた頃からずっとあんな感じだった」
「成績が近かっただけで敵対心を持つ世界か。僕にはわからないな。他にも涼香をライバルだと思うきっかけがあったんじゃない?」
「まぁ、そうだね。当時、私の志望していた大学と八嶋が志望している大学が一緒だったの。しかも志望学部も一緒。枠を争う者として敵対されていたのかもしれない」
競争心はこうも露わになるのか。どこか異質で、畏怖すら覚える世界だ。次に、僕らが声をかけなければならないのは、この学園の中で学問において揺るぎない頂点に立つ、あの女子生徒だ。
「正直、少しビビッているかも」
「うん。覚悟はしておいた方がいいかもしれない」
涼香は両肩に手を添え、身を縮めるようにして身震いをする。彼女の震えが何を意味するのか――向井陽菜の声が届いた瞬間、全てが理解できた。
「すずちゃーん! ひさしぶりだね。会いたかったよー」
涼香を見るなり席から立ち上がり熱く抱擁をする。柔らかそうな涼香を包み込む向井は「会いに来てくれないから寂しかったよー」と、目を潤ませていた。
「うん。ごめん。ちょっと痛いかな」
「だってさ。すずちゃんに会ったの、こんなに久しぶりだったんだもん。仕方ないでしょ!」
涼香への抱擁はまだ続く。
―—そろそろ変わってもらってもいいですか。
「で、どうしたの。すずちゃん?」
向井は涼香を完全には解放せず、手を握りながら訊いた。
「捨てられた弁当のことを教えてほしいの。陽菜も弁当を捨てられたんだよね?」
「うん。そうだよ」と、向井は何故か微笑んでいる。
僕が怪訝な顔をしていると、彼女はそれに気がついたようで、「誰?」と訊く。
「三年D組の矢田律希です」
「あぁ、私は向井陽菜です。よろしく」
僕は「どうも」と頭を下げる。
「君も聞いてくれるの?」
「できれば、僕にも聞かせていただいてもいいですか」
「もちろん。二人で私の話を聞いてくれるなんて嬉しいな。だって、弁当が捨てられるなんてショックだったからさ。色んな人に聞いてほしいの」
涼香は隣接の空いた椅子を二つ引き寄せた。彼女が引き寄せた片方の椅子に僕は座る。
向井の机を横目で見ると、机には『恐竜と人類』という厚めの本が置かれていた。本の表紙には、ティラノサウルスと現代人が握手している背後に近未来の都市がイラストで描かれている。
「大事な大学受験の前ですよね。向井さんの貴重な時間を奪ってしまって大丈夫なのでしょうか?」
何段階も学力が劣る僕に勉強の心配なんてされたくないだろうが。
「今の時間、すずちゃんと話すことは何かが問題なのでしょうか?」
彼女の机の上を確認すれば、受験対策の痕跡はない。『人類と恐竜の共存は可能であった』という副題を持つ本から受験に役立つ情報を得るのは困難であろう。
「進学組は今の時期は必死で机に向かっていますので……」
「あぁ。私、ダメなんです。早朝しか勉強できない身体なんです。動くのは朝のみです!」
ヒヨドリみたいなことを言う。
名門、帝陵高等学校において、早朝のみの勉強で頂点の座を勝ち取れているのだとすれば、まさしく秀才と称しても大袈裟ではないだろう。
「彼女は別物だから」と、涼香が囁く。
向井の涼香を見つけた時の反応を見れば、少なからず二人には親交がある。そんな涼香の『別物』という言葉を解釈するに、向井には特別な勉学の才があるのだろう。
「そんな変人みたいな言い方やめてよ。悲しいよー。すずちゃんと私は一緒じゃない。私の良き理解者でしょ」
向井は首を傾げ、涼香の二の腕をベタベタと触る。そろそろ、この不毛なやり取りにもうんざりしてきたので話を進めることにしよう。
「向井さん、あなたの弁当が捨てられた日のことを詳しく教えてほしいんだけど、いいかな?」
向井が僕の顔へと視線を移す。
「うん。もちろん。私、記憶力には自信があるんだ」
そう言うと、向井は姿勢を正した。
「私のお弁当がなくなったのは五月十二日の金曜日のこと、三時間目の生物の授業で教室が空になった隙に誰かが忍び込み私のお弁当を捨てたんだと思う。実験の様子をこっそり写真に取りたくて、実験室に向かう前に鞄から携帯電話を取り出したの。その時には私のお弁当はあった。生物の授業はいつも通り、この教室の上の階にある生物実験室で行なわれた」
エタノールとホルマリンが織りなす刺激的な混合臭が、鼻腔の奥深くに染みつく——あの独特な、生物実験室の匂いが脳裏に立ちのぼる。
「この教室を出たのは授業開始のチャイムが鳴る五分前のことだった。私が教室を出た時には、まだ、教室には何人か残ってたけど。その生徒達も授業の開始のチャイムが鳴る時には席についていたよ。実験は遺伝子組み換え実験だった。二人のクラスでも同じ実験を行なったでしょ。どんな実験だっか覚えてる?」
視線を向けられたのは何故か僕。もちろん、五月に学んだばかりの授業であり、僕も授業には出席している。
「覚えてません」
堂々と宣言をする。
憐みの眼差しを僕に向け、涼香が答えた。
「やったのはアグロバクテリウム法だったね」
思い出した。一カ月間、わけのわからない観察をさせられたあの実験のことか。
「そうそう。アグロバクテリウムという植物に細菌が感染する働きを用いる実験方法だよね。涼香も覚えてるでしょ? 植物の花茎や胚軸を切って、培地に置く。アグロバクテリウムを加えて感染させるんだよね。ほらほら、遺伝子組み換えが起こった細胞ってさ……」
涼香が「聞きたいのは実験の話しじゃないかも」と向井の饒舌を止める。
「あぁ。そうだったね。生物のとても有意義な観察の準備を終えて私たちは教室に戻ったの。生物の授業は少し早く終わった。教室に戻って、五分くらい経ってから終業のチャイムが鳴る。私はポケットに入れてた携帯電話を鞄の中へ仕舞ったの。その時、お弁当がないことに気がついた」
「つまり、E組が生物実験室で授業を受けている時に陽菜の弁当は捨てられたってことね」
「そうそう。そうなのよ、すずちゃん」
被害者であるはずの向井は微笑んでいる。
「鞄の中から出した記憶はなかったけど、念のため机の中とか、廊下まで出てロッカーの中を探したの。生物実験室も探したし、二時間目に体育科の授業があったから、うっかりグランドに持っていってしまった可能性も捨てきれないでしょ。だから、校庭も探したの。さっきも言ったけど、私、記憶力には自信があるから、そんな場所に入れてないのは知っていたんだけどさ。で、どこにもなくて、教室に戻った。そしてら、教室の中から“弁当”っていう単語が聞こえてきたの」
「教室のゴミ箱の中に捨てられた弁当があった?」
僕は応える。
「あらっ。知ってたの?」
「いや。予想しただけだよ」
森崎の弁当も教室のゴミ箱の中へ捨てられていたのだから、きっと向井の弁当も同じようにゴミ箱に捨てられたのだろうと考えてみただけ。
「慌てて教室のゴミ箱を覗いたの。そこには私のお弁当箱があった。中の具材は他のゴミと混ざってて、私はお弁当箱だけ取り出そうと思った。けど、すぐに思い留まった。現物の写真を留めておくべきでしょ。自分の席に戻って、鞄から携帯電話を取り出して、この悲劇を記録したの」
向井は「ちょっと待ってて」と告げ、自分の鞄の中をまさぐる。
「これ!」
スマホを操作して、僕と涼香に見えるよう手を前に差し出した。携帯に収められた写真には、その時のゴミ箱内の光景が映っていた。
「ひどいね」
「そうでしょ?」と僕の顔を嬉しそうに向井は見つめる。
「これは何?」
涼香が写真の一部分に指をさす。そこには白い液体が映っている。
「シチューだよ」
弁当にシチューとは、なかなか珍しいではないか。写真を凝視する。ゴミ箱内でシチューは乱雑に飛び散り、その箱内の内側に白色の痕跡を残していた。その他にも冷凍食品であろう、唐揚げやコロッケが乳白色の液体に染まって散乱している。いたるところに飛ばされたパスタの麺は、無造作に張り付いている様子だ。隅には二重の青紺の弁当箱が逆さになって積み重なっていた。
「許せないね」
思わず声が漏れてしまった。
「うん。本当にそうなの。許せない。あと、これ!」
向井は二枚目の写真にスライドさせた。映し出されたのは、拾い上げた後の弁当箱の中身の様子だった。
「綺麗に空になっているね」
涼香が反応する。不親切にも、その器の中身は液体一滴も残さず、全てゴミの山へと投じられたようだ。
「ショックだった。私さ。こんな性格だから、誰かに陰口を言われることはしょっちゅうなんだ。嫌味も言われるのも慣れてる。すずちゃんには言ってなかったかもしれないけど、直接、ひどいことを言われることも何度かあったんだよ。でもね、これは違った種類のショックだった。人の食べ物をゴミ箱に捨てる人が同じ学校にいるなんて、信じられなかった。捨てた人が何を思って、どんな事情で行動したのか、わからないけど。やっていいこと悪いことの分別はつけるべきだと思う」
健気で活発な彼女の雰囲気が薄暗いものへと変容する。
「こんなことをする人に誰か心当たりはある?」
涼香が訊くが、向井は虚しく首を横に振る。
「最初に弁当箱が捨てられた森崎さんは犯人を岩船さんではないかと疑っていた。陽菜はどう思う?」
「うーん。たしかに、岩船さんを疑いたくなる気持ちはわかるね。彼女はあからさまに私たちに敵意を向けていた。進学カリキュラムの最中に教室の近くで騒いで、みんなの勉強を邪魔していたのも彼女だったよね。他の受講者も岩船さんがやったと決めつけていたけど……」
向井は言葉を濁す。彼女の言いたいこと薄々、伝わってきた。
「向井さんは岩船が一連の弁当を捨てた犯人だとは考えていないようだね」
彼女は「まぁね。彼女ではない」と断言する。
「それは、岩船さんが犯行があった次の授業、つまり四時間目の授業に出席していることを知ったから?」
向井は目を大きく丸くし、きょろきょろと戸惑っている。
「どうして分かるの?」
「僕も向井さんと同じことを考えたからかな」
向井の性格は、些末なことに頓着しない、さっぱりとした気質なのではないか。だが、今回の一件に関しては、彼女にとって決して“小さな出来事”ではなかった。
当時の出来事を思い返すにつれ、向井の心には変化の兆しが現れていた。『やっていいこと悪いことの分別はつけるべきだと思う』と薄暗い感情を表した。向井は、自らの弁当を捨てた人物の手がかりを探り始めたのではないか。その過程で最初に疑念を抱いた相手が、岩船だった可能性は高い。向井は彼女が実際に犯行可能な立場にあったかどうかを調べたのではないか。その中で、岩船にまつわる特別な事情を知るに至ったのかもしれない。
「岩船以外の人物で犯行に及びそうな心当たりのある人間はいる?」
僕は訊く。
「いや、いないよ。調べたけど途中で怖くなっちゃったの。調べれば調べるほど、犯人は私の親交のある人じゃないかと思ったの。犯人を突き詰めてしまえば、私がショックを受けるのではないかって。だから、犯人を探すのは辞めた」
「気にならないの」
今度は、涼香が訊いた。
「うん。気にすることを止めたの。でもね。こうやって事件の話を聞いてくれたのは嬉しかったよ。私の中のモヤモヤが解消されていった。ありがとう」
向井は頭を下げた。お礼を言いたいのはこちらの方だった。
教室を出て、廊下に立った涼香の表情に目を向けると、明らかな不機嫌さを抱えていた。
「どうしたの?」と恐る恐る声をかけると、彼女は「別に」と吐き捨てる。
「何かあったの?」
「……私だけ、蚊帳の外だったよね」
拗ねたような声である。僕が理由の見えない苛立ちに戸惑っていると、涼香は尖らせ唇を向けてくる。
「岩船さんが犯人じゃないって、どういうことなの?」
そっか。話し合うべき“謎”が、彼女のいないところで解かれていたことへの寂しさと怒りがあったのだろう。
時計を見れば、昼休みの終わりまでにはまだ二十分以上の余白があった。説明するには十分な時間だ。
「B組に行こう。本人から聞いた方が間違いないよ」
言葉少なにそう告げると、僕らは岩船のいるB組の教室へと足を向けた。
「あそこに座っているのが岩船さん」
涼香の視線の先には、昨日と同じように四つの机を囲む女子グループがいた。ただ一つ、昨日とは異なる点があるとすれば、その輪の中に岩船の姿が加わっていたことだ。
僕は、岩船という女子生徒を、目尻や口元が吊り上がったような、刺々しい印象を抱いていた。だが実際に目にした彼女は、僕の失礼な想像とは対極にあった。丸みを帯びた輪郭に、長く整ったまつ毛。表情には柔らかさが宿り、全体として穏やかで優しい印象を与える。
「どうしたの?」と昨日と同じ紅梅色のニットに身を包んだ彼女が僕と涼香を発見する。
「今日は岩船さんと話したいことがあって」
集団での談笑を楽しんでいた岩船を不承不承ながらも廊下へ連れ出した。
前置きすらなく、すぐに涼香が要件を告げた。
「今年の春に連続して発生した弁当が捨てられた事件について聞きたいことがあるの」
涼香がぶっきら棒に言い放つと、岩船は口角を噛んで険しい面持ちに変わる。
「何が聞きたいの?」
「進学カリキュラムを受講していた生徒は、岩船さんが弁当を捨てたんじゃないかと噂している。犯人じゃないんだよね。違うのなら、ちゃんと否定をした方がいいと思う」
涼香は随分と直球な言い方をした。
岩船にも何か言いたいことはあるのだろうが、彼女の唇は幾度か開きかけたまま、言葉を形にするには至らなかった。沈黙が場に漂いはじめた頃、僕は仕方なく、場の沈黙に水を差すように口を開いた。
「僕は岩船さんが犯人でないと思っているよ」
岩船の視線がこちらに向く。
「なんで?」
「これは僕の想像なんだけど、岩船さんはアレルギーを持っているんじゃない?」
昨日から薄々気がついていたが確信に変わったのは、今日、向井と話してからだ。
「三番目に弁当が捨てられた向井さんに写真を見せてもらったんだ。捨てられた直後に撮った写真だった。弁当の中身がゴミ箱の中に飛び散っていたよ。具材はシチューやパスタ、コロッケと唐揚げが写っていた。犯人は随分とがさつで投げ捨てるようにゴミ箱へ具材を捨てたんじゃないかな。一方で、弁当の側面にこびりつくシチューを綺麗に取って捨てる執念さも見せていたんだ。重度の小麦アレルギーの岩船さんには、それができないよね?」
涼香は仰天と目を丸くして、僕ら二人を交互に見ている。
「どうして、私が小麦アレルギーを持っていることが分かったの?」
ヒントはメタリックバングルの工作に隠されている。
「まず、岩船さんが早退した理由が病院へ行くためだったこと。普通、接着剤が皮膚についたくらいで病院には行かないでしょ。アナフィラキシーショックが心配で病院に行ったんじゃない?」
岩船は眉間に皺を寄せ応える。
「うん。そうだけど、原因が小麦かどうかなんてわからないじゃない?」
「昨日、岩船さん達がつくっている工作を見せてもらったんだ。金属用の接着剤は岩船さんが持ってきたと聞いた。岩船さんが普段使っている接着剤なのかなって思った」
岩船が持参した金属用の接着剤は中の液を絞って出すほどに中身が残っていなかった。金属のバングルを装飾するために、それほど大量の接着剤は使わないだろう。おそらく、家にあった物か個人の所有していたもの。
「でも、岩船さんが制作したのは木製のジュエリーボックスの方だった。油断してしまったんだよね。木や紙に使用される接着剤の中には極まれに小麦成分含まれる場合がある」
涼香が「そうなの?」と、岩船に訊く。
視線を受けた岩船は、小さく頷きながらも、どこか釈然としない表情を崩さなかった。
「……それだけの理由で私が犯人でないと断言できないでしょ。私のような特性を持つ生徒でも弁当を捨てる方法なんてたくさんあるわけだし」
それだけの理由だと片付けるには苦しいのではないか。秀才こと、向井が僕のこの仮説を肯定してくれた。向井の弁当箱が捨てられたのは三時間目のことだ。岩船は四時間目の授業を受けていた。彼女はその事実を根拠に、岩船が犯人ではないと断言した。
「弁当の中身はシチューに、パスタに、唐揚げ、コロッケと小麦色の強いラインナップであった。弁当を大胆にゴミ箱へ投げ入れることも考えにくいし、弁当の側面につくシチューを几帳面に取ることも考えにくい。例え手袋を持参して犯行に及んでいたとしても、腕以外の場所に飛び散る可能性だってあるよね。四時間目の授業を欠席すれば、犯人は自らであると自供するようなもの。岩船さんにとって犯行に及ぶにはかなり困難な状況であるかな」
「それなら、岩船さんは弁当を捨てた犯人ではない?」
涼香が岩船の方へ顔を向ける。
「少なくとも、向井陽向さんの弁当箱をゴミ箱に捨てたのは岩船さんではないかな」
僕が言うと、岩船はゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。八嶋の犯行だって否定できる。八嶋の弁当も私には捨てることはできないの。彼の弁当が捨てられた日、身内の不幸があって、その日は県外にいる。学校で授業を受けていなかったことが逆に怪しまれているのだと思うけど、私はその時間に学校に忍び込むことができないことも証明できる。森崎さんお弁当が捨てられた時だって、私はいつもの四人とずっと一緒にいたから、私が犯人ではないことを彼女たちが証明することもできる」
涼香は「じゃあ、なんで?」と、か細く疑問を口にする。何故、彼女は自らのアリバイを証明することをしないのか
「だって。馬鹿らしいじゃない。私が無関係なことは明白だった。でもね、そんなことを証明しても無駄なの。彼らは私が全面的に否定しても、また在らぬ疑いをかけてくる。もう嫌気がさしたの。わざわざ貴重な高校生活を彼らと争うために費やす必要はない。記憶から消した方が楽になれる。私は、私のことを大切に想ってくれる人達とだけ交流すればいい。それが、この三年間で得た私の教訓かな」
「疑いをかけられ続けられることって辛いことじゃないですか?」
僕が訊く。
「そうかもね。でも、争って得をすると思う? 進学カリキュラムの子たちと衝突したところで、損をするのは私の方なのよ。ここでは、成績の良し悪しが正しさの物差しになる。優等生の言葉は、それだけで真実として通るの」
彼女は一息置き、声のトーンを落とした。
「私は、彼らを妬んだことなんて一度もない。足を引っ張ろうと思ったことも。だけど。彼らは敵が欲しかったの。わかる?」
僕は「わからない」とだけ答えた。
「邪魔者が必要だったのよ。自分の不出来を何かのせいにしたいの。うまくいかなかったときのために予防線を張りたいんだよ。受験って、結果がすべてでしょ。なのに、努力の過程には無数の不安がついて回る。不安の出口として、彼らは“存在しないはずの妨害者”が必要だったの。空想が空想を呼んで、私が悪者だということは彼らの中では変わらない事実になった。ないことを否定することはできないでしょ。諦めたんだ」
岩船の声は、まるで自分自身に語りかけているようでもあった。
「もういい?」
僕らの返事を待つことなく、彼女は身を翻した。後ろ姿は、刻々とすぎていく時間を重んじているようだ。岩船は躍動的に歩みを進め、元の集団の輪の中へと戻っていった。
教室に向かう途中、廊下の窓から差し込む光が、僕らの足元を斜めに横切っていた。そのとき、ふいに涼香が立ち止まる。
「律希は、疑いをかけられた岩船さんのことをどう思った?」
思いがけない問いに、僕も足を止めた。
あらぬ疑いを向けられ、それを晴らそうとしても、誰も耳を貸してくれない。そんな状況の中に置かれた彼女の心情を思えば、やはり、やるせない気持ちになる。
「伝わらないって悟る瞬間って、きっと、どうしようもなく孤独だったんじゃないかな」
僕がそう答えると、涼香は小さく頷きながらも、ふっと息を吐いた。
「私はね、ちょっと違うことを考えてたの」
彼女は僕の目をまっすぐ見て続ける。
「自分の居場所を守るために、不要なものを切り捨てる。そういう選択があってもいいと思うの。彼女は誰にも理解されないと感じた時点で、自分のために環境を選び直しただけじゃない? 逃げたんじゃなくて、選んだの。私はそう見えた」
涼香の言葉には、どこか突き放したような冷静さがあった。
「三年間って、長いようで本当に一瞬で終わる。無理して誰かに理解されようとする時間なんて、本当は、もったいないのかもしれないよ。私には、彼女が辛そうには見えなかったな。むしろ、強かったと思う。誰の言葉も必要とせず、自分で完結してた。ちょっと羨ましいくらいに、たくましかった」
最後の言葉には、微かに何かを噛み殺すような響きがあった。
それが何なのか、僕にはすぐにはわからなかった。ただ、涼香の目が、どこか遠いものを見ているように感じた。
僕はそれ以上、何も言えなかった。
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