古賀先生が心身の不調で休むことになりました(二)
「で、律希に三年間を振り返るだけの想い出なんてあるのかよ?」
晩飯の豚カツを咀嚼しながら、兄が僕を嘲笑する。
父の帰りも早く、珍しく家族団欒のリビングでのことだ。
今日渡された原稿用紙に書くべき内容の話をしていた。
「俺にだって……」と威勢を張ったが、僕の高校生活三年間に特筆すべき話題は乏しく、関心を引くよう出来事は浮かんでこない。
ひと呼吸置いて、「ないな」と静かに漏らすと、父と母は揃って穏やかな微笑を浮かべた。
揶揄でも、軽蔑でもない。
高校時代の思い出――それは多くの場合、濃密な友人関係や恋愛の記憶として語られるものなのだろう。部活動に打ち込んだ者なら、師弟関係や勝敗の記憶が筆を走らせるかもしれない。昼休みに机を寄せ合い、他愛もない話に笑い合ったような関係があれば、友情という名の物語が自然と綴られていくのだろう。
三年間、自分自身が意図して濃い人間関係を除外してきたことを家族は知っている。
模範的な帰宅部員だ。
課外活動を好まず、ウェストミンスターの鐘と共に京成金町線の改札へと向かう。
日々、欠かさずに!
父と母の微笑は、我が家を愛する可愛い息子がほんの数瞬だけ見せた強がりを、静かに讃えるものでもあったのだ。
「そういう、兄貴は何を書いたんだよ?」
馬鹿にするのだから、さぞ大層な事を書いたのだろう。兄も二年前に帝陵高校を卒業している。
「俺かぁ。律希と違って、俺は特別に友好関係が広かったからな」
兄の目は鋭く縮んだ。煙草の煙の臭いを嗅いだ犬みたいだ。
「だから、どんなことを書いた?」
「うーん。そう焦るなよ。どんなことを書いたと思う?」
兄は大学生にもなって問いに問いを重ねるような愚行がある。
「わからない」
僕は思考を巡らせることはしない。兄は父と母にも順番に目を向け、椅子を引き、空になった粉引茶碗を持ち炊飯器の方へ向かった。
「彼女との思い出とか書いたんじゃない。もしかして、ラブレターとか?」
愉し気に母が言う。五十を過ぎた母から、色恋ごとの解答が出たものだから寒気がして、食卓は急に居心地が悪くなった気がする。
それに、恐らくその答えは違うだろう。それは、先ほど兄が言ってた『俺は特別に友好関係が広かったからな』という言葉から連想できる文集ではない。
「もっと、広い友好関係を活かした卒業文集なんじゃないかな」
「そう。さすがだな。ミステリーオタクも考える気になったか」
ご飯を盛って、再び、椅子に腰掛けた兄が僕を見る。
「なら、友達と一人の女の子を奪い合った話?」
色恋ごとから離れる気がない母が言う。
「おぉ。なるほど。ふむふむ、恋のライバルについての文集かぁ」
兄は腕を組む。
「名言集とか、どうかな?」
兄の出したクイズに父も乗り気だった。
「名言集とは?」と、兄が訊く。
「クラスメイトの名言をまとめた文集だ。例えば、高校一年の時の体育祭のリレーでアンカーを務めたのは太郎君だった。一位でクラスのバトンを受けたアンカーの太郎君はゴール直前で転んでしまった。クラスメイト達に詫びを入れる太郎君が残した一言とか」
「太郎君はなんて言ったの?」
興味津々に母が父に尋ねる。
「うーん」と、父は困った顔で一考する。
「地球は痛かった、とかかな?」と、父が閃いたように言う。
母が「ユーリイ・ガガーリンね!」と手を叩いて、「面白い」と褒めるから父は恥ずかしそうだ。
「そんなふうに、あの時のあの場面に出た名言を集めて文集にしたんじゃないかな?」
「うーん。名言集かぁ。いいアイデアだとは思うけど、違うね」
父は少し肩を落として考え込む。
「一人一人にメッセージを綴ったとか。一人一人との思い出を書いたとか?」
母が尋ねる。
「そんな清いことじゃないよ。賛否は分かれた」
「クラスメイトを動物に例えるとか?」
「違う」
「なら、アニメのキャラとか?」
「誰かを何かに例えたとか、そんなんじゃないんだなぁ、これは……」
母の怒涛の解答に兄は和かに反応する。
「文集には文字だけしか書けないわけではないだろ?」
兄のヒントに父も母も口に手を当て黙って考え込んでいる。母に至っては「わからない。もう、教えて」と、兄にせがんでいる。
「律希もわからないか?」
兄が僕に水を向けた。たぶん、これだという答えは見つかっている。
ヒントになるのは、母の尋ねた質問だったら。
『なら、友達と一人の女の子を奪い合った話?』
その質問に兄は『おぉ。なるほど!』と腕を組んだ。他の答えには兄は明確に『違う!』と告げていたはずだ。つまり、『友達と一人の女の子を奪い合った話』が当たらずしも遠からずといったところ。
「図を用いた?」
僕の質問に「わかったようだな?」と兄が頷く。たぶん、この答えで正解だ。
「相関図だね」
母は不思議がって「相関図?」と復唱する。
「そう。まず、兄の文集を見てクラスメイトの中にも賛否があったと言ったよね」
母に目を向ける。
「うんうん。言ってた。だから、私は動物に例えたんだと思ったの。ライオンに例えられた男の子は喜ぶけど、スカンクに例えられた男の子は喜ばないでしょ?」
それは、あまりにもスカンクに失礼じゃないか。ふさふさと気持ち良さそうな尻尾と愛くるしい面がたまらないと言う人も世の中にはいるのではないか。一般的にスカンクは肛門傍洞線から強烈な悪臭のする分泌液を噴出して、外敵から身を守ることが知られているが、ペットとして販売されるスカンクは臭腺線が除去されており強烈な臭いなどしない。ただ、反論はこの場には適さない。
と、まぁ、脱線してはいけない。とりあえず、本題について語ろう。
「賛否と言ってたけど、『好意』と『悪意』に分断したわけじゃない。この時の賛否は、『損』か『得』かに分かれたんじゃない?」
兄が黙って頷く。
「つまり、兄の卒業文集によって得をした人物と損をした人物がいる。あいつと誰誰が不仲であるとか、舎弟の関係にあるとか、そんなことを書いたんじゃないか。その中には、一人の女の子を奪い合う人間模様も書かれていた。だから、お母さんが言った、女の子を奪い合ったんじゃないという答えには明確な否定をしなかったんじゃない? 隠していた人間模様を暴かれた者は不満を口にするだろうし、自分の知らなかった情報を得た者達の中には得をした気分になった人間もいるはず」
高校生活の退屈な時間の裏で、様々な人間模様が形成されていたとすれば、自分の時間も有意義であったのだと勘違いをする者もいるのではないか。他にも、自分の置かれている立場と他の人を比べて優越感に浸りたい者もいるかもしれない。
相関図を書いたとすれば、賛美を送る者もいたであろう。「それに」と付け加える。
「暴露本のようなことを文集にしたとも考えられたんだけど、『文字だけじゃない』というヒントがそれには該当しないよね」
言い遂げると、兄は豚カツを頬張りながら「その通り!」と、拍手をくれる。
それにしても質が悪い。
「友達に何か言われなかったの?」
母の不安げな様子も理解できる。暴露された人物の気持ちを量れば居た堪れない。
「もし訴えられても害が出ない範囲しか書いてないから、心配はいらない」
そういう問題ではない。兄を信じて、自分の心境を相談した者も中にはいるだろう。
「秘密を暴露された人物は兄貴に裏切られた気持ちだっただろうな。友好関係が広くても、そんな薄っぺらいものには価値がない」
「律希の言う通りだな」
同調したのが当の兄だから面を食らう。
「俺だって、薄っぺらいものだとしか思ってなかったよ。その中でも大事な人はいるし、取捨選択はしていた。卒業してからもつるむ友人はいる。卒業文集なんて、そんな深く考えなくていいんだよ。忖度をせず、自分の書きたいことを書けばいいんだ。それに、すぐに卒業だ。俺なんて、卒業式の前日に文集を渡されたぞ。卒業すれば今まで築き上げてきた薄っぺらい人間関係なんて価値がなくなる。思ったことに面白いことを書きたかった」
父は眉間に皺を寄せる。唖然と口を開け、兄を咎めているようであった。
教育方法を間違えたーーと父の心の声が聞こえた気がした。
久方ぶりの家族の団欒を、不意に壊してしまったのは兄だった。
動揺ゆえか、或いはは居心地の悪さに堪えかねたのか、茶碗の白米を荒々しく掻き込み、唐突に席を立つ。
「では!」
逃げるように部屋を後にする。
兄の文集を実際に読んだわけではないので、出来映えについて是非を論じることはできない。ただ一つ言えるのは、決して賞賛に値するものではなかっただろう。それでも、あの拙い演説の中に、かすかな響きを伴うものがあったことだけは確かである。
忖度もなく自分の書きたいことを書けばいい。
たしか、担任の直居も同じことを言っていなかったか。
自分の願望や志向に背いて、無難な道を選んでいいのか。自分に問いかけた。
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