古賀先生が心身の不調で休むことになりました。
がにまた
古賀先生が心身の不調で休むことになりました(一)
「
新しい担任の話は聴衆の興味を引きつけることはない。教室内において生徒は一心に勉学に没頭しており、虚ろな表情は蔓延していた。
「だから! 残り二カ月を切っていますが、卒業までの担任は私が務めることになりました」
ふーん、という無関心な声音は聞こえてこなかったが、クラスメイトの視線や表情でそう告げていた。冷淡で嘲笑に満ちたそれは、直居に対する侮蔑なわけではない。このクラスの生徒にとって、残り二か月の担任なんて誰でもいいのだ。視線は再び、参考書へと戻っていく。
先週まで担任であった古賀に、特段思い入れがあったわけではないし、慕ってたわけでもない。
「短い間だけど、困ったことがあればなんでも相談してくれ。宜しく!」
今日から担任になった直居が頭を下げると、疎らな拍手が起きた。
外界を覗けば、冬の空気に凍りついた結晶が、ひそやかに舞い降りている。雪は好きになれないから、また教室の中に視線を戻す。
教壇に立つ直居が自己紹介を突如はじめた。新しい担任の人物像には興味が湧かない。
窓際に置かれた棚の上の花瓶に水仙の花が挿してある。黄色と白に彩られて、この冬の寂しさもどこか明るい。僕の席から花瓶までの直線上にある女子生徒の横顔に焦点が合った。たまたま見てしまったのか、敢えて見たのか、
漆黒の髪の奥に微かに見える大きく丸い瞳から粒が流れる。純真無垢な心の現れをしばらく眺めてしまった。
彼女の涙を見るのは、これが二回目だった。
「おい、
真正面から僕の名前を呼ばれた。
前に座る男がニヤニヤと意味ありげにこちらを見ている。
「おまえ、涼香のこと見てなかったか?」
「窓際の水仙の花が綺麗だったんだよ」
そんなはずはない。
数瞬、涼香がこちらへ振り向いた気がした。
気のせいであろう。
「いや、間違いなく涼香を見てた」
小学生でもやらない揶揄いは謹んでほしい。
「まぁいいや。これ!」と、前の席の彼は数枚の紙を僕の机に勝手に置く。
「なにこれ?」
「直居の話、ちゃんと聞いてなかったんだろう」
「大事な所信表明演説だ。聞いてたに決まっているじゃないか」
受け取った二つに折られた紙に目を向ける。それは原稿用紙であった。
「で、これは何を書くんだい?」
「おい。聞いてないじゃないか」
男子生徒はわざとらしく仰け反って、すぐに黒板の方へと向いてしまった。
求めた救いの手を彼に払われても、困ることはない。すぐに、配られた原稿用紙の説明を直居がしてくれた。
「内容はなんでも構わない。三年間の高校生活での思い出や感想。卒業してからの目標や夢に向かう自分自身を書いてもいい。友人や親、先生に感謝の気持ちを綴るのもあり。大事なのは自分が一番書きたいことを書くこと。先生が検閲することもないので好きなことを書いてくれ。ただ、皆に読まれるということも意識してくれよ」
なるほど、つまり、この紙に書いたことが卒業文集になるのだろう。
今日できることは明日に延ばすな。とは、ベンジャミン・フランクリンの言葉であった。まともに考えることもせず、頭の中で構成を描く。いかに効率的に書くか。この三年間で起こった出来事を線々と描写すれば、すぐに原稿用紙は埋まるはずだ。
伝えたい何かが、自分の中に明確にあるわけではない。誰かに訴えかけるほどの思想や信念を育ててきた自覚もない。ただ淡々と、波風を立てぬまま日々を送ってきた。それが、高校三年間の僕という存在そのものであり、この文集に綴るべきことも、結局その延長にすぎない。だからこそ、特別な感情を装うことなく、ありのままの無色透明な日常を記してみたいと思う。
「印刷の都合もあるので二月末には提出してくれよ。それまでに提出できない奴は書くまで居残りだからな!」
教室から楽し気な不満な声が響き渡る。僕は、持ち上げた原稿用紙を少し下げて栗原涼香の様子を再び覗き込んだ。
彼女の涙は止んでいた。
原稿用紙を一点に見つめて、想いを巡らせているようであった。
涼香は何を考えているのだろうか。聞くことはできない。この一年間、同じクラスであった涼香と卒業を間近にして一度も話したことがない。僕の存在を嫌い、懐疑の視線を向けているのだと、在りもしないことを一方的に感じたりもしていた。
思い返せば小学五年生のことである。栗原涼香は僕の初恋の人であった。
あの日、僕は彼女に自分の想いを伝えようとしていたのだ。
☆
小学校の校門の前に三段の石段が構えていたのを覚えている。下駄箱のある校舎入口まで来た僕は、教室を先に出た涼香を探した。空色のパステルカラーのランドセルを背負った女の子が校門を下る姿を発見した。
氷をイメージさせるランドセルは涼香にとても似合っていた。一つ束にした黒髪がかかる空色のランドセルを見つめて、僕は校庭の真ん中を通って走る。東京では珍しく雪が降っていた。積もった雪は白い絨毯みたいに広がっている。一面に広がる白に足跡をつけることに躊躇はなかった。
「涼香!」
彼女が足を止め振り向く。太陽の光が雪に触れて涼香の純白な顔を照らす。丸っこいのに力強い目が僕を捉える。ドクンと胸が鼓動を打つ。
僕は堂々たる瞳に惚れていた。
「一緒に帰ろう」
走ったのも、声を出したのも勇気が必要だった。怪訝な顔をする涼香に「たまたま見つけたからさ」と、意味もなく誤魔化しを入れた。
「たまたま?」
「うん、たまたまだよ」
そう言いながら僕は、呼吸を整えるのに少し間があった。ランドセルのサイドポケットが開いているのに気づき、慌てて閉める。
「昨日、テレビ何を見た?」
無難な話題を並べる。無言を貫けば退屈な人だと思われないかと心配だった。
「見てないかな。あまりテレビは好きじゃないの。お母さんにピアノの演奏を見てもらったり、本を読んでたかな」
「すごいな。ピアノも弾けないし、本も読まないや」
涼香が僕の方に目を向けて「何がすごいの?」と、半笑いだ。
「ピアノなんか弾けないし、本なんて読んでたら眠くなっちゃうから」
「ピアノは習えば誰でも弾けるようになるよ。本は物語に入れていないのかもね。一度、物語の世界に入ればそこからは無我夢中だよ。ミステリーの世界は素敵だよ」
「そうなの!? お勧めの本とか何かある?」
涼香は「うぅん」と、人差し指をこめかみに当てて考えてくれた。市道のガードレールの中で彼女の愛読書の話に耳を傾け並んで歩く。向かいから度々、歩行者が来た。狭い歩道だった。向こうから人が来るたび、邪魔にならないように涼香の後ろに回った。
時間は容赦なく流れ去る。想いを告げようとするも途端に口が固くなった。気がつけば涼香の家の近くまで来てしまった。決心するには、あまりにも時間が足りなくて、途端に虚言を口にした。
「やばい。家の鍵を落とした。さっきまでポケットに入っていたのに」
涼香は「鍵を落とした?」と、眉をひそめる。
「さっきまであったから、この近くだと思うんだけど」
涼香の優しさに、意図的に寄りかかった。困惑を装えば、彼女はきっと手を差し伸べてくれる。家々の陰が落ちる道は、日差しを拒むように冷えきっていて、凍りついた舗道を一歩ずつ、足裏の感覚を確かめながら進んだ。
「ごめん、見当たらないね」
再び学校の近くまで来てしまった。
涼香も「そうだね」と残念がる。
さっきまで銀色だった空には、紫色の影が広がっていた。街頭や自動車のライトも点灯してて随分と時間が経ってしまった。
「ごめん、鍵はなんとかする。ありがとう、助かった」
「家に入れないでしょ。大丈夫?」
「うん。平気だよ」
僕はそう頷きながら、続けるように言った。
「ところでさ……」
それからのことは、記憶が曖昧だ。言葉を選びすぎていたせいか、それとも、想いを口にするという行為そのものが、僕の神経を麻痺させたのか。
ただ、涼香が「嬉しい」と小さく返したことだけは、鮮明に残っている。
涼香の誠実さが混ざった声の余韻に耳を澄ませていたときだった。静けさを破るように、背後から別の声が降ってきた。
「涼香ちゃん!?」
その声が雪の空気を裂いた。
振り返れば、遠くから担任の姿が見えた。足取りも荒く、声を張り上げながら、こちらへと駆けてくる。
「どうしたんだろう……?」
涼香が小さく呟く。せっかく思いを告げたばかりだというのに、現実があっけなく割り込んでくる無遠慮さに、僕は内心で舌打ちした。
先生は駆け足のまま涼香の手を掴み、息を切らしながら言った。
「すぐに病院に……来てほしいの」
口元は固く閉ざされ、告げられた言葉以上の事情を語っていた。僕の中で、不安という名の影が静かに膨らみはじめていた。
何かが確実に、変わってしまう気がした。
涼香の母親が死んだ原因を作ったのは僕にある。
あの日、帰りが遅くなった涼香を心配して、彼女の母親は自宅を出たという。あたりが次第に薄闇を帯びはじめる頃、まだ戻らぬ娘の姿に、不安が胸をよぎったのだろう。
事故は、家を出てすぐの交差点で起きたと聞いた。速度を緩めることなく左折しようとした乗用車が、凍りついた路面に足を取られ、そのまま涼香の母親に衝突した。回避の余地もなく、無慈悲な現実がそこに訪れた。
涼香の母が眠る棺の前に立ったあの時間を、僕は今も鮮明に思い出す。黒い喪服に包まれた涼香は、唇を噛みしめるように泣いていた。悔しさと悲しみが、彼女の小さな肩を震わせていた。
僕は、彼女の母をよく知っていた。温和で、いつも静かに微笑みながら、僕にも分け隔てなく優しく言葉をかけてくれる人だった。慈声に満ちた響きも、柔和な表情も、今ではもう、記憶のなかでしか再生されない。
『お母さんに裁縫してもらったの』
得意げにピンクのポーチを差し出した涼香の姿が、ふと脳裏をよぎった。あの頃の彼女の無邪気さは、今となっては遠い光のようだ。
まもなくして、涼香は転校した。
それきり、言葉を交わす機会は訪れなかった。もちろん、謝ることもできずに――。
もし、あのとき僕が彼女を連れ回さなければ、涼香の母が家を出ることもなかった。
それから五年以上が過ぎた。
今日、久しぶりに見た涼香の涙。その透明な滴が、後悔の記憶を静かに呼び起こした。
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