古賀先生が心身の不調で休むことになりました(三)

 帝陵高校は、都内に数ある学舎のなかでも屈指の進学校として知られている。

 受験を目前にした教室には、最後の一滴まで知を絞り出そうとする若者たちの気配が満ちていた。

 彼らの顔には張り詰めた緊張の影が差し、一分一秒さえ惜しむかのように、鉛筆の音が規則的に走る。

 僕の進路は十二月の半ばにはすでに定まっていた。指定校推薦という制度に身を委ね、小論文と面接を滞りなくこなすだけで合格は約束されていた。言い換えれば、波風を立てぬことこそが僕の得意とする領域であり、その『無難さ』によって進路を確保した。

 受験戦争のただ中にある教室は、火薬庫に足を踏み入れた兵舎のように張り詰めていた。誰かが不用意に浮かれた言葉を放てば、それは火花となり、たちまち導火線に火を走らせるだろう。進路の決まった者は僕のほかにも幾人かいたが、彼らもまた同じく、息を殺した兵士のように、爆ぜるのを待つ静寂の中で身を潜めている。

「この時間は卒業文集を書いてください」

 直居は現代文の授業を昨日の卒業文集を書く時間に当てた。実際に原稿用紙を開いているのは極わずかだ。大半の生徒が参考書に向き合っていて、それに気がついていても、直居は咎めることをしない。

 だから、原稿用紙を見つめて思索に耽る涼香の姿がいつもより一層気になった。

 涼香は、まだ個別学力試験を控えていているはずだ。クラスの大半と同じように最後の追い込みに力を入れたい心境ではないのか。

 思えば、涼香と一緒のクラスになってから僕は彼女の思想を覗こうとしていた。

 たとえば、美術の時間である。涼香がキャンバスに向かい、黙々と筆を運ぶ姿に、僕はふと彼女の感性の奥を覗きたくなった。三、四時間目と続く授業のあいだ、席を立った彼女の背を見届けると、何気ないふりで机の傍を通り過ぎた。

 そこに広がっていたのは、思わず息を呑むほど鮮烈なポートレートだった。舞台に立つバレリーナが、しなやかに弧を描く肢体の線で捉えられている。風を孕んで揺れる衣のひだまでもが瑞々しく描かれ、静止した絵画の中に、ひそやかな旋律のような動きが脈打っていた。

 それ以来、僕は金曜日の三・四時間目の授業が待ち遠しくなった。美術の教室で席から立つ彼女を見つけると、いなくなった彼女の席の近くに寄って、徐々に完成に近づく絵を眺めた。

 さりげなく視線を下に向けるのは割と得意だ。僕の特技とも言えよう。

 彼女が文集に何を書いてるのかを無性に覗きたくなった。

「ちょっと、トイレに行ってきます」

 自然と席を立っていた。数人の視線と笑い声が僕に向けられたが、涼香は振り向くこともしない。

 わざと、窓際の道を通り、教壇のある方のドアを目指した。

「後ろのドアから行けよ」と教壇の前に座る直居の声に「たしかに。そうでしたね」と足を早く、だけど小刻みに歩幅を進ませると、再びクラスから笑いが起きた。

 時に、自分がひょうきんな役回りと見なされようと、取るに足らぬことだ。

 今は涼香の思考が気になった。

 俯いて歩を進めて、涼香の席を通りすぎる。視線を彼女の机、原稿用紙に向かわせた。ほとんどが白紙の中でタイトルだけが書かれている。

『古賀先生が休職した理由』

 固い何かが僕の太ももに当たった。

 バタンと、音が鳴る。

 涼香の前の席の男子生徒が僕の顔を睨みつけてきた。彼の座る椅子の背もたれにぶつかってしまったようだ。

 問題集を解く手元で芯が折れたらしい、わずかな舌打ちが響いた。

「おいっ。ちゃんとトイレ行けるのか?」と、直居の声がする。

 男子生徒に「ごめん」と謝り、顔を隠してトイレへ向かった。

 昨日、涼香が泣いていたのを目にしたのは、古賀先生の休職の話を耳にした直後のことではなかったか。そして今日、卒業文集の原稿のタイトルには『古賀先生の休職した理由』と記されている。

 涼香は特別に古賀を慕っていた?

 脳裏をいくら掘り返しても、涼香と古賀が親しく語らう場面は浮かんでこない。気になることは彼女に直接問えば済むはずなのに、それができぬからこそ、思いはますます深くなる。

 解けぬままのモヤモヤは、下校の鐘が鳴る頃になっても拭い去ることができない。

 京成金町線の改札を抜けホームに立つ。

 そもそも、古賀という人物はどのような存在であったか。担任でありながら、彼女を一人の人間として意識したことはほとんどなかった。

 古賀先生は、肉付きの豊かな中年女性と形容できる。笑みを浮かべると頬が大きく盛り上がり、目を覆い隠すほどで、外見には素朴な親近感があった。仮に涼香の古賀に対する感情が憧れであったとすれば、外見にそれを支える要素は乏しく、むしろ彼女の内面的な資質に心を引かれていた可能性が高い。

 では、担任としての資質はどうだったか。僕の目には確かに「良い先生」と映っていた。ただし、僕にとっての「良さ」とは、過度に干渉しないという一点に尽きる。その基準が涼香と一致するはずもなく、彼女の抱いた憧れに直結するとは考えにくい

 古賀を客観的に評すなら、生徒の相談に心を込めて応じる、温かみのある人物であったと言えるだろう。問題を抱えた生徒に情熱を注ぎ、真摯に向き合う姿を、かすかな記憶として目にしたこともある。ただ一方で、良からぬ噂も絶えなかった。真偽は定かではないが、それを信じる生徒がいたことも否めない。

 涼香が古賀をどう思っていたのか。その真実は、涼香に問うほかにない。だが、その唯一の道は、初めから閉ざされている。

「おつかれ。同級生さん?」

 沈んだ声が鼓膜を撫でた瞬間、僕は反射的に振り返った。

 幻聴かと疑った。こんな場所で彼女の声を聞くなど、ありえないことのように思えたからだ。

 しかし、確かにそこにいた。一人の女子生徒が、僕をまっすぐに見つめていた。

 ちょうど、反対車線の電車が軋んだ音を立てて走り出す。風が彼女の髪を浮かせ、その艶やかな黒が僕の方へと流れてくる。電車の残像と髪の動きとが重なり、現実の輪郭があやふやになる。

 目の前には、確かに涼香がいた。

 あの頃と変わらぬ、丸みを帯びながらも意志を秘めた瞳。けれど、決定的に違っていたのは、彼女の髪からふと立ちのぼった香りだった。

 ネロリのように澄んでいて、どこか官能的で、何よりも僕の昂ぶりをやわらげた。

「何でそんなに驚いているの? 学校にも私はいたでしょ」

「あぁ、おつかれ」

 情けない声を出してしまったと思う。

「あのさ、見てたでしょ?」

 言葉少なげに追及をする声に変わった。

 うん。見てた。

 たくさん、見ていたから、どのことを言われているのか検討がつかなかった。

「なんのこと?」

「今日、卒業文集を書く時間あったでしょ? 私の机の上の原稿を覗いたかを聞いているの」

「たしかに、目には入っちゃったかもしれない」

 彼女は訝しげな顔をする。

「書いてある字も見たでしょ? だから注意が散漫になって前の席の背もたれに足をぶつけた。違う?」

 僕は黙って頷く。

「覗きなんて、趣味が悪いなぁ。見たかったら、いいなよ?」

 涼香が冷ややかな視線を僕に送るから、「ごめん」と身を縮めて謝る。涼香は口を強く結んで、目を細め、なにかを堪えているようにも見えた。数瞬の沈黙、彼女がプファっと息を噴出した。急に笑い出す。

「冗談だよ。話すの久しぶりだね。律希?」

 彼女は頬を緩めて、温和な口調になった。反対に僕は訝し気な表情を見せていた。

「律希がずっと私を避けているから、ちょっと揶揄ってみたくなっちゃったんだ!」

 彼女の声が鈴音のように響く。急に周囲の視線が気になった。

「別に避けていたわけではないよ」と、否定はしたものの、実際には避けていた。

「ふーん」と涼香がにたにたと笑う。

 しばらく沈黙が落ちら。

 他の誰かとなら気にもならない無言が、彼女との間だから気になる。

「突然、どうしたの」

「何が?」

「話しかけるなんて……」

「なに。駄目だった?」

「そうじゃないけど」

「じゃあ離れる」と彼女は改札口から遠ざかるように歩を進めた。

「ちょっと!」

 僕が呼び止めると、涼香は「あっち!」と電車の進行方向を指さす。

「ついてきて。あっちの方が、私の降りる駅の改札が近いから」

 涼香は、指差した方向へ何のためらいもなく歩き出した。

 迷いのない背中を見つめたまま、僕は一瞬、自分もそのあとを追うべきなのかと考えてしまった。

 かつての涼香は、こんなにも天真爛漫な性格だっただろうか。

 僕は大きく頭を振った。

 割れたコンクリートの上を力強く進む彼女の後ろを小走りで追いかけた。

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