冷汁

 ローズ・ピンクのカーペットの部屋に戻って、短時間だが、深い睡眠を取った後は、再び食欲を感じられるようになった。昨日の昼食と夕食は、出されたものを残すのも勿体ないと思って、あらかじめ藍以子に頼んで量を減らしてもらっていたのだ。

 一晩眠ったら調子も戻るだろうと見込んでいたのか、藍以子は、昨日と同じくらいのボリュームの朝食を用意してくれていた。今日は和風の献立で、冷や奴やだし巻き卵、味噌汁などが食卓に並ぶ。

 味噌汁のお椀が、利玖が使い慣れているものよりもひと回り大きかった。中を見ると、透きとおったつややかなものが浮いている。おそるおそる口をつけてみると、なんと氷だった。もちろん、具材もしっかりと冷えている。

 利玖が目を丸くしていると、

「暑い時期にはよく作るんです」

と藍以子が微笑んだ。

冷汁ひやじるっていうんですよ。塩気があって、意外と美味しいでしょう?」

 確かに、起きたばかりの為か、それとも寝る前に泣いた為か、腫れぼったい喉を、良く出汁のとれた冷たい味噌汁が滑り落ちていくのは、ため息が出るような心地良さだった。

 思えば、昨日は水を取りに行く事すら億劫で、ほとんど飲みものを口にしなかった。それなのに、庭に出た時など、うっすらと汗をかく場面もあったから、塩分も欠乏気味だったのかもしれない。

 はしたない真似だと思いつつ、利玖はお椀に半分だけお代わりを頼んだ。

「兄はまだ寝ていますか?」二杯目の冷汁を味わって食べてから、利玖は訊く。

「ええ」藍以子は頷いた。「お疲れなのでしょうね。着いた時間も遅かったし……」

「わたし、起こしてきます」利玖は立ち上がる。「そのまま作業に取り掛かりますから、こちらに来るのは兄だけになると思いますが」

「わかりました」藍以子は、軽く頭を下げた。「よろしくお願いします」



 利玖は一旦、ローズ・ピンクのカーペットの部屋に寄り、作業中に手もとに置いておきたい道具などを揃えてから客殿に向かった。

 兄が借りている部屋の前に立ち、外から声をかける。返事がない。

 もう一度試してみたが、結果は同じだった。

「入りますよ」

 そう告げてから、障子を引く。

 布団に包まった兄が、射し込んだ光を避けるように寝返りをうった。不明瞭な発音で、何か喋ったような気がするが、聞き取れなかったので、何も聞かなかった事にする。

 利玖はさらに障子を大きく開けて、一歩中に入ると、そこで立ち止まった。

 兄を起こす時に絶対に踏みつけてはいけないものがある。彼の眼鏡だ。部屋全体を見渡して、反対側の窓際にある文机にそれが置かれているのを確かめた。

 壁伝いに、兄の背中側に回り込み、ぽん、と肩を叩くと、

「うわ」と匠が飛び起きた。「ああ……、なんだ、利玖か……」

「朝食が出来ています」利玖は声を大きくして言った。「わたしは、もう頂きましたから、このまま客間で作業を始めます。こちらに合流するのは、急がなくても大丈夫ですが、ごはんは冷めてしまいますから、なるべく早く台所へ行ってください」

「ああ……、わかったよ。ありがとう……」

 匠はむっくりと上体を起こしたが、そこで静止する。まだ頭が回っていないらしい。放っておくと、その姿勢のまま寝てしまいそうだった。

「熱くて美味しいコーヒーがありますよ」利玖はさらに畳み掛ける。

 匠は頷き、片手を上げた。

 その手が、ぱたんと下ろされ、海底に積もったプランクトンを食べる深海魚みたいに辺りを探って眼鏡に辿り着くのを見届けてから、利玖は後ろ向きに歩いて部屋を出た。


 そのまま、まっすぐ前だけを見て母屋へ戻っていたら、利玖のその後の数日間はまったく違った経過を辿っていただろう。

 否、もしかすると、もっと長期的な、数か月間にも及ぶ影響だったかもしれない。

 きわめて低い確率でしか起こり得ない事だった。

 客殿から母屋に向かって渡り廊下を歩く、ほんの数分の間しか、彼女には庭を見る機会がなかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る