夜半過ぎのあんぱん

 ローズ・ピンクのカーペットの部屋は、台所と居間の両方に近い。布団で横になって、じっと耳を澄ませていると、藍以子が食器の片付けを終えて、台所の明かりを消し、居間に隣接した階段から二階の自室に上がっていくのがわかった。

 利玖は、そっと廊下に顔を出して、一階から人の気配が消えた事を確かめる。

 兄は東の客殿を借りる事になった。この廊下をずっと右へ歩いて行くと、渡り廊下があり、その先が客殿に繋がっている。

 そちらには、確か、縁側があるはずだ。庭を散歩をしていた時に、山椒の梢越しにそれらしいものが見えた。

 眠る前に夜風に当たりたかった。

 利玖は、入り口のそばに畳んでおいた上着を取り上げると、それに袖を通しながら真っ暗な廊下に踏み出した。



 客殿に向かう渡り廊下は奇妙な湾曲をくり返している。所々、窓が切られていて、庭が見えるのだが、なぜここでまっすぐにいかないのだろう、と思うような場所には、決まって山椒の木があった。

 信じがたい事だが、山椒の木を傷つけないように、渡り廊下の方を曲げて作ったのだろう。客殿は、昭和に入ってから、老朽化が進んだ蔵を取り壊して建てたのだと藍以子が話していた。

 なんという、途方もない労力……。

 山椒の木を傷つけたくなかったのなら、渡り廊下なんて作らずに、踏み石か何かを敷きつめて、道沿いに柵を立てればそれで十分だっただろうに。素足のまま歩いていける渡り廊下で繋いでしまったせいで、母屋の南にある玄関から外に出ると、まるで渡り廊下が堰のようになって、庭への侵入を拒むのだ。

 この家は一体、何を堰き止めようとしているのだろう、と利玖は思った。



 客殿の端まで歩いたが、三つある部屋のいずれも明かりは消えていた。

 兄はもう寝たのかもしれない。

 音を立てないように縁側に座ると、思った通り、庭が一望出来た。

 丸く、うす青い月が浮かんでいる。透きとおった、その光が、山椒の葉の縁に宿って氷のように冷ややかに煌めいていた。

 昼間よりも、少し風が出ているせいか、土のにおいを濃く感じたが、深々と息を吸い込むと、その中に、ひと筋、控えめな山椒の香気も感じられる。

 利玖は膝を抱え、その上に顎を乗せて目をつむった。

 本の選定の為に借りている母屋の客間にはエアコンがついているのだが、ローズ・ピンクのカーペットの部屋には、藍以子が物置から出してきてくれた扇風機しかない。五月初めで、それほど気温は高くないものの、四方をぴったりと塀で閉ざされたこの屋敷は、どこもかしこも何となく空気がぬるく感じられた。

 眠れない原因が暑さや湿度ではない事はわかっていた。

 背後で障子が開く音がした。後ろから、誰かが近づいてくるのがわかったが、利玖は座ったまま振り返らなかった。

「エアコンがないと、少々寝苦しいな」

 利玖の隣に腰を下ろしながら、兄はそう呟いた。

 片手に団扇を持っていて、それでぱさり、ぱさりと顔に風を送っている。見た事のない団扇だったから、私物ではなくて、ここの部屋に置かれていたものを借りたのだろう。

 利玖が答えずにいると、兄は団扇を置き、反対側の手に持っていたものを差し出した。

 スーパで売っているようなあんぱんだった。円形で、ひらべったい。利玖の手のひらとほとんど変わらない直径があった。

「シャワーを借りる時、藍以子さんに訊いたら、おまえが昼も夜もろくに食べなかったって言うからね」

 兄は煙草を取り出して、ライタを近づける。

 利玖が、ちらりと視線を送ると、訊かれる前に煙草の箱を掲げて、

「これを吸って良いかどうかも、その時に確認した」

と言った。

「こんなにたくさん……」利玖はあんぱんに目を戻して呟く。

「じゃあ、半分に割って、残りは返しなさい」

 利玖は、袋を開けてあんぱんを取り出し、半分に割って、片方は袋ごと匠に返した。

 一口齧ると、もう生地の間から漉し餡が現れる。重厚な甘みを感じた途端、猛烈にお腹が空いてきて、利玖は、がつがつとあんぱんを食べ進めた。

「牛乳があったら良かったね」匠はのんびりとした顔で煙草を吸っている。「さすがに牛乳は、スーパで買って、バッグに入れっぱなしって訳にいかなかったから……」

 答えようとして、息を吸った時、ふいに目の前がぼやけた。

 拭う間もなく涙が溢れ、頬をつたって落ちる。今、ここで泣く為にすべてのエネルギィを節約していたのではないかと思うほど強い衝動が突き上げてきて、自分ではどうする事も出来なかった。

 匠の手が伸びてきて、利玖が持っていたあんぱんを取る。

「慌てずに、良く噛んで飲み込みなさい」兄は静かな声で言った。「落ち着くまでここにいるから」

 利玖は頷いた。

 俯いている頭の後ろに、柔らかくて乾いたものが投げかけられて、手触りからタオルだとわかると、利玖はそれをたぐり寄せて顔を覆った。

 長く、兄は何も言わなかった。

 夜空にある、実体のない曲線の上を月が少し移動して、外気に触れている肌が寒さを感じ始めた頃、ようやく、

「おまえが思っているよりもずっとたくさんの人が、継続して、適切なやり方で看病している。彼らが大丈夫だと言うんだから、信じて良いんだよ」

と言った。

 利玖は、タオルで顔を覆ったまま頷いた。

 隣で、兄が食べかけのあんぱんを口に放り込む息遣いが小さく聞こえた。

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