「恐い」の対岸
本の選定作業を行っている客間からは〈壺〉が見えない。
客を迎える部屋だから、庭自体はよく見えるのだが、〈壺〉はちょうど用具小屋の影に隠れてしまうのだ。母屋の東の端にある広い和室で、みずみずしい色の青畳が敷かれ、床の間には水墨画の掛け軸が飾られている。利玖が見た中では最も格式高い印象の部屋だったが、井領家では、特にここ二世代ほど、そういった場を用いて外部の人間と談笑するという行為に価値を見出さなくなったのか、長く使われた形跡がなく、初めて入った時には少し埃っぽく感じた。
井領家に滞在出来るのは、今日を含めてあと二日間。明後日には月曜日になって、大学の講義が始まってしまう。
遅れを取り戻す為に、兄は急ピッチで作業を進めるだろう。もちろん、自分もそれを手伝う。気分転換に庭を歩く暇もないかもしれない。
そういった思いが、渡り廊下に差しかかった時、利玖の目を庭の北側の〈壺〉に向けさせた。
白いものが浮いていた。
利玖は、びくっとして足を止める。
一瞬、人の躰かと思ったが、落ち着いて目を凝らすと、それは儒艮の頭だった。
それがわかった後も動けなかったのは、周りに人間がいないのに、儒艮が〈壺〉に姿を見せているという状況が今までにないものだったからだ。いつも、利玖が〈壺〉の縁まで近づいて、しばらくしてから浮上してくるのである。
何か、異常な事が起きているのではないか、と直感した。
早足で渡り廊下を通り過ぎ、母屋の玄関でビニルの袋に靴を入れた。傘も持って衣装部屋に入る。儒艮が無事かどうか、早く確かめたくて気が急いたが、足をもつれさせて山椒の上に倒れこんだりしたら大変だ。
テラスの階段を下りた所で靴を履くと、利玖は一度、深呼吸をしてから、傘をしっかりと両手で持って開いた。
ぼん、とくぐもった音とともにわずかな反動を手に感じた時、航空機が展開するスラスト・リバーサのように、心と躰の両方に強いブレーキがかかる所を彼女は連想した。
利玖が〈壺〉の前までやって来た時、儒艮はまだ、同じ場所に浮いていた。利玖に気づくと、ちょっと顎を持ち上げて、ぶふ、ぶふっと鼻を鳴らす。
利玖は眉を曇らせた。
見た所、怪我も、目立った病変もない。しかし、昨日や一昨日と比べると、呼吸が苦しそうな感じがした。
藍以子は、何も教わっていない、と言っていたが、本当は彼らに対して、何か、してあげなければいけない事があるのではないだろうか。
それが、なぜか隠されている、あるいは、藍以子にきちんと伝わっていないのだとしたら……。
利玖は傘の柄を握りしめて、〈壺〉に近づき、至近距離で儒艮と目を合わせた。
「わたし達に、何かして欲しい事がありますか?」彼女は囁いた。
儒艮は、怯えたような素振りで後ろへ下がろうとする。
「教えてください」利玖は続ける。「あなたから聞いたという事は秘密にしますから……」
儒艮は、鈍く光る目で利玖を見ていたが、やがて疲れたように長々と息を吐くと、ゆっくりと水の中に沈み始めた。
「あ……」
思わず、利玖が〈壺〉の縁に手をついて、それを止めようとした時、
「危ないですよ」
と背後から声がした。
利玖は飛び退き、振り返る。
男の声だった。兄ではない。喋り方は、似ていたが。
自分が今、背を向けている、〈壺〉の西側には山椒の木が植えられていない。離れの縁側に接しているので、見通しが利くようにしているのだろう。
そこに、男が一人、座っていた。
背を丸め、髪はぼさぼさで、まったく整えられていない。年功序列で不承不承縄張りを持った猫のように気怠げだった。眼鏡の丸いレンズが反射して、表情はよくわからない。くたびれた浴衣のような、茶色っぽい和服を着ていたが、両手とも袖に通さずに懐に入れていた。
咥えている煙草に火がついたのはいつだろう、と思っていると、彼は右腕を袖に通して煙草を持ち、指先で利玖を招くような仕草をした。
「どうして傘を差しているんです?」利玖が近づくと、男は座ったままそう訊いた。
不思議な雰囲気の男だった。半分、眠っているようなのに、こうして向き合うと、瞳の昏さに形容しがたい引力を感じる。
利玖は、辺りを見回して、幼虫が落ちてきそうな枝が一本もない事を確かめると、傘を閉じた。
「イモムシが怖いのです。ここにあるのは、すべて山椒の木だとお聞きしましたので……」
「ああ……」男は頷く。「なるほどね……」
「あの、失礼ですが……」利玖は、おそるおそる訊く。
「あ、そうか、名前か……」男は、少し目を大きくして頷いた。「えっと、僕は井領杏平。藍以子の兄です」
利玖は、ほっとして、笑みを浮かべて会釈した。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。佐倉川利玖といいます」利玖は頭を下げる。「三日前からこちらのお屋敷にお邪魔しています。今日からは、兄の匠も一緒です。ごはんもお部屋も、すべて藍以子さんに用意して頂きました。本当にありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方です」杏平は手もとに灰皿を引き寄せて煙草を押しつける。「
杏平は、座ったまま横へずれて、空いた場所を手で示した。
「よかったら、お掛けになりませんか。さっきのお話をもう少し詳しく伺いたい」
「と、言いますと……」利玖は、ストラップで傘を留めながら杏平の隣に座る。
「イモムシが怖い、というのがね。子どもならまだしも、貴女くらい成長した方がしっかりと怖がっているのは珍しい」
杏平は、そう言った後、おもむろに片手を上げた。
「申し訳ない。仕事柄、どんな人間が、何を、どんな風に恐れるのか。嫌悪するのか、依存するのか。そういった事に首を突っ込んで訊きたくなってしまうんですよ。トラウマがあるというのなら、無理に話さないでください」
「いえ、大丈夫です」利玖は頷いた。「あの、わたしの方こそ不勉強で、杏平さんが書かれた本を、きちんと最後まで読んだ事がないのです」
口にした後で、それは、本を手に取った事がない、という事以上に無礼な言い方ではないか、と気づいたが、今さら取り繕う事も出来ない。
ここへ来る事が決まって、一度は挑戦したのだが、あまりに刺激が強くて、頭がくらくらとして途中で本を閉じてしまったのだ。
「大人数に受け入れられるような内容じゃありません」杏平は微笑む。「それに、喋る相手が書く本を、その都度律儀に読んでいたら、僕は商売あがったりです」
そう言うと、杏平は無機質な表情に戻った。
「怖くなったきっかけがあるのですか?」
「明確に、これが、というものは……」利玖は首を振る。「思いつきません。かなり小さい頃からだと思いますが」
「物心つく前に、毒のある毛虫なんかに触ってしまって、とても苦しんだ経験を躰だけが覚えている、というような事は?」
利玖は、また首を振る。
「噛まれた事も、かぶれた事もないのに、どうしてかしらね、わたしもお父さんも平気なのに、と母にしょっちゅう言われるくらいですから」
「へえ……、じゃあ、遺伝でもない訳だ」杏平は顎をさすりながら、ぼんやりと遠くを見るような目つきになる。それが兄と恐ろしいほど酷似していて、利玖は思わず身を引いた。
「全部が、駄目ですか? 特定の種だけが怖い、というのではなく?」
「全部駄目です」
「成虫になっても、イモムシのような形態を取る虫もいます。彼らについては?」
「ムカデやヤスデ、ミミズという事でしょうか……」それらを思い浮かべて、利玖はわずかな驚きを感じた。「あ……、何でだろう、そんなに怖くありません」
「ヘビは、どうですか?」
「大丈夫です」利玖は頷く。「でも、考えてみれば、妙ですね。わたしの周りでは、イモムシよりもヘビの方が怖いと言う人間の方が多いです」
「噛まれた種類によっては命に係わりますからね」杏平は懐を探って、煙草の箱を取り出す。「それでも、貴女にとっては、イモムシの方が脅威という訳だ」
そう言われた時、頭の片隅で、ちかっと何かが瞬いた気がした。
「いえ……」利玖は、ゆっくりと首を振る。「あの……、脅威と感じている訳では、ないのかもしれません」
杏平は黙っている。
煙草を取り出して、ライタで火をつける間、利玖の顔から目を逸らさなかった。
「彼らによって、自分が傷つけられるイメージがある訳ではないのです」話しながら、息がわずかに熱くなり、血圧が上昇するような感覚がするのを利玖は感じていた。「例えば、図鑑でライオンの写真を見るのは、全然怖くありません。仕留めた獲物の骨や内臓が剥き出しになっているフルカラーの写真が載っていても、直視出来ます。ただ、イモムシは駄目です。どんな構図でも、サイズでも……。カラーだろうとモノクロだろうと、すぐに閉じてしまいます」
そこで、いきなりディスク・ドライバの停止ボタンを押したように思考が鈍化した。
自分が何を言いたいのか、わからなくなり、この数分の間に一気に喋った内容が頭の中でリプレィされる。川底からすくった土砂を
「そう……」利玖は、深呼吸をして、再び口を開く。「写真ではなく、実物を前にしても、ある程度は同じ事が言えると思います。例えば、生物園のような所で、分岐の片方には猛獣ばかりが集められた区画があり、もう片方ではイモムシが展示されている、というような条件だったら、わたしは迷わず前者を選ぶ。それは、檻とか、ぶ厚いアクリル板とか、そういった強力なシールドが自分を守ってくれると確信しているからです。そういったものが存在していないのであれば、絶対に、イモムシが展示されている道を選ばなければなりません。頭では、そうわかっています」
そう。
何かが、すっきりと消えて、隠されていたものが見えるようになった気がした。
つまり……。
利玖は目を閉じる。
大丈夫。
輪郭が見える。
言葉で、彼に説明出来る。
それがわかった時、シャンパンの泡のように蠱惑的で、ひそやかな興奮が爪先から立ちのぼり、全身を包み込んだ。
「きっと、出会ってしまうかもしれない、と考えている時が、恐怖のピークなのです。もちろん、本当に出会ったら、わたしは足がすくみ、冷や汗をかいて、頭が真っ白になります。それは、実際に経験している事です。だけど、それも所詮は、副次的な反応で……。頭の中で、最も強く恐怖を感じているのは、自分が今、彼らと出会う可能性が高いシチュエーションにいる、とわかった時なのだと思います」
「僕も、そう思います」杏平は頷く。
利玖は、黙って頷いた。肌から沁み込んだ興奮が、心臓の辺りで熱源となって、全身に流れ出て行くのを感じていた。
ついさっき、初めて顔を合わせたというのに。
たった数往復の会話をしただけで、自分の中で、ずっと、こびりついたような塊を作って思考を阻害していたものの正体を──その座標を、こんなにもスムーズに言葉に出来た事が信じられなかった。また、そうして言葉にした内容が、限りなく実態に近いと確信出来た事が、震えるくらい嬉しかった。
これが、
井領杏平の才能というものか……。
「ありがとうございます」利玖は深く頭を下げた。「なぜ、そんな風に怖がるようになったのかはわかりませんが、本当は何を怖がっていたのか、それがわかっただけでも驚異的な進歩です」
杏平は、それに対して無言だった。
また、どこか遠い所を見るような例の表情で、何か考えているのか、と利玖は顔を上げる。
だが、彼は躰ごと向き直って利玖を見つめていた。
ナノ・ミリメートル単位のインクルージョンを見つけようとして、標本箱の中を覗き込むような、まったく遠慮のない視線だった。
「恐怖、というだけでは、ないのでは」
やがて、杏平はそう言った。
言葉の意味が掴めずに、瞬きをしている利玖を見て、庭の方に目をやり、煙草の先を回す。
「何と言ったらいいかな……」そう呟いて、彼は再び利玖に目を戻した。「学校では、どの科目が一番得意でしたか?」
「え?」不意の質問に、利玖は目を見開く。「そうですね、えっと……、大学で、今、生物学を専攻していますから、生物とか、化学の簡単な所なら、試験に通る程度には……」
「わかりました」杏平はかすかに頷いた。「イモムシというテーマが、あるとする。それに対して、今の貴女は非常に活性が高い。この言い方で伝わりますか?」
予想していたよりも遥かに専門的な単語を聞いて、利玖は驚いた。授業でどのように習ったか、思い出すのに一分近くかかったほどだ。
確か、化学反応が活発に行われるという性質を、活性という言葉で表すのだと覚えたはず。活性を持っていなければ、何かと反応して別のものに変わる、という事が出来ない。
(反応して、劇的に……、別のものへと変わる)
文字を表したレリーフを指先でなぞるように、頭の中でその部分を反芻した時、ぶるっと躰が震えた。
恐怖や寒さに対して生じる生理的な反応とは、まったく違う。自分を覆っていた、かろやかで、限りなく透明に近いヴェールが、何枚もまとめて引っ張られ、強引に剥ぎ取られて、その下から得体の知れない生きものが這い出てくるのを見ているような、おぞましさと虚脱感を──そして、それと同時に、たとえ元の姿に戻れなくても、そうやって変えられてしまいたい、変えられてしまう事を快いと感じてみたい、という未知の欲求が、沸騰した液体の中を飛び回る粒子のように全身を揺さぶっていた。
「恐怖という感情は、まったく興味が尽きない。振りほどいて、対岸に渡ってみれば、様々なものを見つけられる」杏平は前を向いたまま話す。「依存。取り返しのつかない精神の損傷。何かを独占したいと思う事。生きていく為に切り離さなければいけなかった記憶……」
杏平の目が、利玖を捉える。
「もちろん、渡ってみても、何も見つからない、渡る前と後で何も変わらないという事もある。それは、たぶん、精神の問題ではないのでしょう。本能として何かを怖がるという機能も、僕らの躰には備わっているのですから」
利玖は、息も出来ずに彼の顔を見つめていた。
「貴女が対岸に渡ったら、何を見つけるのか、僕はとても興味がある。でも、答えがわかっても、教えてくださらなくて結構です。それを想像する機会を得たという事が、僕にとっては重要なのですから」
「杏平さんは……」利玖はようやく呼吸を再開し、かすれた声で訊ねた。「対岸に、渡った事があるのですか?」
「ええ」
「なぜ?」
「そこで」杏平は、利玖の顔を見たまま、まっすぐに手を伸ばして〈壺〉を指さした。「さっき、貴女が話しかけていたものの為に」
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