第12話

 影魅が山の麓についたのは、もうとっぷりと日も暮れ落ち、夜闇が辺りを支配している時間帯だった。

 カラスの姿の式神を飛ばし、場所を確認しながら歩いていると、一つだけある山道の入口に、まるで待ち構えているかのように、先日、影魅に銃を突き付けたあの男が、木に背を預けて立っていた。

 男は、式神越しの視線に気付いたのか、素早く猟銃を構えて、式神に向けて発砲してきた。

 影魅は余裕を持って式神を避けさせると、回収するために退かせる。


 影魅が山道の入口まで辿り着くと、険しい表情の男が、猟銃の銃口を影魅に向けた。


「止まれ!なにもんだてめぇ、この山になんの用があって来た!」


 影魅は目を瞬いた。まるで初対面であるかのような反応だ。

 酷い人だなあ、と、影魅は苦笑した。


「昨日会ったばかりなのに、もう忘れちゃったの?」


 男は一瞬、怪訝そうな表情で影魅を見て、はっと目を見開き、猟銃を降ろした。


「……は?カゲボウシ?」

「そうだよ。今は影魅って名前があるんだ。」


 にこりと笑って影魅がそう言うと、男は冷や汗を流しながら、震える足で一歩後退った。


「馬鹿な、んなわけあるか。そんな、そんなわけが……!てめぇが昨日のカゲボウシだと?

 どう見ても神の眷属級の大怪異じゃねーか!!本当に昨日のカゲボウシだっていうならてめぇ、いったい何があったんだよ!?」

「ええ?何って……」


 影魅は目を瞬き、小首を傾げた。


「海主様の試練を受けて、達成したこととか?」


 男は目を剥き、表情を険しくすると、再び猟銃の銃口を影魅に向けた。


「ああ、くそ!やっぱりカゲボウシは人類の脅威ってのはマジだったのかよ!

 海主の試練を受けてピンピンしてるとかなんの冗談だ!

 しかも、たったの一日だぞ!?たったの一日で、こんなに力を付けてくるとかふざけてんのか!」


 明らかに錯乱している様子の男に、影魅は困惑した。影魅も少しは変わってしまった自覚はあるものの、そこまで反応されるほどに変わった自覚はちっともなかった。


「えぇ……?ちょ、落ち着いてよ。」

「てめぇ、九尾様に復讐しにきたのか!?」


 思いもよらぬ事を言われて、影魅は目を点にした。


「なんで復讐しなきゃならないんだ。理由が無いでしょ。」


 影魅が肩を竦めると、その動きに反応して、男が銃を撃った。

 影魅は、魚人の銛突きに比べれば遅いな、なんて思いながら、迫る銃弾を手の甲で払った。


「あちちっ、うわっ」


 男はもう完全に影魅を敵だと思っているのか、それとも錯乱しているのか、連続で銃を撃ってくる。

 正確に眉間に当たる弾道に、男の狙いの精度の高さが覗える。影魅は舌を巻きながら、するりするりと避けて、男の猟銃を掴んだ。


「落ち着いてよ。喧嘩を売りに来たんじゃないんだから。」


 男は猟銃を掴まれるや否や、すぐさま猟銃を手放し、腰からナタを抜いて首に向かって斬りかかる。

 影魅は一歩退いて、ナタの一閃を避けた。


「ねえ、話を聞いてよ。」


 影魅は手に持った猟銃を黒く染める。

 男は何かの術でも使ったのか、頭から犬耳が生えた。

 影魅はうんざりして溜息を吐いた。影魅は最初から争う気などないし、そう言って態度で示しているというのに、男は、まるで影魅を会話のできない怪物であるかのように扱う。

 影魅は、そっと、後ろ手で式神を放った。

 男が飛びかかってくるのを、影魅は落ち着いて狙い、猟銃でナタを撃って弾き飛ばす。

 暗闇の中でかん高い音がつんざき、火花が散った。

 男の後ろの地面に、ナタが突き刺さる。至近距離で撃ったのに、罅一つない。随分頑丈だ。

 男は地面に両手をつき、光る目で影魅を睨み、低く唸る。それはまるで、老獪な猟犬のようだった。


 武器を失ったというのに、男のその戦意に変わりがない。

 対話はできそうにない。つまり、力付くで何とかするしかない、ということだ。

 影魅の表情がすとんと落ちた。まるで、人間のふりを止めたかのように、男の目にはそれが映った。


「仕方ない、足を撃つか。痛いだろうけどごめんね。」


 やりたくないなー、なんて思いながら、影魅が銃口を向けると同時に、男と影魅の間に誰かが飛び込んできた。


「待って!撃たないで!」


 両手を広げて割り込む彩に、影魅はぎょっとして目を剥き、慌てて銃口を上げた。


「彩ちゃん!?危ないでしょ、こんなと」


 背後から、影に潜り込んで、音もなく素早く回り込んだ男が飛びかかってくる。それを式神で見ていた影魅は、彩に視線を向けたまま、銃口を男に向けた。


 守るべき子供を利用するような奴に容赦はしない。

 殺す。


 そんな、影魅の意識の変化を、彩は敏感に感じ取った。影魅の目を中心に、皮膚が割れて罅が入り、黒い煙のようなものが漏れ出ている。

 器に収まっていたカゲボウシが、その殺意に呼応して、器からはみ出るほどに膨張したかのようだった。影魅から、初めて殺意が滲み出たのだ。


「駄目、雄一おじちゃん!」


 彩の悲痛な叫びに、影魅の目が揺れる。

 もしかしたら、この男は彩の親族なのかもしれない。ならば、殺す訳にはいかないか。

 そんな事を刹那に思考した影魅は、すんでの所で銃口を逸らし、振るわれる鋭い爪をぎりぎりで避けて、男……雄一の顎を銃床で打ち抜いた。

 短いうめき声を上げて、雄一が崩れ落ちる。地面に倒れ込む雄一に、彩が半泣きになって駆け寄った。

 雄一が、苦しげに唸りながら言った。


「逃げろ、彩……こいつは危険だ……」

「雄一おじちゃん……」


 彩は溜息を吐いて、影魅を見上げた。あのヒビ割れは既になく、真希の名残がある皮を被った怪異がそこにいた。


「ごめんなさい、カゲボウシさん。雄一おじちゃん、あなたが昨日と違いすぎて、びびっちゃったみたい。」


 雄一に冷たい視線を向けていた影魅は、彩の言葉に目を瞬いた。


「え?あ、そう、なんだ?

 ……ごめん、あんまり自覚ない。そんなに違うの?」


 眉を下げる影魅に、彩は頷いた。


「うん。もう別人。真希ちゃんの匂いが塗り潰されて、まったく違う匂いになってる。あと、潮の匂いがする。」

「潮の匂いは、さっきまで港区にいたからじゃない?」


 苦笑する影魅に、彩は首を振った。


「違うの。この世のものじゃない匂いが、あなたの中からするの。たまに遥ちゃんからする時の匂いが、それより濃い匂いが、あなたからするの。」


 彩は、雄一に視線を落とした。


「カゲボウシさん、人間じゃなくなっちゃったんだね。」


 影魅は困り顔になって、首を傾げた。変な力を使えるとはいえ、少なくとも、己はまだ人間の範疇の中にいる筈だ。多分。恐らく……

 昼にコンビニの件で自覚した事といい、ちょっと自信がなくなってきて、影魅は囁くような声で聞いた。


「……そんなに?そこまで?」

「うん。雄一おじちゃんが勘違いしても仕方ないかな、ってくらいには。

 でも、根っこの部分は変わってないんだね。」


 彩は、弱った様子の影魅を見上げた。

 銃床を地面に、銃口に手をかけて、杖のように持つ影魅。見れば、いつの間にか、セーフティがかけられている。間違っても撃たないようにしているのだ。

 時折、雄一に鋭い視線を向けるものの、彩には気遣わしげに伺うあたり、最初に会った頃の、子供を守ろうとするカゲボウシと何も変わっていないのだろう。


「カゲボウシさんは……」

「あ、海主様に名前を貰ったんだ。影魅って呼んでよ。あと、さんとか付けなくていいよ。」

「えーみ?うん、分かった。えーみはなんの用があってここに来たの?」

「九尾様に用があるんだ。海主様が、真希の魂を持っているとしたら、九尾様だろうって。」


 彩の表情が曇る。


「……真希の魂をどうするの?」

「それは、勿論、この体を返すんだよ。」


 自分の胸を叩く影魅に、彩は顔をしかめた。


「あんな奴に返さなくてもいいよ。わざと、それも当てつけで儀式を失敗させるような奴に!」


 影魅は一瞬、返答に間を開けてしまった。彩の言葉の何処かがおかしいと感じたのだが、考えても何処がおかしいのか、よく分からなかった。

 影魅は頭を振って、その疑念を振り払った。


「確かにそれは褒められた事じゃないけど、でも、それでおしまいじゃあんまりだ。

 まだ子供だし、取り返しのつかない事をしたわけでもない。機会があれば、まだやり直せるんだ。

 君達にも謝らせないといけないのに、死んじゃったらそれもできない。」

「……あー、別に謝って貰わなくてもいいかな……」


 小声でそう呟き、気不味そうに顔を逸らす彩。そう言いながら、思うところでもあるのか、言葉の前に間があった。

 影魅は、彩から目を離し、山に目を向けて、「それに、」と言葉を継いだ。


「どうして、真希の家族の命を奪ったのか、問いたださなきゃ。」

「えっ?コンちゃんに?」

「コンちゃ……ああ、そう、九尾様に。」

「コンちゃんじゃないよ?」

「えっ?」


 影魅はぽかんと口を開けて、目を瞬いた。


「……え?違うの?港区で聞いた時は、きっと九尾様の仕業だって。」

「あー、今回は違うよ。あ、でも、ある意味コンちゃんのやらかしかも……」

「やらかし??関わってはいるけど直接手を下した訳じゃないってこと?」

「まあ、うん。」


 彩の歯切れが悪い。何か知っている様子だったが、影魅は、まあいいやと頷いた。子供に、言いたくない事を無理やり聞き出すつもりはなかった。


「どちらにせよ、九尾様に聞けば分かることだね。

 彩ちゃん、九尾様は何処に行けば会える?」

「ここにおるわ、海主の使い。」


 酷く苦々しい声音に、影魅は顔を上げる。彩の後ろ、山道の入口に、大きな影が立っている。

 それは、真っ黒な体毛の、大きな狐だった。九尾と呼ばれるだけあり、尻尾が九本、ゆらりゆらりと揺れている。

 影魅は、ようやく会えたと口を開くが、それを制するように、九尾がピシャリと言い放った。


「貴様に言うことは何もない。ここから疾くと去ね。」

「え?ちょっと、」

「去ね。」


 警戒心を剥き出しに、取り付く島もない九尾に、影魅は困り果てた。

 港区の皆はあれだけ影魅によくしてくれたのに、山裾では彩以外の誰もが影魅と話すらしてくれない。

 ふと、彩と目が合う。彩も九尾の様子に困惑しているようだった。

 その彩の目が、弾かれたように、影魅の背後に向いた。

 カツン、と、地面を柄が突く音が聞こえた。


「随分と頭が高くなったものだな、女狐。山でふんぞり返っていると、身の程を弁えぬようになるらしい。」

「……海主の眷属共が、なんのようじゃ。」


 九尾の声に、怯え……いや、焦燥感だろうか。そんな感情が混じる。

 影魅の背後から現れたのは、魚人達と、海老達だった。何故か、皆、闘気を剥き出しにしている。

 カチカチと、硬いものがぶつかる音が近くから聞こえて、影魅は首を傾げた。

 見ると、彩が海主様の眷属達に怯えている。影魅は、それとなく、彩の視界に魚人達が入らぬよう、彩の前に体を入れた。

 魚人が、銛の穂先で影魅を指した。


「影魅は証持つ者。我らが王に認められし者である。

 その影魅に無礼を働くのは、我らが王に無礼を働くのと同じこと。

 覚悟はできているのだろうな?」

「最初からその気であった癖に、いけしゃあしゃあと……!」


 毛を逆立てると九尾と、臨戦態勢の海主の眷属達。

 影魅は、彩を背に庇いながら、頭を回す。九尾様は最初、影魅に警戒していた。そして、今は影魅ではなく、魚人達を警戒している。

 ふと、影魅は自分の腕に嵌るブレスレットに視線を落とした。


(九尾様は、俺じゃなくて、海主様の眷属方を警戒していたのかな。)


 最初からその気で、ということは、九尾様は魚人達が襲ってくるものだと思っていたのだろう。影魅の事を海主の使いと呼んでいたのも、そう思っていたからなのかもしれなかった。

 雄一も九尾からそれを聞かされていていて、だから、影魅を必要以上に警戒していたのかもしれない。

 影魅は、視線を向けずに、雄一に囁いた。


「雄一、だっけ。動ける?」

「……何のつもりだ。」

「彩ちゃんを連れて逃げて欲しい。」

「てめぇ……この件に一枚噛んでるんじゃねぇのかよ。」

「いや、何も聞いてないね。正直こんな展開になって俺もびっくりしてる。」

「はっ、利用されてただけだった、ってことか……」


 影魅は苦笑した。利用されたというのは少し違う気がする。海主様は、こういう、小賢しい真似をするより、人の都合など考えず、自分の都合を押し通すようなお方だろうから。

 そうでなかったとしても、カゲオロシの儀式の件で、遥が既に巻き込まれているから、海主様がその気じゃなくても、魚人達が独断でやるくらいなら、十分やりそうだ。


 九尾は、魚人達と口論しているが、ちらちらと彩と雄一を気にかけている。魚人達は二人の事など毛ほども気にかけていないのだが、焦っているのか、九尾はそれに気付いていないようだった。

 影魅は雄一に目配せした。雄一は苦虫を噛みつぶしたような表情で、舌打ちした。


 影魅は、一触即発の様相を醸し出している両者の間に入って、猟銃のセーフティを手を使わずに外し、夜空に向かって発砲した。

 九尾と、海主の眷属達の意識が影魅に向く。その隙に、雄一は素早く彩を抱え、山の中に駆け込んだ。

 魚人達は、逃げる雄一に目もくれない。やはりどうでもいいらしい。

 影魅は、魚人達に向き直った。


「両者のお話に割り込んで申し訳ありません。しかし、私の話を聞いて頂けないでしょうか。」

「ふむ。何かな。」


 あっさりと矛を収める魚人に、影魅は内心で首を傾げながら、頭を下げた。


「ありがとうございます。

 あなた方は海主様のご命令で来たと思います。しかし、私も九尾様にお願いがあってここに来ました。

 大変申し訳ないのですが、まずは私の用事を優先して頂いてもよろしいでしょうか。」

「良いぞ。」

「難しいのは……あれっ?」


 唖然とする影魅に、魚人は苦笑した。


「そも、我々は、王に、貴殿の助太刀をするよう命令を受けたのだ。」


 魚人が、九尾を睨む。


「どうせ、貴殿の頼みを無碍にするであろう、とな。」

「王のご慧眼どおりであったわ。」


 魚人の一人が歩み出て、影魅の肩を叩いた。


「貴殿は少し丁寧すぎていけない。あの女狐相手では、それは悪手だ。」

「我々が交渉してやろう。そこで見ていると良い。」

「あっはい。ありがとうございます……?」


 あれよあれよという間に後ろに下げられる影魅。そんな影魅に、触角が触れる。


『貴殿の神に対する敬意は美徳だが、今回の相手はちと分が悪いな。

 あれは、力で言うことを聞かせた方が早い手合いだ。』

「いや、あなた方ならそうなんでしょうけど。」


 影魅は苦笑して、魚人と九尾のやりとりを見守る事にした。

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