終幕の先に
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本編
第1話
どこまでも落ちていく闇の中で、不意に何かに引っ張り込まれて、彼はハッと目を開けた。
そこは薄暗い教室だった。ほとんどの机は端に退かされ、何故か、あちこちに火が灯る蝋燭が机の上に立っている。
僅かな光が、閉め切られたカーテンから透けて見える。カーテンの隙間からは、真っ暗な闇が見えた。夜なのだろうか。
「ここは……」
予想以上に高く幼い声が喉から出てきて、彼はびっくりした。
喉に手を当てようとするが、腕がピクリとも動かない。そもそも、首から下が土の中に埋まっているかのように動かなかった。
視線を巡らせると、手足に安っぽい紐が結ばれていた。紐の先を辿ると、机の上に置かれた、何やら魔法陣っぽいものが書かれた紙にテープで貼られているのが見える。
首にも紐が巻かれているようで、その紐が机の上に置かれた人形に繋がっていた。
足元には、自分を中心に書かれた歪な魔法陣の書かれた紙が敷かれている。よく見ると、A4用紙を繋ぎ合わせ、テープで貼り合わせたもののようだった。
いずれのものでも、こんなもので拘束などできない筈なのに、彼の体はピクリとも動かない。
「成功?本当に成功したの!?」
不意に、彼の視界に小柄で活発そうな女の子が入ってきて、彼は瞬きした。
彼の足元に敷いてある紙を踏まぬよう、彼の目の前にちょこちょこと歩いてきた女の子は期待に目を輝かせて、彼に問いかけた。
「ねえお名前は?」
「名前……」
彼は答えようとして、声を詰まらせた。
「あれ、名前……?」
名前が思い出せない。
「俺、俺?私?僕?あれ……名前、名前は、何だったっけ……」
「えー、覚えてないのー?」
「ごめん、思い出せない……」
名前どころか、自分の顔すら思い出せなかった。
彼を構成する様々なものが、ポッカリと欠落してしまっている。こんな当たり前な事にも答えられなくて、彼は戸惑った。
不満そうに唇を尖らせる女の子の隣に、勝ち気そうな女の子が現れる。彼女は、彼を緊張が入り混じる視線でチラリと見やってから、強がるように鼻で笑った。
「カゲオロシの儀式で降ろされるのは死霊だって話だけれど、嘘だったのかしらね。」
「死霊……?」
「そうよ。あなた死んだ記憶はないの?」
彼女にそう言われて、彼はするりとその記憶を思い出した。
「ああ、そうだ。俺は、病気で……そう、癌で亡くなったんだった。」
発見した時には既に手遅れで、彼は延命治療を拒み、独りぼっちで、自分の部屋の中で死んだのだった。
「そして、そして、あ、あああ、あああああ」
彼の体が震えだす。
死後の闇を思い出した。光も音もなく、本当に何もない闇の中を永遠に落ちていき、少しずつ、少しずつ、自分が溶けて消えていく、あの恐怖を。
自分の名前が、家族の顔が、思い出が、ぽろり、ぽろりとこぼれ落ちていく、あのどうしようもない悍ましさと虚しさを。
急に壊れた機械のように震えだした彼を見て、二人はぎょっと目を剥いて一歩後退った。
その、幼い子供の恐怖に歪んだ顔を見て、彼は我に返った。
「あ、ああ、ごめん、取り乱した。」
彼は震える喉で、深呼吸した。今も死の闇は怖い。しかし、それを理由に子供を怖がらせていい理由にはならない。そんなちっぽけな矜持が、彼の正気を取り戻させた。
彼が口を開こうとした時、彼の右側から、オドオドした声がした。
「ねぇ、
女の子の声に、香澄と呼ばれた勝ち気な女の子がむっと眉をひそめる。
「何が怖いの?カゲボウシはこの魔法陣にいる限り、一歩も動けないのよ。ほら、こいつも動かないじゃない。」
「でも、きんき、って、やっちゃ駄目な事なんだよね?
彼女の泣きそうな声に、活発な子がニコッと笑って言った。
「大丈夫だよ!この儀式教えてくれたのもコンちゃん先生だし、コンちゃん先生、バレなければ犯罪じゃないってよく言ってるもん!」
彼女の言葉に、香澄は唇の端を引きつらせた。
「……やらかしたかも。」
「ふえぇ、やっぱり怒られちゃうんだ……!」
頭を抱える香澄、泣き出す女の子。
彼は、不思議そうにきょとんとしている活発な子に声をかけた。
「えっと、君は……」
「私?
「彩ちゃん、コン先生っていうのは、どんな先生なんだ?」
彩は花が咲くような笑みを浮かべて、大げさな身ぶり手ぶりを交えて言った。
「コンちゃん先生はね、いろんな遊びとか、他の大人が教えてくれない、いけない遊びとか教えてくれる楽しい先生なの!」
彩の口から飛び出た衝撃的な言葉に、カゲボウシは目を剥いた。
「いけない遊び!?本当に先生なのかそれ!?」
「先生じゃないよ?コンちゃん先生はね、先生に化けた神様なの!」
「え、は、神様……?」
彼はあんぐりと口を開けた。まさか神様などという非科学な存在が出てくるとは思わず、そのせいで上手く言葉を飲み込めない。
そんな彼のことなどお構いなく、彩はとある一方をビシッと指した。
「コンちゃん先生は
「九尾……狐?」
「うん!黒毛のお狐様!私よりおっきくてね、お腹の毛に埋もれるとふわふわで気持ちいいんだよ!」
九尾といえば、狐の妖怪で有名だ。しかし、ここでは神様らしい。
そして、その神様が、先生に化ける、と。
「???」
それは……どういう事なのだろう?彼は首を傾げる。
人に化けた、という名目で存在する人がいる、というと事なのだろうか?
彼にとって、神様や妖怪=空想上の存在なので、当たり前のように存在するかのように言われると、そう名乗っている精神異常者がいるのだとしか思えなかった。
(ああ、いや……)
彼は頭を振る。
もしかしたら、本当にいるのかもしれない、と、彼は考え直した。
なんせ、今の自分こそが、非科学的存在そのものだ。自分という死者が、こうやって会話できるなど、普通ではあり得ない。
こんな事が有り得るのだから、神様の一つや二つは存在していてもおかしくないと思えた。
しかし、だとしたら。
「その、あまりよくない神様?」
「ええ、そうね。」
香澄が深い溜息を零して首を振る。
「山の麓や、町をおばけや怪異から守ってくれるんだけど……学校で見たら、いけない事を教えるし、子供を食べようとするから、絶対に関わっちゃいけないって、パパとママもよく言ってるもの。」
香澄の言葉に、彩は心外だと言わんばかりに頬を膨らませて反論した。
「コンちゃん先生は人を食べたりしないよ!」
「まあ、確かに、いつの間にか居なくなった子とか、いないけど……」
香澄が困り顔で小首を傾げる。
ふと、視界の端で、さっきまで泣いていたであろう女の子が、顔を真っ赤にして黙り込んでいるのに彼は気付いた。
随分と、こう、年齢にしては色々発達している体のその子は、彼の視線に気付くと、ひゃっと悲鳴をあげて顔を覆った。
その反応で、彼の頭の中で「いけない遊び」と「人を食べる」が合わさり、その意味が形を持って、顔を引き攣らせる。
(もしかして、そういう事!?)
怖がらせるための脅しとかそういうのではなく、ただ子供相手には言いづらいから、暗喩として言っている、と。
視線で彼がそう問うと、指の隙間から彼を見ていた彼女はコクリと頷いた。
「ろ、ろくでもねぇ……」
ただの性犯罪者じゃねえか、と、彼は溜息を零す。こんな神様は嫌だ。
しかも、このカゲオロシ?も、その神様が教えたらしい。子供になんてことを教えてんだ。
彼は、言い争いしている香澄と彩に向かって咳払いをして、視線を集めた。
「あー、君達。その、カゲオロシ?っていうの、これで最後にしなさい。
万が一、ろくでもない奴が来たら大変なことになるんだぞ。」
「えー?でもどうせ動けないんだから大丈夫じゃん?」
「人は言葉だけで、人を傷付けられる。」
それに、と、彼は真剣な眼差しで子どもたちを見つめる。
「確かに俺は動けないけれど、それはこの糸や魔法陣?のおかげなんだろ。
もし、もしだ。偶然風が吹いて蝋燭が倒れたり、転んだりしてうっかり糸を外しちゃったり、予想も予防もできない外的要因……地震とか、そういうのが起きたりしたら、こんなちゃちな拘束なんてあっという間に壊れてしまう。
そして、もし、俺が、子供相手だろうと悪事に手を染めるのに躊躇しない……えっと、暴力とか振るう、悪い人だったら?」
分かりやすいよう、努めて説明するカゲボウシ。
子供達は、その際に自分達が辿るであろう惨事を想像して、さっと顔を青くした。
彼は、互いに視線を交わす彼女達に、諭すように語る。
「例え悪人でなくても、もう一度死にたい奴なんていない。
死を回避する為なら、例え子供だろうと、騙し、殺すなんて躊躇わない奴が来る可能性だってあるんだ。
お前達がやったのは、それだけ危険な事なんだぞ。」
彼の言葉に、三人は彼に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、私、そこまで考えつかなかった……」
「ごめんなさい……」
涙目になる彼女達に、彼は苦笑した。
「分かればいいよ。じゃあ、早く俺をあの世に還してくれ。
この子に体を返してやらなきゃな。」
「……その、怖くないんですか……?」
唇を噛んで俯く彼女に、彼は精一杯微笑んだ。
「怖くない、って言ったら嘘になるけどさ。
でも、俺は死人で、もう既に終わった身で、俺が入っている体の子にはこれからの未来があるんだ。
大の大人が、子供の未来を奪うなんて、しちゃいけないんだよ。
だからいいんだ。」
そう言う彼の足が震えているのを見て、彼女は目を見開いた。
自分達がやった事が、何の罪もない人を、再び死に追いやるという残酷な事であることに、ようやく気付いたのだ。
彼女は床に崩れ落ちて、顔を覆って泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「いいんだよ、分かってくれたなら。だから、もうやっちゃ駄目だよ。」
正直、それは精一杯の強がりだった。今も、死の闇は恐ろしい。
しかし、ここで一人の子供の未来を奪って生き恥を晒すくらいなら、潔く死んで、この子達の良い経験となる方が、胸を張れるというものだ。
泣き崩れる女の子の肩に、香澄が手を置いた。
「その、
「わっ、私も一緒に謝るよ!
最初にやろうって言ったの、私だし……」
香澄と彩の声に、恐怖が滲んでいる。海主様、というのは、恐ろしい存在らしい。もしかしたら、海主様というのも、神様なのかもしれない。
それにしても、誰かに罪を擦り付けるでもなく、皆で謝ろうとするその姿に、ああ、いい友人関係だなあ、と、彼は少し和んだ。
彼女達はすすり泣きながらも、蝋燭を一本一本消していく。
最後の一本になった時、香澄が罪悪感に濡れた目で彼を見た。
「その、本当に、ごめんなさい……軽い気持ちでこんなことをしちゃって……」
「だからいいよ。俺は怒ってないから。」
不思議なことに、彼は再びの死が恐ろしくはあっても、そんな目に合わせた彼女達に、怒りの感情が沸いてくることはかった。
死の恐怖に怯える己が情けなく思い、しかし、少しは大人らしく振る舞える己が誇らしい。
「さ、俺は何時でもいいよ。」
彼が促すと、唇を噛む香澄に、彩が声をあげた。
「ねえ!やっぱり私嫌だよ!」
「彩、でも、」
「だってこの人悪い人じゃないじゃん!この人が消えるのはおかしいよ!
そ、そうだ!コンちゃん先生に頼もうよ!きっとなんとか」
「彩ちゃん。」
彼は、冷たい声でその言葉を遮った。
「それはいけないよ。」
「なんで!」
「確かに、そのコンちゃん先生が、君達にカゲオロシを教えたのが発端なんだから、責任はその先生にあると言っても過言じゃない。
でも、人間の理屈が、神様に通じるのかい?」
彩は、うっと声を詰まらせた。昨今の創作では、人と近しい関係を持つ神様なんてのも描かれるが、よくある神様というのは、理不尽な存在である事が多い。
そんな彩を見ながら、彼は言葉を継ぐ。
「それに、神様が人の願いを叶えるのに、代償を要求する、なんて話もよくある。
こんな、ほとんど自分の事も覚えていない死人のために、俺は、君達に代償を払って欲しくない。
それにね。」
彼は目を伏せ、ゆるゆると首を振った。
「死人が、どんな形であれ、また生きれるなんて、不公平だろう?
それを良く思わない人間は、大勢いる筈だよ。」
生者であれ、死者であれ。妬み、羨む者は居るだろう。
その想念が、この事態を起こしたこの子供達にまで向いてしまう事を、彼は懸念していた。
だからこそ、ここで、彼はもう一度死なねばならないのだ。
未来ある子供達のためにも。
そう思えば、納得はできるから。
さあ、と促す彼に、香澄が蝋燭の火を吹き消そうとして、彩が止めた。
香澄が彩を視線で責めるが、彩は思い詰めたような、しかし決心した眼差しで、香澄を見た。
「私がやる。」
「彩……無理はしなくても、」
「私が言い出しっぺだから。」
その彩の目を見て、香澄は彩を気遣わしげに見たが、やがて頷いて、その場を引いた。
彩が、涙をたたえた目で彼を見る。
「本当にごめんなさい……いや、ありがとう、ございました。」
彼は穏やかな心地で頷いた。死の闇への恐怖はまだあるが、この子達の成長の糧となれたなら、まあ、それでいいかなと思えた。
遥が祈るように手を組んで、ぽつりと呟いた。
「なんじの航路に、海主様の慈悲があらんことを。」
彩が浅く息を吸って、目に強い光を浮かべた。
勢い良く、彩は蝋燭の火を吹き消した。
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