第2話
最後の蝋燭の火を吹き消した後、手を組んでいた遥は、不意に感じた不気味な気配に背筋がゾッとして、思わず顔を上げた。
糸で繋がれ、目を閉じる
「香澄ちゃん、彩ちゃん!」
彩が怪訝そうに振り返る。
香澄は、切羽詰まった遥の声に、額に冷や汗をぶわりと浮かべた。
きょとんと、目を丸くするカゲボウシの足元を見て、香澄は悲鳴を上げた。
「う、嘘!?失敗した!?」
「え?失敗?」
彩もカゲボウシの足元の紙を見て、目を見開いて固まる。
何か異常事態が起きたと悟ったカゲボウシが、顔を強張らせた。
「なんだ?何が起きたんだ?」
「儀式が失敗しちゃったの!」
「し、失敗?」
「儀式が失敗すると、魔法陣が黒く染まっちゃうって、コンちゃん先生が!」
慌てふためく彩に、カゲボウシが思わず手を伸ばす。
ブチン、と、異様な音を立てて、手を繋いでいた糸が弾け飛んで、カゲボウシはビクリと驚いて動きを止めた。
「ど、どうすればいいんだ!?」
「分かんない!失敗したら紙が黒くなるとしか……!」
足踏みしたりうろうろしたりして落ち着きない彩の後ろで、香澄が目を血走らせて、古そうな本を捲っている。
ボロボロ涙を零す遥が、その香澄の背に縋り付くような声をかけた。
「か、香澄ちゃん……!」
「まって!いましらべてるから!」
そう言っている間にも、カゲボウシを繋ぐ糸は黒く染まり、ブチリ、ブチリと千切れていく。
カゲボウシは、ふと、首に繋がる糸も黒く染まっていくのを見た。その先にある、意味ありげに置かれている人形に向かって、その黒が侵食していくのを。
直感的に、それが不味い事だと思ったカゲボウシは、咄嗟にまだ染まっていない部分の糸を掴んで引き千切った。
「この人形は、どんな意味が!?」
千切ってから、やらかしたかもと臍を噛んだカゲボウシが、ほとんど叫ぶようにそう問うと、泣きそうになっていた彩が答えた。
「それは、真希の……その体の持ち主の、魂の入れ物!」
「まじか、じゃあ黒くなる前に切って大丈夫だったか……?」
正解か、失敗か、よく分からず冷や汗を流すカゲボウシ。
ふと、彩の視線が、人形に固定された。
「……待って。」
彩は人形に駆け寄ると、人形を手にとって、震える手で、人形の首に巻いてあった、黒い糸を抓んだ。
「こ、これ、髪の毛じゃない!」
「はあ!!??」
香澄がぎょっとして振り返る。そして、柳眉を逆立て、怒りのままに怒鳴った。
「人形には自分の髪の毛を巻きなさいって、私何回も言ったのに、あいつ!!」
「ど、どうしよう、これじゃ真希が戻れない!」
もう、阿鼻叫喚といった様子の子供達を見て、カゲボウシは、ふっと冷静になった。
子供達は、このあまりの予想外の事態に、もはやこの事態を収拾できそうになかった。
なんとかしないといけない。少なくとも、自分が落ち着かせ、誘導せねば。
カゲボウシは息を整えて、幼くも、よく通る声で言った。
「皆、落ち着いて。」
涙に濡れた三者の眼差しがカゲボウシに向けられる。
「焦る気持ちは分かる。でも、もう、事態は俺達が手に負える範疇を超えてしまっている。
まずは、大人に相談しよう。誰か、こういうのに詳しい人を知っている子は、」
カゲボウシがそこまで言った所で、教室の扉が吹っ飛んだ。
いきなりのことだった。
すぐさま、猟銃を持った男達が雪崩込み、気が付いた時には、カゲボウシの額に銃口が突きつけられていた。
「おう怪異、動くなよ。」
獣のような鋭い目で睨みつけられ、カゲボウシは冷や汗をかきながら目で頷いた。
「分かった。動かないから、撃たないでくれ。俺はともかく、この体を傷付けたくない。」
「ほう?」
男が怪訝そうに片眉を上げる。カゲボウシがチラリと視線を巡らせると、いつの間にか、子供達がいない。
カゲボウシの目に浮かんだ心配と焦りの色に、男は困惑して眉間にしわを寄せた。
「……ガキ共は避難させた。」
「そうか。」
何か酷い目にあった訳ではないらしい。カゲボウシは胸を撫で下ろした。
表情の険しさが薄れた男を見て、カゲボウシは苦笑いを浮かべた。
「あんまり怒らないでやって欲しい。」
「てめえ……」
男はぎゅっと眉間に皺を寄せると、カゲボウシからゆっくりと猟銃の銃口を反らし、気不味そうに頭をポリポリと掻いた。
「本当に怪異か?」
男の声からはすっかり敵意が抜けてしまっていた。
怪異という、分かるような分からないような単語が出てきて、カゲボウシは首を傾げた。
「怪異?かどうかは知らないが、死人である事は確かだ。
それより、いいのか?銃……」
「あん?なんでてめえが気にしてんだ。」
自分は敵なのだろう、と指摘するカゲボウシに、男は苛立たしげに舌打ちした。
優しいのか、ただの馬鹿なのか。自分が命を奪われかけているというのに、相手の心配をするとは。
「ちっ、調子が狂うぜ……」
男は机に置いてあった黒く染まった紙を乱暴に払い落とし、机にどっかりと座り込んで、転がっている人形を睨んだ。
「ったく、とんでもねぇ事をしやがって。」
「その、ごめん……」
「てめえのせいじゃねえだろうが。」
苛々した様子の男の傍に、別の男が跪いて現れた。
カゲボウシは、その男が、まるで影の中からぬるりと駆け寄ってきたかのように見えて、ぎょっとした。
男は短く問うた。
「ガキ共は。」
「特に異常はありませんでした。」
男はその言葉を聞いて、深く溜息を吐き、疲れ切った表情で、無精髭を撫でた。
「あーくそ、九尾様よう、なんてことしてくれてんだ畜生め。」
「我々の責任です。」
「ばーか、九尾様相手に、人間風情が意のままにできるものか。ふざけた事を抜かしてんじゃねぇ。
俺達にできるのはな、九尾様がやらかした後始末くらいなもんだよ。」
影の差した表情で目を細めて、そして、部下を叱責した。
「ったく、馬鹿な事言ってねぇで、ガキ共を家に返してやれ。
行け!」
「はっ」
男の部下が素早い身のこなしで教室から去ると、かったるそうな仕草で男が立って、気不味そうに立ち尽くすカゲボウシに顎をしゃくった。
「おう怪異、てめえはこっちだ。ついてこい。」
「この子は……」
カゲボウシが人形に目を向けたのを見て、男は鼻で笑った。
「てめえが気にする事じゃねえよ。
……その人形には何も入っちゃいない。」
「じゃあ、この子は何処に。」
「だーかーら、気にすんなって言ってるだろーが。
黙ってついて来い。てめえにできる事はそれだけだ。」
カゲボウシは再び人形に目を向けた。自分の体の本当の持ち主が心配だが、自分にできることは何もない。堪えるように瞑目してから、カゲボウシは静かに頷いた。
教室を出ると、灯り一つ付いていない、真っ暗な廊下がカゲボウシを迎えた。
遠くに、非常用ベルの隣にある赤いランプがぼんやりと浮かんで見える。
窓から差し込む僅かな星明かりが、男の暗い背の輪郭を淡く浮かびあがらせていた。
ずんずん進む男の背を、カゲボウシは必死に追いかける。
足が思うように動かない。まるでサイズの合わない着ぐるみの中に居るようだ。
何度も躓くカゲボウシに、男は溜息を吐いた。
「てめえそれわざとじゃねえよな?」
「ご、ごめん、思ったように足が動かなくて……」
四苦八苦しながら答えるカゲボウシをじっと見下ろして、つかつかと歩み寄ると、男はカゲボウシを米俵を担ぐように持ち上げた。
「めんどくせえ。こっちの方が速い。」
ぶっきらぼうにそう言いながらも、苦虫を噛み潰したような表情を見せるその横顔を、カゲボウシは申し訳なさそうに見つめた。
「手間を掛けさせて申し訳ない……」
「あー、もう、謝んな。てめえも被害者みたいなもんだろ。」
明かりもない、真っ暗な廊下を、迷いなく進みながら、狼のように目を光らせて男は呟く。
「てめえ、死ぬ前は何だったんだ。男か?女か?大人か、子供か。」
カゲボウシは、その問いに目をきつく瞑って、なんとか記憶の断片を掻き集めて思い出そうとした。
「えっと、たぶん、男だったと思う。はっきりとした根拠はないけど、そんな気がする。
歳は…、教室を懐かしいと感じたから、子供ではない筈だ。」
「……あんまし覚えてねぇのか。」
「ああ、死んだ後に、ほとんど溶け落ちて無くなった。」
苦笑いするカゲボウシに、男は微かに嘆息した。
「てめえも災難だったな。死んだと思ったら、知らん女児の体に宿らされてよ。」
「それは、まあ、そうだけど……
俺よりも、この子の方が災難だったろう。」
「それはどうかね。」
吐き捨てるような言葉に、カゲボウシは眉根を寄せた。
「それはどうって、どういう意味だ。」
「こいつ……真希っていうんだが、本当に真希の意図しない事故でそうなったとでも思ってんのか?
俺は、真希がわざとやったんだと思ってる。」
「わざと……?」
男は心底下らないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「カゲオロシの儀式で、カゲボウシを降ろす際、降ろす対象になる人の魂が押し出される。
その魂がどっか知らない場所に行かないよう、代わりに魂を宿らせとくのが人形なんだが、その人形に自分の髪の毛を巻いておかないと、人形と降ろす対象の人間との縁が無くて、魂が人形に宿らず、どっかに行くんだよ。
つまり、自殺するために、わざと人形に髪の毛を巻かなかったってこった。」
「どうして、そんな事を……!」
「知った事か!」
男は怒気を剥き出しにして、まくし立てるように怒鳴った。
「どんな事情があれ、勝手に自分の命を捨てるような馬鹿の事なんぞ知った事かよ!
しかも、死にたきゃ一人で勝手に死ねばいいものを、他人の手を煩わせるようなやり口しやがって!」
カゲボウシは男の怒声に面食らって身を縮めた。カゲボウシは言うか言わないか迷い、しかし、それを口にした。
「まだ、自殺と決まったわけじゃないだろう……」
「自殺と同じだろうがよ。」
そう吐き捨てて、男はこれでこの話は終わりだと言わんばかりに、むっつりと黙り込んだ。
校舎の玄関から出るや、男は険しい顔で立ち止まった。
「海主の眷属がなんの用だ。」
男の低い声に、カゲボウシは顔を上げた。
玄関の出口を囲むように、いくつもの影が立ち並んでいる。
雲が切れて、差し込んだ月明かりに照らされた影を見て、カゲボウシは息を呑んだ。
それは、鱗に覆われた手足が生えた魚だった。魚人、とでもいうべきそれらが、立派な銛を片手に、男とカゲボウシを色のない瞳で見つめている。
真珠や貝でできた首飾りを着けた魚人が、一歩前へ出た。
「九尾の狩人よ、それを置いて山に帰るがいい。」
「断る。これはうちの問題だ。」
「山でも山裾でもない領域の出来事であるのにか?」
「うるせえ。学校も九尾様の領域だ。」
「勝手に言い張っているだけであろうに。」
魚人の呆れ声に、男は何も言い返せなくて黙り込んだ。
魚人が、男の肩に担がれるカゲボウシを見た。
「封印もなしに、随分とおとなしい。」
「……伝え聞くような悪霊には思えねえ。こいつ、最初っから子供の心配ばかりで自分の事は後回しだ。
てめぇらが思うような危険な奴じゃない。」
「で、あるか。」
納得するように頷く魚人に、男は訝しんだ。
カゲオロシの儀式で降ろされるカゲボウシは、人類に脅威となる力を持つ悪霊だと言われている。それなのに、大人しくて脅威にならなさそうなカゲボウシを見て、魚人は疑問に思っていないようであった。
「何を知ってやがる、海主の眷属。」
「貴様が知る必要はない、九尾の狩人。」
魚人は素っ気なくそう言い捨て、銛の柄で地面を打ち鳴らした。
「何れにせよ、それの処遇は我々の王が決める。」
「勝手に決めんな。」
「山の回りをこそこそ這いずる猿共すら処分できない貴様らに、決定権があるとでも?
それが猿共の目に触れれば、面倒な事になるのではないか?え?」
男は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「……てめえらと違って、そう簡単に駆除できねえんだよ。例えうざってえ鼠だろうがな。」
「法律だったか?難儀なものだな。」
「まったくだ。」
男は重い溜息を吐いて、カゲボウシを地面に降ろした。
困惑の視線を向けるカゲボウシに、男は顎で魚人を指した。
「俺は害獣駆除をしなっきゃならねぇ。そいつに付いてけ。」
男はカゲボウシの耳元に口を寄せ、囁いた。
「恐らく悪いようにはされねぇ筈だ。」
カゲボウシは、色々と男に言いたい事があったが、それらを飲み込み、頷いた。
男は頭を掻きながら、校庭の外に向かって歩き出す。
「海主には逆らうなよ。あれは荒ぶる神だからな。」
「事実だが、我らの王はそこまで小さな器ではないぞ。」
「どうだか。」
立ち去る男の背を見て、不意にカゲボウシは気付いた。猟銃を握る男の手が小刻みに震えている。ずっと、強い力で握りしめていたのだろう。
何故か。カゲボウシを警戒してではない。あの魚人達を警戒していたのだ。
きっと、カゲボウシを守る為に。
カゲボウシは、男に向かって咄嗟に声をかけた。
「あの!」
「……」
「ありがとうございました。」
男は舌打ちして、魚人達の間をすり抜け、何も言わずに去っていった。
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