第2章 反射しない犯人

 バスカヴィル街へ向かう道すがら、私はずっと鞄の中に仕舞った“あの鏡”の重さを意識していた。

 まるでガラス片の向こうから、誰かがこちらを覗いているような感覚だった。


 現場はすでに警察の封鎖が解除されていたが、夜の路地には未だに血の匂いが残っている。

 灯りの消えた窓の下で、私は鞄から鏡を取り出し、殺人が起きた場所に向けてそっと掲げた。


 鏡の中――そこに映ったのは、私だった。


 いや、“私に似た”何者かだった。


 私と同じ顔、同じ衣服、だが瞳の奥に宿った光が決定的に異なる。

 情け容赦のない冷たい意思、知性と暴力が等価に並ぶ目。


 私は直感した。この存在は――鏡の世界のシャーロック・ホームズ。

 私とは異なる決断を重ねてきた、もう一つの選択肢としての“私”。


 その瞬間、鏡の中の彼が微かに笑った。

 次いで、唇が動く。


 > 「次は君の番だ、シャーロック」



 衝撃で私は鏡を取り落とした。

 ガラスは石畳に当たって粉々に砕け散る。


 だが、奇妙なことが起きた。

 破片の一つ一つが、それぞれ異なる“私”を映していた。


 怒りに燃えた私。

 血に塗れた私。

 ワトソンを銃口で脅す私。

 囚われの身で叫ぶ私。

 笑う私。

 泣く私。


 それは可能性の断片だった。

 そしてそれを見た私は確信した。“彼”は存在する――この世界のどこかに。


 「ホームズ!」


 背後から声がした。ワトソンだった。


 「おい、どうした? 何があった?」


 「……何も問題はない。だが、答えは鏡の中にある。ワトソン、我々はロンドン中の鏡を調べる必要がある」


 「……は?」


 彼は困惑した表情を見せたが、私の様子を察してそれ以上は問わなかった。


 この事件は、単なる殺人ではない。

 “私自身”と向き合う事件だ。


 もし、あの“鏡のホームズ”がこの世界に干渉しているのだとすれば――

 これは、殺人事件ではなく、“侵略”だ。

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