第五章 上塗りの輪郭

18話 写し身は層をなす

薄氷うすらい七彩ななせは、けたたましく光るネオンライトが灯るラーメンタウンの中を駆け回る。時にはベランダの換気扇を踏み越え、耳障りな音を立て、チラシが無造作に詰め込まれたゴミ箱を蹴倒し、看板の隅に身体をぶつけながらひたすら走った。どこからともなく濃口醤油の焦げ付くような匂いが鼻をつき、サラダ油の匂いで空気が重く感じられた。しかし、同じ所を行ったり来たりするばかりで、ラーメンタウンから抜け出せそうにない。土地勘がないことの弊害がここに現れた。方位磁針の針は落ち着きがなく、破れかかった地図も頼りにならない。


「どうしたらいいんだ…」


 薄氷は頭を悩ませてしゃがみ込む。こうしている間にも渦雷からいがやってくるかもしれない。


「もういいよ。今までありがとう」


 七彩は、まるで最後の形見を求めるように、薄氷の親骨にそっと指をかけた。露先を引っ張るその手は、かすかに震えていた。


「何してるんだよ」


 薄氷は親骨を折られる恐怖に怯え、七彩と瞬時に距離を取る。


「これ、持っていくね。君のことは忘れない」


 七彩はヨレヨレのスーツの胸ポケットに露先を入れる。薄氷に背を向けて歩き出す。


「本当にこんな終わり方でいいのか?」


 薄氷の声に七彩は足を止める。


「いいよ」


 刹那、七彩の上に焦げたラーメン屋の店主の声がした。上を見上げると、店主が空から落ちてくる。動かない七彩を見た薄氷は、猪突猛進で七彩にぶつかる。なんとか店主の下敷きになることを回避した。店主は一流ラーメン屋の看板に引っかかり、内臓とメンマを吐き出しながら地面に落ちた。頭のラムダ縫合に少しすき間ができていた。


「危なかった」


 薄氷は七彩の無事を確認する。


「今度は僕が助けられたね」


 七彩は恥ずかしくなってそっぽを向いた。二人は店主の様子をそっと見る。店主は丸焦げで息をしていなかった。


「もうラーメン屋には行けないな」


 薄氷の声に嗚咽が混じる。


「いや、まだ助かるかもしれない。就職センターフライに運んで、日用品に変えてもらおう」


 七彩は薄氷の目を真っ直ぐ見る。さっきまでの暗澹とした気持ちは北風に飛ばされたようだった。


「店主の尊厳はどうなるの?」


「どうって︙このまま死んで終わるよりずっといいだろ?人間園水槽ホテルに連れて行くわけにもいかないし、今は携帯用の救急火葬セットも持っていない。近所でガスコンロを借りられるところもなさそうだしな」


 七彩を頭を掻きながら考え込む。薄氷は七彩の発言に圧倒されて開いた口が塞がらなかった。


「あ、ごめん。ラーメン屋に関係あるものに変えてほしいよな?またラーメン屋に行きたいもんな」


 七彩は薄氷に確認を取るように顔をのぞき込む。違う、そういうことじゃないと薄氷は首を振った。


「死体を発見したら、まずは警察本部の露出審査員に電話して調査をしてもらうべきだろう。そして葬儀の手配だ。七彩は何か見当違いな事を言ってる気がする」


 薄氷は路地裏に落ちていたチラシと店主の血を使って、フローチャートを書いた。

 露出審査員には、死体の状態をチェックして、その人が本当に再利用を望んでいたかどうかを判断する仕事もある。彼らは国が定めた倫理ガイドラインに従っている。 


「こういう方法があったのか。知らなかった」


 七彩はフローチャートをじっくり見た。

 このまま七彩が納得してくれれば、店主はとりあえずどうにかなる。人間リサイクルが国家に認められているのは、あくまで本人の意思が明確な場合に限られる。調査結果次第では渦雷の逮捕もありえる。これで七彩のリセットも回避できる。薄氷は思案した。


「七彩がラーメン屋を気に入ってくれて嬉しいよ。また今度行こう。携帯を貸してくれる?」


 薄氷は手を差し出した。七彩はそっと携帯を渡す。薄氷は電話番号を押し、警察本部に連絡した。ありがとうと言って薄氷はぬるくなった携帯を返す。二人は近所から三角表示板を借りてきて、店主の近くに置いた。このまま警察が来るまで待つことにした。渦雷の気配がないのが気がかりであった。


「ラーメン屋の後はどうするんだ?」


 そんな薄氷の不安を遮るように、七彩は聞いた。


「次は、魚介ラーメン屋と合併した水族館」


「その次は?」


「人の生活音博物館」


「その次は?」


「エビフライ定食の店」


「終わりがないな」


「そうだよ。僕との日々を簡単に終わらせてほしくないんだ」


 薄氷の言葉に、七彩自身がハッとしたように目を伏せた。どこか、無意識の奥底から溢れた本音のようだった。


「リサイクルされても、僕の記憶は持ち越しできると思う」


 七彩は曇った声で続けた。


「でも確証はないって蓮根さんが言ってた。次のリサイクルで君の人生が本当に終わってもいいの?」


 薄氷は、優しく問いかける。

 七彩は黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。


「いいよ。どんなに君とイベントを重ねても、僕の失敗や悲しい出来事が消えるわけじゃない。ただ出来事を消費するだけなんだ」


 風に吹かれ、道端にあった陶磁器が転がる。陶磁器が音を鳴らして縁石にぶつかり、止まった。陶磁器にヒビが入る。七彩はその音に目を落とし、ため息をついた。

 この陶磁器も、かつて誰かの頭だったのかもしれない。自分の感情が、知らぬ間に何かを傷つける剃刀のように思えた。それでも、どこかで誰かに拾われ、こうしてまた路上に転がっている。自分も、同じような存在なのかもしれなかった。


「確かに消えないよ。その痛みは抱えて生きるしかないんだ」


 薄氷は、七彩の肩越しに遠くを見ながら静かに言った。


「それは僕には重荷なんだ。毎月やり直しても、仕事や友達関係でまた同じミスをする」


 七彩の声には、自嘲でも諦念でもない、ひとつの“慣れ”が滲んでいた。ミスをする自分にも、それを正せない自分にも、もう驚かなくなってしまった。


「それは学習能力の問題だよ」


 少し冗談めかして言ったが、すぐ真顔に戻る。


「なぁ、本当に記憶を受け継いでいたのか?すべてを感情だけで記憶して、都合よく忘れたんじゃない?」


「人には忘れたいことの一つや二つあるだろ」


 七彩の言葉に、自身への弁解と、他者への願望がマーブル状になっていた。わかってほしい。でも、突き放されたくない。そんな矛盾した感情が胸に張りつく。


「それは僕にもあるけど、君は極端だ」


 薄氷は小さくため息をつく。それは怒りではなく、悲しみに近かった。


「それに、蓮根ともあんな別れ方をした。もう元には戻れない。今を生き続ける限り、一度起きた出来事を無かったことにはできない。綺麗な自分ではいられない」


 その言葉は、過去を否定しないという選択の重さを含んでいた。 


「綺麗の基準は僕には分からないけど、みんなが君が思ってるよりも完璧じゃないし、それなりに苦悩も抱えてると思うな」


 薄氷は優しい声で語りかける。七彩の自己否定を、少しでも和らげたかった。


「僕の苦悩を一般化したいのか」


 七彩は、氷のように冷たい目をして薄氷を見る。共感という名の無理解に傷ついてきたからこそ、鏡面反射的に拒絶してしまう。


「違う、そういうわけじゃない。抱えてるものは人それぞれ違う。僕だって、本当は全部を投げ出したい。もっと上手くやれたこと、やり直したいこと、後悔していることは何個もある」


 薄氷の声は、少しだけ震えていた。それは、自分の弱さをさらけ出すことへの恐怖と、それでも言わずにはいられない誠実さの表れだった。


「リサイクルされればそんな後悔もしなくてすむ。一からやり直しできるんだから」


「それは、そうだけど。でも、僕たちに決断を迫られない日々は決してない」


 薄氷は空を仰ぎ、雲の切れ間からこぼれた光を目で追った。


「人はいつも、最適解を導き出せない。だけど、そこで生まれた後悔も、あの時の自分にとっては、たしかに“最善”だったりすることもあるんだよな」


七彩は薄氷の顔を見たまま、言葉を失った。


「何を言ってるんだ」


 七彩の声は、少しだけかすれていた。


「だからさ、そんなに自分を責める必要はないと思う」


 薄氷は、静かに笑った。


「何をやっても、僕たちはやり直せる。まだ、何も全部が終わったわけじゃない」


「…」


 七彩の手が、無意識に陶磁器の方へと伸びかけて止まった。


「物は捉えようなんだ」


 七彩はうっすらと目を伏せた。すぐには納得できない。簡単に受け入れられる言葉じゃない。けれどその一言が、頭の中の固く閉じたものに、わずかな隙間を作ったような気がした。なにかが、変わりたがっている。

  

 話し込む二人の耳に、遠くからパトランプの音が近づいてくる。二人は慌てて路地に身を隠した。大気が一瞬、ぴりついた。空気の膜が破れるような音と共に、白い稲光がラーメンタウンを照らす。間もなく、停まっていたパトカーの運転席からひとりの影が現れた。渦雷だった。その姿は、まるで台風の予兆のようだった。


「君は警察と繋がっていたの?」


 薄氷の傘全体から冷や汗が流れる。


「さぁね、でもごめんね」


 渦雷は、薄氷の目と思われるところに手を当てた。見せたくないものを今から公開するような予感がした。

 七彩の悲鳴が聞こえた。薄氷は渦雷の手を振り払う。その視界に真っ先に入ったのは前世ぶりの父、薄氷こよりだった。こよりは、七彩の頭のラムダ縫合を確認するかのようにそっと撫でる。こよりの指が、七彩の後頭部にY字を描くようにすべる。指先が熱を帯びると、頭蓋に亀裂が走ったような感覚がした。

 ――ラムダ縫合が裂かれた。

 七彩の視界が反転し、音のない世界に落ちていく。触れていたはずの露先の感触が、遠ざかっていった。

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