4話 消費されるもの

婦人達の高笑いの声で薄氷は目を覚ました。辺りを見渡すと、品質の良さそうな鞄や腕時計などが特別な棚に陳列されていた。店の中の巨大な冷房からは強風が出ていた。商品に目もくれず、涼みに行くだけの客たちでひどく混雑していた。


(誰か僕を見てよ…興味を持ってよ…)


 売り場で吊るされている釦の目の前に、立ち止まる人は誰もいない。薄氷は、誰かに購入されるまで何もできない。これから気の遠くなるような時間を過ごすことになると思うと、先が思いやられる。ため息が出る。

 昨日、就職センターフライの第一工場で屈強な女たちに魂を体から引き剥がされ、空色のビニール傘に移動させられた。新しい体の感覚は心もとない。八本の骨が心細く、強い風に吹かれたら折れてしまいそうだ。撥水剤の臭いが鼻を刺す。

 しかし、そんな重なる心労を踏み潰すかのように、ハイヒールの音が高らかに響く。薄氷の前でその音は止まる。メイド服のお嬢様が手に取り、会計に進んだ。千円だった。


「よろしくね」


 メイドお嬢様は僕に啄むようなキスをした。薄氷はハンドルを持たれ、無理やり地面に傘を突き立てられた。突然、上下反対の感覚に狂い、吐きそうになる。石突きが頭、ハンドルが足であるため、これから傘として持ち歩かれるときは上下反対になることを理解した。雨が降りしきる中、薄氷は人を守る盾となった。ハイヒールは湿ったアスファルトを軽やかに打ちつけた。鼻歌交じりで閑静な街並みを進んでいく。

 着いた先は、紫陽花カラーの二階建て住宅だった。中に入ると、そこは秩序を失った床の見えない空間だった。シャンパンの空き瓶、埃をかぶった鞄、色褪せたぬいぐるみなど、物で溢れていた。薄氷は浴室に連れて行かれ、ボールでも投げるように雑に放り投げられた。メイドお嬢様は少し離れた場所に移動して、誰かと電話越しに会話をしていた。しばらく時間が経った後、重苦しい足音が近づいてきた。 


「君、話せるよね?」


 メイドお嬢様は年季の入った足枷を持っていた。


「その足枷を君につけたいです」


「気持ち悪い」


 強烈な平手打ち。壁に叩きつけられる。


「御幸君も言ってたけど、君って変態なの?」


「いいえ。ただの好奇心です。僕は人間時代を謳歌できませんでした。だから、今から何でもしてみたぃ゙ッ」


 足枷で殴られる。親骨が折れたかもしれない。


「君は傘。私に買われたんだ。君は何もできない。今日から私と不自由な生活を楽しもう」


 メイドお嬢様は薄氷を足で踏み付けている。紫陽花カラーの前髪から時折覗かせる眼光が恐ろしかった。気が済んだのか、メイドお嬢様は薄氷と一緒に浴槽の中に入った。浴槽の中では、透き通るような水面に、紫陽花の装飾花が静かに漂っていた。水に浮かぶ花は絵画のような儚さがあった。浴室の壁紙には『人間のうちにやりたいこと』とクレヨンでいくつか項目が書いてあった。浴槽の美しさとのアンバランスさが、浴室の不気味な雰囲気を醸し出している。


「今日は御幸君が遊びに来るから良い子にしててね」


 メイドお嬢様は自分の足に足枷をつけていた。家のルールに関わることだと察した薄氷は、彼女達の関係に深入りするか悩み、今は当たり障りのない質問をした。


「御幸君ってゑびさんのこと?」


「うん」


「君の名前は?」


渦雷四葩からい よひら


「綺麗な名前だね」


「別に」


「ゑびさんって君の彼氏?僕も混ぜて」


 言ってしまった。持ち主のプライベートに干渉してはいけないと分かっていても、薄氷はこの胸の高鳴りを抑えられない。殴られることを覚悟で、少し身構えた。


「いいよ」


 渦雷の目に一瞬だけ光が入ったことを薄氷は見逃さなかった。この後も、二人の会話はバドミントンのラリーのようだった。テンポが良い。ゑび御幸が来宅してからは、地上波で放送できないような遊びをいくつも行った。渦雷との日々は、豆板醤ぐらい刺激的な日々だった。怪我も多かったが、その分強くなった気がした。約半年が経った。黒風白雨が薄氷達を襲った。あの時だった。全てが変わったのは。

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