あいつに似た声
冬の日中の柔らかい陽射しに当たりながら、暗夜は激しく上下に揺られていた。
暗夜の視界の大部分を占めるのは、汗で濡れてボサボサになった茶色い毛の塊。この寒い中で妙に暑苦しい光景を作っているのは、暗夜が乗った木製の力車――というか、座席付きの台車を牽いている車夫だ。彼がこれだけ汗をかいているのも無理はない。暗夜の隣には、縦にも横にも巨大な体格のオクリが座っているのだから。
前方からとめどなく繰り返される暑苦しい息遣いと風を切る音を聞きながら、暗夜は町の景色を眺めている。
壁の国の城下は、盾の国と比べるとひとが少なかった。城下に人口が集中している盾の国と違って、それぞれの町に人口が分散しているのだと暗夜は思っていた。しかし、城から離れた町中は、よりひとけがなく閑散としていた。人間と魔物では、そもそもの頭数が違うようだ。
「……酔いそう。気持ち悪い」
慣れない刺激に三半規管をやられた暗夜は口を抑えて、隣にいるもふもふのクッションことオクリにもたれかかった。
オクリはもたれてきた暗夜を気にしたふうもなく、
「もう少ししたら降りますので、それまで辛抱ください」
そう言ったきり口を閉じた。暗夜もそれ以上何も言わず、オクリのボリュームのある毛で力車の揺れを緩衝しながら目を閉じる。
よく喋るアドレインは城で留守番だ。昨晩と同じようにオクリと主人がふたりきりになることを心配していたが、やはり昨晩と同じように、オクリに丸め込まれてしょんぼりとして自室に籠もってしまった。なんだかかわいそうな気もするけれど、今日のことは、彼に見られるわけにはいかないのだ。
暗夜がぐったりとしながらしばらく力車に揺られていると、オクリが車夫に声をかけて、力車を止めた。
「着きましたよ。降りてくれ」
「おえぇ、地面がふにゃふにゃする……」
おぼつかない足取りで地面に立つ。ふわふわした丸太みたいなオクリの腕にしがみつくと、遥か頭上から、苦く笑った声が降ってくる。
「この距離でそんなんじゃあ、この国では暮らせませんよ」
さり気なく、掴んだ手を解かれた。たったまま左右に揺れながら、暗夜は天を仰ぐ。
「僕魔物に向いてないかも……」
「こっちに来た人間はみんなそう言う。そのうち慣れるようですが」
はは、と小さく笑ったオクリ。一拍の間を置いてから、暗夜の方に向き直って問いかけてくる。
「ここからしばらく歩きますが、その前に少し休みますか?」
「ううん、頑張る……」
暗夜がそう言ったのを聞き届けてから、オクリが踵を返して歩き始めた。彼の巨躯に比例して距離のある一歩に追いつこうと早足になる暗夜。オクリの足で十歩ほど歩いたところで、彼がそれに気がついて歩調を緩めてくれた。
「セイカ様と歩いた時を思い出します」
彼がぽつりと零したが、彼の右側を歩く暗夜からは、長い毛に覆われて彼の表情は読めなかった。街の中を歩く。みなが目的を持って歩いているように見える中で、ひとり、民家の壁にもたれて行き交うひとびとを眺めている者がいた。深海のように深く青い、人間とは違う色素を持った長い髪。気温が低いこの時期には寒いだろう薄手のワンピースを着ていて、大きく開いたその襟ぐりからは、平らな胸元がのぞいている。
「……あれは」
暗夜がぽつりと言うと、隣を歩くオクリが彼女を一瞥して、すぐに視線を外した。
「娼婦、ですね。気になりますか?」
「ううん。こっちにもいるんだなって」
首を横に振って返す。暗夜の隣を歩きながら、オクリが会話を続けてくる。
「昨日城下を歩いたときもいませんでしたか?」
「昨日はあんまりしっかり見てなくて……」
「城下にもたくさんいますよ。あの者は、城下でも見かける気がしますね」
「そうなんだ……」
「利用したことは?」
「ないよ」
「そうか。輝夜様はたまに利用しておられるそうだ」
「えっ……!? どうやっ」
暗夜は思わず大きな声を上げて、言葉を切って口をつぐんだ。気まずそうに、目を泳がせる。
オクリは短く笑って、思わず足を止めた暗夜につられて止めた歩を再開した。
「輝夜様は男性のふりをしているし、あの年頃です。それに、王であられる。女性と個人的に仲良くなることなんてできないし、男性とも無理です。それで、ただの話し相手として利用しているらしい」
「ああ、そっか……びっくりした」
「びっくりとは?」
なにか含みを感じる声色でオクリに問いかけられて、暗夜はぶんぶんと首を振る。
「いや、別に! なんでもないよ!」
ちょうど手の届きやすい位置にあるオクリの腰をどんどんと叩く。頭上から笑い声が降ってきた。それから、呆れたようなため息。
「――例のごとく、アドレインは猛反対していて、それでよく俺に愚痴を言いに来る。何度言っても輝夜様が折れないとか言って」
「ああ、輝夜、頑固なところあるよねえ」
ははは、と笑って返す。そうだ。輝夜は結構頑固で、自分の意見に絶対的な自信がある時は断固として引かない。あの小屋で時々会うくらいだった暗夜はあまり被害を被ることはなかったが、常に一緒にいるアドレインやオクリはきっと定期的に大変な目に遭っていただろう。なんとなく、輝夜がわがままを言ってきかない様子が想像できる。
*
先代魔王――暗夜の母親・セイカの居宅は、城から随分と離れた所にある森の中に、ひっそりと構えられていた。
力車を降りてから随分と歩かされたのも、寂れた地域のさらにひとけのないところに居宅があるのも、彼女の居場所を誰にも悟らせないようにとの配慮らしい。
先代の王が住んでいる、というには、あまりにも質素な木造りの家。オクリには小さすぎる扉を、彼の大きな手がノックする。
「オクリです」
「どうぞ」
オクリが扉を開けた。彼に手で促されて、暗夜が先に、ドアをくぐる。
「オクリ、今日は一体――」
オクリに対して小言を言いながら振り向いた彼女。苛立ったように細められたその目は、次の瞬間には、見開かれていた。
「暗夜……?」
暗夜は俯いた。彼女の顔を、見るのが怖かった。
「……うん」
「暗夜……会いたかった。何もしてあげられなくてごめんね……」
「……」
暗夜は何も言わなかった。床に目を向けた暗夜の視界の隅に、薄緑のスカートの裾が滑り込んでくる。
「暗夜、どうしてここに……?」
頭上から、柔らかい声が降ってきた。この声が、自分の母親の声。少しだけ、輝夜が笑った時の高くなる声に似ているような気がする。きっと自分の声にも似ているのだろう。少しだけくすぐったいような気持ちもある。けれど、それよりももっと、どす黒い気持ちが暗夜の心を染めていた。顔を上げる。
「輝夜と代わってもらったんだ。今は輝夜が、僕の代わりに向こうにいるよ」
笑顔を向けると、彼女の顔は固く凍りついた。
「輝夜が?」
「大丈夫だよ。僕と同じ目に遭うだけ。それに、あと十日くらいで僕はまた向こうに戻るから」
「暗夜、あなた、こっちに帰ってきなさい。輝夜も連れて」
彼女が暗夜の手を握ると、細い手首につけられたタグが揺れた。
「……」
暗夜は何も答えなかった。そっと彼女の手をほどく。
セイカは自らの首の後ろに手を回して、つけていたペンダントの金具を外した。ペンダントを持ち上げると、服の中に隠れていたタグが現れる。それを、暗夜に向けて差し出した。
「暗夜。あなたのタグなの、これは。戻ってきて。あなたの場所はあるから」
『暗夜』
タグには、暗夜の名前が刻まれている。その下には、暗夜に与えられた祈りの言葉。
『祝福されて生まれ、他者に祝福を与える』
「祝福……され……」
暗夜は開かれた両目からぼろぼろと涙をこぼした。セイカに抱きとめられて、彼女の細い肩を濡らす。
暗夜は静かに、嗚咽混じりに、自分に与えられた祈りの言葉を読み上げた。
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