善性と悪性

 窓から差す月明かりは、いつの間にか消えた。月が天高くのぼり、輝夜の部屋には、光が届かなくなった。壁につけられたランタンのぼんやりとした灯り。その明かりから離れた暗がりで、暗夜は目を覚ました。


 何か、音が聞こえる。足音だ。それも複数人の。隣の部屋で眠るアドレインは気がついているだろうか。


 柔らかい靴底が、冷たい石床を踏み締める音。それと、金属音。――近づいてくる。暗夜はベッドの脇に置いた剣を手に取り、ベッドの中に引き入れた。部屋の扉が開く。誰かが入ってくる。暗夜はベッドから立ち上がって、侵入者を視界に捉えた。


 手前にいるのは、黒い布で全身を覆った魔物がふたり。壁際のランタンの灯りを反射して、目が光っている。その後ろには、同じく目元以外は見えない、小柄な魔物。殺気を放って光るのは、緑がかった金色の目。こちらを貫くように引き絞られた縦長の瞳孔を、暗夜は昼間に見た。グローだ。


 誰も何も言わなかった。暗夜が剣を鞘から抜くのと同時に、手前のふたりが動いた。薄暗がりの中で、金色の光が飛び散る。金属音。隣の部屋から、扉を蹴り開けるような、派手な音が聞こえた。


 剣を持ったアドレインが隣の部屋から駆け込んできたのは、それからわずか数秒後のことだった。


「輝夜様っ!」


 血を吐くような声で、アドレインが主の名前を呼ぶ。しかしその勢いは、室内の凄惨な様相を見て、失速した。


 アドレインの裸足の足に、温かい液体が触れる。鼻腔を刺激するのは、濡れた金物の臭い。血の匂い。


 夜目の利くアドレインの視界の中に、姿勢を低くした主人の姿が映る。魔王の持つ剣の切先には、砂の国の王子――グローの喉仏。


「輝夜様……?」


 アドレインがぼやけた声を放つ。


「コレ、殺したらまずいよね?」


 こともなげにそう言い放つ主。アドレインは乾いた呼吸を吐いて、無言のまま顎を引いた。目の前に広がるこの惨状は、一体何なのだろうか。我が主は、平和主義者で、叶う望みが途方もなく少ない魔物と人間との和平を願うような性格だ。だから、どれだけ手を汚してでも自分が守らねばと思っていた。その主が、殺した魔物の手足を床に撒き散らした挙句に、いつもやんわりと躱していた他国の王子に対して、こんな発言をするなんて。


 グローが、呻き声を漏らした。彼の首から伝うのは、黒ずんだ液体。出血に気がついた暗夜は剣を捨てて、死した仲間の血が広がる石床に、彼の体を押し倒した。腹に腰を下ろす。暗夜の足元で、彼が短い息を吐いた。


「ねえ、次はないよ。次は、僕はきみを許さない」


 グローの耳元で、暗夜がささめく。グローは再び呻き声を零して、暗夜の肩を押した。


「このガキの売女が……」


 暗夜が、グローの耳に触れるような距離の床を、踵で叩く。


「死にたいの? きみ」


「輝夜様」


 アドレインの静かな声。肩を叩かれて、暗夜はしぶしぶといった様子で床から立ち上がった。


「お怪我はありませんか? あとの処理は私がしますので……」


 そう言って、床から起きあがろうとしているグローの腕を捕まえて、吊り上げるようにして起き上がらせた。そのまま片腕を吊り上げた姿勢で、彼の身柄を確保する。


 アドレインは、寝起きのまま慌てて飛び出してきたらしい。暗夜が日中見たきっちりとした格好からは想像もつかないような、くたびれた格好をしている。それに、靴どころか靴下も履いていない。襟元がくたびれた黒い半袖のシャツと、似たような色の裾が綻びたズボンしか身につけていない。


「ああ輝夜様、血がついています。お身体を流しましょう」


 床に落ちていた黒い布切れを拾い上げる。それは先ほどまで、グローが顔に巻いていたものだった。その布切れで彼の手首を拘束する。


「すみません。引き渡してきますので、少々お待ちくださいね」


 そう言って、アドレインは床に赤い足跡をつけながら、廊下の奥へと消えていった。


 十分も経たないうちに帰ってきたアドレインに風呂に入らされた暗夜は、主を血まみれの布団で寝かせられないと言って譲らなかったアドレインの部屋で眠ることになった。


 アドレインに押し込まれた彼の部屋には、物が何もなかった。綺麗に片づけられた小さな机に、簡素なデザインのタンス。それと、白い布地で覆われた寝具。この部屋にはそれしかない。生活感が全くないこの部屋はまるで牢獄のようで、暗夜は盾の国にある自分の部屋を想起した。


 まだ少し持ち主の熱が残るベッドに潜り込む。自分と違う誰かの体臭がする。白い枕に頬をつけると、自分がまだ幼い日の、父親に抱かれた記憶が脳裏を掠めた。ため息をひとつ。


 アドレインの部屋には灯りがなかった。輝夜の部屋からランタンを持ってきて、枕元に置いてくれた。アドレインは今、部屋の外にいる。ドアのそばに座り込んで、今晩は見張りをすると言っていた。

 同じベッドで眠るのはどうかと思うのでそれに関しては何も言わなかったが、せめて室内にいればいいのにという提案は、断固として拒否された。


 向けてくる気持ちの種類が主に対するものとは違うとしても、彼が輝夜と同じ部屋で一夜を過ごして、何か間違いが起きることはないだろう。それほどに彼は、輝夜を大切に思っているのが見て取れる。けれど、これはアドレインの中では超えてはいけないラインのようだ。


 暗夜からみたアドレインは、輝夜に向ける感情を差し引けばだ。盾の国で自分の管理をしているテトラも、手先は器用なくせに性格はあまりにも不器用だけれど、だと思う。その者が持っている本質は、きっと魔物であろうが人間であろうが、変わらないのだろう。その本質の善性も悪性も、人間にも魔物の中にも、きっと、同じだけ存在している。


 心配になるほどおおらかな性格の輝夜も、様々なしがらみに取り囲まれて、グローのような他者からの悪意にさらされて生きている。初めて会った日に、輝夜が言っていた。「人間も魔物もあまり変わらないのに、なぜ殺し合うのだろう」と。他者の悪意に触れた結果、身体に一生残る傷を負ってもなおそんなに甘ったれたことを言える彼女は、きっと、悪意に負けて勇者を逃げ出した暗夜よりも、勇者に向いている。輝夜がここに帰ってきたときに、自分の妹へ向く悪意が以前よりも少なくなるようにしなければ。


 冷えてきた布団の中で息を吐いて、暗夜は祈るように目を閉じた。


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