知っていたけど聞きたくなかった

 アドレインが沸かしてくれた湯に浸かって汗を流した暗夜が輝夜の自室に戻ると、アドレインが紅茶とお菓子を用意してくれていた。熱い紅茶。アドレインが、ミルクと砂糖をたっぷりと入れてくれた。


 味付けがされたりんごが上に乗ったケーキ。タルトタタン、というらしい。お菓子に詳しくない暗夜は、町中で見かけたことはあるけど、名前を知らないお菓子だった。


 ケーキを一口頬張って、食べ慣れない火の通ったりんごの食感に辟易しながら咀嚼する。不意に視線を対面にやると、こちらを神妙な目つきで見ている従者と目が合った。


「な、何……?」


「――その、差し出がましい、というか、失礼な発言とは思いますが、輝夜様、少し痩せたように見えるのですが……」


 テーブルの上を、アドレインの控えめな視線が這う。


「今のほうが男性らしくは見えますが、あまり健康的でないような……よければ私の、半分どうぞ。まだ口はつけてないのできれいですよ」


 そう言って、アドレインがケーキの乗った皿を差し出してきた。暗夜の脳裏を、ちかちかとした光が瞬く。――もう過ぎ去った過去の声が、鮮明に聞こえる。


『半分食えよ』


『いらないよ。僕は生肉が嫌いなんだ』


『なんで? オレの好きなものはお前も好きだろ? ていうかこれは生じゃねえ。レアっていうんだよ』


『ふざけんな、いらねー。キーナこの前お腹壊してたの、生肉ばっか食べてるからでしょ』


『あれはちげーよ。ここの肉じゃない』


 ――幻聴。いつかの会話を、脳内で反芻する。あのときのキーナは、どんな顔をしていただろうか。もしかしたら、笑っていたのかもしれない。


「いや、僕は……」


 首を振りながら彼の金色の目を見る。捨てられた犬のような目をしていて、無碍にするのはかわいそうな気になった暗夜は静かにため息をついた。


「半分は多いかな。一口ちょうだい」


 アドレインの皿にあるケーキを、自分のフォークで一口分切り分けて、暗夜は自分の皿に載せた。そうしてから、眼前でアドレインがもぞりと不審に揺れたのを見て、暗夜は本日何度目かの失態に気がついた。


「すみません……私が切り分けるつもりだったのですが……」


 アドレインにとってはそうでないのだろうが、暗夜にとっては男同士なのだ。キーナともそうしていた、当たり前の行動。こんな反応が返ってくるとは思っていなかった。それと同時に、少しだけいたずら心が芽生えた。


「ごめんね、つい……汚いよね」


 うつむいて、しおらしい声で答える。視界の中で、アドレインが弾かれるような勢いで姿勢を正して手を振った。


「あぁいえっ全然! そんなつもりでは! というか、輝夜様に申し訳ないので!」


「僕は別に平気だけど……嫌だった?」


「いえ全然! 大丈夫です! すみません!」


 アドレインはものすごい勢いで、暗夜のフォークが触れた部分を切り分けて口に入れた。それから、


「ふぎゅ!」


 変な声を出して、咀嚼を始めた口の動きを止めた。切れ長の目が見開かれて、虹彩が目の中で暴れる。


「な、なに、大丈夫?」


 突然のことに驚いた暗夜を尻目に、アドレインはもちょもちょと緩慢な動きで咀嚼を再開して、しばらくしてから飲み込んだ。ポケットをもそもそと探ってハンカチを取り出す。口に押し当てて、ようやく彼は口を開いた。


「ふみ、す、すみません。口をはみ、噛みまして……」


 喋りながら、しっかりとした喉仏が上下に動いている。血の匂いがする。


「めっちゃ血が出てる……? 大丈夫? 死なない?」


「ひにません! ら、大丈夫です!」


 とても大丈夫そうには見えないのだが、大仰な手振りでそう言われてしまえば暗夜はもうなにも言えない。おずおずと身を引いて、アドレインのおそらく苦痛に細められている目を見る。


「ふあ……すみません。私、もうこれ、今日は食べられまふぇん…」


 ケーキの乗った皿をこちらに突き出してきた。


「僕もそんなに入らないよ。残そう?」


「ふ、すみません……」


 それきりすっかり消沈して、しょんぼりとしてしまったアドレインを尻目にケーキを食べ進めている。なんだか気まずいけれど仕方がない。


 暗夜が自分の分を食べ終わったちょうどその頃。扉をノックするくぐもった音が聞こえてきた。音の近さ的に隣の部屋――アドレインの部屋だろう。


「おいアドレイン」


 オクリの声がした。椅子から腰を浮かせたアドレインを手で制して、暗夜が席を立って扉を開ける。


 隣室の扉の前にいたオクリがこちらに気がついて、暗夜のそばまで来て、巨体を畳んで頭を低くした。


「ああ、魔王様。アドレインのやつは……」


 開いたドアの向こうのアドレインに気がつくと、眉をしかめて彼を睨む。


「おまえ、いくら従者だからって、年頃の女性の部屋に入り浸るのはどうかと思うぞ」


 アドレインは何も言わなかった。いや、口が痛くて喋れないだけなのかもしれない。ただ、ハンカチで口を抑えたまま目つきを平らにしてオクリを見つめている。


「まあ、心配なのもわかるけどな。あんなことがあったからな」


 アドレインが無言でオクリに近づくと、オクリはぎゅっと顔のパーツを真ん中に寄せて、大仰に上体を反らせて彼から避けた。


「くっせえ。血の匂い。おまえ、また舌噛んだな。どんくせえな、気をつけろよ」


「……はい」


「医務室行ってこい。おまえが戻る頃には話も終わる」


 無言で頷いて、アドレインは廊下の奥へと消えていった。オクリは彼の背中が突き当りの角を曲がるのを見届けてから、

「失礼しますね」

 そう言って長い体を畳みながら扉をくぐると、ドアを閉めた。


「あ、椅子」


 暗夜が先程までアドレインが座っていた椅子を引くと、オクリは首を左右に振る。


「人間サイズの椅子に俺が座ったら、壊れてしまう。床に失礼しますね」


 そう言って、何も置かれていない壁際にどかっと腰を下ろした。


 人間と比べてあまりにも長身の彼は、床に座っても、ぼんやりと立っている暗夜の胸の高さに顔がある。視覚的な違和感が気持ち悪い。


「あいつ、気持ち悪いだろう。すみませんね」


 はは、と笑って、暗夜を見るオクリ。


「二年前に輝夜様は、信用していた他国の王子を部屋に招いた時に、王子から襲撃されたことがあってな。あいつ、そのときにその場を離れていて対処が遅れたのをずっと後悔しているんです。だからあんなに過保護でして……」


 言い聞かせるような妙な語り口だった。眉根を寄せる暗夜。オクリは気にしたふうもなく、小さく息を吐いた。


「まあ多分、それだけではないが……」


 呟くようにそう言って、オクリは真っ黒な一つの目で暗夜を見た。


「それで、俺の要件っていうのを単刀直入に言いますが、あなた、暗夜様だろう?」


 突然自分の名前を呼ばれて、暗夜は言葉を失って目を見開いた。オクリのこちらを見ている目が、細められた。


「俺は、今は騎士隊長をやっておりますが、先代の魔王様が退位なされるまでは、あなたのお母様――セイカ様の従者をしておりました」


 オクリの言葉に、暗夜はあまり動揺しなかった。自分が輝夜でないことを見抜かれたことには驚きはしたが、暗夜は輝夜から借りたタグを見て、自分の素性を察していたから。


 容姿が似ていることまでは偶然だと思えたが、タグに彫られていた産まれた日までもが一致しているということは、つまりそういうことなのだろうと思っていた。暗夜には母親がおらず、輝夜も父親に会ったことがないと言っていたことも暗夜の確信を深める材料になった。


「母さん……」


 自分には母親などいないと思っていた。それに、母親を求めていたわけでもない、けれど、自然に口をついて出た。どんな事情があろうとも、自分をあの環境にずっと放置していた者が、いい奴であろうはずもないのに。


 オクリがけむくじゃらの顔を緩めて、微笑みかけてくる。彼から顔を逸らした暗夜の横顔に、オクリの低い声がかかる。


「産まれてすぐに離れ離れになってしまったが、セイカ様はいつもあなたのことを案じていました。あなたの安否を知るために、密偵まで送って……

 あなたが向こうでどんな目に遭っていたかも、大体は知っています。すぐに助けたかったけれど、できなかった事情もあって……」


 床に顔を伏せたオクリ。暗夜が彼の顔に視線を向けると、一つしか見えない彼の目がぎゅっと閉じられた。


「事情って?」


「……レーデ様は、悪い人ではないのですけどね……臆病すぎるのです」


 濁してそう答えるオクリ。意図を汲みかねた暗夜が彼の目を見つめると、オクリは束の間目を泳がせてから暗夜に向き直る。


「レーデ様は、脱出が失敗した時にあなたがひどい仕打ちに遭うことをひどく恐れているのです。これ以上ひどい目に遭って、最悪殺されてしまうかもと……それで、行動に出ることをよしとしませんでした。あなただけ攫うという手もあったが、あなたのために、それは避けたほうがいいと思いまして……」


「僕のためってなに?」


 暗夜の鋭く尖った声。オクリは静かに首を振った。


「討伐の時に命を落としてしまったようですが、金髪の彼にもあなたはよくなついておりましたし、今の茶髪の彼ともいい関係でしょう。あなたを攫うのなら、討伐中にするしかない。口封じのためにあなたの大切な者を手に掛けるのは……」


 言い淀むオクリ。彼はあの日、キーナが暗夜に、暗夜がキーナにしたことを知らないらしい。知っていれば、きっと、暗夜はもっと早くにここに帰ることができていたのかもしれない。


「それに、もう一つ。壁の外に兵を送るのに、今は輝夜様の権限がいる。輝夜様はあの性格ですから、あなたとお父上のためだとしても、たったふたりのために多くの血が流れるようなことは渋るでしょう。それで、自分一人で行くと言い出しかねない」


 はあ、と息を吐くオクリ。彼よりは輝夜との付き合いが浅い暗夜にも、輝夜がきっとその行動を選択するであろうことは用意に想像できた。オクリの言い分は理解できる。普段のふにゃふにゃした様子からは想像がつかないが、輝夜はこの国の王なのだ。単身で敵地の中心に送り込むなんてことは避けたいと思うのが道理だろう。


 うつむいた暗夜の白い頬を、耳元から降りてきた黒い髪が撫でる。オクリが再び、深い息を吐いた。


「輝夜様はまだ弱い。優しすぎるのだ。手加減を間違えて、相手を傷つける事を恐れている。そんなお方が敵の中に単身乗り込んで、失敗して取り返しのつかないことになるのは目に見えています」


 ――きっと、どうしようもなかったのだと思う。父親レーデが失敗を恐れて尻込みする気持ちも、暗夜にだってわからなくもない。無理やりに、というのもきっと難しかったのだと思う。それでも、どうしても暗夜は気持ちが収まらなかった。


「ひどい目にあってる僕より、輝夜のほうが大事だったんだね」


 ぐらぐらと沸き立つ気持ちを押さえながら暗夜が穏やかに目を細めると、オクリは床の上に視線を這わせた。


「そういうわけでは……」


 口ごもるオクリ。暗夜が何度か瞬きをする間黙り込んだ彼は、おもむろに顔を上げて口を開いた。


「……一度、セイカ様に会われますか? 最近は、輝夜様すら遠ざけておられますが……あなたに会えば、元気も出るでしょう」


 暗夜は黙って、頷いた。

「では、そうですね……明日、会いに行きましょう。アドレインには俺から言っておきます」


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