傷跡
いつの間にか紅葉は枯れ葉に変わり、さらに時間が過ぎた。勇者と出会ったあの森はすっかり景色が変わって、痩せた枝が露出した木々が立ち並ぶようになった。
輝夜はその夜、一人であの小屋にいた。日が暮れて、そろそろ夜の帳が降りてくる頃。ランタンに照らされながら、昼間に友達のお菓子屋さんから買ったスコーンを食べていた。
背後からがさがさと音が聞こえてきた。暗夜が来たのだと悟った輝夜は口をもぐもぐとやりながら振り向く。暗夜の姿を視界に捉えると目を見開いた。
「あっ、げほっ、ごほっ」
スコーンのかけらを盛大に吸ってむせる。
黙って水を差し出してきた暗夜の手から水筒を受け取ろうとして、目測を誤って掴んだ彼の手がぬるりとしたことに驚いて手を引いた。金属で出来た水筒が地面を打って水を撒き散らしながら転がっていく。
「……」
暗夜は何も喋らなかった、ただ、暗く沈んだ目で輝夜を見ている。
「暗夜、それは」
ひとしきりせき込んだあとに輝夜が口を開くと、暗夜は弾かれるように空を仰いだ。
「これは僕の血じゃない
」
暗夜が真綿のようにうつろな声を出す。輝夜は静かに深いため息をついて、羽織っていた
「そのままだと良くないよ。家の裏に沢があったろ。服と体、洗っておいで。焚き火作っておくから」
脱いだ外套を暗夜の血まみれの手に握らせる。
「それ羽織って。身体も拭いていいから」
暗夜は無言で顎を引いて、受け取った外套の裾を引きずりながら家の裏手へと消えていった。
どんよりと落ちくぼんだ彼の背中を見て、輝夜は静かにため息をつく。暗夜といろいろと話すうちに心が病んでいるなあとは思っていたけれど、今日は特別、様子がおかしい。
外套を脱いだせいで肌寒い。輝夜は両肩を擦ってから、薪集めを開始した。
*
身体を流したままろくに拭かなかったようで、暗夜はびちょびちょに濡れそぼったまま戻ってきた。
「ああ暗夜ごめん、寒いよね」
薄暗がりの中、髪から水滴を滴らせている暗夜を捉えて、輝夜が声をかける。返事はなかった。輝夜は特に気にもとめずに、足元に積んだ小枝の山に視線を落とした。
薪を集めて焚き火の形に組んだはいいものの、輝夜は火の点け方がわからなかったのだ。だからまだ、火はついていない。
不器用な手付きでランタンをいじくり回している輝夜の手から、暗夜は無言でランタンを奪い取った。焚き火の中から草を数本引き抜いて束にする。――次の瞬間、ランタンが苛烈に燃え上がった。
「うわぁ」
真っ赤な炎に照らされて輝夜がのけぞる。暗夜は草の束に火をつけて、ランタンの火を消す。火が移った草を焚き火の上にぞんざいに放ると、ゆっくりとその火は広がり、焚き火らしい大きさの火になった。
「ありがとう」
暗夜は黙したまま頷いて、地面に座った。洗って濡れたままの服を地面に置こうとしたのを慌てて輝夜が奪い取って、ぼろ屋から持ってきていた椅子に掛ける。
焚き火の熱が当たるように置いてしばらくすると、濡れた服から蒸発した湯気が昇ってくる。
輝夜は暗夜の隣に腰を下ろして、息を吐く。なんとなく視線をやった先には、輝夜の貸した外套の裾から覗く、暗夜の白いふくらはぎ。外套のはだけ方も相まって、なんだかいけないものを見たような気になった輝夜は慌てて目をそらした。
「……見るなよ」
隣であわあわとしている輝夜に冷たい視線を送って、暗夜は直した裾の中に脚を隠すようにして膝を抱えて座り直す。
隣でテントのてっぺんから頭だけが出ているような姿に変貌した暗夜を見て、輝夜はそっとため息をつく。
「暗夜、お腹空いてない? 今日はスコーンとホットチョコレート持ってきたんだ。冷めちゃったけど。食べようよ」
身体のわきに置いたバスケットを漁りながら声を掛けると、暗夜が首を傾げて返してきた。
「スコーン?」
「知らないの? おいしいよ」
バスケットから出してスコーンを差し出すと、ぴったりと閉じられた外套の隙間から、暗夜の手が伸びてきた。受け取ったスコーンを片手で裏返したり、少し潰したりと神妙な顔で観察している。慎重に食べ物の匂いを確認する犬のようだ。
「あっホットチョコレート、焚き火に掛けたらあったかくなるかな?」
「火傷するからやめとけよ」
暗夜が少しだけ笑った。輝夜は眉間を
「うーん」
「絶対やるよ。おまえドジだもん」
「うるさいな。やんないよ。いじわる」
むっとした輝夜が暗夜を睨むと、暗夜の目元が笑顔を作る。いつも通りの、ちょっとだけいじわるなからかうような笑い方。けれど、いつもと違って無理をして作ったような表情に見えた。
「ははは……ぐっげほっげほっ」
演技っぽく笑いながらスコーンをかじった暗夜が、盛大にむせる。細い見た目の通りに薄い背中をさすってやりながら、輝夜は手に持っていたボトルを暗夜に差し出した。
「ああ、暗夜、これ飲んで」
外套の隙間から、暗夜の細い手が伸びてきた。しかし、暗夜がそれを受け取ることは叶わなかった。輝夜がボトルを持つ手を引いたからだ。
「あっまって暗夜、きみチョコレート平気な子? 大丈夫?」
「げっほ、おい輝夜、げほっ」
身を引いた輝夜をおいすがってその手からボトルを奪い取り、暗夜はボトルの中身を数口飲んで、それからまた少しむせてから輝夜を睨んだ。
「――輝夜おまえ、なんの真似?」
「ごめんよ。でもきみがチョコレートダメな子だったら死んじゃうじゃないか」
うつむく輝夜。暗夜には意味がわからなかったらしい。怒っていた肩を落として、首を傾げた。それを見て、輝夜も同じように首を傾げて返す。
「人間はみんなチョコレート大丈夫なの?」
暗夜の目が、くるりと宙を舞う。しばしの間ふわふわと漂って、輝夜の薄墨色の瞳に止まる。
「ああ、そういう感じ……? でもチョコレートって知ってて受け取ってるんだから大丈夫だって。むせて死んじゃうかと思ったんだけど」
「ごめんって」
苦笑しながら謝る輝夜。暗夜は輝夜に半眼を送って、それから手元に残ったスコーンを見た。先程むせた恐怖感のせいか、恐る恐る口に含んでこわごわと咀嚼する。ゆっくりと飲み込んでから、口元を緩める。
「……美味しい」
「でしょ? ぼく、ここのお菓子すきなんだ」
「いい暮らししてるんだな」
ぽつりとこぼした暗夜の言葉に、輝夜は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「……別に、そのままの意味だよ。おまえは人も魔物も殺したことがなくて、毎日平和にこうやってお菓子なんか食べて過ごしてるんだろ」
「……きみに言われると傷つく」
再び顔を伏せた輝夜。その横顔に、険をはらんだ暗夜の吐息が掛けられた。
「は?」
「あっ、違う! ごめん。そういう意味じゃなくて、ぼくよりもっと大変なきみに言われると、本当にぼく、無能みたいで」
「無能かどうかは知らないけどさ」
「うん……ぼく、お飾りの魔王なんだ。表には立つけど、他のことは何もさせてもらえない。いろいろ教えてもらってるけど……」
低い声でゆっくりと声を絞り出す輝夜の言葉尻はだんだんとしぼんでいって、しまいには口をつぐんだ。
暗夜は輝夜に何も言わなかった。右手側の椅子にかけてあったほとんど乾いた自分の服を手にとって、立ち上がる。しょんぼりとしている輝夜の後ろに回り込んでもそもそとズボンを履く。
「後ろ向くなよ」
そう言って、輝夜から借りた外套を脱ごうと、ケープのボタンに指先を掛けた。
「おまえが何だって僕はどうでもいいけど、僕とおんなじ顔のくせに平和そうなおまえを見てるとたまにムカつくよ」
「……ごめん」
暗夜が脱いだ外套を輝夜の頭に投げ掛ける。輝夜はしょんぼりした姿勢のまま外套を頭から外して羽織り直した。
ボタンを留めようとした輝夜は、ケープの襟首が暗夜の手についていた血でごわごわする事に気がついて、驚いてケープを後ろに放り投げた。暗夜の足に当たって、外套が床にうずくまる。
思わず振り向いてそれを拾おうとした輝夜と、同じように振り向いた暗夜の目が合った。
輝夜は見た。はだけた着衣から覗く暗夜の皮膚を。傷跡だらけでぼろぼろで、その凹凸の激しい皮膚の中に、真新しい、赤い傷が一つ。
「こっち向くなって言ったろ!」「わっ」
暗夜が外套を拾って、輝夜の顔に投げつけた。輝夜はぶすくれた顔で外套を地面に捨てて、緩慢な動きで後ろを向いた。
「ごめん。でもなんでそんなに嫌がるのさ」
「……汚いだろ、僕の身体。きれいな身体のおまえに見られるのが嫌だった」
暗夜が吐き捨てるように言う。輝夜はため息をついた。
「見てもないぼくの身体を、きみはなんできれいだと思ったの?」
立ち上がって服のボタンを外しながら、輝夜は再び暗夜の方へ向きなおる。上衣を脱ぎ捨て、肌着も脱ぐと、一度自分の身体を見下ろしてから暗夜の目を見た。
「ぼくにも傷はあるよ。君ほどたくさんはないけど、大きいのが二個」
輝夜の身体には、脇腹から下腹部にかけて切り裂いたような大きな傷跡が一本走っている。輝夜は暗夜を見ながらその傷を撫でた。そのまま暗夜に背中を向けて、腹の傷と同じように斜めに走る傷を暗夜に見せた。
暗夜が一歩、後ずさりした。しかしそれは、輝夜の傷に慄いたからではなかった。
「輝夜、おまえ」
暗夜が口から掠れた声を絞り出した。輝夜は怪訝な顔をして、首を傾げる。
「女の子……? いや、でも、いや……」
「はぁ? えっ、きみ男の子!?」
暗夜の声に、輝夜が頓狂な声を被せた。
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