値札のない服:紺色のコート

をはち

値札のない服:紺色のコート

渋谷の裏通り、街灯の薄光が湿った石畳に滲む深夜、


古着屋「時代屋」の小さな看板が、静寂の中でひっそりと佇んでいる。


ガラス戸の向こうでは、時代を纏った衣類がマネキンに宿り、


まるで過去の物語を囁くように、淡い影を落としている。


店内の空気は埃と古布の匂いに満ち、時折、誰もいないはずの空間で衣擦れの音が響く。


遥(はるか)は、祖母・澄(すみ)の遺した言葉を胸に、毎夜この店を開け続ける。


「時代屋」は魂の宿る衣類が集う場所。


値札のない服が現れたなら、そのまま陳列するのが務めだと、澄は語った。


あの白いワンピースの一件以来、遥は店に現れる「特別な服」に、畏怖と使命感を抱くようになっていた。


ある晩、いつものように帳簿を整理していた遥の耳に、奥の棚から微かな衣擦れの音が届いた。


振り返ると、そこには古びた紺色のコートが一着、まるで誰かに置かれたかのように静かに掛かっていた。


厚手のウール生地は擦り切れ、袖口にはかすかな土の跡。


値札はない。


澄の教えに従い、遥は背筋に冷たいものを感じながらも、そのまま陳列した。


翌夜、店に入ると、コートの襟元に小さな焦げ痕のような黒い染みが浮かんでいるのに気づいた。


昨日は確かにそんな痕はなかった。


指で触れると、布はひんやりと冷たく、どこか煙の匂いが漂う気がした。


心臓が小さく跳ね、店内の空気が一層重く感じられた。


数日が過ぎるにつれ、焦げ痕は少しずつ広がり、まるで炎に舐められたように不規則な模様を描いていった。


深夜、店にいると、時折、低い男の呻き声のような音が聞こえるようになった。


音はコートの近くから響き、近づくと途端に消える。


だが、ある夜、意を決してコートを手に取った瞬間、遥の指先に焼けるような熱が走った。


驚いて手を離すと、コートは床に落ち、背後でかすかな囁きが響いた。


「まだ…終わっていない…」振り返っても誰もいない。


なのに、空気はまるで誰かの怒りや悲しみに震えているようだった。


遥は震える手でコートを棚に戻し、澄の言葉を思い出した。


「魂の宿った衣類」。


このコートには、誰かの未練、痛み、記憶が刻まれている。


だが、それが誰のものなのか、なぜここに現れたのか、遥には知る術がなかった。


ある雪の降る夜、店に一人の客が訪れた。


背の高い中年男性で、灰色の髪は乱れ、目は深い疲労に曇っていた。


コートも帽子も雪に濡れ、足元には水たまりができた。


彼は無言で奥の棚に向かい、紺色のコートを手に取った。


指がコートを握る力は強く、まるでそれを手放すまいとするように震えている。


「このコート…」男の声は低く、掠れていた。


「あの夜、俺はこれを着ていた。あの火事で…」


彼の目は遠くを見、言葉は途切れた。


遥は息を呑んだ。


男の背後で、店内の空気が一瞬揺らぎ、焦げた匂いが濃くなった気がした。


「家族を…守れなかった。俺だけが…」


男はコートを胸に抱き、肩を震わせた。


「このコートだけが、俺を覚えている。」


その瞬間、店内に冷たい風が吹き抜け、コートの焦げ痕がゆっくりと薄れていった。


呻き声も、囁きも、静かに消えた。


男はコートを手に、雪の降る夜へと去っていった。


ガラス戸が閉まる音が、店内に小さく響いた。


遥は空になったハンガーを眺め、澄の言葉を反芻した。


「この店は、魂が旅立つための場所なの。」


翌朝、棚にはまた新たな服が現れていた。


色褪せた赤いセーター。


値札はない。


遥は深く息を吐き、陳列の準備を始めた。


深夜の「時代屋」は、今夜もまた、彷徨う魂を待ち続ける。

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値札のない服:紺色のコート をはち @kaginoo8

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