旦那はひとりでがんばりな!
渡貫とゐち
第1話
どこからか既婚者の愚痴が聞こえてくる。
会社の飲み会だが、ひとつのテーブルに全員が固まっているわけではない。ガヤガヤと喧噪が聞こえる普通の居酒屋だ。
上司、同僚、部下――部署ごとに複数のテーブルに分かれて飲んでいる――すると、背中を合わせていた同僚のテーブルから、気になる愚痴が聞こえてきた。
「妻が冷たいんすよね……」
と。完全なる同期で、同い年の同僚の声だ。
冷たい、と言うくらいだし、奥さんからの愛を求めているのだろうなあ。
悪口でないだけ、まだ聞ける愚痴だった。
「子供が生まれてからずっと冷たいんす……付き合って、結婚して、子供ができるまでは毎日夜から朝までイチャイチャ、イチャイチャ……してたんすけどね……」
「そういうものよー。子供ができれば我が子が最優先。旦那のことなんか二十四時間放置なんだから」
嘘みたいな話だが、現在、既婚者の美人な先輩が言うならそうなのだろう。
経験者は語る……説得力がありすぎる。
理由はあるだろうと信じたいが……パートナーを放置するとはどうかと思うのだが。
結婚……夫婦。
ふたりで共有し、協力する仕事――それが子育てだ。
誰になにを言われるまでもなく、自分で仕事を見つけて動け、というのが奥さんの意見なのだろう。放置と先輩は言ったが、無視しているわけではない。旦那が話しかければ聞いてくれるはずだ……たぶん。だよね?
そうでないと結婚に希望が持てなくなる……。
「考えてごらんなさい、奥さんは子育てで忙しいのよ? なのに、大きな子供の相手まではできないと思うでしょう?」
黒髪メガネの美人先輩。見た目から仕事デキる先輩感が溢れ出ていた。
困ったら彼女にまず相談、が会社に根付いているほどだ。
先輩がいなくなったらどうするんだろ……と今から心配だった。
そんな先輩がなぜか怒っていた。
もう酔ってるのかもしれない。先輩の家庭での苛立ちが、ここで出てる……?
「で、でもですよ! こっちは仕事をして疲れて帰ってきてるんすよ!? 頭なでなでーでなくとも、背中を流すくらいはしてくれても、」
「あぁん?」
「すんません……調子に乗りました……っ」
白く光るレンズ。
一気に老け込んだ先輩に近距離で凄まれたら……同僚も身を引いた。
背中合わせだから、どんっ、とおれに突撃してくる。
……低い声だけで迫力があった。
これが妻の力か……。
「……嫁もこうなっていくのかなあ」
と。
まるで先輩みたいになるのが嫌だ、みたいに言うなよ……傷つくぞ?
先輩が。
おれにぶつかったことにも気づかず、肩を落とした同僚。
困ってるわけではなさそうだが、助け船を出してやるか。
おれは席を立つでもなく、椅子の向きを変えるように。
「――興味深い話してますね、混ざっていいですか?」
「あら、独身貴族が、一体どんな興味を持ったのかしら」
確かに独身だが、貴族ではない。常に金欠だ。だからこの飲み会で数日分の栄養を蓄えておかなければならない……飲み会だから会費は会社からだ。
じゃないと出席しないし。
おれの日々の生活を知っている先輩は呆れたようで、
「……あなたみたいな自己管理ができない子にこそ、奥さんが必要なのだけどねえ」
それ、奥さんに甘えることになるのでは?
奥さんに色々としてもらうことが前提となったら、今後がきつくなるだろう。
依存だ。まったく、既婚者なのに分かってないな……奥さんを頼るなんて、そんなの、絶対に多方から怒られる愚行だ。
通りがかった店員さんにドリンクのおかわりを頼み……空いたグラスを渡す。
あちこちで注文が飛び交う中、席を移動し、後ろのテーブルに混ざらせてもらった。
「奥さんが冷たい、のが、不満なのか?」
「そりゃ不満だろ。好きだから結婚したんだぜ? 愛されたい――」
「ふうん。……愛したい、よりも愛されたい?」
ああ、愛したいよりも愛されたい、と同僚が言った。臆面もなく。
羞恥心もなさそうだった……、合わないなあ。気が合うのに、恋へのスタンスは相容れない。
確認したいんだが……男ってのは女の子を愛する存在だろう??
だから、愛されなくとも愛してやるのが男だ。そういうものだ――理由なんかない。
そういうものだから……思考停止でいい、男は女を守れ。
間違いとは言わせない。
「あらまあ男らしい。でも独身なのよねえ?」
「ゆえに、独身なのかもしれませんけど」
尽くす男は重いのかもしれない。
結局、男側の自己満足とも言えるのだから。
まあおれの場合、尽くしたいと思える人もいないのだけど。
「愛し、愛されって……そんなのふたりきりの時だけ、だろ? 先輩が言った通り、子供ができれば話は変わってくる。――子供が最優先。子供に付きっきりになる奥さんを支えるのは、じゃあ誰になるんだ? まさか奥さんを、奥さん自身が支えるとは思ってないよな? ……つーか無理。どれだけ足腰を使わせる気だよ」
「じゃあ……俺が支えるんだよな……いやまあ、そうなんだろうけどさ……。俺だって子育てしてるんだけど……」
「父親が子供にしてやれることなんか母親の半分以下だよ。昔を思い出してみろ……母にべったり、父さんのことは、『ああいたんだ……』くらいにしか思ってなかっただろ? 人生相談なんかできなかった……だけど母にはできたんだ。子にとっては母が一番なんだ――母が疲れて、父が体力を余らせてるのは当然だろ?」
昔と今は違うのだから、絶対にそうだとは言い切れない。そもそも昔であっても家庭によって変わるのだし。
家庭の差はあれど、母が子に付きっきりなのはどこも変わらない。その時点で、男は妻を支えるべきなのだ。
そう、我が子を想うくらいに妻のことを想う――愛するべきだ。
でないと、誰が妻を守ってくれるんだ。
「妻が冷たい、だと? だからどうした。旦那が――妻から愛されると思うなよ?」
「……、結婚とは……?」
横で絶望したような顔の同僚……
結婚したのはお前なんだから、受け入れないといけないことだぞ?
「それは言い過ぎ、だけど……間違ってもないのよねえ……。夫と妻で子育てをするものだけど、やっぱり妻側の負担はどうしたって重たくなってしまうわけだし……母乳をあげてる分、子は母を頼るようになるわけだしねえ」
おっと、飲み会で出ていいセリフかな?
声を上げればセクハラになりそうだった。
が、上司の美人先輩はセクハラになりかねない、とは気づいてなさそうだった。
……この程度でセクハラ? と思うかもしれないが、そうなってしまう世の中になったのだ。
「男は妻を愛して、見返りを求めるな、か……じゃあ俺は誰に愛されるんだよ」
「そんなの当然、子供よねえ」
上司がスマホを見ながら……待ち受け画面を息子にしているのだろうか。見るだけで元気が出る、とでも言いたげに、上司はにへぇ、と顔が緩んでいた。
会社では見られない貴重な表情だった。
「子供は、確かに癒されますけど……違うんすよ、そういう愛され方じゃなく――」
「あー……、労ってほしいんだ?」
「はい!」
「んだそれ。甘えるな」
同僚の甘さに、ついつい言ってしまった。
甘えるな、というか……なめるな。
結婚を――子育てを。
「強い言葉で言うわよね……でも、独身よね?」
「ええ、そうです、独身です……ですが! 想像で芯を食うことはできるでしょう」
「ええまあ……妻側は賛成するでしょうけど、夫側からはひんしゅくのような……?」
それでもいい。
男の支持なんていらないのだから。
まさか、女の子に支えられないと歩けない、なんてガキは……いないよな?
「愛されたい? 諦めろ。旦那がそんなことを望んでんじゃねえ。子育ては、旦那がひとりで頑張るものなんだよ。妻も子も守る、愛してやるんだ――徹底的にな。それが男の役目ってもんだろうが!」
ちょうど注文したドリンクが届いたのでごくごくと飲んでやる。
ぷはぁ、とグラスを置くと、「ねえ、お酒、入ってないはずだけど……」と先輩。
入ってないです。
ないですが、酔うことはいつだってできるんですよ。
「いやいや……、お前、それだと負担がでかすぎるだろ……!」
「ああ、でかいな。だけど、母は子を愛するものだと言った――だったらお前を愛してくれる人は、世界にたったひとりだけ……絶対の味方がいるだろ」
――母親。
大人になっても、初老になっても、生きてさえいれば、心配で心配で仕方ない息子を気にかけてくれる。連絡をくれる母がいるのだ。
たとえ妻に愛されなくとも、母は愛してくれる……言葉にしなくとも、態度に出なくとも、隅から隅まで愛してくれるのだ。
だって我が子を見てみろ、この子を裏切ると思うか?
親になってみれば、よく分かるはずだ。
――自分の胸に聞いてみろ、我が子を見捨てる親が、この世界にいるか?
「だから存分に頼ってやれ……母は偉大だ!」
「さすが七光り……」
親の威光に照らされて。
……母はいつだって、後光が差したように光っていた。
おれにとっては希望だったのだ。
ずっと昔から心の支えだった。もう、マザコンで片づけていい関係ではない。
「愛されていながら、愛されたいとか言うな。まるで今がなにもないみたいじゃないか。……あるだろ、母の愛が!」
今だって、母の愛は全世界の男たちを優しく包んでくれている。
・・・ おわり
旦那はひとりでがんばりな! 渡貫とゐち @josho
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