第16話 夏風邪

 夕月が乾いた咳を繰り返している。


 季節を問わず細菌やウイルスに絶え間なく曝露している事を現代人なら誰でも知っている。

 夏風邪は体調管理ができない馬鹿がひく。


 ──誰だそんな事言い出した奴。


「……夕月」


 呼ぶと彼女はタオルケットにくるまりながら、顔だけをこちらに向ける。

 頬が赤く、瞼の開きが浅かった。


「風邪みたい。熱、少しだけ…。夏なのに変だよね。ごめん。」

「…具合悪いのに、夏とか関係ねぇだろ。」


 翔吾は、目を泳がせた。

 何かをしてやりたい。けれど、どうすればいいのか分からない。

 台所に向かいかけて立ち止まり、畳まれた毛布に触れてまた動きが止まる。


「なんか、飲み物……、いや、湯? いや、冷やした方が」


 言葉は口の中でぐるぐると回り、結局何も出せずに唇を噛んだ。

 その顔を見て、夕月が、微かに笑った。


「翔吾、そんな顔しないで。インフルエンザじゃなかったし大丈夫だよ。……でも、感染ったら良く無いから、今日はここにいない方が良いかも。」


 その言葉に、翔吾は動きを止める。

 彼女の隣に腰を下ろし、ぎこちなく濡らしたタオルを額に乗せる。


「こんな時は、側に居させろよ。」

「……うん。」


 夕月は心地良さそうに息を吐いて、そのまま目を閉じた。

 咳の音と、タオルの湿度。

 翔吾がぽつりと呟いた。


「……昔さ。具合悪くなっても、俺、何もしてもらえなかった。逆に怒鳴られたこともあった。だから、こういうとき……どうすりゃいいのか、分かんなくて、……ごめん。」


 夕月は目を開けて、手を伸ばす。

 翔吾の指に触れ、「これで十分だよ」と囁いた。


「翔吾が一緒にいてくれるだけで、気持ちが落ち着くから。」


 翔吾の指を握りしめて、ぽつぽつと話し出した。


「……私もね、昔具合悪くなるの嫌だった。お父さんに怒られて、お母さんはずっと私の枕元に張り付いて、可哀想可哀想って言ってた。……妹はそんな私のこと多分嫌いだった。」


 夕月はいつも翔吾に気を使って、家族の事を話すことは滅多になかった。

 そのくらい辛いのかと、却って翔吾の胸が痛んだ。


「だから……、翔吾はいつもと一緒で、普通にしててくれたら、それが一番うれしい。」


 翔吾は何も言わず、彼女の手を握り返した。

 



「うん、そう……。ゼミとかあるし、えっと…、ボランティアとか……。」


 熱が引いた夕月が歯切れ悪く喋っている。


「だから、今年は、ちょっと。……うん、帰れない。忙しい。おじいちゃんと陽花にも、言っといて。……わかってる。」


 電話を切った夕月が、はぁーと大きくため息をついた。


「親?」

「うん。いつも長い休みの時は家に帰ってたから…。」

「帰ったらいいじゃん。」


 あっさり言われて、夕月が言葉に詰まる。


「だって……翔吾、私がいないと困るでしょ。」

「いやガキじゃねぇし。」


 夕月が絞り出した言葉に翔吾は笑って見せた。

 確かに今は生活の大部分で夕月に依存してしまっているが、夕月は自分とは違うのだ。

 待っている人がいるのなら帰った方が良いと翔吾は思う。


「それは……わかってるけど……。」


 俯いて指先を弄っている夕月を見ていて、ふと思いついた。


「ボランティア行くとか今まで言ってなかったよな? ……なに、親に嘘ついてまで俺と一緒にいたい?」


 顔をあげた夕月の頬が、赤く染まっていた。


「べ、別にそんなんじゃないし……、もう、帰るから! 1人で卵焼き食べたいって泣かないでよ!?」

「泣かねーよ。」


 結局その夏、夕月は帰省しなかった。

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