第15話 煙の夜

 カラカラとサッシが開く音がして、ふわっと夜風が入り込んできた。


「夜になると多少外も涼しいな。」


 間を持たせるように独り言を言いながら、翔吾がベランダに出ていく。

 カーテンが揺れてその背中を隠してしまうのが今日は寂しくて、その内側に滑り込んだ。

 

 金属のライターが、部屋の明かりを弾く。

 彼の唇がフィルターを咥え、頬がわずかにへこむ。

 火がつくまで一拍。煙草の先が赤く灯る。


 夕月はサッシのガラスに手を押し付けて、それを見つめていた。

 吸い込む。一瞬息が止まり、吐き出す。

 夜の空気が白く色を変える。

 翔吾はただ目を伏せて、自分の肺と世界を繋ぐように、煙を漂わせていた。


 夕月は、その所作を綺麗だと思った。


 唇の縁。手首の角度。

 火を灯すときに浮かび上がる、横顔の彫りの深さ。


 彼の唇を通って吐き出される煙のその温度に染まってみたくて、ガラスを隔てていることを忘れて、思わず息を吸い込んだ。


 気がつくと煙草を揉み消して振り向いた翔吾が目を丸くしていた。

 なんだよ、と唇が動く。

 大きな手が伸びてサッシを引き開ける。


「そんな顔してるなら、出てくればいいだろ。」


 笑った彼はまだ濃密な煙の香りを纏っていた。


「寂しかった?」

「そんなこと、ない、けど……。ちょっと見とれてた。」

「みたいだな。」


 ぽんと夕月の頭に手が置かれる。


「だって、私が出ると、翔吾煙草消しちゃうから……。」

「当たり前だろ。こんな嗜好品なんかでお前のこと汚したくない。」


 頭に乗っていた翔吾の手が、すっと首元まで撫で下ろされる。


「だからまた今度、さっきの顔見せて。」

 



 いつものラグに戻った翔吾の隣に夕月も腰を下ろして尋ねた。


「……煙草って、吸うと落ち着くの?」

「呼吸してるって、感じてた。生きる為に仕方なく吸う空気じゃなくて、ちゃんと自分が選んでるんだって。」

「……うん。」


 翔吾の言葉は過去形だった。

 夕月はその肩に静かに身を寄せる。

 煙の中にいる翔吾に触れたいと思いながらも、夕月を煙から守った後のその匂いが好きだった。


「今はちょっと違う、かな。……息すんの、前よりずっと楽になったし。……多分やめらんないだけ。」


 夕月はローテーブルに置いてあった煙草の箱を手に取ってみた。半分ほどに中身が減って、紙箱の角がへたっている。


 『喫煙はあなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。』


「ねぇ、私も一緒に、」

「お前は駄目。」


 夕月が言い切る前に、翔吾の手がさっと箱を奪っていった。


「まだ、何にも言ってない……。」

「絶対駄目。煙草なんかに縋る必要ない。俺はただ、コイツに逃げただけだから。」


 翔吾は頑なに言い張った。

 夕月も別に本当に吸いたいわけじゃなかった。

 ただ、彼が触れたものを自分も感じてみたかった。


 ──息が、できない人。


 煙草を吸う仕草は彼の沈黙だった。

 その煙はきっと彼の痛みの記憶を宿していて、その香りが今夕月に触れる手を守って来た。


「夕月がもし本当にどうしようもなくなったら、煙草に逃げる前に、俺のとこに逃げて来いよ。」


 翔吾は夕月を宥めるように肩に腕を回した。


「翔吾は体に良いの?」

「当たり前だろ。」


 重なった唇にはまだ煙の香りが残っていて、甘いとは言えなかった。

 



 ある夜ベランダに出て行った翔吾は、煙草をテーブルに置いたままだった。


「ねぇ、大事な忘れ物してない?」


 夕月が紙箱を持って追いかけると、振り向いてにやっと笑った。


「わざと置いてった。お前が追っかけてくるかと思って。」


 翔吾は受け取った煙草をそのままズボンのポケットに押し込んで、夕月の手を引いた。


「夕月、見てみろよ、今夜は月が綺麗だぜ。」

「禁煙するの?」

「……まぁ、ちょっと。減らそうと思って。金かかるし、俺がここにいると、お前が寂しがるし。」

「別に寂しくないもん。」


 夜気から遠ざけるように後ろから抱きしめられると、身体がすっぽり包まれて安心する。

 真夏の蒸し暑さは肌を汗ばませるが、気にならないくらいその腕の中が心地よかった。

 翔吾の言った通り、薄黄色の満月が煌々と2人を照らしていた。


「翔吾、あのさ。さっきの、月が綺麗ってやつ。」

「…………おう。」


 長い沈黙のあとの短い応えは意識していた証拠のようだった。


「『死んでもいい』から、翔吾も長生きしてね。」


 翔吾は照れ隠しのように、ふん、と鼻を鳴らした。


「でもお前、俺が煙草吸ってるとこ好きだろ〜? どおしよっかなぁ〜。」


 夕月の髪にぐりぐり頬を押し付けて、わざとらしく大きなため息をつく。

 頭にかかったその重さがあまりにも可愛らしくて、笑ってしまいそうだった。


「翔吾って意外と物知りだし、ロマンチストだよね。」

「……うるせーんだよ。」

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