第17話 補講初日
「君たちがここにいると言う事は、まだ学ぶ意思があると言う事です。ただ留年したくない、ではなくきちんと己を振り返り、前向きに学習に取り組んで下さい。」
レンズの大きなメガネをかけた痩せぎすの教授が、レジュメをめくりながらぶつぶつ喋る。
「先生、夏休みなのに暇なんですか。」
「はい、君、僕の話聞いてなかったでしょ、欠席ね。留年オメデトウ。」
紙の擦れる音に軽い笑いが混ざる。和気藹々と始まった講義は、しかし妙な緊張感に満ちていた。
この講義に留年やら資格やらがかかっている。
どんな理由があったにせよ、集まった学生は皆切実だった。
ホワイトボードを眺めながら翔吾は眉を顰めた。
『基本的信頼感の歪みと、それによって生じる問題行動』『不適切な養育』『集団における行動モデルの提示』
次々に解説されていく内容は、どれも身に染みて知っていることばかりだった。
自分の事を解説されているようで、思わず舌打ちした。
「何かな?」
「あ、いや……、シャー芯、折れました。」
持っていたのはボールペンだったが、教授は何も言わずに目を逸らしてくれた。
母、父、小学校の担任、夕月、さまざまな顔と声が浮かんで、ノートの文字で酔ってしまいそうだった。
「…じゃあ次は14時からね。お疲れ様でした。」
昼休みを告げる声で我に返った。
頭の中はちっとも整理できていなかったが、思ったよりもノートは埋まっていた。
リュックの中には、夕月が持たせてくれた弁当箱。
1人で包みを開くと、いつも通りバランスよく白飯とおかずが詰められている。
いつもは圭介たちと騒ぎながら食べているので、じっくり見る機会が実はあまり無かった。
愛着、傾聴、行動モデル、そして甘い卵焼き。
ずっと、手に入らないと思っていた物達。
母が消えて翔吾を引き取った父は、強請れば金は無限に出したが、息子の生活に一切口を出さなかった。
それなのに突然「大学に行け」と言われて、一人暮らしの為に選んだ場所だった。
中学も高校もろくに勉強なんてしていなかったから、なんの考えもなく立地と偏差値で選んだ。
履修登録もコース選択も全部いい加減。
強いて言えば「ここにする」と話していた女の数と顔で選んだ。
講義が始まってから後悔した。そこで語られる内容は、自分には痛すぎた。
過去が、名前を付けられて定義されていく。
お前だけが辛いのではない、甘えるな、と言われているようだった。
その痛い声をもう一度聞いてやろうと思えたのは、きっとここで出会えた、この弁当の作り手のおかげ。
「……俺、夕月がいないとどうにもなんねぇわ。」
噛み締めると「幸せの味」が広がった。
開いた玄関の内側で夕月は立ち尽くしていた。
「なんで、来たの? ……忙しいって言ったじゃん。」
一年ぶりに会う父が笑って言った。
「そんな事言ったって、今日は家にいたんじゃないか。顔見るくらい良いだろう。」
「そうそう。夕月、そろそろお母さんの料理も恋しくなったんじゃない?なんでも好きな物作ってあげるからね。」
母が、大きな買い物袋を見せる。
夕月は、部屋の中を少しでも隠すように玄関の隙間に立ち塞がった。
「今日は……、友だちがくる約束があって……。」
「夕月、勉強で忙しいとか言って、遊んでるのか?」
「そうじゃないけど、」
「お友達ってよく電話で話してくれるリカちゃんって子?」
「そ、そう、リカ! お泊まり会する約束だから……!」
「まー、そうなの?お母さんご挨拶したいわ、待たせて貰える?」
「ちょっと……!」
両親は夕月をすり抜けて、部屋に上がり込んだ。
幸い、翔吾は補講に行っていて、玄関に靴はなかった。
「ずいぶん綺麗にしてるじゃない。あら、このカーテン、お母さん好みだわ。」
「夕月、お前こんなに大きな服どうしたんだ。」
父の言葉に、どっと冷や汗が吹き出た。ソファの背に翔吾のTシャツがかかっていた。
「それは、パジャマ…! パジャマ代わりなの! 大きいと楽なの! えへへ、だらしないとこ見られちゃったなぁ。」
「お友達が来るなら、キチンと片付けないと駄目よ。寝巻きももっと清潔感のある物にしなさい。」
「……ご、ごめんなさい。」
仕方なくお茶を淹れにキッチンに立つと、母が追いかけてきた。
「お母さんも手伝うわよ。」
「何にも手伝う事ないよ……。」
「あら、このお箸とカップ、」
「それもリカが使うやつ! はい、これお父さんに!」
プラスチックのコップに、ペットボトルのお茶を注いで母に持たせた時、遠くから聞き慣れたバイクのエンジン音が聞こえてきた。
「まー、暴走族? 夕月、ここ大丈夫なの?」
眉を顰める母はバイクを見ればみんな「暴走族」だ。
──今時、暴走族だなんて。
その言葉に不快感を覚えながら、夕月は凍りついた笑顔を浮かべていた。
彼が、帰ってきてしまう。
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