第2話
部屋に入ると、
「張遼将軍、
張遼がこちらを向き、一つ、頷くようにした。
「手当の途中ならば、外でお待ちしよう」
「いや。それには及ばぬ。入られよ」
張遼が軍医と目を合わせた。
軍医は頷き、一礼して去って行った。
張遼は自分の手で衣を着直した。
「このままで失礼する」
寝台の上で身を起こしたまま張遼がそう言ったので、龐徳はゆっくりと歩いて行った。
「私の意識が戻らぬうちは、貴殿が我が隊を率いて巡回行軍に出て下さったそうだな。
礼を言う」
龐徳は立ち止まり、首を振った。
「いや……貴方を斬ったのは私なのだから。
貴方の代わりに軍を率いるというのは、道理ではないことは私も重々承知だったのだが。
貴方の本意ではないと思う。……申し訳ない」
張遼は首を振った。
「いや。間違いなく私の本意だ。
あのまま私がもし目覚めず死んだら軍は貴方に率いてもらいたかった。だから良いのだ」
「何故だ。張遼殿。
貴方はあの時、ご自分が死ぬことすら覚悟の上で槍を引かれたということか」
「無論、命を投げ出したわけではないが。
槍を引いた以上貴方の剣を食らうことは分かっていた。
死ぬつもりはなかったなどとは言えん。
賈詡将軍が意図を汲んでくれたのは有り難い。
私の望みは、私の勝手な行動で、私の隊という以上に――今まで鍛え上げて来た魏軍の一部隊が、行き場を失って彷徨うような状態にだけはしてくれるなということだけだった。
我が部隊は、貴方にしかと付き従ったであろうな」
「驚くほど、直ぐさまに」
龐徳がそう言うと張遼は一つ、しっかりと頷いた。
「私の部隊は魏でも武の誉れは高い。
そのため期待されて死線に送られる。
部下達もそのことはよく理解し、覚悟をしているのだ。
私とて無敵ではないことをな。
あの者達にはいかなることが戦場で起きても、魏の為に戦えと常に言い聞かせている。
次に率いる者が誰にせよ――、迷わず従ったはずだ。
そう、あの者達を信じることが出来たから、あの時は私は、私の思いだけで動けたのだ」
「何故槍を引かれたのだ。張遼殿」
「……。」
「あれから、幾度もそのことを考えた。
死を覚悟して出て来た私を哀れんでのことかとも思ったが、それならば何も槍を貴方が受けずとも、一撃で薙ぎ払って馬上から叩き落とせばいいことだ。
だから単なる哀れみではないのではないかと思うが、それ以上のことは分からなかった。
だから貴方にそれを聞きたいと思っていたのだ。
貴方が亡くなっていたら、生涯聞くことが出来なかった。
一生の思い残しになったはずだ。
それ故に今、貴方が目を覚まされ――こうして聞くことが出来ることは、私にとってとても大切なことなのだ」
張遼は一度目を閉じ、しばし押し黙る。
「全てを守ると言っただろう」
もう一度瞳を開き、張遼が言った。
「何を守るつもりかと私が尋ねた時、貴方は『全てを』と」
確かに言った。
だがあれは本当にそう願ったというより、もっと感情的な言葉だった。
涼州騎馬隊との遣り取りで、
同調出来る部分と、
同調出来ない部分があった。
守ってやりたいという気持ちと、
そうは思わないと強く思うものもある。
だがそういう細々したことに、もう
これからは自由に生きて欲しいと思いながらも、
この地を去るほど涼州が嫌になったのかと疑問にも思う。
いつしかこの胸に積み重なった涼州騎馬将としての誇り。
同時に、もうこれ以上考えることが嫌になったのだ。
「そういう、全てのままならない想いを、
これ以上は考えたくないという気持ちもあった。
とにかく、自分は守るためにあるのだと思い込みたかった」
守ってやりたいのだと無性に願っていたわけではない。
どちらかというと考えることをやめた投げやりな気持ちだった。
全てを悟ったなどという立派な達観とは、自分の場合全く違うものである。
「そうか。
しかしそれでも貴方の中には守りたいという想いが遥かに大きかったはずだ。
心が投げやりになっていれば、ああやって一騎で出て来る必要などないだろう。
貴方の中で私を討ち取ることが、最後に自分で出来る、残された者達を守ることだと思っていたのではないか」
「……確かに、最後に貴方の首をもし取れれば、涼州は少なくともこれからは貴方の槍を受けることは無くなるからな」
「私が
「ああ……」
「
それは聞いたことがあった。
呂布は戦死だが
「下邳城の最後まで私は戦ったが呂布に降伏の意志が全く無かったので、主君を守ることも最後出来なかった」
龐徳がハッとした。
「呂布は最後まで孤高であることを望んだ。
私に出来ることはもう無かったから、戦って死にたいと思い、独断で下邳城から打って出たのだ。
間違いなく死を望んでな。
私一騎のことだったので曹操殿には幾らでも殺しようはあったと思うのだが、
それに負けた時全てを失って、自分の行く末を敵に託した。
曹操殿が処刑を望めば抗わず受ける気だった。
しかし何故か助命されたのだ。
聞けば、当時すでに曹操殿は【
「……。」
「呂布との間には、立派な主従関係と言えるようなものは無かった。
それでも私などより、あの人に長くこの世を生きて欲しいと願っていたのだ。
それが叶わず……全てを失って私は一騎打ちに出た。
貴方が死だけを望んで挑んで来たならばその剣を受け、討ち取ってやろうと思っていた。
だが貴方が『全てを守る』と言ったので――。
……かつて、その心で下邳城から討って出て来れなかったという、忘れていたその気持ちが蘇った。
私自身とっくに忘れ去っていたと思っていたものだ。
だがまだ私の中にしつこくその思いは残っていたと見える。
弱さだな。咄嗟の判断で貴方を斬れなくなった時、槍を引くしか道が無かった」
「馬上から叩き落とすだけにすれば良かったのだ。
何も貴方が死傷受けることは無い」
「貴方があの時胸に抱いていたものは、二度三度と考えを違えられるようなものではなかったはずだ。馬上から叩き落とされたら必ず死を望んだはず」
龐徳は押し黙った。
確かにそうだ。
一騎打ちの後のことなど何も考えていなかった。
討ち取られたら死ぬし、
重傷を負わされるに留まっても自刃を望んだ。
「今も自刃を望んでおられるか。龐徳将軍」
「……私の処刑を望まれる方がいるならば、抗わずに受けたいと思う。
涼州の為に、やれることはやった。
曹魏に私が捕らえられ、自刃したことが涼州騎馬隊に知られれば、それによって奮い立つ者もいよう。そういう命の使い道もある」
「私も下邳で死を望んだ。
思いがけず助命されて今まで生きて来た。
……今になって思うことは、あの時果てなかった命でこれほどのことが出来るとは、当時の私は思ってもいなかったということなのだ。
だから貴方にもそれを伝えたかった。
命は……続く限り、思いがけない未来に辿り着くことがあると。
今では私はあの時、命が果てなかったことを感謝している。
全く違う、予期せぬ未来を歩いてはいるがな。
しかし、かつてより考えられぬほど大きな責務を負い、
それを背負って戦うことで、多くの者を守ることが出来る。
守れるものが一つも無いと絶望した
それは生きているから知れたことなのだ」
張遼は龐徳を見た。
「全てを守ると、単騎で向かって来た貴方を見た時、
下邳の私よりも余程まだ戦うことの出来る武人だと直感した。
それを殺したら私が一生後悔することになる」
龐徳の目から静かに涙が零れた。
「……だからといって、貴方が死んだら本末転倒だろう」
「それは今だ未熟な我が身の不徳。顧みれば色々な道があったと思うが。
咄嗟に選んだ答えだったのだ」
「貴方が亡くなったら自刃を望んだぞ。私は。
必ず自刃していた。
だが曹魏が憎くて、降伏出来ないから死ぬのではない。
私が己の運命に絶望して、最後に誰か敵を巻き込んで死んでやれなどと思って討って出たことで――貴方ほどの方を死なせていたら」
生きていても未来など、無意味だ。
「魏軍の誰も、もし貴方に死を望まなかったらどうなさる」
「……。」
「降将となられる覚悟はおありか」
「私は涼州を出たことが無い。
国に関わらず、涼州の豪族達の作る掟の中で生きて来た。
国に命を捧げる武将ということが、どういうものなのか全く分からないが。
……だが、貴方に命を救われたことだけは分かる。
新たな任をもし与えられるのであればそれを全うすることで、行くべき道は定まるのかも知れない」
「貴方は涼州の武将であった。
涼州の地に明るい。それは即ち魏軍においての強みになる。
魏軍の涼州戦線に残れば、涼州の者達からは裏切り者と誹られることもあるだろう。
そのようなことにも耐えられるか」
龐徳は顔を上げた。
すでに涙は無かった。
「裏切り者どころか。
敵であった貴方に命を救われたのだ。いつの間にか迷いばかりになっていたこの命を。
救って頂いたことに感謝を感じているのだから、裏切り者などという次元にわたしはもはやない」
張遼は小さく笑んだようだ。
「……確かに」
自分も魏軍に降伏して、これからどのような心で生きていけばいいのかと思っていたが、思いがけず曹操に【
勝利すると曹操は降ったばかりの武将などということは忘れたかのように勝利の宴に張遼を招いて、
まるでずっと自分と共に戦って来た武将と変わらぬ扱いで。
生きていることで
曹操により助命されたあの時、この身に新しい息吹を吹き込まれ、
新しい生を歩くことになったのだ。
自分がそうだと、
分かっていればいい。
「では私が司馬懿殿、賈詡殿に貴方を助命するよう、口添えをしても良いのだな」
「そうならず命を落とすことになっても、魏軍の誰にも恨みは無い」
張遼は頷いた。
「分かった。
涼州騎馬隊が成都に向かった今、涼州の地の利に明るい武将は重宝されるはずだ」
「張遼将軍。
貴方に命を救われた。
私に与えられる使命は使命として。この恩義はいずれかの戦場で必ずお返しします」
龐徳が深く拱手をしたので、
張遼も寝台に身を起こした姿のまま、応えた。
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