第3話


 兄上の許に書簡を届けに行ってきますと司馬孚しばふが部屋を出て行った。


 それまで彼と話していた陸議りくぎは、また雪の舞う外を見ている。

 最近は、陸議は寝そべっていなくとも左腕を動かさずに過ごせるようになって来たので、あまりに寝そべり過ぎているのも良くないと思って、日中は置いて貰った椅子に座って過ごしていた。

 

 薬術書を読んでいた徐庶じょしょが顔を上げた。


「陸議殿」


 陸議がこちらを見た。

「腕の具合はどうですか。痛みは」

「はい。大分この状態にも慣れて来て、力の抜き具合が分かって来たので、動かさずに過ごせるようになって来ました。だから痛みはほとんど感じません」

「そうですか……良かった」


 徐庶が立ち上がって、薬術書を手にしたままやって来た。


「陸議殿、司馬孚殿が外されたので少しお話してもいいでしょうか」


 陸議は目を瞬かせた。

 徐庶が、司馬孚しばふがいないのを見計らって話して来るなど初めての事だった。


「はい……」


「私が、先日何も言わずこの砦を離れたとき」


「はい」


「本当はすでに司馬懿しばい殿や賈詡かく殿に話が行っていて、帰り次第尋問を受けると思っていたのです」

 陸議は徐庶の顔を見上げた。


「……だから帰って来た時、貴方や司馬孚殿が普通に出迎えてくれたので、驚きました」


「朝までに帰らなかったら司馬懿殿に知らせようと叔達しゅくたつ殿とは話していました。

 貴方がどこかで動けなくなっていると思って、心配だったからです。

 だから人をやって探して貰おうと思いました。

 私はこの腕なので動けませんが、叔達殿は自分もついて行って貴方を必ず見つけて来るから心配しないようにと言って下さっていましたよ」


 徐庶は小さく笑って頷いた。

 そうだと思う。

 司馬孚はそういう人柄だった。


「徐庶さん……私も叔達殿も、貴方が何か、魏軍に害を与えるようなことをなさる人だとは思っていません」


「君たちはね……だけど司馬懿殿や賈詡殿はそうは思っていない。

 これについては俺の行動にも非があるから恨みには思ってないけど、彼らは俺が涼州の人間に肩入れをする可能性があると警戒している」


 陸議はしばし逡巡してから、口を開いた。


「……そうとは限らないのではないでしょうか?」


「え?」


「徐庶さんが知己ちきのいらっしゃる涼州に想いを持たれることは、むしろ人として自然なことです。

 郭嘉かくか殿も、以前徐庶さんが涼州を訪れた知識は重宝すると仰っていました。

 涼州の無辜むこの民が殺されることに心を痛められるのも当然だと思います。

 それは司馬懿殿や賈詡将軍も承知の上かと。

 貴方は魏軍の軍事行動に納得出来ない時は、納得出来ないとはっきり仰る方です。

 司馬懿殿や賈詡将軍からしてみれば、何も言わず裏切るような人よりずっと信頼しておられると思います」


 徐庶は目を瞬かせた。


「……徐庶さん?」


「あ……いや……。司馬懿殿や賈詡殿から俺が信頼されてるなんて思ったことが無かったから。君に言われて驚いた」


「……そうでしょうか? あの方達が貴方を警戒するようになるのは、貴方がむしろ涼州への想いを語らなくなった時だと思います」


 澄んだ琥珀の瞳が自分を見つめて来る。

 なんとなく、この直視を愛したから、若い陸議りくぎ司馬仲達しばちゅうたつが側に置いているのではないかとそんなことを思っていた。


「涼州の人々を傷つけるべきではない、

 黄巌こうがんさんを大切にして欲しいと言っている限り、

 それが貴方の本心だということが分かります。

 確かに……貴方の心を知って尚、魏軍が意にそぐわぬ行動をしなければならないこともあると思いますが、徐庶さんは自分の想いを悪戯に隠さない方がいいと私は思います。

 貴方が正直に涼州の想いを口にしている限り、

 司馬懿殿や賈詡殿は貴方を信頼すると思います。


 謹慎についても郭嘉殿が、賈詡殿が本当に怒りたかった相手は自分なんだと仰っていました。

 本陣から涼州騎馬隊をみすみす逃して南下させたことは、確かに賈詡殿の本意では無かったのでしょう。

 だから怒りは本当だと思いますが、では、徐庶さんが涼州騎馬隊と共闘を取り付けて下さらなかったら、もっと【烏桓六道うがんりくどう】の奇襲によって命を失う者が出ていました。

 私も、きっとその一人です。

 不本意であっても軍としては、どちらが犠牲が少なかったかなど賈詡殿がお分かりにならないはずがありません。

 あの件に関して貴方に謹慎を言い渡しても、軍を救って貰ったとも思っていらっしゃるはずです」


「……。」


 徐庶は驚いた。


 司馬懿しばい賈詡かくが自分を信頼しているなどと少しも思ったことは無いけれど、陸伯言りくはくげんが澄んだ目で言った言葉は、すんなりと自分の中に入って来た。

 実際あれから賈詡に幾度か外出許可は貰ったが、その時は別に不審げな目を向けられるようなことは無かった。


 確かに徐庶は涼州への思い入れがある。

 賈詡や司馬懿はそれを警戒はして、念頭には入れているだろう。

 だがいざとなれば、「お前は口を出すな」と彼らは徐庶に命じられる立場だ。

 実のところ徐庶はそう言われた時に、彼らに強く反抗しようという気は全く無い。

 

 もし涼州に対して、

 涼州騎馬隊ではなく武器を持たない涼州の村落に激しい軍事行動を起こすと言われれば、徐庶は命令を受けられないと辞退するつもりだ。

 それを軍規違反だと認定され処罰されるのなら、それを受ける覚悟はしている。


 命を失うようなことになってもだ。


 だから確かに、徐庶は疑われることは不本意だった。

 何もかも曝け出した方があらぬ疑いを掛けられないだろうと、彼自身も本当は思っていたのである。


 ふっ、と目の前の徐庶が、突然笑い始めた。


「徐庶どの?」


 陸議が少し驚いて、戸惑ったように小首を傾げている。

 なにか変なことを言っただろうか……と困っているようだ。


「いや……。

 君に話したかったのはこういう話じゃないんだけど。

 でも……なんだか本題に入る前に思いがけない方向から、答えてもらったような気がするよ」


「……すみません。勝手に余計なことを話してしまって……」


 徐庶が、司馬懿や賈詡に警戒されてるようだと口にしたので、咄嗟にそうではないと思う、などと話してしまった。


「いや。いいんだ。

 君が……郭嘉かくか殿と、俺達を追って来ただろう?

 あの時、実は郭嘉殿に釘を刺された。

 彼は、黄巌こうがんと共に行きたいなんてあの場で言うなんて、愚かだと言っていたよ」


 すぐに、理解したように陸議が息を飲んだ。


「あのまま何も言わずにいれば、自然と黄巌の助力があった方がいいと考えた司馬懿殿や賈詡殿が俺を黄巌のもとに送り込んだかもしれないのに、彼を一人で行かせられないという感情で俺は言ってしまった。

 あの時の司馬懿殿と賈詡殿の空気をよく覚えてる。

 確かにあれは賢いやり方じゃなかった。

 疑われたくないなら……あまりに涼州の人間に想いがあると思われたくないなら様子を見るべきだった」


 つまり徐庶はあの二人に疑われようが構わなかったのだ。

 涼州に想いがあることなど、知られても構わなかった。

 いや。魏軍にもそういう人間がいるのだと、そう示すことに価値すら見い出していたのかもしれない。


「でも君は、正直に口にすることは間違ってないと言ったから……驚いた」


 陸議は首を振る。


「勿論、徐庶さんの立場を悪戯に悪くしては欲しくないですが」


 声を出して徐庶が笑った。

 郭嘉がそんな忠告をしていたことは知らなかったので、自分が相当的外れなことを言ったのだと思い、思わず赤面した。

 そうだ。

 徐庶は自分より遥かに難しい立場なのだ。

 安易に何でも正直に喋ればいいなんて、そんなこと言うべきでは無かった。


「すみません。徐庶さんの置かれた難しい立場のことを考えていませんでした。

 郭嘉殿の忠告は、確かに尤もだと思います」


 そんな風に言って俯いた陸議を徐庶じょしょは咎めることなく、優しい表情で見遣った。


「いや……。

 君は前も、そういうことを言ってくれたね。

 魏にやって来て、誰もが劉備りゅうび殿たちのことを、生きるために忘れた方がいいと言ったのに、君は忘れなくてもいいと言ってくれた」


 思いがけないことを言われたけど、

 陸議と話して徐庶は改めて、話すならば彼にするべきだと確信が持てた。


「俺が人に信用されないのは実際の行動というより、もっと滲み出る空気のようなものが原因なんだ。

 だから例え襟を正して言葉を発さずにいても、信頼されたりはしないと思う。

 言葉で自分の意志を明らかにしておくべきだという君の忠告は、間違ってないと俺は思うよ」


「徐庶さん……」


「だから君には正直に話す。

 これから俺が言うことは、どうか他の人間には言わないで欲しい。

 司馬孚しばふ殿は、君と同じように俺に良い感情を持ってくれているのは分かる。

 だけど彼は司馬懿殿の実弟だ。

 司馬懿殿を裏切るようなことはさせてはいけない」


 陸議の目に不安が過る。


「……徐庶さん。でも私は……司馬懿殿の副官です。

 あの方の意に反するようなことは出来ません。

 それは司馬孚殿の事情と、ほぼ同じだと思います」


「よく分かってる。

 俺が今から言うことで君がもし、司馬懿殿に打ち明けた方がいいと思うことがあれば、そうしてくれていい。

 ただしその時は、どうか打ち明けることを俺に教えて欲しいんだ。

 勿論それを聞いても、俺は逃げたりしないことを君に誓うよ」


 徐庶の説明から、ただ事ではない話なのだと陸議は理解した。


「……本当に……私が聞いていい話でしょうか?」


 徐庶は笑った。


「というより、この砦で君以外に話せる人はいない」


 陸議は息を飲んだ。

 

 どうしようか、彼はしばらく迷ったようだ。

 しかしその迷う姿さえ、徐庶には陸伯言の誠実な人柄が見て取れた。


 彼が迷っているのは自分の為ではない。

 もし自分が徐庶の期待に応えられなければ、失望させてしまうと思っているのだろう。

 司馬懿の副官という立場から、自分はそんなに大切な話を聞かない方がいいのではないかと考えている。


 司馬孚には聞かれたくない話だったが、

 徐庶は陸議が頷くのを急かすことなく待った。


 やがて陸議は改めて徐庶の目を見て、小さく頷いた。


「……分かりました。何を聞いても、司馬懿殿に報告すべきことではないかと思っても……貴方に言わずにはそうしないことをお約束します。

 ですが司馬懿殿は私にとって恩のある方です。

 この命を失ったとしても決して裏切れない方。

 そのことは知った上で、話していただきたいです」


 司馬懿に失望されたら終わりだと言っていた、あの辛そうな表情を思い出して、今更ながらこの二人の間にある強い絆のようなものに徐庶は気付いて少し驚いた。

 

 

 ――命を失っても。



 つまり、もし司馬懿を裏切る時は、命を失う覚悟があるということだ。


 自分を警戒する、司馬仲達しばちゅうたつの腹心中の腹心。

 そういう人間に自分は、黄風雅こうふうがの命を託そうとしている。

 それは全く的外れな決断なのではないか……人を信じることを警戒し続けて来た徐庶は、最後の最後に迷いが出た。


 だが見返す陸議の瞳を見つめると、心の波は収まった。


「……黄巌こうがんのことだ」


 警戒していた陸議の表情がふと、緩んだ。

 どうやらもっと得体の知れないことを話されると思っていたらしい。


『貴方は想いを隠すべきじゃない』


 陸伯言りくはくげんは、徐庶と黄巌の友情を知ってくれている。

 彼を無事に涼州に戻してやりたいと言っても、それは間違いだ、などとは言わないと徐庶は信じた。


「実は、黄巌は涼州騎馬隊の長だった、馬超ばちょう将軍の従弟いとこらしい」


「えっ?」


 さすがに驚いた表情になった。


「それは……本当のことですか?」

「涼州騎馬隊が共闘してくれただろ? さすがに俺一人の説得じゃ、ここまで拗れた魏軍と共闘なんかしてくれない。俺の頼みを聞き届けて、彼らを説得してくれた人がいる」

「まさか……」

 徐庶は頷いた。


「馬超将軍が涼州に来ている。

 だけど劉備殿の命令を受けてじゃない。

 彼は魏軍が涼州に侵攻したと聞いて見て見ぬ振りが出来ず、単騎でやって来た。

 涼州騎馬隊を説得するとか、そういう目的では最初は無かったらしい。

 とにかく涼州の村が一度焼かれたことがあったから、それが心配でやって来たんだ」


 陸議は驚いた。


 馬超。


 赤壁せきへきにも彼は蜀軍の武将として参戦していたから知っている。

 

「……たった一人で来たのですか。豪気な人ですね」

「俺もそう思う」

「徐庶さんは……確か馬超殿とは会っていらっしゃらないのですよね?」

「うん……。俺が劉備りゅうび殿の許に行った時、まだ彼は涼州にいたから」

 前もそう言っていた。

「どこで会ったのですか?」

「君が……毒にやられた時、黄巌こうがんを探しに行っただろ。その時に偶然会った」


 厳密には馬超の側に、徐庶を知っている趙雲ちょううんがいたのだが、そのことは徐庶は黙っていた。

 馬超と趙雲という二人の将軍が涼州に揃っていると聞けば、もはやそうではないと言っても蜀の明確な意志が表れているからだ。


 さすがにそれは、陸議は司馬懿しばいに報告せざるを得なくなる。

 だが信じがたいことに趙雲も元々涼州の人々を気にして単騎でやって来ている。

 普通なら俄には信じられないが、それが本当なのが、劉備なのだ。


 趙雲のことは言わない方がいいことは、徐庶には分かった。

 それを話せば、陸議の命を脅かすような領域の話にもなって来るからだ。


「襲われた村の側だったので一瞬怪しまれた。

 それで全ての詳細を話したんだ。

 話している内に、彼が例の【石螺せきら】という毒蛇を知っていて、それを殺せる薬があると、庵に連れて行ってくれた。

 それが、君と黄巌と行ったあの庵だったんだよ」


「黄巌さんのお祖父様の庵ですか?」


「うん。確かにあそこだった。

 見覚えがあったので、前に友人にここに連れて来た貰ったと言うと、黄巌の素性が分かったらしいんだ。

 分かった――というのは。

 黄巌という名が、そもそも馬超殿も知らない、偽名だったらしい。

 彼は本当の名前は【馬岱ばたい】と言って、馬超殿の従弟だ。


 元々涼州騎馬隊に属し共に行動していたが、潼関とうかんの戦いから二年ほど経って、風雅ふうがは戦いばかりの生活が嫌だと言って北の故郷に帰った。

 それ以降、馬超殿とは連絡も取ってなかったと聞いたよ。

 馬超ばちょう殿は風雅が、争いを望まない性格をしていると言っていた……。

 だから彼が戦いを疎むようになったのなら、関わりを絶った方がいいと思っていたらしい。

 風雅が涼州のあの辺りに残り、護衛や運び屋の仕事をしてると聞いて、とても驚いてた」


「故郷で幸せに暮らしていると……」


 徐庶が頷く。


黄巌こうがんさんは……どうして馬超殿の側を離れたのに故郷に戻らなかったんでしょうか?」


「それが……まだ本人にはっきりと聞いてないから分からないけど。

 俺は風雅が言っていた、『一緒に生きたい人』『守りたい人』というのは、馬超殿のことじゃないかって思ってるんだ。

 勿論、見当外れかもしれないけどね……。

 ただ風雅は、涼州の人々には素性を別に偽ってなかった。

 誰もが彼を知っていたし。

 馬超殿だけに、彼は本音を隠してるから」


「……馬超将軍は、確か……重い決断で涼州を離れられたのでしたね」


「うん……。悩んでのことだったと思う。

 何もかも自分が涼州騎馬隊の長として、何とかしようとしていたけど、潼関とうかんの戦いから家族や一族を失って、追い詰められていった。

 多分、風雅はそれを側で見ていたんだ。

 ……でも馬超殿が成都せいとへ行くことを決断したなら……共に生きたいのなら、

 嘘を言って、自分だけ涼州に残ったりする必要はないと思うんだけどね……」


 陸議は少し考える。

 黄巌こうがんと話したことを、思い起こしたのだ。



「……何となく、……分かる気がします」



「え?」


「覚えていらっしゃいますか? 黄巌さんの庵で……呉の、黄蓋こうがい将軍の話をしたこと……」


 徐庶は逡巡するような顔をしてから、思い出したようだ。


「うん」


「あの時、黄巌さんが話した中で、特に想いが籠もっているように感じられる言葉がありました」

 



【俺は……黄蓋将軍は、周瑜しゅうゆの病気を知っていたんじゃないかと思うよ。

 はっきり聞かされていなくとも、察するところはあったんじゃないかな】


【だから多分、長江ちょうこうの上で、魏軍の大軍の前にたった一人でも彼は勇敢になれたんだ】


【年下の子が自分以上に頑張ってると、年上の男は、自分はもっと頑張らなくちゃと思って何故か勇敢になれるんだよ】

 



 確かに黄巌はそんなことを言っていたと徐庶も思い出した。


「あれはもしかしたら……馬超ばちょう殿とご自分のことを仰っていたのでは」


 陸議は何となく分かった。


 彼には陸績りくせきという存在がずっとあった。

 実の父を殺されても、孫家に帰順すべきだと言った自分を恨まず、陸康りくこうに当主の座を委ねられた自分を疎むこともなく、本当の兄のように慕ってくれた従弟いとこ


 確かに陸議も彼がいたから強く勇気づけられ、頑なになれた。

 陸康が殺されたことは生涯残るほどの痛みになったが、

 実子である陸績が泣いていないのに自分が陸康を想って泣くなど、許されないと思った。

 そう思って全てを頑張れた。 


 陸家全体に例え恨まれても、陸績さえ自分を理解して側にいてくれれば、どんなことにも立ち向かえる気がしたから。


 陸績は、そんな陸議の心を見透かすように、時々「無理をし過ぎないで下さい」と心配そうに声を掛けて来ることがあった。


「……黄巌こうがんさんは、多分、馬超殿の苦しみをずっと側で見ていて……涼州騎馬隊の長として、馬一族の生き残りとして、長兄として……矢面に立って、戦っていた姿を見ていたから。

 自分自身が戦に嫌気が差したのではなく、

 馬超殿が戦に傷つけられ、苦しめられ、たった一人で……傷だらけになっていくのが耐えがたかったのでは」


風雅ふうがが……」


 自分は利己的な人間だが、

 大切な者のためなら戦う、と言っていたのを思い出した。


 確かにそれなら名を偽り、馬超に秘密裏に涼州に残っていた理由も辻褄が合った。


「そうか……涼州にいる限り【錦馬超きんばちょう】は戦いから逃れられないから」


 陸議が小さく頷く。


「黄巌さんが唯一の従弟なら、彼が戦が嫌だと故郷に戻れば、馬超殿が涼州に留まる理由はなくなる」


「心を残すことなく馬超将軍に蜀に行って欲しくて、別れたのか」


 ようやく分かった。


「よく分かったね……陸議殿。俺は何故風雅ふうがが馬超殿に正体を偽るのか、全くそこが分からなかったんだ。何か彼らだけの事情があるのかと」


「確かかは分かりませんが……」


「いや。でもそう考えると風雅が言っていたことの全ての辻褄が合うよ。

 彼が守りたい人も、共に生きたい人も、馬超殿のことなんだ。

 共に生きたい……。風雅」


 徐庶は目を閉じた。


 初めてあの気のいい、だが飄々として己をあまり語らない友の真実に触れた気がした。


 共に生きたかったが、

 守りたかった人。


 多分、馬超と馬岱ばたいの心はすれ違っているのだ。

 どちらもが互いの幸せを願っていながら、自分が側にいると相手の重荷になると誤解している。力になれないと。


 馬岱が戦を望まないのなら離脱は許す、平穏に生きて欲しいからと言っていた馬超を思い出した。


 尚更、二人を必ず会わせてやるべきだと思った。

 徐庶は心を決める。


「陸議殿。

 黄巌こうがんの所に行ったら見張りが増えていたと言っていたよね。

 あれは龐徳ほうとく将軍の為ではなく、黄巌の為に郭嘉かくか殿が増やしたんだ」


「郭嘉殿が……?」


「彼は黄巌の正体を知ってる。知ってるからといって、魏軍のために【馬岱ばたい】を利用するのかは分からない。

 だけど俺は、そうなった時は彼に逆らってでも黄巌を涼州に……馬超殿の許に戻してやりたいんだ」


「徐庶さん……でも馬超将軍は」


「今しばらく涼州に留まっている。だけどいつまでもはいられない。

 その時は成都せいとまで、俺が黄巌を連れていくつもりだ」


「……。」


 陸議は押し黙ったが、徐庶をもう一度見た。


「それで貴方は私に何を望むのですか?」


「魏軍がもし【馬岱】の存在を明らかにして、それを軍事行動に利用しようとしたり、人質にするなら、俺は彼を逃がすから君に協力して欲しい。

 手が貸せないなら、黙って見逃してくれるだけでもいい。

 黄巌を馬超殿の許に届けたら、必ず俺は魏軍に戻ってどんな処罰でも受ける。

 それは君が俺達を見逃してくれるなら……君に誓うよ。

 君は俺の母に、俺を洛陽らくように無事に戻すと約束をしてくれた。

 その恩には必ず報いる。約束する」


 不思議だった。


 徐庶は、いつもは何か一つを選ぶことなど出来ないという風にしているのに、時々はっきりと何かを約することがあった。


 ――この人は突然、言うのだ。


 彼がそう言うと、必ずそれを実行する。

 長安ちょうあんに来た時、曹操に「劉備と戦うことは出来ない」と言った。

 覚悟を決めて長安に来たのなら、そんなことは口に出さず胸に秘めておけばいいのに、

徐庶は口に出す。

 だから警戒される。


 ……同時に曹操もある意味、徐庶の人柄を信頼したはずだ。


 徐庶は確かに、

 本当は、どんなものでもその四肢を束縛することが出来なかった。

 彼がそうと望まない限りは、

 無理にそうさせようとしても力を発揮しないし、陰に籠もって行く。


 だが彼自身が望んだことなら、どんな無謀だと思うことも、

 何故そんな犠牲があることを、と思うようなことも、

 彼は実際、自分すら犠牲にして実行するのだ。


「貴方は……自分が何かを切り捨てなければならない時は、最後まで答えが出ないくらい決めかねて、迷うのに。

 他者の運命によってご自分を切り捨てる必要がある時は、躊躇いもなく投げ捨ててしまうのですね。……命すら」


 陸議は徐庶じょしょを見据えた。


「命ですよ。

 徐庶さん。

 馬超将軍が蜀軍を率いて涼州にやって来たら、魏軍には必ず脅威になる。

 黄巌こうがんさんの存在は、その脅威を取り除けるかもしれない。

 だとしたら魏軍にとって、その存在の価値がどれほどのものか分かると思います。

 無断で彼を連れ出して逃がせば、貴方は間違いなく死罪になります。

 わたしは――、」


 龐統ほうとうの、纏っていた闇星やみぼしの衣姿を思い出した。


 自分に会いに来てくれたのだったら。

 ……そうだと言って、兵を退いてくれれば良かったのに。


 彼は諸葛亮しょかつりょう劉備りゅうびと生きたいと願っていたわけではないのだ。

 心など越えた、大いなる運命の力によって龐統は蜀へ行った。


 赤壁せきへきで自分を裏切り、

 諸葛孔明しょかつこうめいを救って、

 逃がした。


 あれは、願いじゃない。

 衝動だった。


 運命に導かれてそうしたと、絶望して蜀へ行って、

 そこで諸葛孔明が、自分自身を全く知らなかったことに彼は衝撃を受けたのだ。


 これほど自分は運命に囚われていて自分の心もままならないのに、

 諸葛孔明は、

 果てしなく自由に、

 別の誰かや何かを想える。


 蜀へ行ったのは龐統の衝動で、

 

剄門山けいもんさん】の戦い前夜、自分の許に姿を現したのが、彼の願いだった。


 心だ。


 迷路のように張り巡らされた山を彷徨いながら、

 ただひたすら龐士元ほうしげんの心だけを思った。

 彼の意図を読み取ろうと。


 あの戦いの間ずっと向き合い続けた。



「私は命を容易く投げ出す人は嫌いです」



 本当は、きっと共に生きれたのだ。


 蜀でもない、

 呉でもないどこかへ龐統が生き延びて、

 例えばそれこそ徐庶のように【水鏡荘すいきょうそう】に戻って、そこで学ぶ人生になれば、

 いつか陸議もそこへ訪ねて行けた。


 久しぶりですねと語りかけると、囲炉裏の側に座っていた龐統が微かに笑って、

「ああ」

 と短く返してくれる。


 そして戦や、

 宿星ではない話を夜中話すのだ。


 そういう未来も、多分どこかで何かが違えばあった。


 あの時、龐統が矢傷を受けていなければ。



 龐統ほうとうもそうだ。

 自分が全く大切じゃない。



 陸議は、自分のことは大切に思っていた。

 自分の為に命を失った人や、大切に想ってくれた人たちがいることを知っているからだ。

 戦場では使命感に燃えて、国のためなら自分の命など、と思うことはあるけれど、

 全然大切じゃないなどとは思ったことはない。



「命を投げ出したいわけじゃない」



 徐庶じょしょが静かな声でそう言った。

 彼は微かに笑んでいた。


「だけど命を懸けなければ成し遂げられないこともある。

 それは命を投げ出すとは全く別のことだ」


「なら、約束して下さい」


 陸議が言った。


「貴方が大切に想う友人のために、彼の命や存在が利用されそうになった時、

 彼を逃がしたいと願ってもいい。そう行動したいという気持ちは、私は、理解出来ます。

 でもそうなら『彼を見送ったら、戻って処罰を受ける』なんて言わないで下さい。

 貴方が去ってそのあと、洛陽らくようにいる母君のことを気にして差し上げることくらい私は出来ますが、母君に貴方が友人を守って魏軍に処刑されたなんて報せは決して報告出来ない」


 徐庶は息を飲んだ。

 突然目の前の、年下の彼が、

 自分よりも遥かに高みから、静かに言い聞かせて来ているような印象を受けた。


 それほど、その時の陸伯言りくはくげんの纏う空気は凜としていて、命じることに慣れているような不思議な気品を感じた。



「もし黄巌こうがんさんを逃がすなら、貴方も共に逃れる覚悟でそうして下さい。

 行き場所は、もうご自分で分かっているはずです」



 徐庶の脳裏に、

 美しい【水鏡荘すいきょうそう】の風景が鮮やかに浮かんだ。


 恩師の住む屋敷、隣接する道場と講堂、

 水鳥と花の浮かぶ池のほとり。


 四季折々の花。


 風がいつも通り過ぎている。



 あの場所が、この世でたった一つ徐庶が特別だと思う場所なのだ。





 目の前が突然、暗くなって、

 陸議は徐庶の腕の中に包まれたことに気付いた。



「ありがとう」



 意外なほど、強い力で抱きしめられて、

 この人でも誰かをこんなに想いを込めるように抱き寄せることがあるんだなと、

 そんなことを考えてしまった。


 

「ありがとう……」



 人は、いたい所にいるべきだ。

 それは陸議が龐士元ほうしげんという男を見ていて、心の底から信じるようになったことだった。




 人生を必死に生きていると、どこにいるべきか分からなくなることだってある。

 自分の道を見失うことも。


 だけどどこに行けばいいのか分かっているのに、

 心を偽って別の場所に行くなど愚かだ。


 

(ここだと思う場所があるなら しがみついてでもそこで生きるべきだ)



 多分それが、


 生きるということだから。




【終】



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花天月地【第85話 光射し込む道】 七海ポルカ @reeeeeen13

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