第8話

フィーネ副団長が姿を消してから、私は正門の上に一人取り残された。


 夜風が吹き抜け、耳の奥で笛のように鳴っている。目の前の闇の中には、蠢く軍勢の気配。だが不思議と、胸に走る不安は少なかった。


 ――きっと、フィーネが隣にいたからだろう。


 気配を断ち、屋根の影に飛び移る。屋根の瓦がわずかに軋んだが、音は夜に溶ける。私の脚は黒猫そのもの。


 宿に戻ると、ラグナは案の定、いびきをかいて眠っていた。


 狼獣人らしい低い唸り声のようないびきが、部屋いっぱいに響く。私は乱暴に彼の尻尾を引っ張った。


「……っいてぇ! なんだよ、ユルド!」

「戦闘準備だ、起きろ」

「はあ? 今は真夜中だぞ。人間の兵士は酒飲んで寝てる時間だ」

「ゴブリンとオークの軍勢が来る。千は下らない」


 ラグナの耳がピンと立ち、寝ぼけ眼が一瞬で鋭さを取り戻した。


 この男の厄介なところは、信じるかどうかを迷わない点だ。私が言えば、それが真実になる。そういう関係なのだ。


「……また隊長か。トラブルの匂いはだいたいユルドからだ」

「うるさい。愚痴なら後で聞く」


 私は既に身支度を整えていた。黒の外套を羽織り、アカツキを腰に下げる。

 ラグナは大剣を背負いながら、まだ口を尖らせていた。だがその眼光は戦士のそれに変わっている。


「で、指揮は誰が執る?」

「フィーネ副団長だ」

「ほう……騎士団副団長様ね。頼りになりそうじゃねえか」


 狼がニヤリと笑う。私はその笑みにわずかに苛立った。なぜだろう、胸の奥に小さな熱が残る。あの金の瞳を思い出したせいかもしれない。


 ◇◆◇


 王都の鐘が二度鳴った。深夜の鐘は、本来なら見回りの合図。だが今夜は違う。


 その音に呼応するように、鎧のきしむ音が街路に満ちた。騎士団が招集されている。


 私とラグナは城門広場へ急いだ。そこには、既に鎧姿の騎士たちが列を成していた。松明が掲げられ、揺れる炎が鉄の装備を赤く照らす。


 その中央に、フィーネ副団長が立っていた。

 黄金の髪を高く結い、鎧に身を包む姿は夜にあってもなお太陽のごとく眩しい。彼女の声が響くと、ざわめきは一瞬で静まった。


「報告する! 王都外に魔物の軍勢を確認。ゴブリン千、オーク数十。既に行軍を開始している可能性あり。迎撃準備を取る!」


 ざわめきが再び広がる。だが混乱ではない。戦士たちが血を沸かせる音だ。


 私はその中でただ一人、傭兵という異質な立場にいた。フィーネの視線が一瞬、こちらを射抜く。


 彼女は私を呼んだ。


「ユ…黒猫、前へ」


 全員の目が私に集まった。背筋に冷や汗が伝う。

 だが、ここで退くわけにはいかない。私は人の前に立ち慣れてはいないが、戦場には慣れている。


「昼間、私が取り逃がした魔物が軍勢を招いた。責任は私にある。

 ……だからこそ、この刃で必ず奴らを討つ」


 言い終えると同時に、アカツキがわずかに赤い光を放った。

 その輝きに兵たちの目が釘付けになる。異能の証を示したからだ。


 沈黙を破ったのはフィーネだった。


「聞いたな。彼女の責任は重い。だが、我らが戦う理由は一つだ。――この王都を守るため!!」


「「「おおおお!!!」」」


 力強い言葉に、騎士たちは槍を掲げて応えた。

 その響きの中で、私は不思議と心が軽くなった。孤独に戦う必要はないのだ。


 ◇◆◇


 作戦は速やかに決まった。


 まず、城門前に防衛線を築く。弓兵が矢を放ち、騎士たちが盾を構える。その背後から魔術師が援護を行う。


 そして私は、フィーネとラグナと共に遊撃隊として軍勢の中を切り裂く役を任された。


「危険な役回りね」


 フィーネが低く呟いた。


「望むところだ」

「まったく……あなたみたいな人は、目を離すとすぐ無茶をする」


 そう言って彼女は口元を緩めた。叱るでもなく、呆れるでもなく。奇妙な温かさを含んだ微笑。


 私は返す言葉を失った。胸がざわめき、何かを飲み込んだように苦しい。


はじめは嫌味な人に見えたのに、今はどうした。少し不器用だが、その瞳は優しさで満ちている。


「……私は、フィーネのような人間を知らない」

「そう? 私はどこにでもいる、ただの騎士よ」

「ただの、なんて言葉で片付けられない」


 思わず漏れた言葉に、フィーネは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


 その笑顔がまた、私の心を乱す。戦いを前にしているというのに。


 ◇◆◇


 夜は更け、冷たい霧が城壁を覆う。

 遠くから、地を踏み鳴らす音が伝わってきた。無数の足音、獣の唸り声。

 軍勢が近づいている。


 私はアカツキを抜き放ち、刃を夜風に晒した。深青の瞳が闇を貫く。

 ラグナは隣で牙を剥き、低く唸る。


 そして、フィーネの声が戦場に響いた。


「全軍、構え!」


 松明の炎が高く揺れ、王都の騎士団と傭兵たちが一斉に武器を構える。

 黒い闇の向こうから、黄色い目が無数に浮かび上がった。


 長い夜が、始まった。

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