第4話
翌朝。ギルドの掲示板は依頼の紙でびっしりと白かった。護送、討伐、護衛、探索。
ラグナは腕を組み、尻尾を揺らしながら紙を眺めている。
「俺は力仕事が得意だが、頭も使える。黒猫、お前はどう動く」
「静かに、速く。近接が得意。必要とならば吠える」
「気が合うじゃねぇか」
二人で選んだのは、鉱山町までの商隊護衛だった。山道は魔物が出やすい。人族は神授で身を守るが、全員が戦えるわけではない。
神授――五歳で女神フィフィーネから授かる、人族だけの奇跡。私はそれを持たない。竜族だから。
商隊の隊長は、獣人のラグナを見る目にわずかな躊躇を混ぜた。けれど彼の笑顔と私の通り名は、その躊躇を短くした。
「黒猫と狼なら心強い。よろしく頼むよ。」
出発。
荷馬車が軋み、荷を固定した縄がきしむ。馬の吐息が白く揺れ、朝の冷気が頬を刺した。
ラグナは先頭、私は殿。獣人であるラグナは感覚が鋭い。竜族である私もだ。
「黒猫、感じるか?」
「鉄と油。……前方、岩陰。三、四。人の汗」
「俺は風上に回る。合図をくれ」
小さく指を鳴らす。ラグナの影が斜面を駆け、岩を蹴って高く跳ぶ。狼の獣人は、空気を掴むのが上手い。
私は荷馬車の脇で歩幅を変え、視線だけで周囲を撫でる。黒い刀の柄に手は置かない。置いた瞬間、目立つ。
岩陰から男が飛び出す。鼻息が荒く、手には錆びた短剣。背後の二人は躊躇する。――合図。
私が軽く顎を引くと、ラグナは彼らの頭上から降ってきた。蹴りが一人の胸板を叩き、もう一人の手首を捻る。
「ごめんな。俺ら、仕事中でね」
日向のような声で言って、彼は笑った。私は前へ出て、短剣の男の鼻先へ一歩踏み込む。影が彼の瞳孔を揺らす。
「退くなら、今」
ギラりと無言の圧を与えた。
「ひ、ひいっ!」
相手が怯んだとこでラグナが叫ぶ。
「面倒くせえ…さっさと行けって言ってんだ!!」
三人は転げるように逃げた。ラグナが肩をすくめる。
「黒猫、お前の圧はすげぇな」
「吠えたのはあなた」
「俺は吠えてなんぼだ」
この獣人のペースに飲まれてしまう。
午後、曇天が近づき、風向きが変わった。土の匂いが深くなる。
ラグナの耳がぴんと立つ。
「……上か」
私も感じた。湿った岩肌を滑る、ぬめる匂い。魔素の濃さが皮膚にざわりと触れる。
「魔物…!」
「来るぞ!」
斜面の上から、体毛のない四つ足が群れで降りてくる。皮膚は白く、口は裂け、眼球のない窪みから黒い液が滴る。魔素から生まれた、名もない貪食。
商隊の護衛は声を上げ、剣を抜いた。
「陣を薄くするな。輪を解かないで」
恐れながらも周りは動いた。人族は怖れに強い。神授があるからではなく、互いを見て踏ん張る習性を持っているから。
私は前へ出て、刀を抜く。黒い刃が空気を裂く。魔物は耳がない。音ではなく、匂いで私たちを察知する。
「ラグナ、煙」
彼は即座に荷から油布を取り出し、焚きつけに火を放つ。白い煙が斜面に広がり、魔物の鼻――あるいは皮膚の孔――に入り込む。
私は低く構え、脚だけを狩る。筋を断ち、関節を外し転ばせる。動きが鈍ったところを護衛たちが突き、ラグナが飛び込み喉を裂く。
数。呼吸。足。
頭の中で、父の教えが淡々と並ぶ。
『数えるな。足を見ろ。お前の足は一本だが、群れの足は多い。一を守るために、多を絡ませろ』
私は斜面の下に動線を描く。転ぶ魔物は次の魔物の脚を絡め、次はその次の脚を引く。私の刃は、たったの一度も悲鳴を必要としない。
やがて、群れはばらけ、斜面の上で霧散した。魔素は風に溶ける。白い煙だけが残った。
商隊の隊長が深く頭を下げる。
「命拾いした。黒猫殿、狼殿、助かった」
「報酬の中身より、人の数が合ってるか確認を」
「は、はい!」
ラグナが笑い、私の肩を軽く叩く。
「やっぱり良いな、お前」
「私は猫。一人が好き」
「猫は気まぐれに群れに寄る」
ラグナと戦闘を共にし、こうした軽口も叩くようになっていた。これが、仲間、というものなのだろうか。
少し胸が熱くなるのを感じながら、護衛の仕事に集中した。
鉱山町に着くころには、空はすっかり晴れていた。山肌は銀色に光り、遠くの尾根を鳥が渡る。
獣人の背中を見ながら歩く。尻尾が揺れるたび、子どものように笑ってしまいそうになる。
私には、こういう明るさが足りない。けれど、足りないからこそ、ラグナが隣にいる価値が分かる。
護衛を終え、報酬を受け取った晩、ラグナは一杯だけ酒場で飲んだ。私は水で乾杯した。
「黒猫、王都の依頼に興味は?」
「ある。女神の騎士団がいる」
「副団長が若い女だってさ。……ああ、顔が曇った。嫌いか?」
騎士か。ドラゴンである私にはいい印象はない。
少し暗くなった顔をラグナは感じ取ったようだ。よく見ている。少しの間しか一緒にいないが、ラグナの観察力には目を見張るものがある。
「嫌う理由はまだない。ただ――絵本に出る騎士は、ドラゴンを殺す」
ラグナはしばし黙って、酒を一口飲んだ。
「お前の尻尾が見える奴は少ねぇよ」
「尻尾は、ない」
「気配の話だ」
野生の勘だろうか?いずれにせよ、秘密を明かす訳にはいかない。たった一人にはなったが、竜族の歴史を繰り返す訳にはいかない。
私は目を伏せ、コップの縁に指を沿えた。黒い刀が腰にいつもより負荷をかけてるように感じた。
「王都へ行く。……来る?」
話題を変えた。正直、あまり触れられたくはないのだ。
「もちろんだとも、隊長」
いつから私はラグナの隊長になったのだろう。少し可笑しくて小さく笑った。
そんな私を見て、ラグナも満足そうに笑っている。その瞬間、私たちの笑い声は確かに重なった。
まだよくわからないけれど、居心地が良かった。
私はその夜、刀を布で包み直し、荷を半分に減らした。
王都は遠い。けれど、私が向かうべき場所は、いつだって遠いのだ。
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