第3話

夜は味方だ。そう父さん――カルデアはよく言っていた。


 闇は目立ちたくない者を包み、匂いと音だけを濃くする。竜の血に宿る勘が、獣の息遣いのように、眠る砦の呼吸を数える。


 月のない山道を滑るように進み、崖の陰で身を伏せる。見張りは三。粗末な槍に革鎧、歩哨の足取りは重く、酒が残っている。右端の男の腰で、鍵束が鈍い音を立てた。


 私は深く息を吸い、黒い刀を半ばまで鞘から引いて、刃に月もない夜の光を一筋だけ這わせる。どこまでも黒い刀身――奪い取った山賊の首領が持っていたものだ。鞘を払う瞬間、骨の芯がひやりとした。まるで刃が私を覗き返したように。

 「……今は、黙っていて」


 囁いて、影に溶ける。


 一人目の口を手で塞ぎ、喉の脇へ刃を滑らせる。手応えは薄氷を割るようで、息は一度跳ねて止まった。二人目が振り向くより早く、足首を払って転ばせ、柄で後頭部を叩く。最後の一人が肺を膨らませるのと、私が彼の胸に走り込むのは同時だった。短い悲鳴が血で詰まる。


 門の横木を持ち上げ、軋む音を息で飲みこむ。砦の中庭は暗く、焚き火は灰を抱えていた。寝台代わりの藁束、転がる酒瓶、壁に立てかけられた粗末な剣。十と少しの気配。右奥、最も深い鼾の主が首領だ。


 私は靴裏で土を撫でるように進み、まず矢倉へ向かう。上がり梯子の縄は湿っている。掌で摩擦の音を殺しながら登り、矢筒をひっくり返した。弦の緩んだ弓から弦を抜き、わずかな音で割く。これで遠距離の目は潰れた。


 降りる途中、胸に小さな棘が刺さる。心臓の鼓動ではない。刃から、黒い糸のような感覚が指に絡みつく。――この刀は、ただの刀ではない。この刀を使う度に合う違和感。鞘に眼も耳もないのに、私の気配に呼吸を合わせてくる。

 「後で話そう。今は仕事」


 私は刀を握り直し、首領の寝床に近い小屋の閂を指先で外した。

扉が開く隙間に身を滑らせた瞬間、獣の臭いと人の汗が混ざって鼻腔を刺す。

 床の上に油の染み。靴跡は外に向かって新しく、刃物で削った木粉が散る。眠っているふり――。


 枕元に刃が閃いた。私は身を捻って紙一重でかわし、逆手に持った刀で相手の手首を打ち上げる。火花。鉄の匂い。短剣が転がり、男が舌打ちした。


 「傭兵、か。来ることは分かっていた。」

 「分かっていても、お前は死ぬ。」


 男が腰に隠したもう一本の短剣を抜く。私は踏み込み、肩で相手の胸を押し上げる。刃と刃が擦れる音は短く、次いで布が裂け、血の温度が指に伝わる。首領の目が驚きの形で固まった。


 その瞬間、黒い刀がかすかに震えた。脳裏に、砦の中の点が灯るように位置が浮かぶ。寝台、樽、扉――そして、私が今切りつけた男が逃げるとしたら走る先。


 「……教えてくれるの?」


 囁いた言葉に応えるように、黒い糸は一瞬強く手に絡んだ。私は足を運ぶ。扉の外、木戸の影に潜んでいた男の肩口に刃を差し入れる。低い悲鳴。


 切りつけた相手の位置が、手の中に残る。そんな馬鹿な、と同時に私は悟る。――この刀は私と契約を求めている。完全な契約ではないから、断片的な気配だけが流れこむ。


 「終わったら名を聞く。今は借りる。」


 踏み込みは狭く、呼吸は浅く。寝台を跨ぎ、床板が鳴るより前に次の影へ。刺して、引いて、眠る者の口を塞ぐ。喉の奥で悲鳴が溶け、暗闇が全てを飲み込む。


 十を数える前に、砦は静寂を取り戻していた。外の風が塀を撫で、遠くの梟が一度だけ鳴いた。


 私は刀身の血を布で拭う。黒は血を反射させない。拭っても、刃は夜のままだ。手の内で、微かな脈動が落ち着く。契約を急かすような感覚が薄れていく。


 「ありがとう。だけど、全部は信じない。私は、私の目で見る。」


 外に出ると、東の空がかすかに白んでいた。夜がほどける直前の色。

 門を閉じ、縄を断ち、捕らえられていた村の男たちを解放する。腕に縄の跡が残る彼らは、おずおずと私を見た。


 「助けてくれてありがとうございます、黒いお嬢さん」

 「私は依頼を果たしただけ。街まで護衛する。」


 人目に触れることになる。けれど、目立たずに人を守る道は、こうして一つ一つ選ぶしかない。父さん、私は――。

 「お前の強さは刃じゃない。誰かを守るための手だ」

 胸の奥で、父の声が短く響いた。


 朝の光の中、私は黒い外套の襟を立て、刀の柄にそっと触れた。

 「名前は……後で」

 刃は答えず、ただ静かに夜を閉じた。


 グランツの傭兵ギルドに戻ると、酒場は朝だというのに喧噪で満ちていた。私が扉を押し開けるなり、何人かがこちらを見る。見た目で笑う者、訝しむ者、沈黙で値踏みする者。

 受付の女性――茶髪を三つ編みにした落ち着いた瞳の人――が私を見るや、手元の印を押した。


 「依頼完了、確認しました。……あなたの名は?」

 「ユルド。姓は、今は名乗らない」

 「では、ユルド。登録は正式に。あなたの通り名は……そうね、報告書に“黒猫”って書かれてたわ。夜の砦を一人で落とした猫。」


 ざわり、と空気が動く。誰かが舌打ちし、別の誰かが口笛を吹いた。

 私は肩をすくめ、木札のギルドカードを受け取った。薄い木の繊維が指に馴染む。


 「報酬は?」

 「ここに。あと、推薦状。王都方面の依頼に参加しやすくなる。……気をつけて」

 「ありがとう」


 背を向けた時、太い声が飛んだ。


 「おい、黒猫! 今夜、飲むぞ!」

 「仕事の後にね」


 笑いが起きる。敵意ばかりではない。私は少しだけ息を吐いた。人の輪に入るのは得意ではない。でも、居場所は、選んで作れる。


 その時、扉が乱暴に開いて、銀灰色の狼の耳が朝日に光った。


 「獲物は分け合う主義だがよ――今の依頼、半分は俺に回しても良かったんじゃねぇか?」


 笑っていた。白い牙が覗く。しなやかな筋肉に革鎧。尻尾が楽しそうに揺れている。

「狼だ。」誰かがそう呟いた。どうやら名の知れた傭兵らしい。


 「あなたは?」

 「ラグナ・バルム。狼の獣人だ。俺も今、戻ったところでな。面白ぇ奴がいるって聞いたから顔出した。黒猫、だとよ」


 私は無言で会釈した。彼は気分を害するどころか、更に口角を上げる。


 「いい目をしてる。……おい受付、こいつと組む依頼、ねぇか?」


 受付嬢は困った顔で笑った。


 「あなたたち、初対面でしょう」

 「腕は戦場が教えてくれる」


 獣人の匂いは野に近い。けれど、鼻に刺さる棘はない。差別の匂いを浴びた者の、無視するための笑い方を知っている匂い。私は、わずかに頷いた。

 「なら、ひとつだけ。……命令はしない。私のやり方に合わせて」

 「了解だ、隊長」


 冗談のように言って、ラグナは笑った。私は笑い方を忘れたまま、ぎこちなく口元を緩めた。

 父さん、私は――多分、少しだけ、群れというものに近づいたよ。


 その夜、私は宿の小さな部屋で黒い刀を鞘から抜き、細く息を吐いた。


 「お前の力は何?」


 刃は沈黙したが、手に絡む微かな糸が、確かにそこにあった。


 「……契約か。お前は何をくれる?」


ー貴方に敵を知らせ、貴方の何よりも強い刃になる。

なんでか、刀がそう言ったような気がした。


「ならば、共に戦って欲しい。」


私は刀と契約を交わした。刀は"アカツキ"と言うらしい。また、刀が教えてくれた。


 月が雲間から顔を出し、黒い刃に淡く張り付く。夜は味方だ。けれど、朝の光もまた、誰かのための道を照らすはずだ。


 私は刀を納め、眠る体制に入る。


 黒猫の初陣は、静かに幕を閉じた。


だが、噂はすでに街道を走り出していた。

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