第三章

 ぼくらがビエンホアに着いたとき、市内ではすでに戦闘が始まっていた

 どうやら、ぼくの予想は当たったようだった。すでに北部革命勢力の一部が停戦ラインであるパープルラインを超えようとしている。街の外壁に生々しい銃火の跡が刻まれていた。

 ぼくらはなるべく市内の外縁に沿ってハンヴィーを走らせた。ときおり遠くの方から、散発的な銃声が聞こえ、そのたびにハンヴィーを停車させる。

 市内に入るべきかどうか、判断がつかなかった。

 どこかで戦闘が発生している。それはたしかだ。

 しかし、敵の位置も分からなければ、味方の部隊がどこで展開しているのかも、ぼくらは把握していない。

 そもそもぼくらの味方は残っているのだろうか。

 すぐそばのスタンドに平和維持軍のコンテナが打ち棄てられていた。UNPFというステッチがかすれている。

 ジェイが「くそ」と悪態をついた。

 陸軍諜報コマンドINSCOMから支給された電子戦用装備フォックスハントがまったく機能していないらしい。

 市内では、ほぼすべての周波数が妨害されていた。統合作戦本部との指揮通信網コマンド・ネットはもちろんのこと、そのほかの無線帯域もノイズが酷くて使いものにならない。

 この状況は想定外だった。味方はともかく、敵はこの電子的のなか、どうやって動けているのだろうか。もし仮に近距離用無線で連絡を取り合っているのなら、ぼくら自身、それが傍受できる圏内にまで近づかなくてはならない。

 ぼくはジホに指示を出した。

 ゆっくりだ。できる限りゆっくり走るんだ。

 ぼくらにできることはそれしかない。

 ハンヴィーはゆっくりとゴミと岩に塗れた市外を走った。

 夜のジャングルをぶっ通しで走ってきたハンヴィーのエンジンは唸りを上げている。ラジエーターから排出された熱い空気が、大気にねっとりと交わっていく。

 銃声が段々と大きくなってきた。

 三時の方向だ。

 かなり近い。市内のマーケットだ。地図で見る限り、大通りに面している。あそこなら戦車でも何でも展開できる。

 ぼくは急いで、ジホにハンヴィーを止めるように指示をする。

「……」

 ぼくは注意深く銃撃の音に耳を傾けた。

 一方は機関銃の音だった。おそらくDShK重機関銃。唸り声のような音を立て、毎分六〇〇発もの死を吐き出す骨董品物の機関銃だ。でたらめに発砲しているのか、一度の射撃の間隔が不規則だった。

 もう一方は、規則的な間隔で撃ち返されており、発砲音もそこまで大きくはなかった。これは、ぼくらが持っている歩兵用小銃とまったく同じ種類の弾頭が出す音だった。

「仲間が攻撃されている」

 ぼくは言った。

 ジホがアクセルを踏み込んだ。ドヒョンが銃座に上がり、すぐに機関銃のボルトを解放し、フルオート状態にした。

「ふふふっ」

 グエンが不思議な笑い声を出していた。目がぎらつき、小銃のコッキングレバーを引いては閉じを繰り返し何度も薬室内を確認している。

 ぼくらは路地に差し掛かるたびにハンヴィーを止めた。そして数名を路地の向こうに送ると、彼らが合図するまでは車両を絶対に動かさない。車両を動かすのは、通りの安全を確保できてからだ。そこが安全だとわかって始めて、ハンヴィーの頭をそろそろとのぞかせる。

 時間はかかるが、これがもっとも安全な方法だ。

 もし飛び込んだ路地の先に戦車部隊がいれば、その瞬間、ハンヴィーの胴体に風穴が開く。聞こえる砲声は機関銃のものだが、敵革命勢力は戦車部隊の補助に高機動のテクニカルを使用しているという情報も報告されている。戦場では、自分は大丈夫だろうという楽観や見積もりの甘さはすべて死につながる。

 ぼくらは慎重に進んだ。

 銃声のもとに着実に近づいている。

「ぐふふふっ」

 ぼくとジホ以外の連中がみな笑い始めた。ぼくは静かにしろと後部座席を一喝する。

 ジホが驚いた顔でぼくのことを見た

 わかっている。この状況は異常だ。みんなおかしくなっている。

 でも、それがどうしたっていうんだ?

 いまから人を殺すかもしれない。自分が撃たれて死ぬかもしれない。

 そんなときに平静でいられるか?

 そんなときまで平静でいる必要があるのか?

 こんなこと、普通じゃないなんて……。そんなの百も承知なんだよ。そんな当たり前のことを、わざわざいまここで説明してやらなくちゃいけないのか?


 そして、ひときわ大きな広場にぼくらは出た。

 マーケットだ。

 その開けた空間の中心部にバスが一台、どっかと停まっていた。脇にはジープも一台ひかえている。

 バスにはUNHCR国連難民高等弁務官事務所と文字が書かれていた。難民輸送用のバスだ。おそらくビエンホアから、安全なホーチミンキャンプに市民を移送する計画だったのだろう。

 政府軍の民兵たちは、そのバスのなかに雪隠詰めだった。

 

 ぼくらはバスに近づこうとするが、それは困難だった。

 銃撃の激しさが度を超えていた。

 バスの向こう、マーケットの入口あたりに陣取った二台のテクニカルが機関銃を無茶苦茶に打ちまくっているのだ。おびただしい量の銃弾が、バスの側面部に張られた鋼鉄板に叩きこまれている。

 ぼくは後列のハンヴィーに合図を出すと、テクニカルの側面に回るように指示をする。

 とにもかくにも、あの銃撃を止めさせなければいけなかった。

 そのためにも、ぼくらは敵の注意を引く必要がある。

 ぼくはジホにハンヴィーを建物の陰から出すように指示した。ジホはゆっくりとハンヴィーを前進させ、車体のフロント部分だけを物陰からのぞくようにした。

 ジホはさらにハンヴィーの頭を出したり、引っ込めたりする。すると、すぐにこちらの方にも銃撃が飛んでくるようになった。装甲板の張られたハンヴィーのフェンダーに火花が散った。

 それと同時に、ぼくは小銃の構えると、ジェイと共に銃撃を受けている反対側のドアから外に出た。

「ジホ、あとは頼んだぞ」

 そしてドヒョンが銃座から制圧射撃をするタイミングに合わせて、広場の方へと飛び出した。

 ぼくとジェイはそのまま全速力で走ると、一気に輸送バスのもとへ滑り込んで、「味方だ!」と叫んだ。

 バスの窓から人影が一つ、ひょこっと頭を出した。

 人影はぼくらを認めるなり、すぐにドアを開けて、ぼくとジェイをなかに呼び込んだ。

 入るなり、民兵の一人が怒鳴り込んできた。

「なんですぐに来なかったんだ! 移送の日程はわかっていただろう!」

 そう言って、民兵の男はぼくの胸ぐらに掴みかかった。

 ぼくは男にされるがままになりつつも、バスのなかの状況を確認した。

 ぼくに飛びかかってきた男のほかにも民兵が三人。あとは全員、乗客だ。血を流してぐったりしている者もいたが、ほとんどの乗客はみな無事だった。

「聞いているのか!」

 民兵の男がぼくの頬をピシャリと張った。

 それを見たジェイが「何しやがる!」と怒鳴り、ぼくから民兵を引き離した。ジェイはそのまま男の腕を捻り上げようとする。

「ジェイ、やめろ」

 ぼくは急いでそう言うと、民兵の男に対して、

「ぼくはアジアブロック方面第八歩兵師団のナカムラ・ユージだ。そっちは?」

「おれは人民軍レンジャー隊のフエだ。南東方面の歩兵部隊がなんでこんなところにいるんだ」

「ぼくらも基地を奇襲されて逃げてきたんだ」

「本当か?」

「ああ、残った部隊を率いてきた。詳しいことはあとで話す。ハンヴィーがもう一台、あのテクニカルの側面に近づこうとしているんだ。こっちで何とか奴らの気を引けないか?」

「わかった」

 フエは頷くと、ぼくとジェイをバスの外へと招いた。

「おれがグレネードを投げる。そしたら、ジープの方へと走れ」

 ぼくはフエのゆびさす方を見た。ジープがちょうどコンクリートのバリケードに隠れるようにして停まっている

「お前らを攻撃するためテクニカルは広場まで入って来るはずだ。気を付けろよ」

 ぼくはフエに向かって頷いた。

 フエが三、二、一……と数えて、グレネードを広場の向こうへと放りやる。グレネードはテクニカルから二〇メートル手前あたりで爆発した。

 一瞬だが、銃撃が止まった。

 またしても、ぼくとジェイは腰を低くして広場を横切った。チュンと乾いた風切り音がしたかと思うと、すぐそばの地面が爆ぜた。

 間一髪、ぼくらはバリケードの下に潜り込んだ。瞬間、銃撃によって、バリケードの上部がバリバリという音を立てて砕け散った。コンクリートの破片が雨あられのように降り注ぐ。

 ぼくは降り積もる破片に構わず、うつ伏せのまま小銃を構えた。

 銃撃によって砕け散るバリケードの位置が次第に、ぼくから見て右方向に寄っていく。狙い通り、テクニカルがバリケードにいるぼくらを射角に捉えようと、広場のなかまで入ってきているのだ。

 口の中はすでに砂と火薬の味でいっぱいだった。

 ぼくはテクニカルの銃架が見えた瞬間、そこに銃撃をフルオートで打ち込んだ。銃架に付けられたプレートで射手は守られていたが、テクニカルは急いで後退した。

「よし」

 あとはこの繰り返しだ。

 投擲物を投げ込んでくるようだったら、すぐに後ろのジープを盾にすればよい。ジェイにはテクニカルの動きに注意させている。

 何度目かの後退のあと、ジェイが恐慌に駆られた。

「やつら無反動砲を出してきた」

「くそ」

 ぼくらは急いで、地面を転がってジープの裏に身を隠す。

 爆発が起こり、コンクリートのバリケードが真っ二つに割れた。次はこのジープを狙ってくるに違いない。

 ぼくは一か八かで、ジープの側面から頭を出すと、小銃で敵の射手を狙おうとした。さっきの爆発による砂塵で射手の姿はおぼろげにしか捉えられない。

 間に合うか……。

 そのとき、砂塵の中にいる人影が文字通り爆ぜた。

 はっとして顔を上げると、テクニカルの後ろで別の影が動くのが見えた。

 さきほど、側面に回らせた別働隊のハンヴィーだ。そのままハンヴィーは機銃掃射でテクニカルを蜂の巣にしていく。

 ぼくらも飛び出すと一斉に狙いを付けた。テクニカルは猛スピードでマーケット突っ切ろうとするが、タイヤを撃たれて、そのまま横転炎上した。

 打って変わって、マーケット内が静けさに包まれた。

 ぼくは再度、広場の安全を確認すると、ハンヴィーにハンドサインを送った。

 輸送バスに駆け寄ると、フエがドアを開けて降りてきた。

「助かった。ありがとう」

「いや、当然のことをしたまでだよ」

 ぼくはそう言って、フエに握手を求めた。

 が、フエはぼくの手を取ろうとはしなかった。一瞬、国文化による違いなのだろうかと思ったが、そうではなかった。

「それでもお前たちは来るのが遅かった」

 フエは険しい表情で言った。

「ここから五〇〇メートル行ったあたりで、移民輸送用のバスがもう二台ある。俺たち国軍のジープもついていた……」

 フエの手には近距離無線用のトランシーバが握られていた。

「両方とも全滅したよ」

 ぼくは手を差し出したまま阿呆のように突っ立っていた。



 通りでは二台のバスがいまだ煙をあげて燻っていた。

 ぼくとフエはバスに近づくと、ドアを開け、車内に入った。

 乗客はみな眠るようにして、バスの座席に身体を預けていた。

「苦しむ間もなかったと思うぜ」

 フエはそう言って、胸の前で手を合わせた。

 ぼくはドアの手前についた黒い煤の跡を手でなぞった。

「迫撃砲か……」

「ああ、この狭い車内じゃ爆圧から逃げられん」

 みな死んでいた。

 死因は内臓破裂によるショック死。全員、即死だった。一見、外傷もなく無事に見えたのもそのせいだ。

 迫撃砲や榴弾は、着弾の瞬間に内部の炸薬を瞬間的に燃焼させることによって衝撃波と高温ガスを発生させる。 

 この衝撃波というのは普通の物理弾頭や破片等と違って防ぐのが困難だ。

 というのも、物理的な弾頭であれば、それがどれほど高速度であろうと、あいだに一枚、遮蔽物を挟んでやるだけでいい。鉄板一枚あれば、弾頭自体の殺傷力は大幅に削ぎ落とすことができる。

 しかし、衝撃波の場合はそうはいかない。たとえ遮蔽物があったとしても、波は物を回り込むようにして伝搬する。同様に隙間があればそこから空気を媒介に伝搬し、内部にまで伝わってしまう。

 乗客の多くが、口の端から血を流しているのもそのせいだろう。衝撃波による急激な圧力差で肺を潰されてしまったのだ。


 ぼくとフエはバスを後にした。

 歩きながら、フエは自分たちの状況を説明してくれた。

「俺たちは、最後の残留市民を移送するためにホーチミンから来たんだ。キャンプで輸送バスを引き継いで、ビエンホアを出ようとしたら、このありさまだ」

 フエたちの部隊は、輸送バス三台にそれぞれジープを一台ずつ付けて護衛していたという。UNHCRが立案した移送作戦だった。

 部隊は緊張していたが警戒はしていなかったらしい。ビエンホアの主戦場は北の市境界線あたりだ。北部革命勢力はその名の通り、北から来る。カンボジア経由で国境越えしてくる連中もいれば、ハノイやダナンから遠路はるばる攻めてくる奴らもいる。

 だから、隣接するジーアンを避けて、南から脱出するルートで襲われるとは微塵も思っていなかった。

「市の外へ繋がる大通りに出た瞬間、いきなりテクニカルに乗った高機動部隊に奇襲されたんだ」

 フエは言った。

 最初の戦闘で、先頭のバスが通りに面するビルから無反動砲での狙撃を受けた。

 この攻撃で、運転手を含んだ乗客の一部が負傷し、一時バスは動けなくなってしまった。この動けなくなったバスというのが、さきほどぼくらが助けたバスだ。

 護衛部隊はすぐにジープを前にやってテクニカルに応戦したが、同じ場所に留まり続けていれば、的にされると考えたフエの部隊の隊長は、すぐに進路を反転し、来た道を引き返そうとした。

 それがまずかった。

 動けなくなった輸送バスを一台を残して、残りの二台で市内に引き返している最中に敵のテクニカルに先回りされてしまったのだ。

 いくらビエンホアが大都市だからといっても、大型の輸送バスがスピードを出して逃げられるほど、市街の道路は広くない。それにスアンロクが陥落してからというもの、市は敵の侵入に備え、バリケードが設置されていた。

 対して敵のテクニカルは機関銃を載せているといっても、もとはピックアップトラック等の通常車両だ。基本的に小回りは利くし、こういう入り組んだ街中での戦闘を得意としている。

 結局、路地の突き当たりに追い込まれた輸送バスは二台とも狭い路地で身動きが取れなくなってしまった。

 そこから先の展開は想像に難くない。

「俺たちのせいだ」

 フエはそう結論した。



 マーケットに戻るとジホたちが生き残った市民たちを手当てしていた。

「すまない。待たせたな」

「いえ、大丈夫です」

 ジホの前にはちょうど一人の女性がパイプ椅子に座り、治療を受けている最中だった。

 見れば、左の頬から肩に掛けて、びっしりとガラス片が突き刺さっていた。どうやら、爆風で吹き飛ばされた窓ガラス片をもろに浴びてしまったらしい。

 ジホは、そのガラス片の一つ一つをピンセットで丁寧に引き抜いてやっていた。ガラス片を抜いたあとは、傷口にワセリンを塗り、テープで傷を塞ぐ。女性は痛みに耐えるよう、膝の上で握りこぶしを作っていたが、騒いだりはしなかった。

 ジホらしい、丁寧で繊細な仕事だった。

「なにかぼくに手伝えることはあるか?」

「ここは俺たちだけで大丈夫です。それより、ジェイたちの方を手伝ってやってください。どうやら輸送バスが使えるかどうか、試しているみたいです」

「わかった」

 ジホがあっちですとゆびをさす。バスと一緒にジープも数台駐まっていた。どうやら、フエたちの部隊が移動させたらしい。

 広場を離れる前に、ぼくは集まっている市民の方をちらと見た。

 市民たちはみな所在なさげに俯いており、その顔には生気がなかった。

 車内に雪隠詰めの状況で、あれだけ集中砲火を浴びれば、生きた心地がしなかっただろう。それに、ほかの避難民を乗せていたバスがあの惨状とあっては、気落ちするのも当然だった。

 ぼくは後ろ髪を引かれる思いで広場を後にすると、輸送バスのもとへと向かった。

 バスの周りにはちょっとした人だかりができていた。

 フエたちの部隊だった。

 ぼくが現れると兵士たちは会話を中断し、露骨に感じの悪い視線を送ってきた。ちょうど一群の真ん中に、ぼくらが仕留めたテクニカル部隊兵士の死体が転がっていた。

 敵の死体を囲んで、品評会でもしているのだろうか。趣味の悪い連中だった。

 ぼくは彼らのあいだを縫うようにしてその只中に分け入った。

 兵士たちはみなベトナム語で会話していた。国軍では英語も話せるよう訓練されているはずだから、これはわざとぼくの関知できない言葉で喋っているのだ。

 なかには臆面もなく、すれ違いざまに何事かを囁いてみせる輩もいる。

 それらを無視して、ぼくはずんずんとバスの前まで歩いて行く。

 途中、ぼくは倒れている死体を眇め見た。数は四人。驚くことに、彼らにはまったく統一性というものがなかった。装備も身につけている迷彩もバラバラ。まず人種からして、四人が四人とも異なる人種だった。

 内訳は、ぼくと同じアジア系が一人。次にアフリカ系の黒人が一人。さらにアラブ系だろうか、彫りの深い顔立ちの白人が一人と、一般的なアングロサクソン系が一人。

 北部革命勢力の連中は、いつもこんなふうにして、ぼくらを戸惑わせる。

 彼らと戦っていると、自分たちが何と戦っているのか、いったい誰を相手にしているのか分からなくなる。

 民族同盟やアジア解放戦線という建前とは裏腹に、連中には連帯という概念が欠片も存在していない。ユーラシア一帯を巻き込んだ戦争とあって、勢力も単純な一枚岩では無いから、アジア人以外が戦闘に参加しているというのも理解できるが……。

 それでも各人が、このように主義主張を異にした別個の存在のように振る舞うものだから、そこに民族とか歴史とかといった大義名分を紐付けることすら難しい。そのせいで、ぼくはいつも目に見えない大きな敵と戦っているような錯覚に囚われていた。

 そもそも、彼らは何から解放されたがっているのか。本当になど望んでいるのだろうか。

 それが、ぼくがこの地に降りたってから、すぐに感じた違和感だった。

 しかしながら、そんなことを考えても意味の無いことだった。

 ぼくは考えを打ち切ると人だかりのなかを抜け、ジェイの姿を探した。

 ジェイは輸送バスの下に潜り込んで何やら作業をしていた。ぼくが声をかけると、キャスターが下がり、ジェイが顔を見せた。

「ああ、隊長」

「輸送バスを直しているのか」

「ええ、エンジンオイルが少し漏れていましたが、このバスはまだ使えます」

 ジェイはそういうと「グエン、どうだぁ」と叫んだ。

 叫んだ方向を見ると、グエンがタイヤをころころと転がしてやってきた。顔が少しやつれているが、爆撃のショックからはいくぶん立ち直ったらしい。

 後ろでフエの部隊の兵士たちが同じようにタイヤを抱えていた。

「駄目だ、全部パンクしている」

「それは困ったな。あちらさんのジープのスペアはどうだ?」

 ジェイがそう聞くと、グエンは後ろにいる兵士たちにベトナム語で何事か呼びかけた。兵士たちはグエンの言葉を聞いて首を横に振った。グエンはベトナム人ということで、彼らとも打ち解けている様子だった。

「ジープのタイヤだと、大きさが足りないんだそうだ。どっかでこの大型バスのサイズに合うタイヤを見繕わんことにはどうしようもないぞ」

「そんなものどこにあるって言うんだよ」

 ジェイが困ったように言った。

 ぼくは少し考えた。

「ハンヴィーのタイヤが使えるんじゃないか」

 ぼくはそう言って「ほら」とハンヴィーのタイヤの外径を測ってみせる。大きさはジェイの持っているタイヤと同じくらいだ。

 グエンが目を丸くする。

「うちのハンヴィーをですか」

「ああ、どっちみち、ぼくらの目的地は少し先の市内キャンプだ。ハンヴィーを一台潰すことになっても歩けばいい」

「たしかにそうですね」

 ジェイが持っていたタイヤを脇へと放りやった。ドスンと音を立て、砂埃が舞い上がる。一瞬、フエの部隊の兵士たちがこちらを見た。肩掛けした銃へと手が伸びかけていた。

 ビビり屋の馬鹿どもが。

「よし、ハンヴィーのタイヤを外すぞ」

ぼくがそう指示を出すと、後ろからぬっとフエが姿をあらわした。

「なにをしてる」

「バスを直せるかもしれない。ぼくらのハンヴィーのタイヤが使える」

「いいのか」

「キャンプはすぐそこだからね」

「そうじゃない。俺たちは恩義なんて感じないぞってことだ」

 ぼくとジェイはそこで顔を見合わせると、思わず大笑いした。

 それから、ぼくらはフエと協力して、ハンヴィーのタイヤを輸送バスへと取り付けていった。

 さすがに大型バスともなると、ハンヴィーのタイヤでも若干、車高が足りなくなるようだったが、そこはフエの部隊の工兵がサスペンション周りを調整することで事なきを得た。幅の広いタイヤがフェンダー部分から飛び出しているため、ちょっとしたモンスタートラックのようにも見える。

 無理やり車高を上げたため、地面と乗降口とのあいだに二〇インチほどの高さができていた。ぼくとジェイは即席でタラップを作ると、乗降口とのあいだにそれを噛ませる。

「アフターケアもばっちりってわけだ」

 フエは意味もなく笑うと、

「知ってるか。革命軍は塹壕から頭を出すとき、死体を足元に敷くんだそうだ。それでちょうどいい高さになる」

「知らないよ」

 ジェイが言った。

「知っといた方がいい。そいつが次に狙うのはお前さんの頭かもしれないんだ」

 フエは地面に唾を吐くと、手を挙げて市民たちを輸送バスへと呼び込んだ。

 フエの呼びかけに応じ、避難民たちが黙々と列を作っていく。誰ひとり、喋らない。声を発しない。物音を立てない。

 それを見て、ぼくはあっと思った。

 あれはもう生きている人間の世界、そのことわりとは外れたところにある。

 葬列。

 避難民の作る待機列はまさにそれだった。

「あんなん見てたらこっちまでおかしくなる」

 バスに乗り込む避難民を見て、ジェイがそう吐き捨てた。 

「あれは難民だ。ホーチミンに行けば、シェルターで保護されるよ」

「それはどうかな」

 と言ったのはフエだった。

「難民条約は、国境を超えることのないIDP国内避難民についてはとくに規定を設けていない。国際条約での保護もないし、政府の支援もなしとくれば、当然まともな働き口なんてのもない。まあ一種の棄民みたいなもんだ」

 フエが淡々とした口調で言った。同情の類を感じさせない、何かの実験報告でもしているような口ぶりだった。

「じゃあ、援助機関の支援は……」

「ない」

 フエはきっぱり言った。

「あの避難民も、本当だったら、ここに捨て置かれるはずの連中だったんだ。それを俺たち人民軍が好意で運んでやっている」

「避難計画はUNHCR主導じゃないのか」

「UNHCR主導だよ。主導してるだけだがな」

 ぼくは唖然として言葉も出なかった。

 フエは「そんなことも知らないのか」というふうに鼻を鳴らすと、大方の事情を説明してくれた。

 フエが言うには、UNHCRをはじめとした西側諸国の援助機関は計画だけは万事、子細に立てておきながら、その実行においてはいっさい自前の軍隊を使おうとはしなかったという。

「一応は、避難民の保護という名目になっているが、実情はビエンホアにいる政府関係者や在留外国人を逃がすための建前だ。それでも初めのうちは気前よくカーゴや輸送機の手配もしてくれたんだが……。官僚やVIPを移送し終えると、それも渋るようになった」

 フエはそう言うと、懐から何かを取り出して咥えた。ハシシだった。ぼくはぎょっとした。あまりに自然な所作で――それも国軍の兵士ともあろう人間が、公然と薬物を喫食しはじめたのだ。当然ながら、ぼくは正当に驚くタイミングを逃してしまった。

 くちゃくちゃとハシシを噛み砕く音と共に、牛舎のような匂いが漂ってくる。

「連中、途中で降ろしてやればよかったんだ。メコンデルタあたりに降ろしてやれば、多文化主義がどういうものか身に染みてわかるだろうよ」

 噛み終えたハシシと共に、フエはそう吐き捨てた。

 ぼくはそこでようやく理解した。

 フエがぼくらに向ける、この敵意のわけを。

 結局のところ、フエたちの所属する国軍は他国の人間のために良いように使われたのだ。自国民が危機に瀕するなか、ぼくらの飼い主に当たる西側諸国と関係を持つ政治家たちは悠々と、それこそ大手を振って、安全なホーチミンへと脱出したのだろう。そして代わりにやってきたのは、手綱もまともに握られていない、ぼくらのような平和維持軍だった。

 そうなのだ。フエの部隊の兵士たちが徹底してぼくら西側諸国の軍隊を毛嫌いする理由。それはたんにぼくらが別の国の兵士であるというだけが理由じゃなかった。ぼくらは犬だった。だから彼らはぼくらを嫌っている。つまりは手綱を握られていない犬に対しての軽蔑心。それが根底にあったわけだ。

 わかったところでどうしようもない。逆の立場であれば、ぼくだってそんな連中と同類扱いなどされたくはない。

「じゃあ、退避が遅れたのもそれが理由なのか」

「いや、それだけじゃない」

「というと」

 ぼくは率直に聞いた。

「移送しようとしても奴さんたち抵抗するんだ。尻尾巻いて逃げるのは面子が傷つくんだとさ」

「どういうことだ」

「言ったところで理解できない」

 フエが虚脱したようにため息をついた。どうやらハシシの成分が回ってきたらしい。

「お国柄さ。ベトナム人社会はとかく面子や外聞を重視する『礼儀の国』なんだ。それこそ、どっかの国の植民地になる前からな。だから人々はそれがどんな種類の勧告であろうと余所者の言うことは聞かない。ぜんぶ、運任せさ。あほなんだよ。結局、どうにもならないとわかってそこで大慌てする。それがベトナム人なんだ」

「ぼくの国もそうだ」

 フエは露骨に嘲るような笑みを浮かべ、

「あんた、日本人だろ。わからないとでも思ったか? あの国に生まれて、よく軍人なんてやろうと思ったな」

「ユーラシア戦線の片方は日本の目と鼻の先だ」

「じゃあ、なぜこんなところにいる。なぜお前は自分の国を守らない」

 フエが立て続けにそう言った。

 ぼくは思わずフエの方へと振り返った。敵意の籠もった眼差しが、ぼくに向かって一直線に伸びていた。

 ぼくはその追求に答えることができなかった。

 自分に向けられた敵意の苛烈さに気圧されたのもある。だが何より、ぼくのなかには『答え』がなかった。その問いに答えられるような『回答』と呼ぶべきものを何一つ持ち合わせていなかった。

 自分がなぜこんなところにいるのか、そもそもぼくは何かを守るために銃を手に取ったのか?

 ぼくはそういった疑問をすべて後回しにして、ここまで来た。

 そして同時にこうも考えている。

 そんなものは、大して重要な問題じゃない。

 自分のなかに明確な答えがなくとも、正義や大義といった正当なお題目がなくとも、そんなことは関係ない。

 ぼくのなかには怒りが満ちていた。憎悪が満ちていた。

 くそったれな世界に銃弾を叩き込んで破壊してやりたいと思っていた。同時に守るべき人々や社会がそこにあることもまた諒解していた。

 ぼくは人間の世界に生きていたい。野蛮な犬でも機械人形の人生でもない、おのれの信じるものをよすがに生きていく、そうした人生を歩んでいきたい。

 そして、それが人々を守ることや自分が善く生きていくことに繋がっていてほしいと心の底から思っている。そんな矛盾を解決できる答えがあるなら、ぼくは涙を流してそれに飛びつくだろう。そういう都合の良い解答をぼくはずっと探し続けている。

 フエが訊いていることとはつまりそういうことだろうか。

 ぼくはゆっくりと、自分の口調に怒りや憎悪が滲まないよう気をつけて言った。

「おそらく、君と同じ理由だよ……」

 フエは黙ってぼくの顔を見た。

 その眼差しが、ぼくの機械でできた瞳をのぞき込む。透明度の高く、屈曲率の極めて乏しい硬質セラミドガラスで出来た義眼の奥を。

 そして、ふっと笑うと、

「お互い不毛なことをやっているわけだ」

 そう言って、やれやれと首を横に振った。


 そのとき、最後の避難民がバスのタラップに足をかけた。バスの乗降口からグエンが降りてきて、避難民の乗り込みが完了したことを告げた。

「さてと、俺たちもお暇させていただくよ」

 フエが部隊の隊員たちにベトナム語で何ごとか指示を出した。隊員たちはフエの指示に従い、各々ジープに荷物を積み込んでいく。うち一人が輸送バスの運転席に乗り込んだ。負傷した運転手の代理らしい。

「これからどうするんだ。またキャンプに引き返すのか」

 ぼくはフエに訊いた。

「いや残った市民をホーチミンに連れて行く。犠牲者が出たとはいえ、まだ生き残りがいるんだ。俺は自分の使命をまっとうしたい」

「じゃあ、ここでお別れか」

「そういうことだ」

 ぼくはそこで思い出した。

「そうだ。ホーチミンへ入る際は気をつけろ。橋を渡るのは危険かもしれない」

「なぜだ」

「ぼくらのキャンプを襲った連中のヘリがホーチミンに向かって飛んでいったんだ」

「ありえない」

 フエは即座に断言した。

「ぼくもそう思ったが、事実そうなんだよ。途中までマーカーがついている」

「途中で進路を変えて北か南に行ったんだろう」

「なら、そのまま北上するか南下すればいい。わざわざホーチミンに近づく必要は無いはずだ」

 フエはチッチッと歯ぎしりのような舌打ちをすると、「甘いな」とぼくの前で指を振った。

「そうじゃない理由があると」

 ぼくはそう聞いた。

 フエは「そんな難しい話じゃない」と言う。

「連中、たんに狂ってるのさ。こんな辺境までテクニカルで来るような奴らだ。頭のネジが一本ぐらい吹き飛んでいてもおかしくはない」

「たしかに」

 ジェイがそこで声を上げて笑った。

 ぼくとフエが黙っていると、ジェイはすぐさま恥じ入るように俯いた。

「結局、全方位からホーチミンを落とそうとしていると考えれば矛盾はない。実際、その狂った連中に俺たちはまんまとしてやられたんだ。充分ありえるよ」

 フエがそう言ったので、ぼくは「そうだな」と頷いた。

 少しの間があったのち、

「それで?」

 とフエが聞いた。お前たちの方はこれからどうするの意味だろう。

「ぼくらはビエンホアのキャンプに行く。とにもかくにも、まともな通信設備のあるところで本部と連絡を取りたい」

「そうか。じゃあ、無事にたどり着けるといいな」

 そう言って、フエがぼくに手を差し出した。ぼくは最初、差し出された手をぽかんと見つめていた。

「握手だよ」

 ぼくは驚いてフエを見た。フエが早くしろと言わんばかりに顎をしゃくった。 

 そしてぼくは今度こそ差し出されたその手を握った。

 瞬間、フエが握った腕ごとぼくを引き寄せた。

「あんた、お人好しだから忠告してやる。ビエンホアは今、きな臭い状況になってる」

「きな臭い?」

「キャンプの連中が言っていたんだ。何でもホーチミンからの亡命者が市内に逃げ込んでいるらしい……」

「……」

「元共産党幹部だとか、亡命科学者だとか……。まあ噂もいいところだが、普通じゃないことはたしかだ。せいぜい気をつけるんだな」

 そして、フエはぱっと手を離すと、踵を返してスタスタと歩き去って行く。

 ぼくは最後にフエの背中に「どうしてだ?」と声を掛けた。

「なにが?」

「どうして、ぼくにそんなことを教えてくれたんだ」

「なんでかって?」

 フエはそこでにかっと歯を見せて笑った。

「簡単だよ。ベトナム人は噂好きでもあるんだ」

 それはフエがぼくに見せた、初めての屈託ない笑顔だった。



 フエたちが行った後、ぼくらは少し休憩することにした。昨日から一睡もせずに行動していたので、みなの体力も限界にきていたのだ。

 敵に視認されない程度の明かりで火を起こし、少量の加糖溶液のスープを啜り、無機塩のカプセルを飲み込むと、みな泥のように眠り始めた。

 やはり疲れていたのだ。気を張って、コップを振り回し、時代遅れのポップソングを歌っていたドヒョンも、ぼくがあくびを噛み殺したわずかな隙に寝入ってしまった。

 一方、ぼくはというと、まったく眠ることができなかった。

 特別、目が冴えているわけでもない。

 心拍も血圧も通常どおりだし、モニタする限りは血中ホルモン濃度にも異常な数値を示すものはない。

 ただ、ぼくの身体がいつもどおり起きて活動を続けられる状態にあるというだけで、それ以外にいまのぼくの状況を言いあらわすことはできなかった。

 ただ、夜の空がやたらと明るく見えるのは不思議だった。

 以前は気にもしていなかった星々の光がいまでははっきりと見えた。おそらく眼球がすべての光をつぶさに捉えようとしているのだろう。戦闘の一瞬、時間が止まって見えることがある。敵の銃口から瞬く、銃火の閃光から目が離せなくなる時がある。

 そういう一瞬がぼくのなかで当たり前になり始めていた。

「眠れないのですか?」

 闇のなかから声が響いた。

 ちょうど、ぼくから見て建物の陰になった場所から、声の主がこちらに歩いてくるのがわかった。

 誰なのかは声で見当がついた。

「ジホか」

「ええ」

 ジホの顔が陰からぬっと現れた。おそらく、陰のなかにいるジホの側からは、月明かりの下にいるぼくがはっきりと見えるだろう。しかし、ぼくはそうではない。ぼくには、陰から顔だけを出すジホが幽霊かなにかに見えた。

 光はよく見えても、闇はというとまだよく見えなかった。

「少しでも寝ないと。明日に響きますよ」

「わかっているんだけど、寝付けないんだ」

「なにか気がかりなことが?」

 ジホが聞いた。

「いやただ眠くないんだ。無理矢理にでも寝るべきかな」

 ぼくは手に持った錠剤のシートをひらひらと振ってみせた。成分はただの抗生物質だが副作用で眠くなる。部隊では、これをラッパ飲みにして寝る者もいるぐらいだ。

「ええ、そうですね。」

「そうか」

 ぼくは頷くと、シートから錠剤を外していく。パチ、パチと小気味いい音を立てて、丸い錠剤を四錠、ぼくは自分の手のひらに落としていった。そしてそれを加糖溶液のスープで流し込んだ。

「薬が効くまで付き合いますよ」

「助かるよ」

 ジホはぼくの前に座ると、手元の薪からなるべく小さいものを選んで火のなかに入れた。枝は炎を上げることなくゆっくりと燃えていった。ジホはその熾火を眺めながら、ぼくが話すのをじっと待っていた。いつもの愛想のないジホだった。

 とはいえ、いまのぼくには話せるような話題もない。正直に言えば、昨日から色々なことがあったせいで、まだ頭のなかを整理できていない状況なのだ。

 ぼくが黙っていると、ジホがふと口を開いた。

「こうしていると、子どもの頃を思い出します……」

「子どもの頃?」

「ええ、むかしはよく家族と一緒に焚火を囲んでいたんです。家に小さな庭があって、そこで火を起こして、夜空を見ながら語らいました。父が望遠鏡を持っていて、それを弟と二人で夢中になって覗いていたのを憶えています」

 そう言ってジホは懐かしむように目を細めた。それだけで、いつものあの超然としたジホの表情がいくらか柔らかいものに見えた。

 意外だった。てっきりぼくは、ジホという男をかなりのところ孤高な性格であると思っていたので、そういう家族との遍歴を話したり、その最中に顔をほころばせたりする人間であると思っていなかったのだ。

 そんなぼくの考えを見透かしたのか、ジホがこちらを見て苦笑した。

「やはり、似合わないですか」

「いや、そんなことはない」

 ぼくは急いでそう言うものの、ジホは「いいんです。俺も柄じゃないと思っていますから」と笑って言った。

「でも意外だったな。ジホに弟がいたなんて」

「そうですか?」

「ああ。てっきり、ジホはぼくみたいに一人っ子だと思っていたんだ。なんでだろう」

「それもよく言われます。おそらく、他人と関わらないところが、少しマイペースな性格に捉えられているんでしょう」

「じゃあ、ぼくもマイペースな人間だと思われているってことかな?」

「ええ、それは常々……」

「そこは否定するところだろ?」

「そこが隊長のいいところだと、俺はそう思っていますから」

 ジホがそう言って笑った。釣られてぼくも笑っていた。

 ぼくはこれまでジホと会話らしい会話をしたことがなかった。

 それは部隊の編成上の理由もあるが、さきほどジホが言ったとおり、ぼくもジホも積極的に他人と関わろうとしないことがその遠因だと言える。

 だから、こうして他愛もない遣り取りに花を咲かせていることには一種の驚きがある。それこそ、今回のような状況でもなければ、話すことも、その人となりを知り合うことも――もしかしたら一生――なかったのだろうと思うと感慨深いものがあった。

 それはそれとして、ぼくは自分の性根を疑っている。

 ぼくは同じ釜の飯を食うメンバーのことを知らなかった。

 それはつまり、自分の指揮下にある人間のことをまともに知りもせず、いままでそのコントロール下に置いていたということだ。

 その事実はぼくのなかに不思議な衝撃をもたらした。

 それがどんな理由によるものか。正直なところ、自分にもわからなかった。


「ひとつ訊いてもいいですか?」

 出し抜けにジホがそう訊いてきた。

「ああ、かまわないけど……」

「隊長はどうして戦っているんですか?」

 質問の意図がわからず、ぼくは戸惑った。

「それは……今回の作戦にどういう経緯で参加することになったのか、ということか?」

「いえ、違います」

 ジホがすぐさま否定した。

「俺が聞きたいのは、隊長がどうして軍人になろうと思ったのかということです。数ある選択肢のなかで、どうして戦場に行くことを選んだのかということです」

「ただの成り行きだよ。ぼくは後方支援のエンジニアでもよかったんだ。たまたまこっちに適正があったってだけさ……」

「そうでしょうか。俺にはそうは思えません」

「でも、本当のことだ」

 ぼくはそう言った。そう言うしかなかったからだ。

 たしかに、はじめはTMI社の機能性代替ボディを手に入れられるのなら何でもする覚悟があった。それこそ、銃で人を撃ち殺すのだって。しかし、現実というのはそこまで悪意のあるものでもなかった。

 ぼくには、日常生活にはオーバースペックな機能性代替ボディを手に入れても、空調の効いた作戦司令部でぼんやりとできる自由、言うなれば職業選択の自由があった。そういう人生を選ぶ道も提示されていた。

 ただ、作戦室のあの窮屈な感じ――隙間なく並べられたコンパートメントから肘がはみ出ないよう、みなが腕を脇にぴったりくっつけている光景――がぼくには嫌だったというだけで、結局、当初の想定どおり、ぼくは執行部隊オペレーターの一人として、ここにいる。

 だから、ぼくはこう言うしかないのだ。現にそうなっているものの理屈をいくら疑ってみたところで仕方が無い。むしろジホがなにを根拠にそう言っているのか、ぼくには理解できなかった。

「逆にジホはどうしてそう思うんだ?」

 ぼくがそう訊くと、ジホは間を置かずに、

「隊長を見て、そう感じたからです」 

「感じる……」

「ええ、ある種の信念と言ってもいいかもしれません。隊長からはそれを感じるんです」

「待ってくれ。話が飛躍している」

「俺は思うんです。人が生きていくには何か信じるに値するものがなければいけないと……」

「何を言っているんだ?」

 ぼくは驚きにジホの顔をのぞき込んだ。それでもジホは表情ひとつ変えない。ただ何事か思案するよう目を伏せ、じっと目をつむっているだけだった。

 暗闇のなか、薪の弾けるパチッという音だけが静寂のなか響き渡る。

 ジホはゆっくりと目を開けた。

「俺の両親は戦争で死にました……。第一次ユーラシア防衛線です。弟には障害が残り、俺は自分の食い扶持と弟の治療費を稼ぐために軍隊に志願しました」

 突然のジホの告白に、ぼくは何も言えなかった。

「辛い時代だと思いました。俺自身、軍に入るまでは生き延びることだけで精一杯の毎日でした。それでも何かしなければと思ったんです。こんな悲惨を産むシステムは止めるべきだと、これ以上、両親や弟のような犠牲を出すようなことがあってはならないと」

「ジホが戦っているのも……」

「ええ、そうです」

 そう言って、ジホは力強く頷いた。

「俺はこの世界を少しでも善くするために戦っています。馬鹿げた考えに思えるかもしれませんが、そのために軍隊に入ったんです。そして、それがどれだけ現実離れした『妄想』の類いであるかは……。言わなくとも理解できると思います」

 ぼくはジホの話を黙って聞いていた。ここで「そんなことはない」と言うのは簡単だったが、それは意味のない言葉だった。

 ジホは続けて、

「政府の統計によれば、兵士の大半はペイの良さに引かれて軍の敷居を跨いでいるというデータが出ています。金のため、使い勝手の良いボディのため……。つまりは純然たる金銭欲ですが、俺はそれが悪いことだとは思いません。

 ですが、一方ではそのことに納得していない自分もいました。戦争で家族や友人を奪われた人たち。あるいはこれから起こる戦争から故郷を守ろうとする人たち。そういう人たちが軍に入り、戦場行きを志願する……。俺が想像していたのはそんな世界だったからです。俺は馬鹿でしたが、そこで一つの世界と出会いました。言って良ければ、本当の意味で強度ある世界を知ったんです」

 そう一息に言い終えて、ジホは再度ぼくの方を見た。

 依然として、ぼくはジホの言葉に反応できないでいた。ぼくは考えた。これまで、ぼくを動かしてきたものは何だろうか。

 金銭欲? 名誉心? 四肢の付いた丈夫な身体? はたまた人としての正しき心?

 そのどれでもであると言えたし、どれでもないとも言えた。

 たしかにこの二日間、ぼくの下してきた判断の多くは、分隊長の領分をはるかに超えるものではあった。指揮命令系統が喪失したにも関わらず、小隊の先導に加えて、独断で軍事行動の指揮まで執り行うとは。国際法違反であるという指摘はさておき、その並外れた行動力には、ほかならぬぼく自身が驚いている。

 しかし、だからといって、ぼくの行動にジホが言うような『信念』があったかと言われれば、そうは思わない。まず第一に、信念とは無縁の現実的な判断というやつが、ぼくのなかにはあって、ぼくはそれに唯々諾々と従ってきたにすぎないのだから。

「ジホの言いたいことはわかった。それでも、ぼくはジホが思うような人間じゃない」

 ぼくは静かにそう言った。

 開き直るわけでも、卑下するわけでもない。あくまで、ぼくという人間を穿った見方をせずに知ってほしいという思いからだった。

 それでもジホは納得した様子を見せずに、

「しかし、隊長がいなければ俺たちはここまで来ることはできなかった。全滅だってありえたかもしれません」 

 そう言って、熾火越しからぼくのことをすがめて見た。

 やはりなにか確信があってのことなのか。ぼくはそこで言いようのない違和感のようなものを感じる。なにがそこまでジホにそう思わせるのか。

 ぼくは言う。

「たしかに部隊をここまで指揮してきたのはぼくだ。でも、それはあくまで標準作戦規定SOPに則った判断に過ぎないよ。ぼくが指揮しなくとも部隊は生き残っていたはずさ。そこに個人の資質は関係ない」

「それは結果論というものです」

「すべての結果に理由があると考えることこそ結果論だよ」

 ここまで言ってもなお、ジホは引き下がらなかった。

「ええ、そのとおりです。ですが、感情論に依らない話もできるはずです。隊長が突入前に見せた態度や人民軍の連中と同調するように話していたことの理由について、俺たちは知る必要があると思っています」

「正直に言ってくれ。ぼくの指揮に不満があったのか」

「そうじゃありません」

 ジホが声を荒げて言った。

「俺は自分が信じているものの正体を見極めたいだけです。なぜ、それがわからないんです?」

 ぼくはそこでジホの強烈な眼差しに射すくめられた。

 その意志の強さに圧倒されたと言ってもいい。

「どうしてだ」

 ぼくは言った。

「どうして、ぼくなんだ?」

 ジホは迷い無く、ぼくのことを正面から見据えると、

「隊長からは生きる意志を、何としてでも生き残ろうという執念を感じるからです。それは一種のカリスマと言い換えてもいいかもしれません」

「カリスマ……」

「いくら高度に軍事化され、システム化された戦闘においても、そこで生き延びることができるのはストレス耐性の高い、粗野で大雑把な人間――つまり、タフな人間です。生きることについて、ある程度の冗長さを持っていなければ、戦場という極限状況に対しても、またその後に待つ銃後の世界というものにも適応することはできない」

 ぼくは頷いた。タフでなければならないという考えに異論はなかった。

「ピアノ奏者は銃弾で手をもぎ取られれば自殺するでしょう。同様に顎と鼻を吹き飛ばされれば、どんな人間でも社会生活に支障が生じる。パスカルは天然痘はその人の美しさのみを殺すと言いましたが、まさにそういう状況、その極北で人間が生きるには、肉体的にも精神的にもマッチョであることが必要不可欠です」

「でも、ぼくはその手のマッチョじゃない」

 ジホはそこでかぶりを振って、

「結論はまだ早いです。俺が言いたいのは、その手のマッチョでさえ生きることをしばしば簡単に諦めてしまうことがあるということです。

 隊長も見たでしょう。たった一発の爆撃、それだけでグエンやデルタの連中が一瞬で使いものにならなくなった。彼らは爆撃のショックでああなったんじゃない。あらゆるすべてを自由に判断しなければいけない状況に陥って、逆に何も出来なくなってしまったんです」

 たしかにジホの言うとおりだった。あのとき部隊を襲っていた恐慌状態は、死の恐怖からくるものではなかった。あれは自分の判断がこの後の生死を分けるかもしれないという状況そのものに対する恐怖だった。しかし、それでもぼくはジホの言うことには納得できなかった。

「でも、ぼくらは軍の訓練でフリーズしないこと、戦場で思考を止めないことの重要性を叩きこまれたはずだ。状況から絶えず意味をくみ取り、考え続ける力こそ、ぼくらが培ってきた生き残りのスキルのはずだ」

 ぼくの主張に、ジホはあくまで冷然と否定NOの言葉を突き付けた。

「違います。訓練とは、隊長の言うような考える力――つまりは刺激と反応のあいだにある意識的な空白を兵士から奪うためにあるものです。銃弾飛び交うなかで、自己保存の欲求と利他行動のロジックとを別個に駆動させることはできません」

「兵卒はそれでいいかもしれない。でも士官クラスの訓練はそうもいかない」

 ぼくは意固地になって言い返す。苦し紛れの反論だった。

 ジホは「それも同じことです」と断言すると、

「ある状況における肉体レベルでの反応――銃を構え狙いを付けるということと、戦術・戦略レベルで高度に軍事的、政治的判断を下すことの違いは、とどのつまり処理すべき問題、その複雑さの違いでしかない。もちろん、こういう単純化に意味はないし、現実を無視した仮定の話ですが……。

 それでも規律訓練の目指すところが、個を埋没させ、その資質や判断を超えたところで集団を運用することにあるのは事実です。でなければ、俺たちが基地でやってきた演習も、そして有史以来、軍隊というシステムが構築してきた身体操作に関するメソッドも意味あるものとして説明できなくなる。そうでしょう?」

 そう言って、ジホは同意を求めるように顎をしゃくった。

 ぼくは否定も肯定もしなかった。事ここに来て、ぼくは完全に飲まれつつあったのだ。このジホという青年の異常なまでの饒舌さ、その語り口の滑らかさに。

 それはある意味では、ぼくがこれまで抱いていたジホのイメージを一八〇度かえるものだった。そして、いまではそこに別のものを見ている。それは、伝道者あるいは巡礼者が持ち得る神の普遍性を過剰なまでに信じる精神性、つまり狂気に近い感情だった。

 そこでぼくは気が付いた。ジホがぼくのなかに見ようとしているにも、これと同じものなのだ。

 規律や規範といったものを超えて、意思を駆動させる力。

 つまり、それこそが――

「カリスマだっていうのか……」

 ジホは無言で頷いた。

「とはいえ、ここでいうカリスマはたんに人を魅了するという意味でのカリスマではありません。それは世界に対する非情さ、世界そのものが非情であることを受け入れる態度、そして、そういう非情さを持って世界と対峙しようとする人生全般の姿勢、とでも言いましょうか」

「平和な世界を望む人間が、一方では生き残りのための残忍さを容認していると?」

 ジホはそこで鼻を鳴らして、

「俺からすれば、平和だってカリスマですよ。平和が尊いものだと、安寧が善いものであると、そう根拠なく胸を張れるのは充分にカリスマ的です」

「ぼくにはわからないな……」

 ぼくは言った。相変わらず、ぼくにはジホの言っていることはわからない。しかし、この対話を経る前と後では、何かが決定的に変わってしまった。そんな気がしてならなかった。

 ジホはぼくの方を見やると、

「では、なおさら知らなくては……」

「……」

「自分のなかにあるものを、自分に力を与えるものを……。あなたは知らなくてはならない」

「ぼくのなかにあるもの……」

 そのとき、不意に目の前の視界が彩度を落としたように色褪せた。次いで上体がやけに重たく感じ、気づけば自分が舟をこいでいることに気が付いた。

 薬が効いてきたのだ。

 ジホもそれに気づいたのか、

「俺としたことが喋りすぎました……」

 そう言って、ジホはぼくに背を向けると「もう寝ましょう」と言って横になった。

 ぼくは「ああ」と頷くと、自分もすぐ仰向けになった。

 顔を横に向けると、すぐそばに火の消えかかった熾火がある。

 ぼくはそれに手をかざす。ほんのわずかだが、その熱を手の平に感じることができた。

 ぼくはその温もりに安心して目を閉じた。



 瞼のうらにぼんやりと光を感じ、ぼくは目を開けた。

 ビルの隙間から今日、最初の朝日が顔を覗かせていた。光の筋としてしか見えないそれをぼくは眼球側の偏向フィルタを調節して眩しくないよう減光する。こうして世界から一段階、彩度を落とすたびに、自分の感覚もまた鈍くなっていくように感じる。

 結局、ぼくは眠ることができなかった。

 薬の副作用による酩酊で、一時は眠気の尻尾のようなものを鼻先に感じてはいたものの、寝入る一歩手前で、それをつかみ損ねてしまったのだ。以降、目が冴えてしまい、ぼくは仕方なく目を閉じたままにしていた。

 ただ、まったく眠れなかったというわけでもない。目を閉じているあいだ、ぼくはまどろみのなかで今日のことを振り返っていた。

 そのあてどない瞑想のなかで、ぼくは自分や部隊の動きで不味かったところがないか、細部まで逐一、検めることができた。こんなことは初めてだった。脳内で、あらゆる動きを細部まで映像として再生することができた。ぼくが「ストップ」と言えば、その映像は静止するし、そこに新たに別の要素を加えて、架空のシミュレーションを作ることも自由自在だ。まるでストップモーション映画の監督にでもなった気分だった。

 この明晰さは、普段のぼくには無いものだった。おそらく直前に飲んだ抗生物質の作用だろう。

 そういう意味では、この手の全能感に浸るのは危険なのかもしれない。しかし戦場で考える健康上の危険リスクほど馬鹿げた話もないとぼくは思う。

 戦場でタバコを吸うことによる肺がんのリスク、死地を共にした仲間と酌み交わす酒による肝硬変のリスク。土壌表面に付着した放射性物質によるリスク。

 みな戦場で頭をぶち抜かれるリスクに比べれば、無視できるほど微々たるものだ。

 さすがにアルコールによる酩酊は作戦行動に支障をきたすので、許容することはできないが、これらのリスクを過大視する傾向は、言ってしまえば目の前にある死の危険性を正しく認識できていないことの表れだとも言える。

 そうはいっても、近年、戦場でがんになることを恐れ、タバコも酒もやらないと宣言する兵士たちの数は年々増え続ける一方だった。ぼくが思うに連中は全員死んだ方がいい。がんになるまえに7.62×51ミリ高速弾頭で肺か肝臓に穴を開けられれば、自分の身体が癌細胞に侵されるイメージに毎夜おびえる必要もなくなるだろう。どちらにせよ、硝煙で肺が燻されていることに変わりないのだから。

 この不思議な全能感のもと、ぼくはこの先のことを考えた。

 今回の作戦が終わったら、ぼくはいったいどうするのだろうか。また新たな戦地へ行くのだろうか。以前ならそうしていただろう。そのことに疑問すら覚えず、次に激しい戦闘が起こりそうな場所に目途をつけ、上官にそれとなく敵情視察を行う。

 もちろん上官は泣きださんばかりに大喜びする。通常、危険度の高い地域には誰も行きたがらないからだ。管理者の立場でもある少佐や中佐にとって、管理下にある部下の人事評価は自身の評価に直結する。昇進も給与等級ペイグレードもそこから決定されるとなると、ぼくのような志願兵の存在は彼らにとってまさに福音だろう。いかに負い目なく部下を死地にやれるか、それが将校の人生に横たわるもっとも卑近の問題なのだから。

 しかし、いまのぼくは明らかに自分の生存のリスクを勘定にいれていた。自分が生き残り、その後の人生をまっとうする前提のもと諸々の判断を行っていた。一見、普通のことのように思えるが、ぼくからすれば、これは目に見えて大きな変化だ。

 それがどんな理由によるものか、ぼく自身、まだ判然としていない。ひとつ確実に言えることは、昨夜のジホとの会話がぼくの心境に何かしらの影響を与えたということだった。

 それがどんなロジックで、どのような変化をぼくにもたらしたのか。

 ぼくはまだその筋道を明らかにできていない。

 

 

 ぼくはあらためて、ゆっくりと目を開けた。

 周囲の物音から、すでに起床している隊員たちが動き始めているのはわかっていた。出発時刻まで、まだ猶予はあったが、みな何かに取り憑かれたように出発の準備を固めている。

 ぼくが顔を上げると、横にいたジェイが「おはようございます」とこちらに声を掛けた。

「おはよう。なんだかやけに急ぐな」

「ビエンホア基地はすぐそこですからね。みな早く終わらせたいんでしょう」

 ジェイはそう言うと、器用にも顔をこちらに向けたまま、バックパックの紐を締め終えた。ふっと一息つき、ジェイは腰を下ろすと、焚き起こした熾火からコップをふたつ取った。

「コーヒーです。飲みますか?」

 ぼくが断ると、ジェイは不思議な顔をして、その場に片方を捨てた。

 ジェイはコーヒーを啜りながら、

「ビエンホアでは、俺たちはどういう扱いになるんでしょうね」

「本部と連絡を取ることができれば、おのずと決まるはずさ」

「守備隊に再編入されるんでしょうか……」

 ジェイが不安そうに言った。

 主語が無いのでわからないが、おそらく、ぼくらが急ごしらえの部隊としてビエンホアに配備されることを恐れているのだろう。

「ビエンホアの部隊は、ぼくらが帰るために輸送機を使わせてくれるかもしれない。まあ本部はよく思わないだろうけどね」

「そうですか」

 ジェイは心あらずといったふうに頷いた。

「なんにせよ、生き残っただけでも勲章ものさ。手当だってたっぷり貰えるかもしれない」

 ぼくはそう言って、ジェイの肩を軽く叩いた。

 ジェイを励ます目的もあったが、事実として、PTSDまっしぐらの兵士を無碍にすることはいまのリベラルな軍隊にはできないことだった。いくら兵士の単価が下がったとはいえ、作戦の発注元は国際社会の代弁者である国際司法裁判所ICJである。なにより、ぼくらが属しているのは、どうしようもなく民主主義的な国家なのだ。間違っても、民兵や第三国兵士のようなマージナルな立場に身を置くことは許されていない。

「とにかく、本部と連絡を取ることが最優先だ。キャンプを襲ったヘリについて詳細な分析をしなくちゃならない。あれがホーチミン方面に向かっていったかどうかは、本部にとって重要な情報になる。わかるだろ?」

 ジェイはうつむいたまま、ぼくの目を見ようとしなかった。ふと、見込み無しという言葉が頭をよぎる。ぼくはため息をついて、

「ぼくはあの連中の正体を突き止めたい。だからマーカーを解析したジェイには、ぼくと一緒に基地での聴取に参加してほしいんだ」

 ジェイはそこで顔を上げると

「聴取ですか?」

「ああ。まだ確定じゃないがするつもりだよ。本部も、防衛任務にあたるよりはそっちを優先した方がいいと判断すると思う」

 それを聞いて、ジェイは俄然乗り気になったのか、

「そうと決まれば、部隊と合流した際の段取りを考えなきゃですね……」

 と浮ついた調子で言った。

「ありがとう、助かるよ」

 ぼくはそう言って、再度、ジェイの肩に手を置いた。

「ところでアイスンはどこに行ったんだ?」

「アイスンですか?」

「ぼくらのなかで最初に爆撃に気づいたのがアイスンだ。聴取を取るなら、一緒に来てもらわないと……」

 ジェイは「ああ」と頷くと、

「ちょっと待っていてください。奴は先遣隊の連中といたので前の方にいるはずです。探してきますよ」

 そうして、ジェイは立ち上がると、そのままアイスンの名前を呼びながら、部隊の前方へと歩いていった。ぼくも立ち上がると、いつ出発してもいいように装備を整える。

 いつしか、ぼくの周りを隊員が取り囲んでいた。時刻を確認すると、まだ出発時刻にはなっていなかったが、みながもう出発する気でいた。

 ほどなく各人がめいめいに歩き始める。そうして誰が指示したわけでもないのに部隊は勝手に出発したのだった。



 結局、ジェイがやってこないので、ぼくは前を歩いているジホのもとへと駆け寄った。ぼくらのハンヴィーはちょうど解体してしまったので、基地までは徒歩で向かうことになっていた。

「昨日のこと、すこし考えてみたよ」

 唐突だったが、ぼくはそう切り出した。

「そうですか」

 ジホはとくに驚くわけでもなく、「それで」と自然な調子でぼくを促した。

「母親に会いに行こうと思うんだ」

「お母さまに、ですか」

「ぼくの母親のこと、ジホには話したっけ……」

「いえ。ですが、ある程度は聞いています」

「そうか……」

 つかの間、すこしの沈黙があった。お互いの歩く音、押し固められた土を踏みならす乾いた音だけが響いていた。

 ぼくは決心して、

「じつはもう少しでボディペイメントの支払いにも目途がつきそうなんだ。あと一度か二度、今回みたいな出征があれば完済できる」

「完済とは、おめでとうございます」

 ジホが驚いた表情で言う。その声音から他意がないことを感じて、ぼくはすこし安堵した。

 金払いのいい軍隊にあっても、ボディペイメントを完済できる兵士はそう多くはない。ジホのように身内に仕送りをしながら当てのない倹約生活を続けている者もいれば、戦場でのストレスや負傷で医療費や代替ボディのメンテナンス費ばかりが嵩んでしまうという者もいる。そういう手前、みずからの懐事情を明かすことで、余計な詮索を生むようなことはしたくなかった。

 とはいえ、ジホという人間の人となりを考えれば、ぼくの考えていたことはまったくの杞憂に過ぎないことだった。

 ぼくはそこでもうすこし踏み込んでみることにした。

「次の任務では上に配置転換も掛け合ってみようと思っているんだ。比較的安全な後方支援でポストを探してみようと思っている。前途は長いが、生きることについて前向きに考えてみるよ」

 ジホは信じられないというふうに目を見張って、

「驚きました。なにが隊長をそこまで変えたんです?」

「自分の根本となる経験と向き合えと言ったのはジホだろう?」

 ジホは「たしかにそうでしたね」と屈託ない笑みを浮かべて、

「それで、お母さまとはどんなお話を?」

 ぼくはそこで苦笑する。

「それがまだ決めてないんだ。というより、なにを話していいか見当もつかない」

 実際、母とは相続放棄の手続き以来、直接会うことも連絡を取り合うことも一切していない。ただ、ぼくと母のあいだを取り持った司法書士は、いまでもぼくの登記やボディペイメント関連の処理を担当している。母とぼくのチャンネルはまだ繋がっている。

 ぼくは「おかしな話だろ」と少しばかり同情を誘ってみるような言い方をした。

「ネットワークのステータスを見れば、母がオンラインにいることはすぐにわかる。それどころか、やろうと思えば、ぼくも母も互いの生活のもっと細かいディテールまで知ることができる。なのに、ぼくも母もそうしなかった。この十年、ぼくらは互いが見えていないかのように振舞ってきたんだ」

「だから意味はないと?」

 怪訝そうな表情を浮かべて、ジホが言った。

「そうは言ってない。ただ、いまさら会ったところで何か変わるとは思えないというだけだよ。ぼくも母も、長いことそうやって他人を演じてきたんだから、それがぼくと母のあいだで自然な関係なんじゃないかって、そう思うんだ」

「それは隊長がそう思いたい、という話でしょうか」

 不意にそんなことを言われたものだから、ぼくは驚いてジホの方を振り返る。ジホはジホでそんなぼくを横目で一瞥するのみで、ぼくにはその発言の意図が分からなかった。

 何かジホの気に障るようなことでも言ったのか――ぼくはそう思い、自分の発言を思い返してみる。しかしジホはそんなぼくの困惑を「そうではない」と否定して、

「俺がわからないのは、何が隊長をそこまで頑なにさせているのかということですよ」

「頑な? ぼくが?」

「ええ、そうでしょう」ジホはそう同意を求めるようにして言う。「たしかに隊長の境遇は恵まれたものだとは言えません。物別れな関係というものを考えれば、隊長とお母さまのあいだにそういう余地があるのは事実ですからね。しかし、だからといって対話すること自体、まるで意味が無いかのような物言いには……。正直、理解しがたいです」

「理解も何も……。ぼくと母との関係をジホが理解する必要はないよ。それに、ぼくの母についてジホは何も知らないだろう? なら、どうして当事者であるぼくの判断について、そこまでとやかく言えるんだ?」

「ですが隊長だって、もう何年も会っていないのでしょう……」

 何気ないその一言に、ぼくは一瞬、頭を殴られたかのような衝撃に襲われた。

「当たり前ですが、永遠不変の関係などありません。人と人との関係について語るのであれば、それはおのずと双方のあいだに流れた年月というのを加味しなくてはならないでしょう。そして、十年という歳月がどれほど長いものであるかは、わざわざ言う必要もないはずです」

 十年。正確に言えば、十と一年と三か月弱。

 それほどまでに長い時間が、ただ無為に過ぎ去っていったのだ。ぼくと母とのあいだを。そして、その過程で母の存在は完全に過去のものとなっていた。言ってよければ、赤の他人ということだけど、そこまで達観して受け入れるには血のつながりという縁はあまりに強い因縁だ。

 そう、ぼくは認めなければならない。ジホの言うとおり、ぼくが母について語ったことは所詮、憶測に過ぎない話だ。ぼくが母を敬遠しているように、母もぼくのことを敬遠しているだろうと思うのは、つまるところ、ぼくがそう思いたいからだった。 

 ぼくはそこで唇を噛んだ。いまぼくは言葉にするにはあまりに明け透けな内心を吐露しようとしていた。それはいままでぼくが試みてきた、どんな種類の対話とも違うものだ。訓練のしようのない、意志によってのみ遂行され得る行為だった。

「ぼくはこれまで、母のことは考えないようにして生きてきた。正直、自分でも母さんのことをどう思っているかわからないんだ。憎んだり、軽蔑したりすればよかったのかもしれない。そうやって、母さんのことをどこかに位置づけていれば、いまよりずっと楽でいられたのかもしれない。

 でも、事実として、ぼくはそんなふうには感じていない。そんなふうに母さんを思ったことはないんだよ。ぼくはいまでも母さんのことを育ての親だと思っているし、それと同時に母さんを一人の自由な人間として尊重したいとも思っている。そして、母さんは尊重されるべき一人の自由な人間として、ただその権利を行使したに過ぎないんだ」

 突如、ぼくの口から溢れだした言葉をジホは黙って訊いていた。

 喋りながら、ぼくは何がここまで自分を駆り立てるのか判断つかないでいた。

 ぼくはジホに何か言ってほしかったのだ。ぼくの置かれている状況をクリアにするような――耳障りの言い――言葉をぼくはジホに期待していた。

 都合のいい話だったが、それがぼくのカリスマ人となりの使い方だった。

「ぼくは物分かりのいい子どもだった。物分かりが良すぎたのかもしれない。ぼくも母もそんなふうに干渉し合わないことが対等な関係だと思っていたんだ」

 そこでようやくジホが口を開いた。

「であれば、なおさらです。なおさら、そのことを確かめに行かなくては」

「確かめた結果、すべてぼくの思い違いだということがわかったら?」

 ぼくはそう言って、ジホの反応をうかがってみる。自分が厄介な状態に陥っているのはわかっていた。自分から否定されるようなことを仄めかしておいて、誰かにそうじゃないと言ってほしかったのだ。

 しかし、ジホはぼくの想定を裏切って、一言「受け入れるしかありません」と言った。

「人にはある種の分別があります。明け透けであるということが必ずしも親子の条件でありません。その分別のあり方に、現代人はきっと慣れていないんでしょう」

 ぼくはそこで少しばかり面食らう。

 日常会話で『現代人』を主語に『分別』を語られるようなことをいままで経験したことがなかったからだ。それに親と子という関係を解消するに足る『分別』とは、そもそも分別と呼べるのかという疑問もある。

「ぼくには、その手の話は人食い族の良心みたいなものに思えるけど……」

「ええ、そのとおり。まさにそういう話ですよ」

 ジホは迷うことなくそう応えた。

「冗談だろ?」

「いいえ、分別とは一見、個人的なものに思えますがそうじゃありません。それは規範や道徳と同様、社会的な産物であり、俺たちのなかに根を下ろしています」

「根を下ろすっていうと、魂みたいなものにか?」

 ぼくは冗談めかして言った。完全に話の流れについていけなくなっていた。

 ジホは、ははと笑って、

「ええ、そうですよ。ただしそれは完全に合理主義的な魂です。西欧で啓蒙主義思想が誕生してからこのかた、世界はこの手の現代的で自由な精神を育ててきました。ですが、そういう社会にあっては、分別がありすぎても、それはそれで身動きが取れなくなってしまう。当然の話です。あらゆる権利や自由を守るということは、同時にあらゆる権利や自由を侵害しないということを意味していますからね。たとえ、それが親と子の間柄であっても例外ではありません」

 ぼくはわからないというふうに首を横に振った。ぼくは物事をもっとシンプルに考えたかった。そして物事をシンプルにするためはシンプルな筋書が必要だった。

「それはつまり、欧米人が、子どもに部屋を与えて独りで寝かせる習慣を持たないアジア人を嫌悪する――みたいなものが過剰になってしまったって話かな……」

「そういうことです。自立心を育むことは大切ですが、行き過ぎれば、それは孤立や疎外に繋がってしまう。かといって、個人の境界線を曖昧にして、ぐずぐずに融解させてしまえば、それもまた依存ということになります」

「だから、母さんはぼくを捨てたと? ぼくらが善くあれと願い、積み重ねてきた自由で公平な社会の所産が、母さんにぼくを捨てさせたと?」

 ジオはそこで思案するようにうつむいた。立ち止まって、何事か考え込んでいるようだった。

 ぼくは長いこと待ったように思う。充分待って、もう待つことはできないと歩き出したとき、ジホが口を開いた。

「お母さまは、自分という不確かなものより、公正なシステムにあなたを預けることを選んだのだと思います」

 ジホはそう言って、ぼくのことを見た。ぼくは不意打ちをくらったように固まってしまった。選んだだって? そんなはずはない。母は選ばなかった。少なくともぼくを選ぶことはしなかったのだから。

 ジホは続けて、

「世界のあちこちで奇形児が生まれるようになって、ヒトの発生は実質的に国家に管理されるようになりました。というより、国家や企業のような大規模システムの介入なしには、もはや俺たちは生まれることすらできなくなっている……」

「産まれてきたのが間違いだって言いたいのか……」

 ジホはそうではないと、ぼくの反論を退け、

「ここで問題なのは、それにより生殖という根本的システムのダイナミクスが完全に破壊されてしまったということです。そういう世界では、もはや伝統的な親子関係は成立し得ない。そこにいくら庇護や扶養という側面があろうとも、親が子に向ける愛情とは侵襲的で加害性を帯びたものであるという価値判断から今日日、逃れられないのです」

「逃れたのは母さんの方だよ。母親の責任から逃れたんだ」

「こういう言い方は気が進みませんが、逆の立場になって考えてみれば、それはすぐに判断できることです」

「逆の立場……」

「自分が子を持つということ――その風景にどれだけ確証が持てるか。それがそのまま隊長とお母さまの関係に当てはまると思います」

 ぼくはそこで呻いた。今度こそ完璧に、反論の余地のない一撃だった。

 たしかに、いったい全体、ぼくらのあいだにどうして次世代などという概念が成立しうるだろうか。

 これほど奇形出産という生物学的リスクが蔓延した世界で子を産むというのはもはや一種のタブーである。それは生物学的にも、社会学的にもそうであるし、もっと言えば宗教的なタブーにさえなりかねない正真正銘の禁忌だ。

 そして第三世界の馬鹿どもが、そのいい証拠だった。連中はいまでも半分かたわの人もどきを作り続け、薪をくべるようにこの世界の混沌へと送り出している。そこで子どもらは、野垂れ死ぬか、情け容赦のない兵士になるかのどちらかしかない。彼らはぼくらの暮らしている世界を心底、憎み切っている。この世界を地獄の底に叩き落としたくて、うずうずしている。わずかな意思疎通も連帯も、そして相互理解も不可能である。

 持続可能性のある社会というものを考えるのであれば、ぼくらはこのさき未来永劫、子どもなど持つべきじゃないのだ。そんなものの片棒を担ぐことは絶対に許されない。ぼくらの遺伝子は、ぼくらの代で完全に途絶える運命さだめなのだ。



「母さんは罠にかかったんだね」

 ぼくは静かにそう言った。

 愛は唯一、この不幸な繰り返しの解決策のように思え、そして実際には、この世界がこれまでそうであったように何の解決策にもなりはしなかった。言ってしまえば、何百、何千年ものあいだ、しぶとく生き残り続けている罠。それこそが愛だった。

 相続放棄の書類にサインを求めたとき、母の言っていた『違う』の感覚とは、何もかもが違うの『違う』だ。そこには何の解決策もない。救いもない。培養セロファンのなかで、ぼくらが産まれてくるには愛以外の様々なものが必要だったが、愛だけは必要なかった。

 ジホが言っているのはまさにそういうことだった。

 ぼくは振り返ってジホを見た。この世界の誰もが最初に気づく真理を指摘した男の顔を見ようとした。

 しかしながら、ぼくはそこでまたしても驚くことになる。なぜなら本来そこにあって然るべき、絶望や哀れみの表情を、その顔のどこにも認められなかったからだ。

 ジホは決然とした表情で言った。

「まだ、間に合います」

「間に合う?」

「俺にはもう無理ですが隊長は違います。まだ変えることができます」

「変える? なにを変える必要があるんだ?」

 なんのことかわからず、ぼくは訊き返した。

「俺の両親はもう死んでいます。ですが、隊長は違う。あなたのお母さまはまだ生きているじゃないですか」

 ああ、とぼくは思った。

 数秒、その場でぼくはうんうんとうなずいた。

 つまり、それが彼の、そしてぼくらの頼みの綱なのだ。

 生きていること。存在すること。対話の可能性があり、一貫した認識能力を持つこと。それが、ぼくらの信じるすべてなのだ。ぼくらはあらゆる問題の最終解決をそこに見ている。そこにすべての掛け金を投じている。

 不意に、何だか泣けてきた。

 依然、ぼくは自分のカリスマは見つけられずにいる。

 そして継承という概念はというと、ぼくのなかで、ますますぼんやりとしたものになっていた。ぼくのなかで家族風景みたいなものが空間に溶けて消えていく。もうイメージすることすら難しい。北欧世界のどこか、日の沈まない一日のような世界が続いている。


 ジホはこちらに歩み寄ると、わかっていますというふうに唇を噛んで頷いた。

 おそらく、いまの話でぼくが何かしらの気付きを得たと思っているのだろう。しかし、そうではない。彼はなにもわかっていない。

 そうして、ジホは懐から小さな冊子を取り出した。

 聖書だった。

「クリスチャンだったのか」

 ぼくは驚いてジホを見た。

 ジホは肩をすくめて、

「親父はよくこう言っていました。主である神は絶対的なものであるが、神が作った世界は必ずしも絶対じゃない。それは精巧な時計仕掛けでできているようなもので、適度にぜんまいを巻いてやらないと知らないあいだにずれてしまうと……」

 ぼくは黙ってうなずいた。

「もし世界がそのようなものであったとして、俺たちはそのメンテナンスを怠ってきたんじゃないでしょうか……。だから神は、この世界の不条理なものにして、科学で解決できないような難題を俺たちに課すようになった」

「じゃあ、パック詰めで産まれたり、機械の身体になったり、いまさら一生懸命ぜんまいを巻いたところで、それはもう手遅れだと……」

 ジホはそこでゆっくりと首を横に振った。

「そんなことありません。俺はある意味では信じているんです。俺たちの裡になぜ信仰の心があると思います?」

「ぼくは無宗教だよ」

「ですが、無神論者ではない。神がいないことを証明するために、あらゆる手を尽くすようなラディカルな無神論者ではない。そうでしょう?」

 たしかにそうだった。ぼくは無宗教だが、神の存在を信じていないわけではない。

 ぼくは戦場で、飛び交う銃弾のなかで、鉛玉が自分の頭蓋を砕かないことを何度も神に祈ったし、予備役将校訓練課程ROTCを修了したときも、二十倍の倍率をパスしていることを神に祈っていた。

 ようするに、ぼくは神の御業――つまり奇跡が起こるとは信じていないが、神そのものは疑うことはしない、というレベルで神の存在を信じている。

「信仰や霊的な感覚は、おそらく、このさきも人類のなかに残り続けるでしょう。なぜなら、それらは唯一、この世界を和らげ、受け入れ可能なものにする観念だからです。そして同時に、理性の狡知という言葉があるように、それこそが人間の持つ理性の限界でもあります」

 そうして、その理性こそがぼくらにヒト胚を弄くり回し、道義にもとる生き方を選択させた――と、ぼくはあえて言うことはしなかった。つまるところ、ぼくらが生き延びている限り、システムの限界はわからない。神もいないとは言い切れない。

 たしかに、それは希望と呼べるものかもしれなかった。

 ぼくはそこでジホが言わんとしていることにようやく気がついた。同時に、自分が思いのほか、その考えを信じ始めていることにも驚いた。そう思うと、不思議と涙がこみ上げてくるのだった。

 ぼくはそれを誤魔化すように笑って、

「なんだか駄々っ子みたいだ。神さまにかまってもらうために、倫理的な過ちを犯しているっていうのは……」

 ジホはぼく同様、そこでふっと微笑むと、

「だとしたら、俺にはその気持ちがよくわかります。ソジュン――弟が生まれてから、母はそっちばかりに掛かりきりで……。当時の俺はそれが不満で仕方なかった。母の気を引こうと、馬鹿な悪戯いたずらをしては、母を困らせていましたから」

「ジホがかい?」

「そうです。俺もむかしは、いっぱしのやんちゃ坊主だったってことです。隊長の方はどうでしたか?」

「いや、ぼくに兄弟はいなかったから……」

「そうじゃありません。お母さまとの関係ですよ」

「母さんとの……」

「ええ、どうだったのですか?」

 ぼくはそこでジホを見た。

 今度ばかりは、あの射抜くような眼差しは影を潜め、代わりに穏やかな、言ってよければ慈愛と信頼に満ちた表情がぼくを捉えていた。

 愛と同じく、友愛もまた、そうあるべく作られた理性の誤謬なのだろう。だとしても、ぼくはそこに確かな繋がりのようなものを感じた。まったく別の土台、まったく別の仕組みを通じて、ぼくとジホは互いに通じ合っていた。

 初めて話してみてもいいと思った。母の話を。

 基地の仲間たちと手すさびに話すのとは違う。

 本当の、ぼくと母についての話を。

「そうだな……。ぼくと母さんは――」


 そのとき、隊列の前方で誰かが声を上げた。

 ぼくとジホはすぐさま振り向くと、銃のトリガーに指を掛けつつ、左右の物陰へと素早く移動した。ぼくらの前にいた隊員たちもまったく同じ挙動で散開する。そのせいで、まるでモーセが海を割るように通りが一気にがらんどうになった。

 いちばん前方で、隊員の一人が怒鳴っていた。

 止まれ、止まらないと撃つぞ。

 隊員はそう声を張り上げて、肩付けした銃を通りに向かって構えていた。銃口の先、T字路の突き当たりにぽつんと人陰が立っていた。

 人影はふらふらと、こちらへ向かって歩いているように見えた。ただ、その足取りがおぼつかないせいか、彼我の距離は遅々として縮まらない。

 隊員――声からしておそらくサムが「本当に撃つぞ」と叫んだ。最後通告だ。それでも人影は歩みを止めることなく、こちらへと近づいている。

 部隊の誰もがこの緊張の一瞬を見守っていた。サムがトリガーに指を掛けるのを穴が開くほど凝視している。

 そして、人影が倒れた。ぱたんと、まるで風に吹かれたかのように。サムは撃つことはしなかった。そのまえに人影の方が勝手に倒れたのだ。

 みな、呆気に取られていた。緊張が最高潮に達するその寸前、待ち望んでいた劇的な瞬間が、肩透かしで終わったのだ。ぼく自身、肩に込めていた力が抜け、自然と肺から空気がこぼれ出るのを感じた。

「なんだあ、こいつは?」

 真っ先にそう声をあげたのはドヒョンだった。

 その素っ頓狂な声に、ぼくらのあいだに漂っていた空気が一気に弛緩したものになる。隊員たちは互いに顔を見合わせ、小突き合い、「なんだ、なんだ?」とはしゃぎ回る。

 良くない状況だった。前列の隊員たちは完全に油断していた。というより、天地を返すような緊張と安堵の落差に麻痺状態になっている。そういう状況で、安全地帯から顔を覗かせ、狙撃された兵士をぼくはたくさん知っている。

 幸い、後方にいたグエンやほかの隊員が急いでドヒョンたちのことを制止してくれたおかげで、ぼくらは最大限の警戒のもと、倒れた人物のもとに近づくことができた。念のため、グエンが探知機で対人地雷等を隠し持っていないかを確認し、ぼくが狙撃できそうな場所にスコープの反射はないか、サーマルで人体反応が確認されないかを調べる。

 そこまでしてようやく、ぼくらは件の人物の身体を仰向けにし、その身元を検める。胸元に血の滲む小さな穴が二つあった。肺を撃たれている。失血死だった。

「所属はわかりませんが、どうやら味方の兵士のようです……」

 グエンがそう言った。たしかに、兵装を見る限り、ボディアーマーもヘルメットも、西側軍隊の標準規格のものだ。銃に至っては、サイドアームまでぼくらと同種のものを装備している。

「こいつ、俺たちと同じ平和維持軍の兵士じゃないのか……」

 サムが驚いて言った。しかし、そんなはずはなかった。

 ぼくは兵士が記章を付けてないことを指摘した。通常であれば、記章を付けていないということはありえない。他者から見て、どういう階級にあるかを瞬時に判断させないというのは、平和維持軍の規定に反する行為だ。

 その証拠に、IDリーダーで読み込んだ兵士のIDは、ぼくらのものとは一致しなかった。正確に言えば、ぼくら平和維持軍兵士に発行されている作戦コードとは一致しなかった――ではあるが、それでもこの男が作戦時に義務化されている認識票IDマーカーの埋め込みを行っていないことは確かだった。

 つまりこの兵士然とした男は外見こそ、ぼくらそっくりだが、作戦標準規定を守っていない以上、友軍と認めることはできないのである。可能性としては、非正規の民兵というところだろうか。個人番号がわかるものがあれば、追跡調査で確認することはできる。

 グエンは立ち上がると、解せないというように手で顎をさすった。

「ここまで兵装が同じなのに、得体が知れないってのは何だが不気味ですね」

「ぼくらの装備も所詮、規格品だ。高品質なのが裏目に出て、民兵組織に横流しされていたか、死んだ兵士から頂戴したってこともありうる……」

 ぼくがそう言うと、グエンは少し間を置いてから「そうかもしれませんね」と頷いた。表情を見るに、どうにも腑に落ちないという感じだった。

 たしかに、不安が拭えないという点では、ぼくも同意見だった。ここまで来て、いままで遭遇したことない種類のイレギュラーに見舞われたとなると、何かが裏で進行しているかのような不穏さを感じてくる。

 そこで、路地の向こう側を偵察しに行っていた別の隊員がぼくの名前を呼んだ。ぼくはグエンに身元不明の兵士を任せると、急いで隊員の元へと向かう。

 小走りに駆け寄っていくと、そこにはハンヴィーに乗って先行していたはずの隊員たちが待機していた。当たり前の話ではあるが、ぼくらより先行していた分、彼らの方が先にこの状況に出くわしていたのだ。

 そこには先ほどまで姿の見えなかったジェイもいた。アイスンを追いかけているうちにそのまま先遣隊と出発してしまったらしい。

 ぼくが状況を説明すると、ジェイも一言「こちらも状況は同じです」と返した。

 見るとあちこちに兵士の死体が倒れていた。数にして、十人ほど。さきほど、ぼくらの前で倒れた兵士同様、標準規格の装備に身を包んだ所属不明の兵士たち。

 しかし、ぼくらのときとは違い、兵士の一部に、ぼくらと同じ作戦コードを持つ兵士が混じっていた。IDを見るに、彼らはビエンホア守備隊の兵士のようだった。

 そして極めつけは、現場の中心に鎮座する奇妙な形をした車両の存在だった。 

 サイズはちょうどハンヴィーと同程度ではあるが、装甲車というより装甲バンといった外観をしており、車のルーフに当たる部分に巨大なパラボラアンテナのようなものを乗っけていた。驚くことに、アンテナはいまもなおゆっくりと回転している。

「これは……」

「どうやら通信車両のようです」

 ぼくが聞くと、ジェイがそう応えた。

「通信車両……」

「ええ、しかも野戦用のかなり強力な奴らしく、いまも周囲をジャミングしているようです」

 ぼくはおそるおそる車両に近づくと、運転席を覗き見た。運転手はハンドル部分に突っ伏した状態で死んでいた。ダッシュボードに無造作に置かれた小銃が、この兵士が反撃する間もなく息絶えたことを物語っている。

 ぼくはバンの後ろ側に回ると、今度はバックドアの方へと近づいた。

 観音開きのドアが少し開いたままになっており、そこに兵士が一人、上体を乗り入れるようにして倒れている。何かを止めようとしたのだろうか。地面に続いている血の跡から察するに、バンのなかに入ろうとして力尽きたらしいことが見て取れた。ぼくがバックドアを開くと、兵士の身体が地面にずり落ちた。

 もちろんその瞳は、すでにどこでもない虚無を映して見開かれている。

 ぼくはしばし、呆然とした。

 なんだ、これは?

「いったい、なんなんだ……」

 ぼくが聞いても、ジェイは応えなかった。というより、ジェイにも何が起きているのかわからないのだろう。

 突っ立っているジェイをおいて、ぼくはバンのなかに入った。

 ジェイの言ったとおり、車内には稼働したままの装置が、うずたかく積み上げられていた。すぐにきーんという高周波が耳をついた。ぼくは装置の一つに近づくと、画面を確認した。モニタの一つがソナーのような画面を映しており、サブベイにロギングされた情報を淡々と流し込んでいた。

 どうやら、内部のソフトウェア無線が周辺の信号を随時、索敵しているようだった。ログをざっと目で追ってみると、ぼくらの使っている周波数もそのなかに含まれていた。ただし、ジェイが言うには特定の周波数を選択的に妨害するのは、この規模の設備では難しいそうだ。やるのであれば、あらゆるすべてを平等に、とのことだった。

 ともあれ、ビエンホアに入ってから、ぼくらが無線を拾えなかった理由がこれで判明した。

「なぜジャミングを止めない?」

「友軍の工作活動の可能性がありますから……」

「これのせいで何十人も輸送避難民が死んでいるんだぞ。ぼくらだって死にかけた。そんなはずないだろう……」

「ですが、このバンは友軍の車両です。軍のデータベースにもちゃんと登録されていますし、ステーションにも出車記録が残っています」

 ジェイは頑なにそう言うと、車両の登録情報をぼくに見せた。

「なんだって……」

 ぼくはそこで目を剥いた。

 身元不明兵士と違い、そこには確かに実在する車両の情報が記録されていた。一応、車両側が記録している情報なので、基地側の情報と照らし合わせないことには完全な情報とは言えない。しかし、すでに実物がこうして動いている以上、記録だけを偽装することに意味は感じられなかった。

 ぼくは途方に暮れた。

 司令部にこのジャミング工作の真意を問いただすべきだろうか。それにはまずこのジャミング自体を止めなければならないというジレンマがある。衛星通信環境のあるビエンホア基地まで行けば話は別だが、いまの時点で、この車両がどういう役割を担っているのか判断することは不可能だった。

 ぼくは再び、辺りを見回した。

 何かがおかしい――。

 ぼくはIDリーダーを片手に、倒れている死体の情報を片っ端から取得する。

 バンの運転手は作戦コードを持っていない。

 リアバンパーで倒れていた兵士はIDが一致した。彼はビエンホア守備隊のクワン二等軍曹であると端末の表示が告げる。

 そのほか、辺りに倒れている兵士たちのIDも次々に確認していく。彼らは仲間内で殺し合ったのだろうか。それともまったく別の第三勢力に殺されたのか。

 いまや部隊のなかで、ぼくだけが焦っていた。

 ぼくひとりだけが、夢遊病者のようにそこかしこを歩き回り、這いつくばって兵士の死体をまさぐっている。傷口を検め、血の跡を拭い、こぼれた脳髄を拾い集める。まるで整復師エンバーマーか、盗掘人の有様だ。

 部隊の兵士たちはそんなぼくのことを無表情で見つめていた。おそらく、分隊長としてやるべき仕事があるのだろうという危機感のなさで、ぼくが泥だらけになるのを呑気のんきに眺めている。

 リスクとは許容量の問題だ。許容できないリスクだけがする『危機』と見做される。だから、身元不明の死体が転がっていようとも誰ひとり気にもしない。死体が起き上がってこちらに銃を向けてくる恐れリスクなどありえないからだ。このろくでなしどもは、そういう無神経さがいつか自分たちを殺すことになるとは露ほども思わない。一度だって考えやしない。

 いまや、ぼくは本格的に恐れを感じ始めていた。不感症な兵士たちの感じる恐れリスクとは違う、もっと根本的な、何かを見落としているんじゃないかという強迫観念にも似た恐れがぼくを捕らえ始めていた。

 そのとき、誰かがぼくの肩を揺さぶった。

「大丈夫ですか、隊長?」

 ジホだった。眉根を寄せ、気遣うような視線をぼくに向けていた。

「何か、気がかりなことでも?」

「いや……」

 ぼくはそこまで言いかけてから、何でもないと手を振り、立ち上がった。憶測に過ぎない考えで現場を混乱させたくなかったのだ。

「どうしたんですか、いったい?」

 すれ違いざま、ジホがそう言った。

 ぼくは足を止め、ゆっくり振り返った。

「ぼくの勘違いかもしれないし、確証もないことだ」

「……それで死体を漁っていたと?」

 ぼくは大きくため息をついた。

「嫌な予感がするんだ。あのジャミングはいますぐ止めた方がいいと思う」

「嫌な予感……」

 ぼくの言葉にジホが露骨に怪訝そうな表情をする。

「そうだ。説明はできない。理由もない。あの車両は、間違いなく平和維持軍のものだし、タイムレコードもまったく問題はない。ただ、何かを見落としている。そんな気がしてならないんだ」

 ジホは今度こそ苦い顔をして笑うと、落ち着いてくださいとぼくの肩に手を乗せようとした。ぼくはその手を払いのける。

「仮に友軍だとして、あれのせいで、ぼくらは市内の状況をまったく把握できなかったんだぞ。人民軍に至っては、輸送バスを二台も破壊されている。はっきり言って、まったくの逆効果だよ。どうして誰もおかしいと思わない?」

 ぼくはそう激して、ジホのことを見やった。

 一瞬、ジホは身構えるようにして、ぼくの方に向き直ったが、すぐにもとの冷静さを取り戻し、小さくため息をついた。まるで聞き分けのない子ども諭すように、ジホは「いいですか?」とぼくに呼びかける。

「本来なら、俺たちはここにはいなかった。そうでしょう? キャンプにあったものは、俺たち以外すべてあの爆撃で吹き飛びました。消えたんです。だから、俺たちはここにいます。本部と連絡を取るために、わざわざ危険を冒してまで、このビエンホアに北上してきた。それも隊長の指示で、です」

「いまさら、ぼくの判断を蒸し返すのか? それにぼくらがいたことは関係ない。ジャミングの範囲が広すぎるんだ。町全域を丸ごとジャミングなんて聞いたことがない。これは……。軍事的失策だよ」

「失策であろうが無かろうが、現にあの車両はああして動いています」

「戦線以外はどうだっていいと……」

「違います。俺が言いたいのは、あの車両はいくつもの手続きと認証を経て、あるべくしてあそこに停まっているということです。それをなかったことにはできない。人民軍は確かに被害を被りましたが、避難民移送は、特別執行補助業務とはパラレルに扱われる業務です。それは、軍の作戦とは一段異なるレベルにある。あくまで、優先されるのは主戦場である北部戦線への戦略的効果です」

「本気で言っているのか? 本気で、ぼくらの知らない極秘作戦があると?」

 ここにきて、ぼくは完全に疑心暗鬼に陥っていた。

 だれひとり、ぼくのこの違和感を理解しない。だれひとり、ぼくの感じている恐れに気がつかない。

 たしかにジホの言っていることは間違っていない。

 ぼくらはここにいるはずのない存在であり、招かれざる闖入者だ。北部革命勢力との衝突が秒読み段階に入っている以上、ビエンホアの防衛にはあらゆる種類のリソースが投入されている。

 そこでは、戦略は際限なく多様化し、戦術は過剰なまでに最適化される。つまりは、あの通信車両の存在はパズルのピースの一つに過ぎないのだ。断片化し、単体では解釈不能なまでに細分化された、背景ディテールとしての作戦。それこそが、いま目の前に広がっている光景――この不可解な状況の正体だった。


「たしかに、ぼくらの関知しないところで、何らかの作戦が進んでいると考える方が妥当かもしれないな……」

 ぼくは無意識にそう呟いていた。

 ジホがそこで眉根をあげ、こちらを見た。

 ぼくはジホを見やって、

「だって、そうだろ? ぼくらが戦っている相手には、どんな理屈や、常識も通用しない。連中は同じ人間とは思えない。人としての片鱗を欠片も感じられないんだ」

 訝しむような表情でジホはぼくに鋭い視線を飛ばす。

 しかし、ぼくは話すのをやめなかった。

「いいか、ぼくは情報部のアーカイブで何度も奴らの映像を見た。年齢、国籍、人種、それに言葉。奴らは、何もかもちぐはぐで、バラバラなんだ。連中には一つとして共通点がない。あるとすれば、それは世界に対する異様なまでの憎悪で……」

 ぼくはそう言うと、ほとんど浮かれた調子で装甲バンの前まで近づいた。

 ぼくは自棄やけになっているのだろうか。

 それでも、こうして言葉にして話すことで、ぼく自身、まったく信じていないことでも、それが本来、自分が懐いている見解――あるべき共通の見解として思えてくるのだった。

 ぼくは装甲バンに前に横たわっている死体の一つを軽くつま先で小突く。

「奴ら、人間じゃないんだ。おそらくね。そうでなくとも、足の悪いテクニカルで南西部まで来たり、防空網を突破する算段もないのに、FCR火器管制レーダーすれすれを飛行するような連中だ。どう考えても、気が触れているのさ」

 そう言って、ぼくはジホの方へと振り返ろうとした。

 そこで、唐突な違和感に襲われた。

 自分の話したことで何かが引っかかった。


 ――防空網を突破する算段もない?

 ――レーダーすれすれを飛行する?


 ぼくは何の気に無しにバンに飛び散った血痕に指を這わす。

 濃い粘った血が、指先にまとわりついた。

 それは、ここで死んでいった兵士たちの、まだ乾ききっていない血の跡だ。

 その血は、鮮血のあざやかな深紅でも乾いた血の暗褐色でもなく、ベリーのソースに生クリームを混ぜたかのような下品なピンク色で……。おざなりなフィルタリング処理で、肉と機械を接ぎ木グラフトした半端者の流す血の色をしていた。

 肉の身から染み出たミオグロビンの赤と、人工血液の白。身体のなかで曖昧に混ざり合ったそれが、亜音速の弾頭によってぶちまけられてから、いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。

 バンにこびりついた血はまだ乾ききっていなかった。人工血液は本物の血と比べて乾きにくいが、だとしても限度がある。この具合だと、長く見積もっても死後半日かそこら……。それ以上は経っていないだろう。

 そして半日前とは、ちょうどフエたちの部隊がテクニカルに襲われた時間帯だ。

 ぼくはそのとき、どこかから風切り音のような音を聞いた気がした。首を回して、空を見上げても何もない。けれど、その音は確実にぼくらに近づいていた。

 ぼくは爆撃を受けた直後にジェイとした会話のことを思い出す。

 ジェイが、FCRすれすれを飛行するヘリボーン隊の意図に思いを巡らしたとき、ぼくはホーチミンの防空システムが機能していない可能性を指摘した。

 しかし、もう一つだけ、あり得る可能性があったのだ。

 なぜぼくは、こんな簡単なことを見落としていたのだろう。

 そもそも、ヘリが防空システムに探知されても、まったく問題ないケースが一つだけある。

 それは、あのヘリがはなから友軍の所属機である場合だ。


 その気づきが、ぼくを救った。

 意識外から迫り来る、空対地ミサイルAGMの轟音が耳を聾するその瞬間――。

 ぼくは地面を蹴って走り出していた。

 ほかの隊員が反射的に身を竦ませるなか、ぼくだけが意思に基づいた反応アクションを起こすことができた。ぼくだけが動くことができた。

 そのまま、ぼくは目の前のビルへと突進し、窓ガラスに向かって、文字通りその身を投げ出した。

 次の瞬間、すさまじい衝撃と共に、まばゆい閃光がぼくの視界を染め上げた。

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