第四章
――暗い。
気がつくと、そこは黒々とした闇のなかだった。
光の届かない水底、あるいは午睡のまどろみのなかで、意味の輪郭がひしゃげて消えていくような、あの浮遊の感覚がぼくの全身を捕らえていた。
――ここはどこだろう。
何も見えないし、何も聞こえなかった。
ぞわぞわと鳥肌を立てる寒気だけが、闇とぼくの境界を際立たせている。
感覚も所々おぼろげだ。まるで虫食い穴のように感覚がある部分とない部分の差がはっきりしていて、継ぎ接ぎの人形のような気分だった。
とはいえ、頭の方ははっきりとしていて、ぼくは冷静にそのことを受け止められている。
ぼくはそこで虫食いになっているお腹の部分へと意識を集中させた。
ぼうっと火が灯るように、そこに身体が『ある』という感覚が浮かび上がってくる。
ぼくは続けて、
腰、もも、
そうやって、身体の『ある』部分を乗り継いでいって、ぼくは順々に身体の感覚を取り戻す。
すると、自分がどういう体勢でいるのか、だんだんとわかってきた。
わき腹にひじが当たっているから、いまぼくは腕を抱えるような格好をしているんだな、とか。右足の踵が触れているのは左足の脛で、それは左足の脛が踵に触れている感覚からも判別できるな、とか。
ともあれ、ぼくは闇のなか、そうして自分の身体の感覚を思い出していった。
この身体が『ある』という感覚は、なかなか言葉にするのは難しい。
実際に皮膚の表面に何かが触れたときの『触れられた』という鮮明な触感と、その触感を受け取るために皮膚が、そして身体が、そもそも『そこにある』という感覚は微妙に違う。
それは身体の見当識、とでも言えばいいのだろうか。
手が届かず、目で直接見ることも叶わない部分だとしても、ぼくらは意識すれば、その存在をなんとなくではあるが感じられる。ひとたび、背中にこぶができたり、にきびができたりすれば、それが背中のどこにあるかを、ああ左の肩甲骨の下らへんだなとぼうっとわかるように。
その『ぼうっと』という感覚。
それが身体が『ある』という感覚だった。
しかし、そこからが問題だった。
いまのぼくは、意識を集中させないと、その『ある』という感覚が身体からすぐに抜け落ちてしまうのだ。かぼそく揺れる種火のように、それはちょっとしたことで消えてしまう。
だからぼくは、お腹の筋肉に力を入れて、身体中の『ある』という感覚を精いっぱい維持しようとする。ただ、それも徐々に難しくなってきた。
そもそも、お腹が『ある』という感覚が薄れて、力を込めることそのものができなくなってしまうのだ
その消失感は身体の末端に行くほど強くなる。すでに力を込めても、浮かび上がる気配がしない部位もあった。
そして、とうとうぼくの身体は首から下が無くなりかけていた。
ぼくはだんだんと焦り始めた。
指、手の平、二の腕、肩、胸、わき腹、腹、腰、もも、脛、踵、足の裏。
ぼくはさっきと同じように、身体の各部位にアクセスしようとする。
そこに『ある』ことを確かめるように、意識を、記憶をたどる。
大体どのあたりに意識を集中させれば、目当ての部位にたどり着けるかは、よく知悉していた。当たり前だ。ぼくは何年も何十年もそうやってきた。自分の身体について事細かに遣り取りを重ね、自分の身体が『そこにある』という意識と共に生きてきた。忘れるはずがない。
しかし、『無い』ものを確かめることはできない。
いまや、ぼくがあると感じられるのは顔の感覚、目と鼻に、耳と口……。それに口の中にある舌だけだった。そのほかの部位に関しては、探せば探すほど、かえって、あるはずのものがないという喪失感に愕然とする。まるで振った手を掠めていくように、無くなった部位の名残だけがぼくの身体を形づくっている。
ぼくの身体はそこにあった。たしかにそこにあったはずなのに――。
気づけば、首から上の見当識すら怪しくなっていた。
驚くことに舌の位置がわからなくなっていた。さっきまで、犬歯の鋭さや、臼歯のざらざらとした質感をあんなに主張していたはずの舌の存在が、いまではただの空白と化している。
続いて、歯の根が、唇が、消えた。
耳も鼻も無くなった。
ぼくは目だけをぎょろぎょろと動かす。止まれば最後、それは二度と動かなくなる。だから動かす。ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろ。
だんだんと眼球を動かすことも難しくなってきた。思いっきり左を見ようと、右端から左端まで動かしたつもりが、その半分程度しか動いていない。目が痛くなるほどに力を込めても、視野がゆっくり、ゆっくりとしか動かない。まるでぜんまいの切れた時計が、その秒針を音もなく止めるように。
そして、目があるという感覚が完全に消えた。
無だった。
ぼくは叫んだ。暗闇のなかで必死に声を上げた。
誰でもいいから、この感覚のない世界からぼくを出してくれとそう懇願した。
ぼくの声は誰にも届かない。どこにも届かない。
ぼくには声がなかった。声を出す喉も口も消えていた。
そこにあるのはイメージだけだ。
声のイメージ、叫びのイメージ。助けを乞うぼくのイメージ。
それだけが頭のなかで延々と反響し続けていた。
涙もない。泣くこともできない。
ただ恐怖が、恐怖のイメージだけがそこにあった。
イメージは無限だった。そこから逃れることはできない。
唯一、肉の身体だけが、その絶え間ないイメージの苦痛からぼくを解き放ってくれるはずだった。だが、それも消えた。ぼくは完全にイメージの産物だった。永遠に続く時間を、ただ感じ続けるだけの存在だった。
そのとき、まぶしいと思った。
まぶしさに細めるような目もまぶたもないけれど、まぶしいというイメージが前触れもなしにぼくの意識を擦過した。
光は大きくなる。
どんどん、大きくなる。
もはや遮るもののないまばゆさが、ぼくのなかに広がって、同時にむず痒さのようなものが背筋の奥から立ち上ってくる。
まぶしい。
まぶしい。
これ以上、目を開けていられない。
まぶしい。
まぶしい。
まぶたを閉じなければ……。
まぶたを?――。
まぶたを開けると、自分が瓦礫の山に埋もれていることに気が付いた。
胴体の上には錆に覆われた鉄骨が覆い被さり、それらと絡み合うよう、鉄筋の飛び出したコンクリート片が、まるで荒唐無稽なパズルのように、ぼくの身体の上で組み合わさっている。
そしてぼくは、その瓦礫の奇跡的な隙間から、ちょうど頭一つ分だけ四角く切り取られた空を、水底から見上げるようにして覗いている。
――こんな馬鹿げた状況があるだろうか。
先程まで見ていた悪夢――自分の身体が虫食いのように消えていく――とは真逆の、身体があるという感覚に支配された世界。降り積もった土砂に身体の隅々まで覆われ、指先一つ動かせないなか、ぼくは数秒間、事ここに至るまでの経緯を思い返した。
おぼえているのは耳を聾する轟音と、全身を包み込んだ眩い閃光だけだった。
最後に意識を失う直前、ぼくは手近なビルのなかへと飛び込んだ。それはほとんど無意識のことで……。直後、広場に着弾したと空対地ミサイルがぼくと広場に集まった仲間たちを吹き飛ばした。
あの音……。あのキーンという風切り音は間違いなく爆撃機のものだ。それもステルス機のようなハードポイントをたっぷり搭載した戦闘爆撃機。
音が聞こえた段階でどこにも機影を認められなかったのも、おそらくそのせいだろう。あの手の爆撃機に搭載された空対地用の巡航ミサイルは、いわゆる敵の
形状こそ、ボートに羽を付けたような、ミサイルと呼ぶにはあまりに不格好な代物だが、レーダー
そして、着弾に際しては
つまり、機影を目視したときにはもう手遅れなのだ。その時点で、投下された弾頭を避ける方法はない。あのとき、広場からはミサイルの機影はおろか、爆撃機の姿すら認めることができなかった。
広場に着いた時点でぼくらは手遅れだったのだ。開けた地形、点々とする人群れ、そして目印となるような野戦用パラボラアンテナを載せた通信車両。これほど爆撃に適した目標が他にあるだろうか。
そして、ぼくが思うに、あの広場が狙われた理由はそれだけではない。
ジホの言ったとおり、本来であれば、ぼくらはいるはずのない存在だった。前線基地を破壊され、命からがら北上してきた残存部隊。そんなゲリラとほぼ変わらないような動きをするぼくらをどこの勢力が追跡できるというのだろうか。それも戦時下のベトナムで。
断言できる。そんな勢力はいまのベトナムには存在しない。
となれば、この爆撃にはまったく異なる視点、戦略的意味合いが導入される。
それは、これが仕組まれた爆撃だということだ。ぼくら平和維持軍の残存戦力を叩くためではない、まったく別の目的を持った攻撃。それがぼくらを襲ったものの正体だった。
ぼくはそこで崩壊したビルの天蓋部分から覗く外の景色を見やった。
太陽の位置と光の強さの度合いから、時刻は昼の一時頃だと予想された。今朝、ぼくらがキャンプを出たのは、まだ日も出て間もない早朝だった。あの身元不明兵士を見つけたのが、それからすぐ後のことだったとして、時間にしておよそ一時間ほど、ぼくはこの瓦礫の山に埋もれていたことになる。
事態は非常にまずい方向へ進み始めている。ぼくはようやくそれを自覚し始めた。瓦礫の底から見上げる雲の流れが異様に速く感じる。
それに部隊のみんなのことも気になった。
ビルの倒壊具合からして、爆撃の想定目標はハードターゲットであることに間違いは無い。軍事施設やバンカーといった強化された目標に対して初期貫通能力を持った弾頭は、制圧能力こそ高いものの、被害の多寡という意味では、そこまでスケールは大きくはない。
それこそ、ぼくらの前線基地を破壊したクラスター焼夷弾に比べれば、効果範囲は半分以下だ。生き残りも充分見込めるはずだ。
ぼくは唯一動かすことのできる首を回して、瓦礫の隙間から自分の身体の様子を確かめた。暗闇のなか、腹部に覆い被さった鉄骨とは別に、右と左の肩を横断するように細い鋼鉄製の梁が載っかっているのが見える。
それは壁材と基礎のあいだに渡してある端材の一つのようで、基礎部分の太い鉄骨に比べれば、その大きさも一回りほど小さいものだった。
これなら押し返して、身体を引き出すスペースを作れるかもしれない。
ぼくは意を決して、瓦礫の下敷きとなった身体を動かしてみる。
ゆっくりと細心の注意を払い、まずは指の先、第一関節の部分から折り曲げ、拳を握れるか確かめてみる。
右の拳は何とか握り込めた。しかし左手の方は、別の瓦礫の下敷きになっているようで動かせなかった。どうやら、ぼくの上に載った瓦礫は、思った以上に緻密なバランスで噛み合っているらしい。
ぼくはそこで脚の方を動かせるか確かめてみた。万が一、下敷きとなった左腕が引き抜けなくとも、脚さえ動かせれば、ここから這い出ることはできる。神経リンクさえ断てば、腕の切り離しは容易だ。それで生き埋めを回避できるなら、躊躇う理由はどこにもなかった。
代替ボディが優れているのは、まさにこういった点だ。負傷箇所の切除や組織閉鎖の容易化。本来、肉の身体であれば躊躇してしまうような処置もこの身体であれば迷うことなく実行することができる。
逆に言えば、肉の身体なんてものを持っていては、そのような判断もままならない。極論、ぼくらの生とは、身体的なものありきで成り立っている。その身体をたとえ一部とはいえ、切り離したり、除去したりするというのは、実質的に小規模な自殺を図ることにお他ならない。普通の人間には到底できない判断だ。
だが、戦場ではそんな論理は通用しない。正確に言えば、そのような論理が安穏としていられる状況を戦場という空間は許容してくれない。戦闘状況、ひいて闘争という行いは、論理や常識から普遍性を剥ぎ取って、その奥に潜む暴力性を剥き出しにする。
そんな極限状況で生き残るにはどうすればいいか。
答えは一つしか無い。それは身体であることをやめることだ。代替ボディを持った雇われ兵士のように人間であることを半分降りること。そうして、身体でいることを慎んで辞退させてもらうこと。それしか方法はない。
ぼくはモジュール化された肩部分の、その滑らか表面に手を掛ける。肩と二の腕、その繋ぎ目となる部分にはシーリングされたロックピンが、母斑のようなさりげなさで顔を覗かせている。ぼくはそのピンを
このロックピンは、いわば物理的な
そうして、左腕をいつでも切り離せるように準備すると、ぼくは瓦礫に挟まった脚を引き抜く作業に取り掛かった。まずは腕が差し込める程度のスペースを開けること。それを目標にぼくは梁を後方に向かって押しやる。
途端、梁は鈍い音を上げて、ゆっくりたわみ始めた。ぼくはそこで脚を引き抜くのを中断する。暗闇の奥から、かすかに砂の流れ落ちるさらさらという音が響いていた。
さすがに、脚をいっぺんに引き抜こうとするのは早計だったようだ。ぼくはそこで、角膜部の接眼スクリーンに腕部と脚部の感圧系をありったけ投影すると、その負荷の数値を確認しながら、腕にかかる力を微妙に調整する。
そして、ゆっくりと細心の注意を払い、今度こそ梁に掛けた腕に力を込め――。
その直後、大量の土砂を伴う瓦礫に、腕ごと押しつぶされた。
まばたきをした次の瞬間には、すでに折れ曲がった梁が目の前に迫っていて……。気がつけば、そこから零れ落ちた土砂に身体を取り込まれていた。そして時間差で訪れる、全身をプレス機で押しつぶされるかのような感覚。
そのあまりに唐突で暴力的なやり方に、ぼくは無意識に悲鳴をあげていた。肺のなかの空気が土砂の重さで吐き出される。わずかに残った空気が気道から絞り上げられ、ひゅうと乾いた音が口をついて出た。
同時に、ブラックアウトした視界に大量の
ああ、死ぬんだな、という予感が早くも頭をよぎっていった。
身体のあちこちが局所的に感覚を失い、五感がまるで先の悪夢のように虫食い状になっていく。急激な負荷に、ボディの駆動系と神経系をリンクさせる通信モジュールが一時的にシャットダウンし始めたのだ。非常事態に陥ったユーザーを守るための保護機能ではあったが、徐々に無感覚になった肉体に閉じ込められる感覚は、死の感覚にあまりに似すぎている。
ふたたび透明になったぼくは、身体のなかに空風が通っていくような音を聞いていた。
ぼくは息苦しさに喘ぐように息を吸い込む。身体的には何の苦しさも感じない。いまもまだ、ぼくの両腕は落ちてきている瓦礫を全力で押し返しているはずだが、その感覚も消えていた。息を吸い込んでも、嗚咽を漏らしても何の感覚も返ってくることはない。
ぼくは恐怖した。
無感覚のまま、死んでいくということ。痛みも苦しさも感じないまま――ともすれば、自分が死ぬということにも気付かぬまま、死んでいくんじゃないかという事態に。
そんな死に方は嫌だった。そんなふうに死ぬことだけはごめんだった。
なにより、ひとり孤独に死んでいくことが怖かった。名も知らないアジアの辺境で誰にも知らぬまま、死んでいくこと。
ぼくは涙を流しながら、粉塵で咳き込まないよう、お腹に力を込める。
無いものに力を込めるのは、とてつもなく難しい行為だった。ぼくが見当を付けた場所は、本当にお腹なのか、そして込めた力はどれくらいなのか。すべてが判然とせず、空を掴むようだ。
けれど、これ以上、瓦礫が崩れてくれば、ぼくは間違いなく潰されてしまう。
実際、このレベルの負荷を受けてみてわかったのは、代替ボディが思った以上に頑丈な作りをしているということだった。
生身の肉や骨と比べ、合金と
何より幸運だったのは、頭が潰されずに済んでいたことだ。不幸中の幸いか、頭部に落ちてきた梁は絶妙な角度で折れ曲がっており、その隙間の部分に頭がすっぽり入り込むかたちで、ぼくは難を逃れていた。
覚悟を決めた。
ぼくはありったけの力を込めると、胸に乗っている梁を押し返す。もちろん、手が押し返してくる感覚も透明なわけだから、持ち上がっているかは目視で判断するしかない。
一度目はびくともしなかった。しかし、二度目に押し返したときには、ぼくから見て右側のコンクリート片が若干、持ち上がったような気がした。
右手と左手、どちらにも平等に配分していた力のイメージを右側に集中させる要領で、ぼくは右腕にあらん限りの力を込める。右のコンクリート片が少しずつだが持ち上がり始めた。それと同時に、透明だった身体の感覚が徐々に戻っていく。
ようやく人ひとり分のスペースができると、ぼくはすばやく身体を引き抜いた。同時に、ぼくが挟まっていた部分の瓦礫が崩れ、雪崩を打って押し寄せてくる。
ぼくはすばやく立ち上がると、目の前に見えた光に向かって駆けだした。
自分が閉じ込められていた場所は、ちょうどビルのロビーにあたる場所だった。前方には正面玄関の崩れた跡だろうか。半壊した内壁の隙間から、外の光が筋となって差し込んでいた。
途中、まだ本調子ではない姿勢制御システムのせいで、ぼくは何度も躓いた。それでも、ぼくはその光を目指して無我夢中で脚を動かした。
あそこを抜ければ、おそらく外に出られる。そう思うと、喜びに胸が躍った。
そして同時に、仲間のことが気になった。
生き延びられると分かった途端、頭のなかの冷静な部分が急速に回転を始めた。
やはりビルは完全には倒壊してはいない。それはつまり、爆撃に使われた弾頭のスケールが想定以上に小さかったということだ。
だとすれば、部隊が生き残っている可能性も大いにある。
ぼくのなかに、期待と焦燥の入り交じった感情が大きくうねりをあげた。
みんなと早く合流しなければ、そう気持ちが急いた。
ボディの機能は、運動系に限っては回復しかけていたが、外部通信機能をはじめとした情報系はいまだ沈黙したままだ。当然、サーバから
しかし、そんなことよりも伝えなければいけないことがあった。
それは、ぼくのなかにある確信――。
あの爆撃は仕組まれたものだという確信。
あのとき、自分でも説明できない衝動に駆られて、ぼくは目の前にあったビルに飛び込んだ。自分でもなぜそうしようと思ったのかはわからない。それでも、あのときそうすることがぼくにとって最善の行動に思われた。
なぜなら、あの爆撃こそ、この一連の状況を説明するに足る最後のピースとなるからだ。
所属不明のヘリボーン隊に、神出鬼没の北革命勢力。人民軍のフエが言っていた、ビエンホアに潜伏すると噂される亡命者の存在。そして、ときを同じくして現れた、身元不明の兵士たちと謎の通信車両……。
いままで、ぼくらを翻弄してきた不可解な状況という名のパズル。その歯抜けとなっていた空白が、この爆撃によって一つの明確な線として浮かび上がろうとしていた。
あの爆撃は偶然なんかじゃない。
爆装した戦闘機が出てきたということは、戦闘機が離着陸できるほどの大型の滑走路、または航空母艦を手配することのできるスポンサーがいるということだ。
現状、多くの空港施設が破壊されている現状で、それが可能なのは政府軍が守っているホーチミンのタンソンニャット空港か、ブンタンに停留している英仏の航空母艦のどちらかしかない。そして、この二つはどちらも平和維持軍の管理下にある拠点の一つだ。
何かが裏で進行しているのだ。ぼくらの知らない何か大きな計画が……。
それを確かめねばならなかった。
ぼくは走った。目の前に筋となって差し込む光を目指し、ただがむしゃらに脚を動かし、走った。どんなに不格好でもいい。一歩でもより多く。そう意識して脚を前に繰り出す。復帰したばかりの制御系はまだ反応が鈍く、そうでもしないとろくに前へと進めやしない。
なかば転げ落ちるように、ロビー手前の段差を降りると、目の前に正面玄関とおぼしき、両開きのドアが見えた。
後ろを振り返る余裕はない。何かが崩れ落ちる音がすぐそこまで近づいていた。
ぼくは、言うことを聞かない両腿を拳で思い切り叩き伏せると、最後の力を振り絞り、ドアに向かって体当たりした。一回、二回。壊れた蝶番が、カーンと甲高い音を鳴らす。
直後、ぼくは光のなかに飛び出していた。
光がぼくの身体を包み込んだ。
そして――。
そして、みながそこで死んでいた
みなが死体となって、辺り一面に転がっていた。
腕を、足を、腹を、みな一様にもぎ取られ、切り裂かれたまま、地面にうち捨てられていた。
ぼくは思わず口を開け、なにを見るでもなく、天を振り仰いだ。視線の先には熱帯の容赦ない日差しがあって……。ちょうど半日前、これと同じ太陽を、ぼくらユニットDの部隊は見上げていた。いまでは、ぼく以外、誰も見上げることのなくなった太陽。
何かの悪い冗談だ。
ぼくは頭のなかでそう呟いた。目の前の光景を頭から締め出そうと両の目を固く閉じた。あまりに強く閉じたせいか、目の奥につんとした痛みが広がったが、それでも構わず眉間に力を込め続けた。
――隊長、無事でしたか。
そんな声がいまにも聞こえてくる気がした。ボロボロのジホがドヒョンに肩を貸して、その脇からジェイがひょっこりと顔を出す。
そんなことあるはずもないのに、ぼくはその光景を幻視する。もう必死に幻視する。
なにか正常なものをそこに見出さなければならないという欲望がそれほどおかしなものだろうか。おそらく、おかしくはない。おかしくはないが、ぼくの人生はすでにその軌道から大きく外れてしまったところにある。
ぼくが自分で選んだのだ。
血に塗れることを、殺戮と硝煙が野に拓くこの戦争の世界を。
ぼくはそこで目を開ける。
一面が血の海だった。
砕け散った肉と焼き焦げた皮膚とが作る世界。
ぼくが最後にみたとき、この広場はまだ普通の世界に属していた。
市民のほとんどが避難し、ゴーストタウンのようになってはいたものの、まだぎりぎりのところで市井の生活、俗世と通じていた。通行人の消えた四つ辻をこれ見よがしに占拠していた路上生活者たちが残していったバラックや露店の類が、騒々しく不潔で不快な世界とのアクセスをぼくらにも許していた。
いま、それらはすべて焼き払われていた。
焼き払われ、なおその上から血と脳漿がまぶされ、人間の皮膚や脂肪の膜がパレードの横断幕のように張り付き、垂れ下がっていた。
その光景は何かを期待するにはあまりに荒廃しすぎていた。
とりわけ、生きている人間の生存を期待するには。
ぼくは思わずよろめいてその場に片膝をつく。
ぐじゅっと嫌な音を立て、血を吸ってスポンジ状になった地面が泡立った。
手のひらの合間から、網脂のような白い筋や頭髪が付いたままの皮膚の切れ端、はては潰れた目玉や骨の欠片が泡のなかで踊っているのが見えた。
ぼくは思わず手で顔を覆った。
全身がぶるぶると震えていた。昼の猛烈な暑さにも関わらず、悪寒がして大量の冷や汗をかいていた。胃の底をひっくり返すような吐き気がこみ上げてくる。
ぼくにはわかっていたんだ。
あの爆撃のなか、それでもぼくは生き残るだろうということが。
ぼくだけは生き残るだろうということが。
なぜなら、ぼくには生きたい思う意志があった。生きることに対する執着があった。
あの場で、それがあったのはぼくだけだ。そして、そう自覚するか否かに関わらず、世界はそのような人間を掬い上げ、そうではない人間を爆撃の下、されるがままにおいた。
ユニットDの仲間たち……。
彼らはこの光景を――爆撃を予期できなかった。
ぼくのように判断し、対処することができなかった。
無様に、反射だけはしてみせて、そこで満足してアクションを起こさなかった。
彼らはタフではなかった。
だから、死んだ。
ぼくは全身を細切れにされ、ゴミのように散らばった仲間を見ても、少しも意外だとは思わなかった。ショックを受けこそすれど、同情したり、嘆いたり、そういうことは一切しなかった。
結局、彼らは何もわかっていなかったのだ。ほんの数日前、同じ部隊の仲間が爆撃で跡形もなく消し飛ばされた。そこから何も学ばなかった。
ぼくはそう幻滅しながらも、その死を心の底から悼み、悲しむことができた。
ぼくは立ち上がると、無心でその
実際、おびただしいほどの血が流されていた。
それは飛び散った肉片や崩れた内臓から染み出したもので、そのため足を踏み出すたびに、ぼくは
そうして、ジャングル行軍よろしく、血溜まりから血溜まりへと、ぼくは誰ともつかない骸の上を渡り歩いていく。
視線の先、陽炎の向こうで何かが炎上していた。
近づくと、それが車両の残骸であることがわかった。
それはビエンホア一帯をジャミングしていた、あの通信車両だ。
驚くことに、車両の調査にあたっていたジェイの切断された腕が、すぐそばに落ちている。見ると、その手には無線機が握られており、赤いランプが点滅していた。
ぼくはその場に、ゆうに一分は立ち尽くしていたと思う。
そのあいだも、無線機からコールは続いていた。
いったい誰がとか、どうして今ここでとか、そういう然るべき疑念というのは、もはや頭には浮かんでこなかった。異常な状況がぼくから考える力を奪い去っていた。
それでも一つだけ合点がいったことがある。ジャミングをしていた通信車両は、いまぼくの目の前で炎上している。つまりは妨害装置が破壊されたことによりビエンホア一帯の無線封鎖が解除されたのだ。
ぼくはまだ悪寒に震える指で無線機を手に取った。
切断されたジェイの腕が一緒に持ち上がる。何度か振り払おうとしても、ジェイは頑なに無線機を離してくれなかった。前腕部に残った筋肉が握力を保持したまま、死後硬直しているのだ。
ぼくは仕方なく、切断された腕をぶら下げたまま、無線機を口元まで持っていくと、親指で応答ボタンをリリースする。
「……」
応答はない。
まるで無言電話を取ったかのようで。奇妙に鮮明な息遣いだけがスピーカーを通して伝わってくる。
「誰だ……」
ぼくは一言だけ、そう言った。
「……」
またしても応答はない。
諦めて、接続を切ろうとしたそのとき――。
「所属を」
と一言、向こう側が応答した。
「え……」
あまりに唐突な物言いに、ぼくは思わず困惑する。
しかし、ぼくの困惑をよそに、
「所属を」
と、再度、相手は機械的に繰り返す。
「……」
ぼくはつかの間、沈黙した。
自分が、何を、どう応えるべきかを逸していた。
「自分は……」
そして、そこまで言いかけて、ぼくは気が付いた。
身体の震えが止まっていた。
さっきまで全身を覆っていたはずの悪寒が嘘のように消えている。
なぜ?――とは思わなかった。簡単な話だった。
無線に応答し、所属を名乗る。そういう過程が、軍人としてのぼくを呼び起こしつつあるのだ。つまり、ぼくは本来の自分を取り戻しはじめていた。
「自分は、アジアブロック方面第八歩兵師団のナカムラ・ユージ少尉です」
ぼくは応える。つぎに相手が「状況の報告を」と返答するのを予期して、すでに報告の文面を頭のなかで組み立てはじめている自分がいる。
そして、ぼくの予期したとおり、
「少尉、状況の報告を」
と相手が返答する。
ぼくは状況を報告する。
所属不明のヘリボーン部隊にキャンプが爆撃を受けたこと。そのため、ぼくは部隊を率いて、ビエンホアまで北上したこと、そこで避難民輸送を護衛する人民軍を支援した後、ふたたび攻勢に遭ったこと。
そして部隊の生き残りは自分以外、絶望的なこと。
ぼくの報告を受けた司令部のオペレーターと思われる相手は一言、「了解した」とだけ返答した。
ぼくはそのことに二重の意味で驚いていた。
まず一つ目は部隊の壊滅が「了解」の一言で片付けられたことだ。そして、次に相手がぼくの所属について微塵も疑う様子を見せないこと。
ぼく自身も、相手が誰なのかを知らない。軍の無線機を使い、司令部の周波数で通信している以上、ぼくの方には疑う理由はない。というより、疑ったところでその真偽を確認する方法は無いのだから、そんなのは無意味なことだ。
そこには、互いにあやふやなものを前提に進んでいく
ぼくはそれで構わない。全然、構わないと思っている。
ぼくはそんなことには頓着しない。軍人であるぼくは聞かれたことに適切に応えるだけ。何かを考え、判断する機能は、いまのぼくには必要ない。
「報告を。少尉はいまどういう状態にあるか。作戦を開始することに支障は無いか」
再度、無線機から連絡が入る。作戦の開始と言われても、おかしなことに、それが何の作戦なのかぼくは一切聞かされていない。
「自分は被害を免れました。負傷はしたものの、作戦行動に支障をきたすようなものではないと思われます」
「手短に説明する。現在、ビエンホア市内に作戦コードを持たない不穏分子の存在が確認されている。彼らはホーチミンから、要人の一人を伴い、カンボジア国境方面を目指していると思われる……」
ぼくはオペレーターの言った『不穏分子』という言葉を頭のなかで繰り返した。
軍の作戦では情報が無いものに関しては、それがたとえ民間人であっても不穏分子と呼称する。当然、作戦コードを持たず、このビエンホアをめぐる戦いの裏で何らかの手引きをしたと思われるぼくらの元同胞も例外ではない。
彼らは同胞から、その首を狩り出して殺すべき目標へと姿かたちを変えたのだ。
「少尉の任務はビエンホア当該地域に潜入し、これら不穏分子の国外への逃亡を阻止すること。対象との会敵予想地点、および潜伏先と思われる旧政府施設の座標を端末に送信するので、これを第一目標物とする」
「要人の身柄は……」
ぼくは訊いた。要人の身柄は確保するのか、それとも殺すのか。
「暗殺は許可されている。なお、さきほど衛星画像にて、ビエンホアに北部革命勢力の侵攻が確認された。そのため、現地時間
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