第二章

「わたしはの子どもが欲しかっただけなの」

 最後に会ったとき、母はそう言った。

 その告白はちょっと唐突で、当時のぼくは母の真意も分からず、困ったように笑っていたのを憶えている。母はそんなぼくを無感情に見つめて淡々と話を続けた。

 はじめて培養セロファンから出てきたぼくを抱いたとき、母は「違う」と思ったそうだ。まるでしわの寄せ集めからできたような赤子のぼくを抱きながら、その存在を自然の道理にそぐわない、本来あるはずのものではないと母は感じたのだ。

 それでも母はぼくを育てることにした。ぼくの母親をやろうと決心した。それは、ぼくを育てているあいだに、この「違う」の感覚が変わるかもしれないと思ったからだ。

 たとえ自分のお腹を痛めたことがなくとも、年月とともに育まれる愛情や信頼、そして子を残すという遺伝子に刻み込まれた本能が、かならずやこの違和感を解きほぐしてくれると信じていたからだ。

 そして結局、最後まで母はこの「違う」の感覚から抜け出すことができなかった。

 母はその告白のなかで、ぼくにこのような事態になったのは自分のせいだとは言ったが、申し訳ないとか、ごめんなさいだとかは一言も言わなかった。

 母はぼくを産むことを望んだが、ぼくが勝手に産まれてくることは望んでいなかった。だから母には間違えたという意識はあっても、申し訳ないという気持ちはなかったのだ。

 ぼくの国では法律上、親子関係を解消することはできないので、こういう離縁のケースは相続放棄というかたちで行われる。然るべき手続きを経た後、ぼくは国営のシェルターに移り、母だった女性はどこかへ消えた。


 そうして、ぼくに残されたのはこの身体に滞納された肉の支払いだった。

 ヒト胚培養における唯一の問題。

 それは工場で作る身体はとてつもなく高価であるということだ。

 たくさんのタンパク質に各種栄養素、培養環境を一定に保つための工場管理システム、そこに投入される電力やエンジニアの人件費。ぼくの肉の身体にはそれらすべてが乗っかっている。

 だから、ぼくら罰当たりは借金を背負って産まれてくる。

 おぎゃあと産まれた瞬間、助産スタッフが嬰児のまだむちむちとした親指に朱肉をつけ、その母斑を出生証明届に押すのと同時に、その後ろで控えていた銀行員と保険営業担当者が、ぼくらの母斑を契約書に写し取っていく。

 国や政府は人類滅亡を回避するためとか大言壮語をのたまうものの、やることと言えばわずかに補助金を出すくらいで……。その支払いのほとんどは、自分の遺伝子を引き継いだ子ども――つまり、自分と同じ瞳の色や顔の特徴、そのほか才能をちょっぴり持っている自分の生き写しドッペルゲンガーが欲しいと思うお父さん、お母さんの財布事情を当てにしていた。

 だから相続放棄した手前、ぼくがそれを支払うことになっていたのだ。

 ぼくはそのために色々なものを売り払うことになった。例えば、家に残っていた沢山の本、学校の先生が誕生日祝いに買ってくれたカメラ、友人が譲ってくれたレスポールのギター。

 そして、ぼく自身の肉の身体。

 両腕と両足、各種臓器に、感覚器官を少々。本もカメラもギターも何の足しにもならなかったが、ぼくの肉にはそれなりの値段がついたから、ぼくはそれを売却することを迫られた。

 ヒト胚培養が本格化するより前に産まれた世代が、ぼくらのような工場でたっぷりお金を掛けて作られた健康体を借り受ける。あくまで期限付きでの融資だから、ぼくの支払いが済めば身体は返ってくるし、貸付要件だって好きに決められる。

 保険営業担当を名乗る男が言うには、これはボディペイメント事業という歴とした投資信託ファンドであって、これほど融資を受ける側に有利な儲けスキームもないという。

 それにいまの時代、生身の身体より遙かに性能の良い代替インターフェースが格安で溢れているんだから、まったく心配はいらない。営業担当の男はそう嬉々とした表情で言った。

 ぼくはそれを訊いて開いた口が塞がらなかった。

 インターフェースだって?

 たしかに、ぼくもそういう人たちのことは知っている。

 腰から下がそのまま車椅子になったような足を買って、腕の代わりにマニピュレータ一本を腰から生やしているような人間椅子の人たち。本人たちはマニピュレータは入力素子の役割も兼ねているし、シリアルリンクの垂直多関節は可動域の自由度だって保証されていると、そううそぶくけれど、ぼくはそんな人たちの気が知れなかった。

 ぼくはどうしても身体が欲しかった。

 身体を使っているのだという感覚が欲しかった。

 オリジナルの生身が無理だとして、せめて歩くための足が二本生えていて、指だって五本揃った腕が欲しい。手や足がネット端末に直結しているからといって、職業を制限されたり、差別されたりするような身の上に甘んじたくない。そういう自由が行使できる人生を歩みたい。

 そう思うのはおかしなことなんですか? 人の自然な欲求じゃないんですか?

 ぼくは営業担当の男にそう訴えた。

「そうなると、選択肢は一つに絞られますね」

 営業担当の男は、あくまで淡々とそう言った。

「〈Technological Modification Instruments〉社のサービスです」

「て、テクノ……なんですか?」

「〈Technological Modification Instruments〉……。通称TMI社が製造している機能代替性ボディですね」

 ぼくは藁にもすがる思いだった。

「そのTMI社に頼めば、ぼくは自分の身体が持てるんですね?」

「ええ、持てますよ。顧客満足度、マーケットシェア率もともに業界トップです」

 そんなことどうでもいい。顧客満足度もマーケットシェア率にも興味はない。ぼくには関係ない。

「確認なんですが、本当になんですよね。その機能代替性ボディって……」

「本当に、とは?」

「つまり、いまのぼくと同じような腕や足があり、その表面には皮膚があって、それらは人の身体の機構と同じようなメカニズムで動く――そういう身体です」

「ええ、もちろん。そういう身体です。とはいえ、素材は合金やカーボンですので、まるきり同じというわけにはいきませんが……」

 ぼくはそれを聞いて胸をなで下ろした。本当に心の底から安堵した。

「いえ、大丈夫です。機構が一緒なら、そこまで贅沢を言うつもりはありませんから」

「ただ一つ、TMI社のサービスを受けるには条件がありまして……」

「条件?」

 ええ、そうですと営業担当の男が食い気味に身を乗り出した。

「特別執行補助業務という言葉は知っていますでしょうか?」

「いえ……」

 ぼくは正直に言った。聞いたこともない言葉だったし、特別とか執行とか、そういう言葉と、業務という言葉が結びつくのは何だか変な可笑しさがあったからだ。

「TMI社の貸してくれる身体は、その特別執行?――業務と関係があるんでしょうか?」

「そうですね。この業務を実施するにあたり、TMI社が製造する機能性代替ボディは必須と言っても過言ではありません。極地仕様ともなると、高品質なエルゴノミクスデザインが必要となりますからね。その点、TMI社の研究開発力は信頼に値します」

「えっと……」

 濁流のような男の言葉にぼくは少々圧倒された。

 それによくよく聞けば、男はぼくの質問に答えていない。

 ぼくがそう不審に思ったのもつかの間、男は自分のこめかみに指をあてて、何やらうんうんと唸り始めた。

 その姿は先程までのハキハキとした快活な感じとは真逆の印象を感じさせるもので……。そう、まさに『特別執行補助業務』という言葉の響き同様、人をあえて煙に巻くような欺瞞を感じさせるものだった。

 ぼくは単刀直入に聞いた。

「その特別執行業務とは何を執行する業務なんですか。その業務に就いてぼくは何をするんですか?」

 営業担当の男は「特別執行、、業務です」とぼくの言葉を訂正すると、俯いて机の端を指先で叩き始める。

「つまり、どういうことかというとですね……」

 トントントン、トントントントン……。

 机を叩く指が止まる。

 男が顔を上げた。

「あなたは兵隊になるんですよ」



 日が落ちるにつれて、昼のあいだの蒸し暑さは嘘のように消えていた。

 ぼくらが派兵されたのは、かつてサイゴンと呼ばれたアジアブロック圏有数の大都市だった。熱帯直下の気候らしく昼の太陽は苛烈で、直射光の下には一分と経たず立っていられない。

 その反面、いたるところに植えられた南国の華が、日射しで白く霞んだ街に鮮やかな色を添えていた。ブーゲンビリアやハイビスカス、夾竹桃に蓮の花ホアセン

 郊外に行けば、シダのような見た目のタマリンドに、高木樹のイランイランやコウエンボク。さらに、はるか北のカンボジアを源流とし、その支流を葉脈のように広げるメコン川と、そこに形成された荘厳なマングローブ林の数々。

 これら深緑の回廊と見紛うほどの大自然の数々に、そのむかしぼくら西側諸国の盟主である米国海兵隊は撤退を余儀なくされたのだという。

 いまやそのすべてが破壊されようとしていた。

 

 それは、ぼくら平和維持軍が介入する前年のことだった。西側諸国の支援しているベトナム政府軍とその敵――北部革命勢力が、ベトナム東南部の都市スアンロクで武力衝突したのだ。

 半年にわたって続いた激しい攻防の末、北部革命勢力に包囲されたスアンロクは陥落。政府軍はスアンロク市街を放棄し、ビエンホア方面へと蜘蛛の子を散らすように撤退した。

 北部革命勢力はそのまま攻撃の手を緩めることなく西進。戦局は、暫定政府の置かれたホーチミンをめぐり、ビエンホアと沿岸部のブンタンを結ぶ鍔迫り合いの戦線へと激化した。

 歴史の再演とはまさにこのことだった。

 およそ百年前の戦争をなぞるかのように、北部から次々と湧いて出てきた民族統一戦線なる新勢力に支援され、革命勢力は一気にカンボジア方面から侵入すると、あっという間にホーチミンの目と鼻の先まで攻め入ってきた。

 一時は革命軍の戦車部隊によりビエンホア市内が一三〇ミリ砲の射程圏内に入るという危機的状況を迎えたが、平和維持軍が介入したことで戦線は持ち直し、いまはビエンホア周辺部で完全な膠着状態――事実上の停戦状態となっている。

 しかしながら、この仮借ない戦闘の余波は凄まじかった。

 革命軍の進行を阻止するために、ぼくらは仕方なく核のカーテンを築いた。文字通り、国土を縦断するように、等間隔に戦術核弾頭を打ち込んでいくことで作る放射線の分厚いカーテン。

 そこに緑豊かな湿原があろうと、国宝に相当する文化財があろうと、ぼくらには関係なかった。ぼくらは敵を倒す必要があった。ぼくらが作り出す秩序に同意する国の人々を守る必要があった。だから、それ以外のすべてを吹き飛ばす必要があったのだ。 

 ぼくらが旧式のハンヴィーを流しているのも、その吹き飛ばされた荒廃のうちの一つ。

 かつて國路QL一号線と呼ばれた幹線道路のなれの果てだった。


「そういうわけで、ぼくの身体のほとんどは機械なんだ」

 ぼくは運転席のグエンを見やると、そう浮かれた調子で言った。

 グエンがぼくを一瞥した。

 口の端に笑みを寄せ、しかし目は笑っていない。

 少しばかり困ったような顔だった。

 ぼくは内心、そりゃそうだと思った。

 ぼくはグエンに母の話をした。それと自分がいまのような機械の身体になったわけも。

 なにも酔狂で話したわけじゃない。運転中、眠くなってしまわないように面白い話を、と言われたので、ぼくなりのセレクションを披露したのだ。

 基地での笑い話。いちばんキツかった任務は? この小隊に来るまでどこにいたか。出身は? そして、なぜ軍人になろうと思ったのか。

 我ながら軽薄なものだった。ぼくの過去が面白かったことなど一度だってありはしないのに。

「何だかすまない。プライベートな話ばかりして」

 ぼくは取り繕うように言った。

「いえ、とても興味深い話でしたよ」

 グエンはそう言うと、

「俺たちみたいなのは、みんな訳ありのですからね」

 と人工歯の鈍い煌めきをにいと見せた。

 ぼくはそれを見て苦笑する。たしかにそうだ。訳ありの身。ぼくだって、銃弾で顎から下を吹っ飛ばされたくはない。だから、訳あり身を使わせていただく。

「たしかにそうかもね。アジア圏でもぼくみたいに日本から入隊したケースは珍しいと聞いている」

「それもそうですが、俺は隊長の身体のことが知れてよかったですよ」

 グエンが言った。ぼくはぎょっとしてグエンの方を向く。悪いが、ぼくにはそういう趣味はない。そう言おうとした矢先、グエンが「俺たちのなかで機械化の割合がいちばん高いのが隊長ですからね」と言った。

「ああ……」

 ぼくの表情を見て、グエンがほくそ笑んだ。

「もちろん、俺だけじゃありません。みんな大好きですよ、隊長のことは……」 

 そう言って、グエンは胸ポケットからしわくちゃの紙を出すとぼくに見せる。

 百ドル札だった。

「おい、まさか」

「そのまさかです」

 どうやら隊のなかで、ぼくのこの身体の所以ゆえんについて賭け事をしていたらしい。察するところ、胴元はグエン本人らしい。

「いくら勝ったんだ」

「ざっと二〇〇ドル」

「軍法会議だ。上官を賭けの対象にするなんて」

「口頭陳述で泣いて見せますよ。年の功ってやつでさ」

 そう言ってグエンは呵々と豪快に笑った。つられて、ぼくも一緒に笑う。ここ最近、戦闘を警戒してか、張り詰めたままだったテンションがすこし解れた気がした。

「年の功か……」

 たしかにグエンはこの小隊のなかで最年長の隊員だった。

 そのため血の気の多い軍隊員のなかでも、比較的、落ち着いた部類で、言うなれば大人びた性格の持ち主だった。

 だから、こうした余裕ある、気の利いた振る舞いというものができる。

 一応、軍の階級としてはぼくの方が上だったが、やはりぼくより長く生きている分、その胆力みたいなものに助けられるときがある。

 それこそ、ついさっきぼくがしていたような話は、ほかの隊員の前ですれば、女々しいとか、マザコンだとか笑われるような類いのもので、もっと酷い場合はカウンセリングをすすめられる種類のものだ。そういう意味では、物の弾みで話した相手が、グエンのような出来た人間で命拾いしたとも言える。まあ、ぼく自身、それを加味した上で話をした節もあったが。

 とはいえ、それだけが理由ではない。

 それはグエンがぼくと同種の悲哀を背負っている人間であるからだ。

 

 グエンはいわゆる過熟症児というやつだった。

 身体だけ年を取って産まれてきた。いわゆる奇形のなかでも、欠損や変形などの身体的な特徴ではなく、発育の仕方にその病態があらわれる種類の遺伝性奇形。

 グエンが言うには、およそ五年ほど自分は余分に成長して生まれてきたという。ぼくより軍歴が短いのも発育を加味されたうえで入隊検査を課されたからだという。

 つまり、身体は大人、頭脳は子ども。ガキなんですよと、グエンは事あるごとに自分をそう卑下した。しかし軍隊ならどんなブランクも関係ない。タフであれば問題ないからだ。

 そういう意味では、ぼくもグエンも同じ穴の狢なのだ。ともに自分には手の届かないものを求めて野に下った。そういう手合い。

「しかしまあ、人間椅子か軍属かの二択というのも難儀な話です」

 グエンが首を鳴らして言った。

「TMIに身売りした連中の大半は金目的だ。徴兵されたわけでもないから正規の軍人でもない。ぼくみたいな奴もいれば、家族を食わせるためにやっている奴もいるさ」

民間軍事Private Militaryといえば聞こえはいいけど、ようはただの傭兵業ですぜ。俺たち、お国でなんて呼ばれているか知ってます?」

「なんて呼ばれているんだ?」

「サベージ・ドッグ」

「野蛮人のSavage Dogか。まるで中世だ」

 人生を利回りに支配された借金バター犬。

 子どものうちに肌のぬくもりを取り上げられた機械と肉の合い挽き。

「せめて高貴なノーブルと一言、付け加えてほしかったですな」

 グエンの言葉に、ぼくは思わず笑う。

 たしかに軍の命じるままに、あっちでバンバン、こっちでバンバン。戦場とあらばやってきて、銃を片手に駆けずり回っていれば、高貴も何もあったもんじゃない。

 いくら先進的な装備に身を包み、統合化された軍事力を保有しようとも、自分の意志も持たず、やれと言われたから殺すというのであれば、それは犬だ。犬以下の畜生である。

「だけど、たちの悪いことにぼくらの首輪には平和Peace Keeperの文字が刻まれているわけだ」

 グエンは頷いて、

「ええ、国連憲章で言うところの『すべての必要な措置』という名の平和ですぜ。もっとも、法も倫理もあったもんじゃないですがね」

「ぼくたちは経済が倫理を消化したあとに残った排泄物みたいなものか」

「だから、こうして銃口を向けてもいい奴らを探し回っている。なかなかどうして、良い趣味じゃないですか」

 グエンは、そう言って嘲るように鼻を鳴らした。そして指を銃の形に真似ると、その銃口を窓の外の景色に向かって突き出す。

 ぼくらはいつも相手を選ばない。ぼくらが銃弾をお見舞いする奴らが、どんな思想や主義主張を持っていようと気にならない。

 なぜなら犬であるぼくらは噛みつく相手を選ばないからだ。

 そうしてできた地獄の風景をグエンはしかと見据えて、次々と指先の銃口で捉えていった。ぴしゅん、ぴしゅん。グエンが口真似するたびに、草木が焼け落ち、家屋が吹き飛んでいく。

 そうして跡に残った国土の残骸を、グエンは憂うような表情で見つめていた。

「グエンはベトナム出身だったか……」

 ぼくは言った。ベトナム人のおよそ半分はグエン姓だ。もしベトナムに住んでいれば、大家さんはグエン兄さんだし、隣人もグエンさん、どこかの葬式を覗けばそれは故グエン大伯父さんとなる。

「両親はベトナム人ですが出身はアメリカです。だからこの国の惨状を見ても、悲しくはありませんよ。多少、罪悪感は感じますがね」

 そう言うと、グエンはふと窓から見える景色の一角を指し示した。

「ほら、あれ見てくださいよ」

 グエンの指し示す先には綺麗な丸い形をした溜め池があった。一見カルデラ湖のような見た目で、葦などの低木が一切生えていないため、沈みかけた太陽の血のような赤が目にまぶしい。

「綺麗でしょう」

「ああ。でも、あまり近づかないようにしよう」

 グエンは意外そうな表情でこちらを見た。

「知っているみたいですね」

「言ったろ。軍歴はぼくの方が長いって」

 そう、ぼくは知っている。ああいう綺麗なお椀状にくりぬかれた湖がどうやって出来るのかを。

 戦術核弾頭が落とされると、大地はああいうふうに周辺部の土を盛り上げる形で抉れる。そこに雨水が溜まると、あのような異常に澄んだ水を湛える小湖ができあがるのだ。

 ボウフラ一匹さえ浮かばない美しい湖が。

 ぼくらが熱帯地域では避けて通れない蚊やアブにあまり悩まされないのもそのせいだった。

「こんな戦線を広げてどうするつもりなんだろうな」

 ぼくは言った。

「中東、ロシアと来れば、次はアジアというふうに順番で決めていたら面白いんですがね……」

「そんなお鉢が回ってきたみたいな理由で、国を焦土に変えられちゃ溜まったもんじゃない」

「ですが、東部ユーラシア戦線が韓国、日本で膠着している以上、この西部戦線はお国にとって生命線ですぜ」

「その分、戦闘も激しくなる。こうして安穏としていられるのも今のうちかもね」

「まあすべては神のみぞ知るですよ」

 グエンはそう言うと、キャリーにマウントしてある水筒ボトルを手に取った。片手で器用にキャップを外すとそのまま、ごくごくと勢いよく中身を飲み始める。

 その時だった。

「なんだそれ。俺にも飲ませろよ」

 ハンヴィーの銃座についていたはずのドヒョンが、やにわに姿を見せた。

「おい、ドヒョン」

 ぼくがそう制止するよりも早く、ドヒョンはグエンの手からボトルをひったくると、その中身に口をつけた。そして、次の瞬間、ぼくに向かってその中身を吹き出した。

「なんだこれ、不味っ」

 ドヒョンは吹き出すじゃ飽き足らず、ぺっぺっとハンヴィーのフロアマットの上で唾を吐き始める。

「おい、汚ぇぞ」

 この騒ぎで、後部座席で寝ていたジェイが目を覚ました。

 寝ている自分の足下でいきなり吐かれたとあれば、それは怒るのも当たり前というもので、ジェイは足下で咳き込むドヒョンを見やると、その背中を思い切り足蹴にした。

 ジェイに蹴られたドヒョンが悲鳴をあげて、運転席コンパートメント部に芋虫のように這い出してくる。

 もはや車内はてんやわんやの状態だった。

 ドヒョンに吹きかけられた液体を手で拭いつつ、ぼくは片目だけを開いて、どうしたものかと天を仰ぐ。そんなぼくの前にぬっと止血帯が差し出された。ジホだった。どうやらハンカチ代わりにしてくれということらしく、後部座席から無言で手を伸ばしていた。

 ぼくはそれを恐る恐る受け取る。ジホとはあまり話したことがなかった。

「グエン、なんだよこれ」

 ようやく落ち着いてきたドヒョンがボトルを指してグエンに詰め寄った。

「何ってヨウ素カリウム水溶液だよ」

 ドヒョンとは対照的にグエンはあっけらかんとしていた。

「ヨウ素カリ……なんだ? なんでそんなもん飲んでんだよ」

「放射線障害を防ぐためさ。おれの身体は生身の部分が多いからな。とくに内臓系はほぼまっさらに残してある」

 ドヒョンは分からないというふうに、

「生身とそれがなんの関係があんだよ」

「ドヒョン、甲状腺って何だかわかるか?」

「そんぐらい知ってる。ホルモンとかを作る臓器のことだろ」

 あんま馬鹿にすんなよと、ドヒョンは首の付け根あたりを指でトントンと叩き示す。

「そりゃ失礼。甲状腺で作られる甲状腺ホルモンの主原料はヨウ素だ。ヨウ素はあらゆる食品に含まれるが、とくに海の魚や海藻類、あとレバーなんかに多く含まれるな。一昨日、川沿いの村で魚を食ったろ?」

 ぼくらは一昨日まで、ホーチミンから東に十キロほど行ったジーアン市内の村でキャンプをしていた。村民の大半が政府軍を支持しているから、ぼくら西側勢力にも友好的で、村を出る最後の日に現地住民から夕食を振る舞われたのだ。

 出されたのは、チャーと呼ばれるナマズのような魚を背開きにし、焚き火で焼いたシンプルなものだった。香草と魚醤がまぶされていて、付け合わせのチリソースを付けると、この上なく美味だった。

 ただ、ぼくの味覚は機械化に伴い抽象化されているので、味の繊細なニュアンスまで捉えることができなかったのは残念だった。

 ドヒョンもそのときのことを思い出しているのか、「ああ、あれはうまかった。レーション以外の飯なんて一ヶ月ぶりだったしな」と舌なめずりをしながら言った。

「おれも同意見だ。うまかったよ。でも、おそらくあの魚は汚染されてるだろうな」

 ドヒョンが目をむいた。

「マジかよ」

「あの魚だけじゃない。いまの時代どの海域で獲っても多少の汚染は避けられないんだ。まあ俺たちが食ったのは淡水魚だが、北部であんだけドンパチやってるんだ。まったくクリーンってのもありえないだろ?」

「でも、あの川は普通だったぞ。色も綺麗だったし、油も浮いてなかった。汚染されてるようには……」

「ああいうのは生態系の上の方でどんどん濃縮されるんだよ。生物濃縮って言ってな、初めは小さなプランクトン、次にプランクトンを食べる小魚、それを食べる肉食魚の順で、どんどん汚染物質が蓄積される。上の捕食者になるほど個体数も少ないから、一見して、汚染の影響がないように見える」

 ドヒョンはほとんど絶望した調子で、

「じゃあ、それを食った俺たちは……」

「当然、例外じゃないさ。ただでさえ魚のなかで濃縮された放射性ヨウ素やセシウムやらを摂取するんだ。それが甲状腺に溜まると、終いには細胞の一部が癌化したり放射線障害を起こす。だから、それを防ぐために、俺はこうして安定ヨウ素を摂取して、少しでも放射性ヨウ素の取り込みを抑えている」

 グエンはそう言うと、ふたたびボトルに口を付けた。走る車内は揺れていて、時おりグエンの唇の端からこぼれた白濁色の液体が顎下を伝い落ち、ぽたぽたとズボンに染みを作った。

「おれ、そんなこと知らなかった……。俺の胃、生身で残してもらってるんだよ。親父がうまいもの、たくさん食えるようにって……」

 そう言うドヒョンの顔はもはや真っ青を通り越して白くなっていた。手のひらで胃の辺りをぎゅっと鷲掴みにしているから、なおさら血の気が引いて見える。

 そんなドヒョンを見て、グエンが盛大に笑う。

「おいおい、そんな真に受けなさんな。魚一匹、ただちに影響なんてないさ。それに癌になったところで、機械化すればいいだけの話じゃないか」

 グエンはそう言うと、ドヒョンの肩を勢いよく手で叩いた。

 衝撃ではっとなったドヒョンが「そうだよな……」と力なく呟いた。

 びびらせんなよな、とドヒョンが額に浮かんだ脂汗を拭う。内心、相当焦っていたのだろう。ふうふうと荒い息を吐いている。

 それまで我関せずと目をつぶっていたジホがそこで初めて「大丈夫か」と声を上げた。ジホはドヒョンの上体を起こすのを手伝ってやると、

「そっちこそどうなんだ」

 とグエンの方を鋭く一瞥して言った。

「どうって?」

 まさか自分に話の矛先を向けられると思っていなかったのか、グエンは狼狽したふうに聞き返した。

「別に機械化すればいいなら、お前だってドヒョンと同じはずだ。なのに、わざわざ経口摂取のヨードなんて効果があるかわからない代物を飲んで……。お前こそ、なぜそこまで自分の生身オリジナルにこだわるんだ?」

 このとき、ぼくは久しぶりにジホの声を聴いた。

 そういう驚きがあった手前、いくぶん反応が遅れたが、たしかにジホの言うとおりだった。

 ぼくもそうであるが、軍にいる人間の大半は内蔵系を機械化している。

 兵士の身である以上、戦場での負傷という懸念リスクは常に付いてまわる。そういうリスクがある以上、生の内臓を持ったまま兵士になる人間はあまりいない。撃たれる前に機械化し、撃たれてもそれを取り換えるだけでいい身体に自分を進化させる。

 何より、内臓系は高く売れるのだ。軍属に身をやつすような人間は、ほぼ例外なく、内蔵をサロゲートで売って、ボディペイメントの支払いに充てている。

 だから、ぼくは――そしておそらく横で話を聞いていたジホも、グエンの話を聞いても他人事のようにしていられた。そもそもぼくらは汚染物質によって損傷する生身の内臓を持ち合わせていないからだ。

 しかし、ドヒョンはともかくとして、グエンにはその道理は当てはまらない。機械化すればいいと言っている当の本人が、その実いちばん機械化を忌避しているとあっては、まったく筋が通らない。

 ジホの指摘にグエンは戸惑うように唇を噛んでいた。

 そうして何度かの逡巡を経て、ようやく口を開いた。

「そうだな。俺は自分が責任を持てる範囲で、なるべくこの身体の面倒をみてやりたいってだけなんだ、たぶん……」

 ジホは黙って聞いていた。

 グエンは続けて、

「たぶん、なんて予防線を張ってすまない。けどな、いくら自分のオリジナルを使っているのが安全に暮らしている金持ち連中だからと言って、それがまったくの健康体で返ってくるって保証はない。そうだろ? 最悪、借主が事故で死ねば、こっちは全損だ。だから俺は自分のオリジナルはなるべく残しておきたいし、残っている部分については健康に保っておきたい。そう思っているんだよ……」

 語り終えてから、グエンはふたたび口を閉じた。

 車内にはハンヴィーが路面を切りつける、がたがたという音だけが響いていた。

「そうか。わかった」

 ジホが言った。 

 どうやら、わだかまりは消えたようだ。

 グエンも「ああ」と応えると、ジホに介抱されているドヒョンに目を向けた。 

「まあでも、俺もある程度は割り切っているのはたしかだ。その手前、あんな話をしちゃあ、それこそ脅しだったな。すまなかった、ドヒョン」 

「あん? なんの話だ?」

 ドヒョンが何のことやらというふうに言った。

 ぼくはグエンを差し置いて、ひとり吹き出しそうになってしまった。

 ドヒョンはすでにもとの『能天気なドヒョン』に戻っていた。あれだけ、顔面蒼白にして脂汗をかいていたのが嘘のような変貌ぶりだった。

「お前は本当に……」

 これには、さしものジホも呆れたように閉口した。

「はあ? なんだよ?」

「もういい」

「なんだよ、気になるじゃねぇか」

「もういいって言ってるだろ」

 暑苦しく迫るドヒョンの顔をジホは手で押しやって、再びヘルメットを目深に被る。ぼくはグエンの方を見やった。グエンもグエンで「さあ」というふうに肩をすくめて笑っている。ドヒョンは最後までわからないというふうに、きょとんとした顔をしていた。

 なんとも平和なものだった。

 戦場くんだりまで来て、こんなお笑いコントをやる羽目になるなんて。これでは基地での訓練が馬鹿らしくなってくるというものだった。

 いまのぼくらを見たら、ボスはなんと言うだろうか。

 おそらく危機感の欠如と言うだろう。あるいは、想像力の欠如、かもしれない。

 戦場で殺し合いをするということの。

 しかし本音を言えば、ぼくは内心ほっとしていた。

 この国に降りたってから、ぼくらはまだ一度も致命的な会敵というものをしていない。つまりは三百から四百メートル圏内で敵と接敵する状況というわけだが、この距離だと当然、小銃の射程距離内なので壮絶な撃ち合いが想定される。

 すると、どうなるか。

 部隊の誰かが撃たれること、そして死ぬことを想定しなくちゃいけなくなる。

 そんなことを想定しなくちゃならない『想像力』なんてものは、ぼくはごめんだった。

 それに、今回の任務はあくまで予防展開だ。

 ぼくらの部隊が展開されていると知れば、敵も滅多なことはできない。いかついハンヴィーを走らせて、お前たちを殺す準備はできていると触れまわっている相手に、わざわざ攻撃を仕掛けるほど、敵も馬鹿じゃないだろう。

 そうして、ふうと一息ついた時だった。

 荷台に就いていたアイスンが車内に飛び込んできた。

「炎、見える!」

 アイスンはぼくらに向かって、そう叫んだ。

「炎?」

 ドヒョンが訝しんだように言った。

 アイスンは続けて、

「炎、見える、キャンプ!」

 車内の全員が一斉にアイスンの方へと振り向いた。

 ビルマ出身のアイスンは英語がうまく喋れない。だから普段はイエスかノーで応えられる範疇でしか物事を喋ることはない。そのアイスンがいまや必死の形相で、車内にいるぼくらに何かを伝えようとしているのだ。

 ぼくは急いで荷台に出ると、アイスンに「説明しろ」と言った。

 アイスンは頷くと「炎、見ろ、あっち」と大きな声で叫び、ある方向を繰り返し、ゆびさした。ぼくはスコープでアイスンのゆびさす方向を見ると、たしかに空の向こうがぼんやりと明るくなっていた。

「わかった。あっちだな」

 ぼくは運転席のグエンに、アイスンが示す方角へと進路を変更しろと指示する。次いで後列のハンヴィーにも同様の指示をハンドサインで伝えた。ぼくがそうやって指示しているあいだも、アイスンは狂ったように何度も「炎、見ろ」、「炎、見ろ」と繰り返していた。

 ハンヴィーの進路が安定してくると、スコープを使わずとも遠くの空にその鈍い瞬きをはっきり確認できるようになっていた。

 ハンヴィーが近づくほど、光はより鮮明になっていく。日も完全に落ち、深遠にも思えるジャングルの闇が、地獄のような赤色に染め上げられていた。

 そして、その赤黒い空の下には、ぼくらの前線基地があった。



 ぼくらの前線基地を跡形もなく吹き飛ばしたのは、北部革命勢力と見られるヘリボーン隊の投下したCBUCluster Bomb Unit爆弾だった。


 CBU爆弾は、いわゆるクラスター弾と呼ばれる投下後、低空域下で入れ子状になった弾頭を炸裂させる地上制圧用の兵器だ。なかでも今回、革命勢力が使用したのは物理弾頭のかわりに液体燃料を搭載した燃料気化爆弾FAEB(あるいはサーモバリック弾)と呼ばれる代物で、これは異常な燃焼力で半径数百メートルすべてを焼き尽くす特殊爆弾だった。

 この攻勢により、ぼくらユニットDの戦力は壊滅的な被害を受けた。

 炸裂したCBU爆弾の直下には、ぼくらの作戦陣地があったからだ。プレハブで掘っ立て、トタン板で屋根をしたぼくらの愛すべき小さな司令部。

 爆発の瞬間、超高温の衝撃波を発生させるサーモバリック弾の破壊力は凄まじく、司令部の硬化樹脂材でできた外壁や基礎に流し込んだセメント剤は一瞬にして融解し、地面の底に溶岩のように堆積してしまった。

 このレベルの燃焼力だと、周囲の酸素も同様にすべて燃焼されてしまうため、当然、建物内部にいた二十三名の隊員たちは言うまでもなく全員即死した。建物の外を警備中だった兵士も高温の衝撃波に巻き込まれ焼死した。

 生き残りはゼロだった。


 ハンヴィーを降りたぼくらが目にしたのは、その残骸だった。

 ドロドロに融解し、蝋のようになった建材樹脂の中から、辛うじて焼け残った義手や義足の残骸が、天に向かってその五指を突き出している。そんな悪夢のような光景。

 ぼくらはそれに圧倒された。

 その光景の凄まじさ、言葉を失った。

 真っ先に嘔吐したのは、ハンヴィーを運転していたグエンだった。

 数人の隊員たちがグエンの後に続き、現場から走り去っていく。みな、ビーチフラッグでもやるみたいに全速力で走っていって何メートルか先で嘔吐した。

 ぼくは嘔吐しなかった。ぼくの身体は横隔膜やら胃の機構やらを全部、機械化してしまっている。嘔吐する機能がぼくの身体には搭載されていなかった。

 しかし、嘔吐感それ自体は感じている。目の前の、あまりに凄惨な光景を前にして、脳の中枢が嘔吐したいという指令をあちこちに送り続けているのを、ぼくはまざまざと感じていた。

 その嘔吐感から少しでも気をそらすため、ぼくは隣にいるジホを見やる。

 ジホは真っ青な顔のままその場で硬直していた。ときどき、びくっと身体を震わし、この光景の凄まじさに目を瞑って耐えていた。

 ぼくはジホの肩に手を置くと、ここを離れようと言った。

 ジホはうつろな目をしたまま、ぼくに促されて司令部をあとにした。一歩一歩、足を引き剥がすようにしないとジホは歩けなかった。

 引力だ。残酷さには引力がある。見た者を永遠に縛り付ける引力が。


 そうして何分か、ぼくらユニットDの部隊は茫然自失としていた。

 しかしながら、すぐにでもここを離れる必要があった。爆撃機が来たということは、この後、陣地を確保しに強襲部隊が来るということだ。もたもたしていれば、ぼくらも司令部にいた仲間たちと同じ運命を辿ることになる。

 ぼくらは最低限、原型をとどめている記録メディアの類いを回収すると、急いで哨戒に使っていたハンヴィーを乗り込んだ。

 通信設備の類いは徹底的に破壊されていた。

 武器庫や装甲車も爆撃の上、機銃掃射で念入りに攻撃が加えられていたため、ぼくはそれらを使用不可と判断した。最悪、二次被害を狙った地雷等が仕掛けてある危険もあるからだ。

 できれば、死んでいった隊員たちの識別タグも回収しておきたかったが、それは無理な話だった。物理的に可能かどうかの話じゃない。あの溶岩もどきの中から、かつての仲間だった連中の腕やら足やらを発掘しようという発想、それ自体が無理なのだ。誰もそれを可能不可能の地平で検討しようとすらしなかった。


 とはいえ、司令部もやられっぱなしでいたわけじゃない。

 CBUの直撃を免れた仲間の一人が自分の身体が焼けるのも構わず、爆弾を投下した戦闘ヘリの機影を光学で記録すると共に電子的にマーキングしていたのだ。

 これは目標物に高強度のレーザー光を照射することにより、金属磁性体部に誘起された電磁波をレーダー等で追跡するという方法だ。この方法であれば、目標物の磁性変化が持続している数分間のあいだ、その軌跡をレーダーで追跡することができる。

 もちろん追跡経路を分析しないことには意味のある情報は得られないが、それでもヘリの帰還方向から、おおよその敵の位置など最低限の情報が得られるのはたしかだ。

 一方、光学映像の方は見込みなしだった。

 こちらは限界まで絞っても敵機の所属等を示す情報は見つけられず、唯一わかったことといえば、ヘリが某アジア国製であるということだけ……。つまりこれは、何の意味も無い情報だ。(いまやどこの国でも某アジア国製のコピーは出回っている)

 ともかくマーキングの解析が終わるまでは、ぼくらはハンヴィーを走らせ続けるしかない。哨戒ルートを外れることは危険だったが、司令部が攻撃されたいま、哨戒ルート圏内にいることも同じくらい危険だったからだ。

 ぼくらは足がかりを完全に失っていた。


 ハンヴィー内では誰一人、口を開こうとする者はいなかった。アイスンはじっと窓の外を見つめている。ジェイも黙々とマーキングの解析にあたっており、あのドヒョンですら、口を真一文字に引き結び、軽口一つ叩かなかった。

 ハンヴィーは運転手をグエンからジホにかえて、荒野の道をあてどなく進んでいた。

 ルートも何もないので、おっかなびっくりの走行だったが、ジホの運転は毅然としており、躊躇というものがなかった。

 分かれ道にぶつかってもジホは悩まない。正確には一瞬だけ悩むのだが、次の瞬間には必ずどちらかの道にきっぱりハンドルを切った。

 もし間違えた方向にハンドルを切っていたら、その先に敵の部隊がいるかもしれないということは考えないのだろうか。おそらく、考えるのだろう。考えたうえでジホは決めている。決然と右か左のどちらかにハンドルを切り、その選択の結果を受け入れる覚悟をする。

 それは、ぼくには……。いまのぼくにはできない芸当だった。

 戦闘が始まったというのに、ぼくのなかには緊張感というものがなかった。

 ぼくら以外、みんな死んだ。

 いや殺された。不当にも命を奪われたのだ。それもあんなふうに。

 なのに、ぼくは何も感じていなかった。ぼくのなかには、恐れもなければ、怒りもない。

 もちろん、敵の攻撃に晒されたり、仲間が危機に陥れば、相応の反応を返すことはできるだろう。安全な遮蔽物に身を隠したり、仲間を助けるための機転を利かせることはできる。

 しかし逆に言えば、それしかできないのだ。

 いまのぼくには反応することしかできない。なにか自発的な意思に基づいて行動を起こしたり、感情のまま振る舞ったり……。そういうことがとてつもなく困難なことに思えた。

 ぼくはそこで肩掛けした小銃の薬室を確認してみた。

 驚くべきことに、初弾が装填されていなかった。哨戒中は敵との遭遇戦に備え、薬室に銃弾を装填した状態で携行する。訓練でうんざりするほど叩き込まれたはずなのに、たった一月ばかし戦闘が無かっただけで、ぼくはその習慣を完全に忘れていた。

 ぼくは慄然とした。

 こんなことでぼくは本当に戦えるのか?

 ふと、視線を感じて振り返ると、ジホがぼくのことを見つめていた。

 ジホは器用にもハンヴィーのハンドルを操りながら、ぼくの方に視線を向けていた。体調を崩したグエンの代わりに彼が運転手を申し出ていたのだ。

「これは、その……」

 ぼくはコッキングレバーを引いたまま、しどろもどろに応えた。分隊長のくせに軍の交戦規定ROEすら守れていないということが急に意識された。

「隊長」ジホが言った「俺たちが向かっている目的地のことですが……」

 ぼくはコッキングレバーから手を離す。かしゃんと控えめな音と共に弾が薬室内に収まった。

 そうだ、目的地だ。いまは余計なことを考えている場合じゃない。

 ぼくは頭をしゃんとさせると、車のコンソールを操作してGPSマップを表示した。

「いまぼくらがいるところは、パープルラインと呼ばれる事実上の停戦ラインから五キロほど離れたルートだ。停戦ラインはもちろん……」

「隊長」

 ぼくの説明を遮る形でジホが言った。

「どうした」

「セーフティを」

「え?」

「初弾を装填した後にセーフティを掛けるのを忘れています」

「ああ……」

 ぼくはセレクターを操作すると、モードをセーフティに入れた。

 数秒の沈黙があった。

 やはりぼくは動揺しているのだろうか。

 このさき、どこかで戦いになることは避けられない。自分では何も感じていないと思っていても、身体の方は――とくに残された数少ない生身の部分はそうじゃないのかもしれない。

 だから、ぼくは落ち着くべきなのだ

 ぼくは自分にそう言い聞かせた。なんとなれば、この機械の身体にはホルモン調整機構が備わっている。

 ジホがぼくの肩に手を置いた。

「隊長、大丈夫です。いつもように指示してくだされば、俺たちはついてきますから」

 ジホはそういうと、ぼくのことをまっすぐに見た。傍目に浮ついているぼくを気遣ってくれたのだろうか。

 そのとき運転席の後ろからジェイが地図を広げてぼくに見せてきた。

「スビンがマーキングしたヘリの行き先を追ってみました」

 ぼくはあの隊員の名前がスビンであると初めて知った。

「それで」

 ぼくは訊いた。

「ヘリはホーチミン側に飛んできました」

「ホーチミン側?」

「はい」

 反射的にありえないと言いそうになったが、ぼくはぐっとその言葉を飲み込んだ。

「本当なんだな」

「ええ、間違えありません」

 ホーチミンに敷かれている防空システムは、ぼくの知る限り、弾道ミサイルのような高速飛翔体でなければ、難なく迎撃することができる。仮に、例のヘリボーン隊がホーチミン防空圏内を一〇メートルでも擦過しようものなら、その瞬間、即撃墜されるはずだ。

 つまり、敵機であればホーチミン側に飛んでいくなんて自殺行為は考えられない。

「ということは、奴らはまだこの辺りを飛んでいるってことか」

「そこまでは何とも……」

 ジェイが苦々しく言った。

「たしかにホーチミン側に近づくのは自殺行為です。ですが、何の確証もなしにそっちに飛んでいくってのも考えづらい。何か別の目的があったとは考えられないですか?」

「たとえば?」

 ぼくは訊いた。

「たとえば、別のキャンプを攻撃しに行ったとか」

「ここから一番近いのは北のビエンホア方面の基地だ。ホーチミン側に行く必要はない」

「とすれば、敵側がホーチミンの防空システムを突破できるだけの算段を持っている……。って線はありえませんよね、あはは……」

 ジェイが笑って言った。

「いや一つだけある」

「え?」

「防空システムがすでに機能していないという線だ……」

 ジェイは表情を凍らせた。そんな馬鹿なと言いたげに唇を歪めていたが、あの焼き払われたキャンプの惨状を見た後では笑えないようだった。

「だれか判断できる人はいないんですか」

 ジェイがすがるような視線でぼくの方を見た。

「ぼくもわからない。統合作戦本部JOCから貰えるのは、戦局の限られた情報だけなんだ。指令の中枢を握っているとなると、小隊長ぐらいで……」

「しかし、小隊長は……」

 ジェイがそう言い淀んだ。

 そうだった。いま小隊長はあの溶岩もどきのなかだ。

 ぼくは今更ながら痛感した。

 部隊を率いていると言っても、所詮それは分隊レベルでの話だったのだ。戦局、それ自体の統括的な情報を把握するという意味でぼくはまったくの蚊帳の外だった。

 やはり、今からでもあの焼け跡に戻って小隊長のメディアタグを取ってくるべきだろうか。しかし、戻ってみたところで別働隊の奇襲を受ければ、それこそ爆撃してきた連中の思うつぼというものだ。

「一度、どこかの村に入って本部と連絡取りましょうよ」

 膠着状態に耐えかねたのか、ドヒョンが言った。

「いや駄目だ。ここら一帯は無線封鎖されている。それにホーチミン近くの村となると川を渡らなきゃいけなくなる……」

「渡ればいいじゃないですか。でかい橋があったでしょう?」

「馬鹿。この状況で橋なんか渡れるか」

 ジェイがすぐさま怒鳴った。

「橋なんか往きに渡ってきたじゃないですか」

「だから、その橋の向こうからヘリが来たかもしれないんだよ!」

 途端にハンヴィー内で言い争いが始まった。

 誰が悪いだの、お前のせいだの。みな、支離滅裂な内容で互いを罵りあった。ここにきて口には直接出せなかった不安や恐れが一気に爆発したようだった。

 ぼくが口論を制止できずにおろおろしていると、後部座席で休んでいたはずのグエンが起き上がった。そのまま止めてくれると思いきや、自分から口論のあいだに入っていく。

 もはや、ぼくにはこの状況をどうすることもできなかった。

 過熱していく口論をなだめることもできず、かといって一喝するような気概もない。

 そうして泥沼の事態を眺めていると、段々とこの光景が現実のものとは思えなくなってきた。

 みなの言い争う声が、モールに流れているBGMみたく、のっぺりとしたものになっていく。怒りや恐慌に歯を剥き出しにしている仲間たちの表情もピントの合わない写真のようにぼやけて見えた。

 すべてが背景となっていく。すべてがただの風景と化していく。


 おかしなことだが、ここにきて、かえってぼくの感覚は研ぎ澄まされていった。

 みなの口論をBGMにして、ぼくの耳はハンヴィーのタイヤが轍を刻む音や、乾いた草木を踏み潰すピシッという音、そして夜のジャングルに響く虫や獣の鳴き声といったものを、子細に聞き分けている。

 ここまで聴覚が鋭くなると、さっきまで緩んでいたテンションの糸が次第、張り詰めてくるような感覚に肌がピリピリと鳥肌立ってきた。

 ぼくは頭のなかの情報を整理した。

 そもそもの話だ。いくら高性能な爆弾を投下されたからといって、たった一度の爆撃で部隊があそこまで壊滅するものだろうか。

 彼らの攻撃はピンポイントだった。司令部以外にも、基地に置いてあった装甲車も残らず爆撃されていたし、物資を保管していた格納庫も徹底的に機銃掃射を受けていた。

 それに生存者が居ないことも不思議だった。

 キャンプの規模を考えれば、撃ち漏らしがあってもおかしくはない。それが一人もいないとなると、ブリーフィング等で部隊が一箇所に集まったタイミングに攻勢の瞬間がたまたま重なったということになる。これはちょっと出来過ぎだ。

 そして、ここまで徹底した攻勢にもかかわらず、ぼくらだけが安穏と生き残っているのはなぜか……。

 ぼくは確信した。敵はこちらの作戦内容を知っている。

 つまり、こちらの情報がリークされていたということだ。作戦前に調達を受けた第三国の部隊か、駐屯地にいた現地民か、そのどこかからぼくらの作戦行動が筒抜けているのだ。

 ぼくらが生き残ったのは単なる偶然。連中はぼくらの哨戒ルートまでは知らなかったか、あるいは部隊の戦力を事実上、奪うことができれば御の字と考えていたのか。

 いずれにしろ、連中は目撃者を出すことを恐れていた。連中がホーチミンの防空システムをどうにかできる算段があろうがなかろうが、ぼくらが安易に基地に戻ろうとしたり、本体と合流しようとすれば、その帰途を叩かれるのは充分考えられる。

 それどころか、ぼくらが降り立ったタンソンニャット空港も強襲圏内に入っていてもおかしくない。たとえ橋を突破して、勢い勇んでホーチミン市内に戻ったところで、滑走路に一三〇ミリ砲を撃ち込まれれば、ぼくらはそこで袋のネズミだ。

 退路は断たれているのだ。


 ぼくは自分のなかで何をするべきかの指針が固まっていくのを感じた。

 ぼくは死ねなかった。自分の生身の身体オリジナルを取り戻すまでは、ぼくは死ぬわけにはいかない。

 生き残るには、残存したユニットDの戦力を集結させ、このまま北のビエンホア方面軍と合流する。それ以外に道はない。


 そのときぼくはようやく気付く。

 ジホがぼくのことをじっと見つめていた。

 もはや背景と化した車内の喧噪のなかで、ジホだけが輪郭を取り戻し、意志の籠もったまなじりをぼくの方へと向けていた。

 まるで天命を待つかのように、その目はぼくの言葉を待っていた。

 ぼくは無言のうちに頷くと、

「進路を北に変更してくれ」

 とジホに言った。

 ジホもまた無言で頷いた。

「了解です。ビエンホア方面ですか」

「ああ、そうだ」

 ぼくは窓から手を出すと後列にいるハンヴィーにも進路変更の合図を出した。

 ハンヴィーはゆっくりとその進路を反転させると、北へ向かって暗い夜道を進み始めた。ビエンホアまでは直線距離にして三〇キロほど。だが、旧国道など目立ちやすい道を馬鹿正直に進むことは避けたかった。それでも、夜明けまでにはビエンホアの近辺にはたどり着けるだろう。

 気付けば車内の喧噪も止んでいた。

 誰もぼくの判断に異を唱えることはしなかった。 

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