第一章

 二〇九〇年。ぼくらは神さまに喧嘩を売った。

 

 と言っても、実際に殴りかかったり、中指を突き立てたりして挑発したわけじゃない。神さまは物理的な存在じゃないし、信仰如何によっては複数になったり、かたちを変えたりと、その様相は、ぼくらが捉えるにはあまりに複雑すぎる。

 だから、ここで言う喧嘩を売ったというのは、主に倫理的な面での話。

 現存の人類社会が定めている法および宗教の各種戒律において、つぎの事柄は例外なく認められていない。


 殺人

 傷害

 偸盗ちゅうとう

 姦淫

 堕胎

 自死

 そして人間の複製クローニング、およびヒト胚の操作。


 これらの行為は生命に対しての冒涜であり、道徳的規範に背く行為として人間社会で禁じられている。しかしながら、人類のこれまでの歴史を見ればわかるとおり、さきの事柄は必ずしも守られているとは言い難い。

 平穏のなかであっても、人は利己的な理由で奪いもするし、殺しもする。某国ではヒト遺伝子の改良が秘密裏に行われ続けていた。

 そして何より戦争があったから。ぼくらの世界はそれはもうとんでもない数の禁忌と罪を積み重ねていた。これ以上、贖う術を持たないというくらいに、殺して殺して、殺しまくっていた。

 だから神さまは罰としてぼくらからそれ以上、罪を犯し得る者が生まれないようにした。

 それは突然のことだった。

 ある日を境に、ぼくら人間から子どもが産まれなくなったのだ。

 厳密に言えば産まれはする。

 けれど、そのほとんどが奇形児や遺伝的欠陥を抱えたまま産まれるようになり始めたのだ。

 二〇二〇年代後期だったと思う。そのあたりから、途上国で手足がなかったり、頭が二つあるような子どもが急激に産まれるようになったのだ。

 そのころは戦争くんだりの影響で地球環境の汚染がひどくなっていた時代だったから、多くの――とくに先進国の政府はそのことを気に掛けなかった。

 潮目が変わったのは、戦火のない地域でも奇形児が多く産まれるようになってからだ。

 突然、何の予兆もなしに、脳が変形していたり、生存に必要な臓器が欠けていたり、あるいはスープ状のまま外界に飛び出すような嬰児の事例が頻発した。

 奇形児たちは化学兵器や核兵器で汚染されていない地域にも、等しく同じ割合で産まれ、そして死んでいった。

 事ここに至って、世界はようやく自分たちの置かれた危機的状況に気が付いた。

 多くの発生学の権威がこの人類の命運をかけた問題に注力し、世界中の調査機関もそれに追随した。

 当初、学者たちは奇形児が産まれる要因は外部にあると考えていた。それは放射線であったり、化学物質や重金属による汚染の影響であったり……。そういう、なにかイレギュラーなものが人のなかにある正常なものの働きを妨げていると、そう考えたわけだ。

 そして、そのプロセス自体――つまり遺伝子やヒト胚自体には問題がないと信じて疑わなかった。

 しかし、そうではなかった。

 学者たちの予想を裏切り、奇形児が発生する原因はまさにその遺伝子自体にあった。

 人間の形質は遺伝子の組み合わせで決定される。

 肌がどんな色か(どれくらいのメラニンが含まれるか)、胃や腸がどんな食べ物を消化・吸収できるか、美形に生まれるか、醜く生まれるか。そのすべてはこの遺伝暗号コドンなるものから決定される。

 その遺伝暗号のなかに人が奇形を呈するようになるコードが含まれていたのだ。

 DNAに含まれる塩基の配列数はおよそ三十億。そのなかで遺伝子型ゲノムと呼ばれる部分が二万三千。

 そして調査の結果、表現型として奇形児発生との関与が認められた遺伝暗号の組み合わせは一万飛んで八千と五百通りと報告された。このすべて組み合わせを詳細に調べ上げ、幹細胞から治療薬を生成することができれば人類は滅亡を回避できる。

 つまるところ、それは不可能な話だった。この大量の組み合わせをすべて検討し尽くせるようなリソースは、全人類が一糸乱れぬ統制を可能としていなければ創出できないものだ。

 学者たちはおそらく科学の力を信じていたのだろうし、ぼくも科学の力は信じている。ただ、ぼくが信じていなかったのは人間の方だ。

 ぼくら人類はいまだかつて数世代間で連帯して、なにか大きなプロジェクトをやり遂げたことはない。どんな偉大な理想も計画も二十年もすれば、その骨子を失って瓦解するのが常であり、たとえその理念を引き継ぐ者が現れたとしても、多くの場合、後任者はそのすべてを破壊するのが通例だった。

 それがぼくら人間だった。ぼくらが連綿と紡いできた歴史だった。

 結局のところ、歴史の側がそれを証明してくるまで、そう時間は掛からなかった。

 今朝のことだ。

 自然分娩で生まれた子どもの、その最後の一人が息を引き取った。

 ぼくはそれを軍の食堂で豆のスープを啜りながら知った。何てことはない、世界に無数ある痛ましいニュースの一つでしかなかった。

 コメンテーターの男は、この件について沈痛な面持ちで哀悼の意を表した。

 みなさん、一つの時代がいま終わりを告げました。

 わたしたち人類はいままでたくさんの罪を犯してきました。そして、これからも罪を犯し続けることでしょう。

 では、次のニュースです。



 もちろん、ぼくらの時代が始まるのはここからだ。

 ぼくがこうしたニュースに平然としていられるのは、ぼくらの世界が子どもを産まなくとも存続できるようになったからだ。

 曰く、子どもを必要としない世代。

 曰く、神に喧嘩を売った世代。


 ぼくはヒト胚培養で産まれた子どもの最初の世代だ。

 肉の生身が高価になって、そのために借金を抱えて産まれてくるという経済と倫理の狭間で産声をあげた子どもだ。

 ぼくらはそのために金払いのいい軍隊に身を置いている。

 歴史が一周回っても、まだ正義の側に立っている西側諸国で兵隊なんかをやっている。おおむね不満はない。立身出世なんて望んでいたら、あっという間に利子で頭が回らなくなってしまうのだから。

 ぼくが籍を置いているアジアブロック方面第八歩兵師団では、ほかにもジホやドヒョン、あとジェイもぼくと同じ第一世代だ。そのため、ほかの連中はぼくらのことを敬意を込めてこう呼ぶ。

 罰当たり世代。

「おい、身体から罪があふれ出しているぞ」

「言えよ。発生学で精通したって」

 などなど、今日もぼくらをそう揶揄する先輩方の脇をすり抜けて、ぼくらは作戦司令室の席に着く。

 見れば、ドヒョンが掴みかかろうとしていたところをジホに取り押さえられていた。

 自分たちだけがまっさらだと思うなよ、ドヒョンはそう捨て台詞を吐くと、ぼくの後ろにドスンと座り、座っただけでは落ち着かず、足をたんたんと踏み鳴らす。

 短気でカッとなりやすい、それがドヒョンの性格だった。

 ぼくはこの小隊、通称ユニットDの分隊長でもあるので、ドヒョンのこの性格にはいつも手を焼かされている。純粋なのは良いことだが、直情的すぎるのも困りものだ。

 とは言え、ぼくもドヒョンの意見には賛成だった。

 ぼく以前の世代、つまり先輩方の世代も、発育過程で奇形児にならないよう、遺伝子に何らかの調整を受けて産まれてきている。つまり、罪は平等にある。にもかかわらず、ぼくらだけをこうして罰当たり呼ばわりするのは、いささか筋が通らないというものだ。

「奴さんたち、やっかんでんだ」

 ドヒョンは苛立たしげにそう言うと、ぼくの肩に手を置いた。

「なあ、見せてやろうぜ。俺たちがどこからひねり出されたのかをさ」

「培養セロファンでぴちぴちにパックされた姿をか?」

「もちろん。連中、精々がシャーレか試験管だ。誇りに思ってんだよ、豚の子宮はらから産まれてきたことを」

 そう言って、ドヒョンがくっくと笑う。

「だとしても」ぼくはそう言うと「先輩には敬意を払うべきだろ」とドヒョンの手を払いのけた。

 ドヒョンの言うとおり、ぼくらと先輩方々は本質的に違う存在である。

 いわゆるデザイナーズベイビーである彼らの世代は、受精卵をあっちこっちへ忙しく動かしたり、針で突いたりすることで、なんとか奇形児になることを免れた世代だ。

 そうして、やっとのことで産まれた彼らは、自分たちがデザインされたであるということをやたらと鼻にかける。おそらくは、それが人間の条件だと思っているのだろう。創造性やオリジナリティ、遺伝子や塩基の配列に還元できない崇高なもの、それこそが過たず人を人たらしめると。

 しかしながら、ぼくらは彼らとまったく違う。ぼくらは創造デザインなどされない。ぼくらがされているのは自動機械オートメーション化だ。

 データセンターに所狭しと置かれたサーバラックを想像してほしい。

 そのバベルの塔もかくやといったサーバラックに、一つ一つ丁寧に、磁気テープの代わりに差し込まれているのがぼくらだ。

 だから、先輩方はぼくらを目の敵にする。工場で量産された、創造性のない、無味乾燥なぼくらの魂を認めようとしない。

 まあ、人間サーバラックに身を連ねたことのあるぼくから言わせれば、豚や牛の子宮を保育器代わりにして産まれてきたということの方がよっぽど悲劇的である。

 これについては不思議なもので、どんなに異常の無いヒト胚であっても、ひとたびそれを母なる母胎に戻した瞬間、そのヒト胚は奇形児となってしまうという事情がある。生物学的に両者に違いはないはずだが、すでに起こってしまっている現象になぜと問うても仕方のないことだ。

 そうして、ひとしきりドヒョンの相手をしてやると、今度は隣にいるサイが耳打ちしてきた。

「隊長、今回の作戦についてなんですが……」

 サイはそう言うと周囲を見渡した。

 何やら秘密めかしているが、これは平均的なアジアブロック圏の人間の喋り方だ。

「今回の作戦がどうかしたか?」

「ぶっちゃけ、クライアントは誰だと思います?」

 そんなのお決まりの国際仲裁機関の面々だろうと、ぼくは言った。国家間の紛争に関して当時国でもない、ぼくら西側諸国の軍隊が関与できるとしたらそれしかない。

「それがそうとも限らないって話ですよ」

「どういうことだ」

「どうやら裏にスポンサーがいるって話です」

「スポンサー?」

「ええ、匿名の」

 ぼくは思わず吹き出しそうになる。悪いけど映画の見過ぎじゃないか、そう言いたくなるのを堪えて、ぼくはにやけ面を隠そうともしないサイを見る。

「ありえないよ。そんな簡単に、はい戦争だなんてやるわけがない」

 ぼくが聞いている限りでは、今回の作戦はあくまで予防展開ということだった。

 その内容は、現在、各国の常備軍が維持しているアジアブロック戦線、および停戦パープルラインの一部に、ぼくら平和維持軍が張り付き、前線の後ろにある軍事拠点や居住区を防衛するというものだ。

 その性質上、ぼくらから敵勢力を攻撃するのはもちろんあり得ないし、特定のどこかをピンポイントで守るということもしにくい。見込める実際的な効果なんてありはしない。

「戦争なんてしなくとも、得する奴らはたくさんいますよ」

 サイが思わせぶりに言った。謎解きのヒントでも出しているつもりなのだろうか。

「そういう言い方をするってことは知ってるってことなんだろ?」

「どうでしょうね」

 試したがりほど、たちの悪いものもない。本当のことを言えば、小隊の仲間として付き合ってやるのもやぶさかでもなかったが、生憎、今朝のニュースからこのかた、ぼくは虫の居所は悪かった。

「どのみち、ぼくらには関係のない話だな」

 そうすげなく返答すると、ぼくはそろそろボスが来るから黙っておけと言った。ぼくの反応が面白くなかったのだろう。サイはため息をつくと、

愛好家スナッチャーの連中です」

 そう、ぽつりと言った。

「サロゲート・ユーザーか……」

 サイはええと頷くと、自分の二の腕をコンコンと叩いて見せた。

 肉の身であれば決して出ないような乾いた音。ぼくもそうだが、軍にいるほとんどの人間が、身体の一部を機械化している。別にそういうフェティッシュがぼくらにあるわけじゃないが、単に肉の身体が高価なゆえに、ぼくらは仕方なく、自分の生身オリジナルを切り売りせざるを得なかったのだ。

 そしてぼくらの切り売りされた手足や内臓は、ぼくらより上の世代、奇形で手足を失ったり、環境汚染により障害を抱えた金持ちたちのもとで運用されている。

 ぼくらはそういう連中――不幸を金で解決できる肉煩にくわずらいたちの代替品サロゲートなのだ。

「でも、ぼくらが戦場で吹き飛んだところで奴らは関係ないだろ」

 ぼくはそこで当然の疑問をぶつける。

 ぼくらがこうして立ち会う戦場のほとんどは代理戦争の類いだ。正確に言えば、代理戦争の代理であるが、それというのも、ぼくらのような軍隊が出動するとき、それはもっぱら国家の裁判所である国際刑事裁判所ICCや、国際司法裁判所ICJの下命を頂戴して、初めて出動することができるからだ。

 世界の警察を辞めたアメリカやそのほか西側諸国が、表だっての介入をやめた今世紀、世界平和のための戦力はそういう婉曲なかたちでふるわれている。

 だからそこに金持ちたちの意図が介在する余地があるとは思えなかった。

「まさか戦線が拡大するほど、サロゲート市場が潤うなんて陰謀論じみたことを言うつもりじゃないよな」

「違いますよ。もっとシンプルに考えてください」

 サイはそう言うと、

「ぼくらが派兵されるベトナムはサロゲート市場でも一、二を争う買い手市場なんですよ」

 ぼくは驚いて、

「サロゲート市場は北米企業が大手じゃないのか?」

「アジアブロック圏で買い付けを仕切っている胴元がベトナム籍の企業なんです。しかも機械産業に一枚噛んでいるようなメガテックとか」

 ぼくは開いた口が塞がらなかった。そんなの本当に陰謀論じゃないか。

「アジアではサロゲートが普及しているのはインドぐらいだって……」

「それはサロゲートでも、代理母サロゲート・マザーの方ですね。アジア人向けのサロゲートだと、ベトナムの富裕層や外資優遇で成り上がった政府寄りの人間です。だから贔屓にする人間が多いんでしょう」

「それで自分たちを守れと言ってきたわけか。まるきり軍閥の振る舞いだ」

「そこまではわかりません。だから隊長に聞いてみたんですよ。なにか知らないのかなと……」

「そういうことか」

 ぼくは独りごちると、頼りになるような話題がないか自分の頭のなかを探ってみる。しかし、結局のところ、ぼくはそういう事情にはまったくといっていいほど疎かった。

 ぼくは再びサイの方を見やる。サイの方も、あまりぼくには期待していないという顔をしていた。おそらく、いまの話を誰かにひけらかしたかっただけなのだろう。そして、そんなことに付き合ってくれるのは、良くも悪くも小隊ではぼくしかいない。

「まあ、現地に行けば、嫌でも耳に入ってくるでしょう」

 サイはそう独りでに結論づけ、司令室のモニターに向き直った。結局は、ていよく話し相手にされたにされてしまったわけだが、あまり目くじらを立てる気も起きなかった。

 これも平均的なアジアブロック圏の人間の気質というやつだ。

 しかし、サイの話で一つだけ気になったことがあった。 

「奴ら、ぼくらのオリジナルを持っているのかな」

「え?」

「だって、アジア人向けサロゲートの買い付けを一手に行っているんだろ? だったら、ぼくらのオリジナルを買った当人がいても不思議じゃないとは思うんだ」

「まあ可能性としてはありえますね」

「仮に今回の作戦でどちらかを選ぶことになったらどうする?」

「選ぶ、ですか?」

「うん」

「ええと、その、なにを……?」

「だから――」

 そこまで言いかけたときだった。

「諸君、全員いるな」

 ボスが司令室に入ってきた。

「敬礼!」

 小隊長であるジェイがそう掛け声を掛けた。ぼくもサイもその掛け声に反射的に立ち上がるとボスに向かって敬礼した。ボスは片手を振り上げ、ぼくらに手を下げてもいいとジェスチャーすると司令室のモニター前につく。

 ボスは一瞬、鋭い目線で司令室全体を見渡すと、

「おいドヒョン」

 と後方にいるドヒョンに向かって、持っていたペンを投げつけた。

 いて、という声が上がり、ほかの隊員もドヒョンの方を振り向いた。

「私語は慎めと言っただろう。つぎ見つけたら、連帯責任で教練だぞ」

 ドヒョンの代わりに、ジホがすみませんでしたとボスに向かってペンを投げ返す。ドヒョンは、まだうだうだと文句を言いたげだったが、ほかの隊員にひと睨みされると静かになった。

 まるでハイスクールだなとぼくは思う。ハイスクールのリテラシーでぼくらは戦争をやっている。しかしながら、それも仕方ないことであると、ぼくは諒解していた。

 個の集まりである集団が、戦闘行為という極めて高度な協調行動を行うには、集団を規定する強い規律や規範が必要となる。それは日々の訓練や生活、そして今のような指導を通じて行われるわけだが、それはそのまま、子どもが学校という一種の規律訓練の場を経て大人の社会に備えるのとまったく同じ行程だ。

 ぼくはハイスクールを中退して軍の教育隊に入った。だから、ぼくの人生のほとんどは、このハイスクールの規定リテラシーのなかに埋め込まれている。そして、いまやその規律がぼくのオリジナルなき身体を動かしている。

 ボスが作戦概要を説明するなか、ぼくはちらとサイの方をうかがった。

 サイはモニターに映る作戦概要を一心不乱に凝視し、メモを取っていた。酔狂ではなく、こういうところで変に真面目な性分なのだった。

 一方。ぼくはというとまったく集中していなかった。サイの言ったこと、ひいてはぼくのなかで芽生えた疑惑が頭の片隅に引っ掛かっていたからだ。

 もう一人の自分ドッペルゲンガーを見た人間は死ぬ、という古くからの逸話がある。所詮、ただの逸話でしかないが、それはそれとして、もし機械の身体が持ったぼくが、肉の身体を持った本物オリジナルに出くわすようなことがあれば、それはいったいどんな感覚なのだろうか。ぼくは俄然、そのことに興味を引かれた。

 多くの場合、本物は偽物に身体を乗っ取られてしまう。そこでは、ぼくは罪悪感の顕れであり、災いの先触れであり、そして死の前兆でもあった。

 ある意味では随分と自虐的な考えでもあったが、この妄想には不思議と心地よさがある。こういう種類のアイロニーを、ぼくはまだ手放す気にはなれなかった。どうせあらゆるものは何かの象徴で、当てつけなのだ。

 ただ一つ、消えるのはぼくの方であるかもしれないという考えを除いて。

 

 そして結局のところ、このような妄想じみた考えというのは長くは続かない。

 ぼく自身、会議が終わる頃には、作戦日程や日常の雑務に気を取られて、この問答のことをすっかり忘れていた。途中、サイを呼び止め、話の続きをしようにも、自分自身なにをあんなに恐れていたか、それさえも思い出せなくなっていた。

 それは軍隊の生活がぼくにもたらした、最初の兆候だったのかもしれない。

 朝起きる。点呼する。朝食。午前教練。点呼。昼食を摂る。休憩の後、午後教練。点呼。夕飯。入浴。戦術学習。点呼。そして疲れ果て睡眠。

 日々、このような分刻みのスケジュールのなかで暮らしていると、何かを素朴に考えたり、突き詰めたりするような思考の仕方は自然に失われていく。

 ぼくらは日ごとに、恐れを知らぬようになっていた。どんどん、何かを考えるということがなくなってきた。ぼくに残された数少ない肉の部分が機械のように、適切な反応を行い、状況へと対応をする術を覚えこまされていった。

 そして、派兵当日の朝。輸送機のタラップに足を掛けたとき、ぼくはようやく自分が何を恐れていたのかに気がついた。

 なんてことはない。ぼくにはもう何かを恐れるということもできないのだ。この機械の、血の通わぬ身体には、そんな機能はもはや必要とされていない。

 ぼくはそのことに恐れを為していた。恐怖を感じるための心、それが唯一ぼくの持っているオリジナルの名残であり……。その名残がこの身体から徐々に無毒化オミットされていることに恐怖を感じていたのだ。

 輸送機が高度を上げる。重力がつかの間、ぼくの身体を捉え、シートへぼくを縛り付ける。窓の外、彼方の基地の風景が薄らいでいくのを、ぼくはただぼんやりと見つめていた。

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