第31話 幻惑の影
「――この作戦で行く。出来そうか?」
「大丈夫。問題ない」
風が、二人の声をさらっていった。
シオンの耳打ちは、ほとんど音にならずに消える。
届いたのは、隣を走るシルフィの耳だけだった。
先導するジルの背中が、路地の暗闇に溶け込んでいる。
まるで何事もないかのように、彼女は一定の速度で街を駆け抜けていた。
その背を追いながら、シオンとシルフィは視線を交わす。
互いに無言の合図を送り、足音を合わせた。
目指すのは――新たに発見されたもう一つの魔法陣。
ギルドへの報告のため、ドランと別れてから数分。
街は、音を失っていた。
落日を知らせる鐘の余韻だけが、遠くの空気に残っている。
「その魔法陣は、発動していたのか?」
「分からない。ただ、魔力の輝きは感じ取れた」
「……さっき私たちが見た魔法陣と同じね」
シルフィの言葉は自然だった。
あまりにも自然すぎて――シオンは思わず目を見張る。
先ほどの調査で、あの魔法陣が偽物だったことは、彼らだけの共有事項だ。
それなのに、シルフィは敢えて知らないふりをしている。
その演技が、完璧すぎた。
視線の先、ジルの肩が微かに揺れる。
反応か、ただの偶然か――判断できない。
(……やはり、試すしかないか)
矛盾と違和感が交錯する中で、シオンの瞳が細まる。
その眼差しは、ジルの背を射抜くように鋭く光っていた。
「本当に、こっちで合っているのか? ――この先にはギルドの宿舎やら、一般住宅やらで、人が足しげく通る場所だ。魔法陣を設置するには、目立つ気もするが」
「……私にもそこまでは分からない。ただ、魔法陣は積み重なった箱の裏にあった。そこなら、気づかれにくいと思ったんじゃないか?」
「設置されている場所まで一緒――やっぱり、魔族が結界魔法を準備しているのかな」
ジルの声は落ち着いていた。
息も乱れず、抑揚もない。
まるで、最初からこのやり取りを予測していたかのようだ。
シオンは、すれ違う風の音に紛れて小さく呟く。
「……用意の良いことだ」
その言葉に、シルフィが短く視線を寄越す。
互いに多くを語らないまま、三人の足音だけが路地に響き続けた。
やがて、やけに広い場所に出た。
淡い魔力の光が視界に入る。
近づいていくと、見覚えのある文様が壁に刻まれていた。
「やっぱり、同じ」
シルフィの言葉が示す意味を、シオンだけが理解できた。
視線を伏せ、地面に滲む魔力の線を追う。
絵の上に貼り付けられただけの輝き――やはり、この魔法陣は偽物だ。
二人が確信を持った、その瞬間。
ジルが、何気ない調子で口を開いた。
「ドラン殿は、魔法陣を見て何と言っていた?」
探るような声音。
わずかに、空気が張りつめる。
「……何が条件で起動するか、全く分からないと頭を抱えていた」
「そうか」
あまりに平坦な返事。
その無機質さが、かえって耳に残る。
風が止み、静寂が降りた。
月光の下で、空気が震える。
その時だった。
背後から、石畳を叩く靴音がゆっくりと近づいてきた。
反射的に、シオンの手が柄を取る。
振り返ると、月明かりに照らされた影がひとつ。
そこにいたのは――。
「ジャイル?」
シオンの名を呼んだ声が、夜気に溶けていく。
ありえないはずの人物の姿に、場の空気が凍りついた。
故郷を魔族に滅ぼされ、部屋に引きこもっていたはずの青年。
体を左右に揺らして、虚ろな瞳を向ける――その奥で、白銀の髪が微かに揺れた。
「……ぅ……なぃ」
かすれた声。
意味を成さない呻き。
その足取りは、まるで糸で釣られた操り人形のようだった。
様子がおかしい。
一目で分かる異様な気配に、二人が息を飲む。
「……る……さなぃ……」
今度は、もう少しだけ言葉の形を成していた。
耳を澄ませば――許さないと、そう聞こえた気がした。
「やっぱり……お前、魔族だったんだな」
目と鼻の先。
今度は、はっきりとした言葉。
虚ろの中に、怒りの炎が灯る。
「そんな角を生やして……お前が、おじいちゃんを、殺したんだろ?」
その視線は、確実にシルフィを捉えていた。
だが、彼女は人間――角など生えていない。
次の瞬間、空気がひっくり返った。
世界の輪郭がわずかに揺らぎ、音のすべてが遠くへ引きずられていく。
シオンとシルフィは、同時に悟った。
――これは、幻惑だ。
はるか上空を見上げれば、巨大な月が街を照らしていた。
(……誘い込まれた)
この街で、こんなにも月明かりが差し込む場所はない。
ここだけが、異様に開けている。
月光が、まるで狙っていたかのように彼らを包み込んでいた。
二人が剣を抜いた瞬間――遠くから、誰かの声が響いた。
「ようこそ――僕の結界へ……また会ったね、シオン?」
声のあとに続いたのは、乾いた笑い。
人のものとは思えない、耳の奥をざらつかせるような音だった。
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