第32話 最終決戦
――空が裂けた。
月光の中心に、ひとつの影が立っていた。
《幻月》のオリオパトラ。
その口元が、笑いとも嘲りともつかない歪みを描く。
空気が凍りつく。誰もが息をすることさえ忘れた。
その沈黙を破ったのは、ひとりの叫びだった。
「どこを見ているッ、これはみんなの仇だァ!」
その叫びは涙ではなく、血をこぼしていた。
ジャイルがナイフを抜き放ち、一直線にシルフィへ飛び込む。
反射的に三人は身を翻す。
刹那、閃いた刃が空を裂き、石壁に突き刺さった。
その衝撃で、シオンとシルフィの位置が離れる。
ジルは自然な動きでシルフィの隣に立ち、庇うように構えた。
「ふふっ、やっぱり惑い迷う人間を見るのは、気持ちがいいなぁ……」
月光の中から響く声。
柔らかく、それでいて心を締めつけるように冷たい。
「さあ、どうする、シオン? ――君も、幻に溺れなよ」
その瞬間、空間の四隅で魔法陣が光を放った。
四方から伸びた線が、足元で交差する。
陣の中心には、血のように赤い満月――《幻月》の紋章が描かれていた。
(幻惑の結界……これが本物の魔法陣か)
結界が完成する直前、シオンの視界の隅に光が走る。
《洗脳耐性LV7》→《幻惑耐性LV8》
歪んだ世界が、音を立てて正気に戻る。
空気の層がひとつ、剥がれ落ちるような感覚。
「シオン殿ッ!」
背後から、焦燥に満ちた声が飛ぶ。
「――ここは、シオン殿に任せていいか? 我々では、幻惑に抵抗する術がない!」
一見、冷静で的確な判断。
だが、その声の奥に、微かな焦りとも安堵ともつかぬ色が混じっていた。
まるで、それこそが望んでいた展開であるかのように。
(……残念だ、ジル――焦ったな)
昨日、シルフィを助けに紅蓮谷に向かった際の会話。
状態異常の対策は過剰なくらいがちょうどいい――そう言っていたジルが、抵抗する術はないと漏らした。
矛盾。
それが、シオンの疑念を確かなものにしていく。
一瞬だけ、視線をシルフィに送る。
彼女は幻惑の中でも確かな瞳で、わずかに頷いた。
その小さな合図が、作戦開始を告げる。
次の瞬間、風が二人の間を裂いた。
――シオンとシルフィの分断。
魔族の目的が、ここで果たされてしまった。
だが、二人の顔に焦りはない。
まるですべてを予測していたかのように。
「むぅ、やっぱり君には幻惑が効かない……あの時は、確かに掛かってたんだけどなあ」
オリオパトラは、月光の下で首を傾げていた。
それは上手く動かないおもちゃを見て、残念がる子供のように無邪気で――だからこそ、不気味だった。
「ま、でもいいや。僕の目的は、君を壊すことじゃない」
「……どういうことだ?」
シオンの問いに、オリオパトラは楽しげに笑う。
「――教えなーい。簡単に胸の内を打ち明けるわけがないだろ? って先に行ったのは、君の方でしょ?」
「よく覚えているな」
森で交わした何気ない会話。
それを引っ張り出して嘲笑する姿は、やはり子供らしく見える。
「シオンさん、魔族の話なんて聞く必要はないです。さっさと、倒しましょう!」
肩越しに響いた声。
その声音には、焦燥と怒りが入り混じっていた。
シオンが視線を送ると、ジャイルが血走った目でこちらを睨みつけている。
その瞳の焦点はどこにも合っていなかった。
まるで別のものを見ているような――そんな空虚さがあった。
(……幻惑に呑まれてる)
シオンの脳裏に、冷たい確信が浮かぶ。
目の前の少年は、現実と幻の境界を失っている。
『状態異常耐性減』。
その名を、シオンは思い出していた。
ゲームの中でも、そしてこの世界でも、彼は最も状態異常に脆い存在だ。
自力で、幻惑から抜け出すことはないだろう。
ジャイルはそのまま、シオンの胸に向かってナイフを突き刺す。
その動きは、シオンにとって取るに足らないもの――軽々と躱す。
だが、避けるたびに刃が軌跡を描き、少年の瞳が狂気に染まっていく。
「僕は、僕は、みんなの仇を、取らなくちゃいけないんだっ!」
あまりにまっすぐな叫びが、シオンの胸を冷たく締めつける。
それが幻だと分かっていても、悲しみだけは本物に違いない。
――早く終わらそう。
シオンは深く息を吐いて、剣を構える。
「ふふっ、この人間、僕をシオンだと勘違いしているよ! このまま僕が殺したら、どんな顔をしてくれるんだろう?」
「……外道が」
短い罵声が裂ける。
シオンの呟きは剣のように鋭く、夜の冷たさを帯びていた。
「これで終わりだっ!」
ジャイルが再び突進を始める。
シオンは正面に捉えて、寸前で避ける。
だが今回は、躱し方が違った。
刃先を避けながら、シオンは流れるように足を寄せ――柄でジャイルの手首を払う。
ナイフは弧を描いて石畳に落ち、金属がはねる音が夜に鋭く響いた。
ジャイルはよろめき、しかしその視線は未だに狂気を帯びている。
シオンは刹那だけ、少年の顔を見つめた。そこにあるのは復讐の炎と、壊れかけた希望。
「眠れ、ジャイル。今はゆっくり休め」
剣の柄で、シオンは少年の脇腹を確かな力で突いた。
致命ではない、気絶させるための一撃だ。
ジャイルの身体が滑り落ちるように崩れ、冷えた石畳に倒れた。
その動きを、オリオパトラは興味深げに見つめていた。
「ありゃりゃ、もう終わり――まあ、いいか。それじゃあシオン、今度は僕と遊ぼうよ。この月の下で、永遠に」
「……なあ、お前の目的はシルフィ――クレスタ王家の血筋だろ? 逃がしてよかったのか?」
「ふふっ、君はほんっと、なーんにも分かってないんだね。かわいそーに」
オリオパトラのあざけりを受け流し、シオンは淡々と続けた。
「標的が逃げたなら、普通は追うはずだ。なのにお前はここに留まっている――つまり、今回もこの前と同じ。お前の役割は足止めだ」
「質問ばっか。ばーかばーか。教えなーいって言ってるじゃん!」
「マザーが――お前に指示を出してるんだろ?」
その一言で、空気が変わった。
オリオパトラの動きが止まり、笑みの温度がすっと下がる。次の瞬間、月光がわずかに明滅した。
(……図星だな)
シオンは目を細め、間合いを詰める。
オリオパトラは無理やり笑みを作り直し、シオンとにらみ合った。
「はあ、ほんと君はすごいね。シオンの言う通り、僕はマザーの言う通り動いてるよ――ちょっとだけ違うけど。でも、気づいたところで君に何ができるの?」
「何?」
「マザーが言ってたんだ。僕は君の攻撃を避けていればいいって。だが、君は違うんでしょ? 他の人間を守るために、僕を倒さなくちゃいけない。マザーの存在に気づいたところで、結局はどうしようもないのさ」
オリオパトラが、徐々に余裕を取り戻していく。
「昨日は油断して一撃喰らっちゃったけど、次は無いよ? 僕は君を倒せないかもしれないけど、君も僕を倒せない。そして、白銀の姫はアイツが追ってる。僕、知ってるよ――」
月光が再び揺らめく。
オリオパトラの笑みが、歪んだ三日月のように光った。
「――この状況、万事休すって言うんでしょ?」
笑い声が夜の静けさに反響した。
月を嘲るように震えるその声は、街を包み込む幻そのものだった。
窮地に置かれているのに、シオンはやけに冷静だった。
理由はただひとつ――ここまでは、すべて想定の範囲内だからだ。
だが、ここで彼が押し負ければ、作戦は崩れる。
シオンは息を吐き、胸の奥の熱を押し下げるように呼吸を整えた。
視線をオリオパトラへ向け、わずかに目を閉じる。
(……シルフィ、すぐに追いつく。それまでは、持ちこたえてくれ)
静かに剣を握り直す。
最後の戦いが、今まさに始まろうとしていた。
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