第30話 偽物、囮




「これが、ギルマスの言っていた魔法陣か……」



 ギルドを出て、緊急令で人の気配が消えた街を歩くこと数分。

 屋台に並んだ料理の残り香や、地面に散らばる硬貨が、ついさっきまでの生活の名残を物語っていた。


 狭い道を抜けた先――街の外壁の目前。

 報告にあった魔法陣を、シオン、ドラン、シルフィの三人で確認する。

 人目につかない路地裏。投げ捨てられた木箱の影に、それは潜んでいた。


 淡く漏れ出す魔力。目を離せば、今にも起動しそうな輝き。

 ドランが低く唸り、顔を上げる。



「やっぱり、森で見た魔法陣とは訳がちげえ。あっちは結界魔法、こいつは単体で機能するタイプだな」


「そんなことまで分かるの?」


「……魔法学院で陣構築学を専攻してた。二十年以上前の知識だけどな。そこらの魔法使いよりはマシだ」



 思いがけない過去に、シルフィは目を丸くする。



「……なるほど」


「その“なるほど”はちょっと刺さるな」


「馬鹿にしてるわけじゃない。むしろ助かる。知識のある人がいてくれて」


「……そうかよ」



 ドランは頬を掻いて、照れ隠しのように視線を落とした。

 そんな彼を横目に、シオンは魔法陣から目を離さない。

 その様子を覗き込みながら、シルフィが問いかけた。



「どうしたの?」


「ドランの言う通りで、この魔法陣が単体で機能するなら――破壊できるかもしれないと思ってな。置き型の魔法は、塗り替えられるって聞いたことがある」


「そうなんだ……意外、シオンも詳しいんだ。私は魔法陣に関しては門外漢だから、頼りになる」


「いや、たまたま聞いたことあるだけだ」



 ――ゲームの知識だ。

 もちろん、正直に言えるはずもない。


 “魔法”。

 スキルや必殺技と並ぶ、プレイヤーの成長手段のひとつ。


 スキルは偶然、必殺技は努力。

 だが魔法は違う。学習することでしか得られない。


 器用と魔攻の値が一定を超えた者が、理論を理解したとき、初めて魔法を習得する。

 それが《エンドサーガ》における知識の力だった。



「おいおい、簡単に言ってくれるな。他人の張った魔法を塗り替えるなんざ、神の領域だ。それこそ、噂の若き賢者様くらいじゃないか? そんな芸当ができるのは」


「……そうなのか」



 ドランは肩をすくめて、呆れたように息を吐く。

 彼にとっては“できないのが当然”。

 だがシオンにとっては、“できて当たり前”の理屈だった。


 原作知識があっても、シオンが魔法に手を出さなかった理由――それは、この世界の仕様の違いにある。


 ゲームでは、机に向かうだけで魔法が習得できた。

 だがこの世界では、実際に学び、理解しなければならない。

 才能と時間、その両方を求められる、果てしない修行の道。


 さらに、魔力――MPと呼ばれる概念は、地球人には存在しないエネルギーだ。

 必殺技では自動で消費されるが、魔法は自分で制御しなければならない。

 しかも、それを操るには膨大な集中力と情報処理が必要で、下手をすれば意識を失う危険すらある。


 この世界で生まれ、魔力を空気のように感じて生きてきた者たちなら、それが自然にできる。

 だが――異世界から来たシオンには、それが致命的な壁だった。


 自分の中にある魔力を感じない身体。

 この世界の理に、馴染めない思考。

 それが、彼が魔法を避け続けてきた理由だ。



「……やっぱ、魔法は難しいな」



 呟きは、どこか自嘲を帯びていた。


 結界魔法や魔法陣は、本来なら上書き可能。

 だが、この世界では常人には不可能とされている。

 ゲームとは、あまりにも仕組みが違いすぎた。


 シオンは息を吐き、立ち上がる。



「……ほかに分かることはあるか?」


「うーん、そうだな。時間もねえし、ざっくり説明するけど――魔法陣ってのは、魔力を箱に封じ込める技術なんだ。条件を満たすと、その箱が開いて魔法が発動する。そういう仕組みだ」


「それは知ってる……聞けば聞くほど高度な技術ね。私も魔法はいくつか使えるけど、封じ込めるって感覚は、どうしても掴めない」


「まあ、普通はそうだろうな。陣構築の基礎として教わるのがトラップ・マジックってやつでさ。陣を踏むことで魔法が発動する――つまり、罠だ」


「ダンジョンでよくあるトラップだが、似たようなものか」


「ああ。で、重要なのはその性質だ。魔法陣ってのは、見つかっちゃいけないんだよ。設置がばれた時点で、破壊は不可能でも、回避はできるだろ? 発動条件を満たす前に見破られたら、ただの魔力損だ」



 ドランの口調には、学者というより職人のような熱があった。

 その声を聞きながら、シオンは再び魔法陣を見下ろす。



「森で見つけたやつは、発動した後だった。もう隠す必要のない残滓だ。だが、ここにあるのは――これから発動する陣。なのに、あっさり見つかった。おかしいと思わないか?」


「確かに……私がこれまで見た魔法陣は、場所を教えられても気づけなかった。気配も魔力も、完全に封じられていたの」


「魔力を感じ取れる時点で、おかしいってことか」


「そうだ。まるで、“見つけられること”を前提に仕込まれてるみたいじゃないか? ギルマスが普通の魔法陣とは違うって言ってた訳も分かるぜ」



 ドランの言葉に、沈黙が落ちた。

 風が止み、空気がわずかに重くなる。

 魔法陣の中心で、淡い光がかすかに脈打った。


 不思議なことに、シオンは自分の中の魔力は感じられないのに、外気に混じる他者の魔力だけは察知できた。

 それは、空気中に漂う異物を嗅ぎ取るような――そんな感覚に近い。


 今、魔法陣の内部で渦巻く魔力が確かに見える。

 呼吸をすれば、肺の奥まで入り込んできそうな、ねっとりとした気配。

 それが、ただならぬ生き物のように見えて、シオンは背筋がわずかに粟立つのを感じた。



「あのぅ……すみません」



 その時、背後からか細い声が聞こえた。

 振り返るとそこに立っていたのは、ギルドから魔法陣の監視を任された冒険者の一人だった。



「三人とも、そんなに近づいて大丈夫なんすか? 盗み聞きしたわけじゃないっすけど、何がトリガーで発動するのか分からないのなら、下手に触れないほうが……」


「それもそうだな」



 ドランが短く頷き、魔法陣から一歩下がる。

 シルフィもそれに倣ったが、シオンだけは動かない。

 視線の先――魔法陣の上で、魔力が蠢いていた。


 その流れに、ふと違和感が走った。

 シオンは目を細め、次の瞬間、息を呑む。



「なあ、魔法陣って魔力を箱に封じ込める技術なんだよな?」


「……そうだが、どうした?」


「こんなに魔力が漏れ出してる。これ、本当に封じ込められてると言えるのか?」


「……そもそも、隠されていない魔法陣なんて、魔法陣とは呼べないって言いたいのね」



 ドランは眉間に皺を寄せ、魔法陣に視線を落とした。



「お前らの言う通りだ。よく見たら……これは漏れてるって次元じゃねぇ。普通、魔法陣ってのは内側へ流れる線がある。魔力は陣に沿って循環するもんだ。だがこれは、流れが一切ねぇ。ただ上に乗っかってるだけだ。技術として成立していない」


「つまり……最初から魔法を発動させることはできないってこと?」


「そういうこった。これじゃ本物の魔法陣とは呼べねぇ」



 ドランは小さく息を吸い込み、足元の小石を拾い上げる。



「ドラン? 何をする気だ?」



 問いには答えず、彼はしゃがみ込み、魔法陣の縁を小石でなぞる。

 擦れる音が静かに響き、描かれた文様が薄く削れていく。



「くそっ、こんな子供騙しにしてやられるとはな」



 しばらくの沈黙。

 削られた線は何の反応も見せない。

 今までと変わらず、魔力が表面に滲むだけ。



「これなら、俺にも同じことができる」


 

 そう言うと、ドランは懐から一本のスティックを取り出した。

 目を閉じて、息を整える。

 次の瞬間、地面に魔力が現れる。そこにある魔法陣と同じように、何か発動する気配を醸し出して、光が揺らめいている。



「俺たちが魔法陣だと思っていたものは、魔法陣に似せた絵に魔力を漂わせた、偽物だったんだな」


「ああ――誰が、何のつもりでこんなことを」


「街を混乱させる。それが第一の狙いのはず。だが、その奥に――俺たちを、ここに閉じ込めておきたい意図を感じる」



 シオンの声が低く落ちる。



「もし、魔族の目的がシルフィなら……本来、狙うべきは彼女の単独行動の瞬間。なのに、こうして街を閉じ、俺たち全員を足止めしている――敵は、何をしようとしている?」



 あらゆる可能性が浮かぶが、敵の本意に届かない。

 誰もが無言で考え込む中――声を上げたのは、シルフィだった。



「前提が、間違っているのかもしれない」


「前提?」


「そもそも敵は、この偽物の魔法陣で、私とあなたたちを分断するつもりだったんじゃない?」


「……どういうことだ?」


「私が今ここにいるのは、シオンとフレアが手を差し伸べてくれたからでしょ? でも、もしあなたたちがいなければ、私は街の外で一人になっていた。敵の計画は、その状況を前提に動いていたのかもしれない」


「……なるほどな」



 シオンが小さく頷く。

 ドランも黙り込み、険しい目で路地の奥を見つめた。



「シルフィはきっと自責の念から一人街の外に出ていく。そしてそれ以外の人間は、結界の危険性に気づいて街にとどまる――魔族には、ここまで予測した指示役がいるってことか」


「そんなことができるのは――俺たちの近くにいる人物だけだ」



 その一言が、静寂を裂いた。

 誰もが言葉を失い、わずかに息を詰める。


 夜風が、路地を冷たく抜けていく。



「だとすれば、敵の意図も見えてくる。指示役は、シルフィを再び孤立させるための次の策を練っているはずだ」


「この偽物で、必死に時間稼ぎがしたいって訳だな」


「もちろん、私たちを疑心暗鬼にさせること自体が、目的かもしれない」


「うぁぁ、超絶厄介な状況じゃねぇか……!」



 ドランが頭をかきむしり、乾いた笑いをこぼした。

 その笑いが、かえって寒気を呼ぶ。



「だが、逆にチャンスかもしれない?」


「どうして?」


「敵は作戦に失敗して焦っているはずだ。このまま援軍が来たら、シルフィをさらうのは困難を極める。動いてくるなら、今なはず」


「……もし、俺たちが分断されたら――に集まろうぜ。これだけ決めてりゃ、すぐに助けに行けんだろ」



 作戦会議の後、シオンはゆっくりと周囲を見渡した。

 路地の奥――誰かに見られている気配があった。


 その時。

 まるで、会話を聞いていたかのようなタイミングで、足音が静寂を裂いた。


 石畳を踏む硬い音が、遠くから近づいてくる。

 シオンたちが振り向くと、一人の影が現れた。



「三人とも――大変だ。こことは真反対の位置で、魔法陣を発見した!」



 焦燥を滲ませ、ジルが駆け込んできた。

 三人は顔を見合わせる。


 ほんの僅かな違和感。

 その感覚はシオンの胸の内で静かに波を立てた。


 (……鼓動が、妙に落ち着いている)


 ジルの胸から伝わる音。

 それは急いで走ってきた人間のものではなく、まるで木漏れ日の下で本を読む時のような、整ったリズムだった。


 焦りを浮かべた表情も、乱れた呼吸も――どこか作り物に見える。


 気のせいかもしれない。

 だが、この違和感は今日に始まったことではない。

 ダンジョンの最奥で生き残るために磨かれた勘が、かすかに警鐘を鳴らしていた。


 ――ただし断定するには早すぎる。

 状況が状況だ。タイミングが重なれば、疑ってしまうのは当然。

 自分が今、疲れから過敏になっているだけかもしれない。


 シオンは短く息を吐き、胸のざわめきを押し込めた。



「……案内してくれ」



 声は静かだった。

 だが心の奥では、別の熱がゆっくりと立ち上がりつつあった。


 ――何かが、動き始めている。

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