エデンに蝶なんていない

つきかげ

第1話 前編

 その洋館は、俗世の喧騒の背後に隠れるように、郊外にひっそりと佇んでいた。


「それでは、あらためて……」


 応接室に案内されてソファに腰掛けると、老紳士はそっとこちらに手を差し出した。


「ようこそ、我が家へ。親愛なる友よ」


 彼の手は、大きく、分厚く、そして乾いていた。

 古い皮の手袋のような、硬さと重さを感じる手だ。


 ぼくたちがしっかりと握手を交わすと、彼は眼の前にあるコニャックの注がれたグラスを掲げた。

 ぼくもそれに倣い、縁をあわせる。高く細い鈴を思わせる音色が閑散とした洋館の部屋の空気に溶けて消えた。


 口をつけてグラスを傾けると、中に入っている琥珀色の液体は、自分のあるべき温度を最初から知っているかのように、ぼくの喉を焼きながらするりと食道を滑り落ちていった。

 

 なめらかで芳しく、驚くほど飲み心地がいい。語るべき物語を内包するような、おそろしく上等な酒だ。


「来てくれて、本当にうれしいよ」


 老紳士は、にこやかに口を開いた。


「さっそくだが……今日は、きみにお願いがあって呼んだんだ」


 次に彼がそう言ったとき、柱時計の分針がカチリと音を立てた。


「どうしたんですか」 ぼくは、意識的に軽く笑顔をつくろうとした。「今日はずいぶんあらたまって。……なんだか、緊張するじゃないですか」


 彼はわずかに口元をほころばせたが、すぐにその表情は引き締められた。

 空気が変わったのを感じて、ぼくの背筋は自然に伸びていた。


「娘を、きみに託したいんだよ」


 グラスのなかのコニャックの華やかな香りが、鼻の奥で薄くなった。


 彼と初めて会ったのは、もう何年も前のことだ。


 その日は、雨だった。行きつけのバーで、たまたま隣に座ったとき、スーツの肩を少し濡らした彼が、ふいに話しかけてきたのだ。ぼくは彼を、孤独な老人に違いないと思った。


 くたびれた背中。年齢を感じさせる横顔。けれど、おどろくほど澄んだその瞳が印象的だった。


 なんだか、遠い日の少年の日々が想起された。


 その限られた時期にだけ見えるものを、彼の瞳はいまも映しているような気がした。

 その時期にだけ感じられるものを、皮膚で感じているように、その時期にだけたどり着ける場所を、彼が歩いているように錯覚した。


 ぼくは、彼のことが好きになった。


 しかし、子や孫ほども年齢の離れているぼくのような男と仲良くしたがるなんて、少しだけ奇妙に感じたのもまた事実だった。


 そんな彼の「娘を託したい」という言葉……。

 その意味を測りかねて沈黙するぼくを見て、紳士は薄く微笑んだ。


「突然のことで申し訳ない。実は、医者から余命を宣告されてしまってね」


 彼はわずかに目を伏せた。

 そして、無言のまま手にしたグラスを口元に運び、一息で飲み干した。

 すぐに瓶を持ち上げ、空になったグラスに酒を注いだ。


「……それは」


「ああ、気遣いはいらない。自分の身体だ。もうずいぶん前からわかっていたさ」


 彼はグラスを揺らしながら、液体の波打つ表面を見つめていた。


「……だが、ひとつだけ心残りがある。娘のことだよ」


 そうしてふたたび、手のなかのグラスをあおる。


「私がこの世を去ったあと、娘はひとりぼっちになってしまう。私はそれが悲しくて、仕方がないんだよ」


「たしか……お嬢さんと一緒に暮らしているとおっしゃっていましたよね。でも……どうして、ぼくなんです?」


 ぼくの言葉に、老紳士は、ゆっくりとうなずいた。


「きみならば娘を任せられる、そう思ったんだよ」


「……つまり」ぼくは一拍置いて、慎重に言った。「……今日ここに呼ばれたのって、お嬢さんとの……縁談、みたいな話だったりしますか?」


「そう受け取ってもらって、問題ないよ」


 まっすぐにこちらを見つめるその瞳には、たったひとつの揺らぎもなかった。


 ぼくは、あらためてあたりを見渡した。


 立派な家だった。

 華美な装飾はなく、どちらかといえば質素とさえ感じられるこの洋館は、時代に置き去りにされたまま外界を拒んでいるようですらあった。


 彼は自分のことをあまり語りたがらなかったけれど、きっと、資産家なのだろう。

 そして、長年の交友のなかで、ぼくを娘の結婚相手として選んだということだろうか。


 だとしたら、少しだけ時代錯誤な印象も受ける。

 けれど、こうした名家では、いまの時代も、恋愛や結婚すら自由ではないのかもしれない。


 そういうふうに無理やり納得しようとしても、なんだか腑に落ちない部分もあった。


 彼に年頃の娘がいるのは話に聞いたことがあったけれど、実際に彼女と会ったことは一度もない。

 それに、ぼくには特筆すべき才能や経歴があるわけでもない。

 給与だって人並みの、ありふれた人生を歩んでいる、どこにでもいるサラリーマンだ。ひとりで気楽に暮らしている、どこにでもいるただの男だ。


「自分でいうのもなんだが……とてもいい子なんだよ」


 老紳士は、目を細め、想いを馳せるように続けた。


「親の贔屓目じゃない。無垢で、純潔で……少し浮世離れはしているが……娘は、世界一美しい」


 箱入り娘、という言葉がふとぼくの頭に浮かんだ。


「お話によると、お嬢さんは、まだ……十代だったはずでは……?」


 思わず出た言葉は、少しうわずっていた。心を調律する余裕もないまま、言葉が口をついてでる。


「ぼくは今年で二十七になります。お嬢さんは、もう高校を卒業されてるんでしょうか? そもそも、ご本人の意思はどうなんです?」


 次々と、あふれる問い。

 気づけば、語気が荒くなっていた。


 ——たしかに、悪い話ではないのかもしれない。


 けれど、それを受け入れるには、あまりに唐突で、ぼくのような男には、あまりに不釣り合いに思われた。

 頭のなかで、説明のつかない警鐘が鳴り響く。


 しかし老紳士は、動揺したぼくのすべてを抱きしめるように、音もなく立ち上がった。


「きみじゃなきゃ、だめなんだよ」


 そして、ぼくの肩に手を置いた。

 肩に感じる彼の指先はわずかに震えていて、力がこもっていた。


「娘の部屋に案内するよ。実際に会ってもらったほうが話がはやいと思うから」


 †


 ぼくは部屋を出て、老紳士のあとをついていった。

 廊下の照明はオレンジがかっていて、灯りが石壁に滲んでいた。

 歩くたびに古びた床板がぎしりと鳴った。


 奥へ進むにつれ、扉は厚くなり、鍵も大きくなっていった。

 そうしてぼくたちが何枚めかの扉をくぐったとき、空気が変わった。


 扉の向こうの細い廊下には、光の霧が舞っていた。

 鼻をつくのは、消毒液の匂い。

 視界が白くなり、肌の露出した部分、顔や首筋、手などに、細かい粒子がまとわりつくのを感じた。


「紫外線だよ」老紳士が振り返らずに言った。「少しのあいだ、目を閉じていたほうがいい。……そう、そのまま歩いて」


 思わず息を止めて、ぎゅっと目を閉じる。

 気のせいだろうか。まぶたが熱でチリチリと焼かれる感覚があった。


「これは、いったい……」


「念の為だよ」


 それ以上、彼はなにもいわなかった。 

 目を閉じながら彼に導かれるように歩いていく。靴音が壁に吸い込まれていく音だけが耳にやけに残る。やがて、最後の扉が開かれる音がした。


「目をあけていいよ」


 ゆっくりとまぶたを開く。

 視界が晴れていく。


 ――たどり着いたその空間は、あきらかに異質だった。


 色という概念が最初から存在しないかのような、殺風景な空間。

 壁も、天井も、床も、すべてが白で塗りつぶされており、飽和した光が永遠に跳ね返って、往復運動を繰り返しているかのようだ。


 そして部屋の奥。

 一面に張り巡らされたガラスの部屋の向こうには、白い少女がいた。


 髪は銀の混じった白。

 光に透けるほどきめの細かい肌は、降り積もったばかりの雪のようで、まったく血の気を感じさせない。

 おそらく、生まれつきメラニン色素が極端に少ない……アルビノと呼ばれる体質なのだろう。

 写真などでアルビノの人間や動物をみたことはあったけれど、実物をみるのは初めてだった。


 椅子に腰掛けた彼女の膝の上には、一冊の大きめな本。

 読んでいるというよりも、膝の上に置かれたものを、夢をみるような瞳でぼんやりと見下ろしているだけのようにもみえた。


 ふいに、少女がこちらをみた。

 その瞬間、ぼくの心臓の奥で飛沫が弾ける感覚があった。

 背筋がゾクリとした。


 ――なんて、きれいな子なんだろう。


 老紳士の言葉は、決して誇張などではなかった。

 彼女の美しさは、人間離れしているというより……現実の世界から隔絶されている、といったほうが近いかもしれなかった。


 彼女と視線が衝突した瞬間、目の奥で火花が散った。

 喉がつまり、呼吸が苦しくなる。息ができない。


 まるで、この星の祝福を一身に受けてこの世に生まれ落ちたような――。


 彼女のその姿をみて、ぼくの胸に、なにかがやさしく触れた。

 それは、痛みに似た想いだった。

 ぼくの遠い日の記憶のページが、思い出の風に乗ってぱらぱらとめくられた。


 それは、ぼくがまだ高校生だった頃のこと。

 教室の一番奥。窓際の席に、いつもひとりで本を読んでいる、物静かな女の子がいた。

 陽射しに透けて輝く細い髪……。

 ページをめくる彼女の細い指先の動きさえ、みてはいけないものを見ている気がして、恥ずかしさで顔が熱くなった。


 言葉を交わした記憶は、ほとんどなかった。

 でも、いつからかぼくは、彼女の姿を目で追うようになっていた。


 ふとした瞬間に視線が重なると、彼女はほんの少しだけ微笑んで、手のなかの本を丁寧に閉じた。

 そのたびにぼくは慌てて目を逸らして、なんでもないふりをした。


 ――初恋だった。


 ただの、ありふれた、片思い。

 ずっと、そう思っていた。


 けれど――彼女と心が通じあっていたと知ったときには、もう、あの頃の時間は手に届かないくらい、思い出のはるか後方に位置してしまっていた。


「彼女、お前のこと気になってたらしいよ」


 ある日ぽろりとこぼした友人の言葉に、ぼくはなにも返せなかった。


 あのとき、なんと答えればよかったのだろう。


 なかば無理やり彼女の連絡先を教えられたけれど……結局、こちらから連絡することはなかった。

 彼女のことは、あの教室に差し込んだ夕方の光と一緒に、胸の奥にしまっておくのがふさわしいと思った。

 それは、単にぼくの勇気が足りなかったことに対する、ただの言い訳にすぎないのだろうか。


 そして次に彼女と再会したのは、それからさらに何年か経った同窓会の日だった。

 懐かしい顔ぶれに囲まれながら、彼女は口元に手を添えて笑っていた。

 指輪が、その左手の薬指で鈍い輝きを放っていた。


 不思議なことは、なにもない。

 みんな、それぞれの人生をしっかりとその足で歩んでいる。


 いまもあの夕焼けの教室のなかに取り残されているのは、ぼくだけだった。

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