第2話 中編
「紹介しよう。この子が、私の娘だよ」
老紳士の声で、我にかえった。
現実の世界に強制的に引き戻されたぼくは、ふたたびガラス張りの密閉された部屋のほうへと視線を投げた。
少女は、椅子からすっと立ち上がると、手にしていた大きくて薄い本――絵本だろう――を、白くて滑らかな床へとおもむろに放り投げる。
絵本が角のほうから落下して、無造作に床に開かれたままになった。
彼女のその口元には笑みが浮かぶ。
歯をみせながら、こちらに向かってくる。
四つん這いで。
その刹那。
彼女の手足が獣のように床を蹴り、風のように駆け出した。
こちらへ。一直線に!
ガンッ!!
突進し、両手で力いっぱい叩きつけるように、透明なガラスに衝突する。
割れんばかりの衝撃が走り、透明な壁の表面がわずかにゆれた気がした。
その光景を前に、ぼくは思わず、身をすくめた。
ガンッ!! ガンッ!!!
何度も何度も、叩きつける。
美しく儚げな、夢の世界で呼吸しているような少女――。
その幻想は、ぼくのなかで一瞬で崩れ去った。
顔いっぱいに張り付いたそれは、笑顔と呼ぶにはあまりにも本能的、野性的だった。
まるで獣。動物園の、檻のなかの猛獣のようだ。
「ははは、こらこら」と老紳士はガラス越しの彼女に微笑みかける。
「すまないね。どうやら食事の時間だと勘違いしたらしい。お腹がすくと、いつもこうなんだよ。なついてるんだ。可愛いらしいだろう」
ぼくは唖然として、なにも答えられなかった。
代わりに出てきたのは、こんな言葉だった。
「……もしかして、ご病気なのでしょうか? それとも、障がい……?」
彼女はガラスケースのなかで、四つん這いでうろうろしていた。まるで、こちらを伺うみたいに。
「病気。障がい……。ふむ、面白い視点だ……」
紳士は一瞬、感心したように目を見開いた。
「さすが、私が見込んだ男だけはある。これは、保護だよ。彼女を守るための……」
「保護……」ぼくは彼の言葉を繰り返した。
「この世は、汚れている」
老紳士はふと、遠い目になった。
「……いつからこうなってしまったんだろう。昔はよかった、という言葉がある。こんなことを言うと懐古主義だと笑われることも多いが、ある意味では、実際にそうだった」
「でも、昔はスマホがありません」
ぼくが素朴な疑問を口にすると、老紳士はふふっと寂しそうな笑顔をみせて話を続けた。
「そうだ。スマートフォンなんてなかった。SNSに不用意なことを書き込んで炎上する自由もなかった。けれど、代わりに人々の胸には希望があったんだ」
老紳士は、目を細めた。
置き去りにされた過去へと想いを馳せるように。
「たとえば高度成長期。工業化や交通インフラの整備、技術革新が進み、所得も増え、人々の生活が目に見えて豊かになっていった。それに、1980年代から90年代のバブル期なんかは、みんなが浮かれきっていた。毎日がパーティみたいなものだったよ。
一部の金持ちだけじゃない。一億総中流。今日、頑張れば明日はもっと豊かになる――そんなシンプルで、力強い希望が、人々の心に、光のように宿っていた。希望こそが、明日を生きる力を産んだんだ」
そこで言葉を切って、彼は深く息をついた。
高度経済成長期とバブル。
ぼくはそのどちらも知らないけれど、彼は、その両方を経験した世代なのだ。
「だが、あれから数十年……気づけばどうだ……。
あたりを見回してみると、社会は欲望と嘘で飽和しきって、どこまでも息苦しい。
現代では技術の発展により、かつての時代よりも数十倍以上にまで生産性が加速している。にもかかわらず、吸い上げられすぎた庶民は、むしろ貧困化している。
彼らを指さして、努力が足りないせいだ、そうなっているのは自己責任だと切り捨てる声もあるようだ。
これは人々から自信を奪い、思考を停止させ、その上で思考を指定し、既得権益者層の正当性を守るための言い訳ではないのか。
しかしその渦中で、私自身、安穏とした立場に甘んじてきた。
世の中の金は増えている。しかし、庶民は毎日の暮らしを維持するのに必死だ。子を持つという当たり前のことさえ、いまでは贅沢だ。
それを横目に、上等な酒を水みたいにがぶがぶ飲んで、いまも寿命を縮めている私がここにいる……」
老紳士の指先が、震えていた。
彼はおもむろに胸ポケットから酒の小瓶を取り出し、蓋をあけ、豪快にあおった。
蒸留酒だろう。さきほどぼくも飲ませてもらったものと同じものかもしれない。200ミリリットル以上入っているようにみえたが、一瞬で彼の体内へと消えた。
すると、彼の指先の震えが止まった。
「……富めるものさえ、巨大なシステムに飲み込まれてしまっている。だれひとり自由じゃない。だから、せめて最愛の娘だけは、幸せでいてほしいと私は願った……」
「つまり……」ぼくは言葉を探した。「やはり、お嬢さんは生まれつきなんらかのご病気や障がいを持っていて、ここで保護しているというわけでしょうか……」
「ははは」老紳士は寂しげに笑った。「娘は、病気や障がいとは無縁だよ」
少女が二足歩行で立ち上がり、両手をガラスケースの壁につけて体を支えていた。
べたべたと手のひらを這わせ、舌なめずりをしながらこちらを伺っている。
「しかし、この状況は……」
「娘は、この部屋で産まれて、この部屋で育ってきたんだ」
「……すみません」
ぼくは頭が混乱するのを感じていた。
「どういうわけか、詳しく説明していただけませんか」
「娘はこの部屋で、産まれ、育ってきた」
彼はもう一度繰り返した。
「掃除や、医師による健康の管理など、特別の状況を除いて、この部屋から出たことは一度もない。教育も受けさせていないから、言葉も喋ることができない。絵本を与えたら喜んだけれど、かといって文字は読めない。絵だけを眺めて毎日を過ごしているよ」
「それでは、お嬢さんは、病気も障がいもない、健康な状態なんですか」
「ああ。そうだとも」
彼のその言葉を聞いて、義憤に似た感情が湧きあがる。
「……監禁じゃないですか! ……虐待ですよ! いったい、どうしてそんなことを……!?」
「親の責任さ」
老紳士は酒瓶に口をつけた。しかし、中はもう空っぽだった。
彼は、震える手つきで瓶を胸ポケットに仕舞った。
「最愛の娘。それを、このような汚れた世に解き放つのは、親として責任ある態度といえるだろうか。あるとき、私はそう思いたち、俗世には触れないように育てることを決意した。苦渋の決断だったよ。
娘と会ったことがあるのは、私と、この子の母親の女、それに医者――それだけだ。娘と接触するときは、滅菌した防護服の着用を義務としている。汚れも穢れも、ひとつも知らない。
老紳士はふらつきながら勢いに任せるように語った。
倒れそうになるのを阻止するために、ぼくは慌てて彼に肩を貸す。
「きみは、本当にいい青年だ……」
酒で焼けたような、かすれた声だった。
ぼくは返事をせず、黙ったまま彼の横顔をみた。
彼の頬には、触れたら剥がれてしまいそうな哀愁が張りついていた。
彼は体重をぼくに預けたまま、わずかに首を傾けた。
その目だけが、こちらを見た。
ぼく心の、覗き込むような目だった。
「……似ている、と思わなかったかい?」
質問の意味を判断しかね、黙ったままでいると、彼は微笑みながら続けた。
「娘さ。きみの、恋の相手にだよ」
ぎくりと、心臓がひとつ鼓動を打つ。
「ど、どうしてそれを……」
「親愛なる友よ。きみのことは調べさせてもらったよ。色々とね。……でも、私を嫌わないでくれ。悪気はなかったんだ。本当に娘にふさわしい男かどうか、確かめるため。それだけなんだ。私には、もう時間がない。なりふりかまっていられなかったんだよ」
「いったい、ぼくのなにを知りたかったんですか……」
「お互いに思い合っていた」
彼は続けた。
「しかし、高校を卒業して、時が経ち、彼女はきみの知らないだれかと結婚していた。一般的な男性なら、惜しいことをした、と思うんじゃないのかな。だが、きみはそうじゃなかった。
私の想像も混じるが……思い出のなかの彼女と想い合っていたと知り、それでも恋仲にならなかったことに、きみは安堵のため息さえついてみせた……」
喋っているあいだ、ぼくは、だまって彼の目をみつめていた。
「恋仲になればいろいろある。思い出のなかの、きれいなままの彼女の、醜い部分を知らなくて済む。……そして、きみ自身の、醜い部分を知られずに済む。
だから、きみは安堵した!
彼女のことだけじゃない。これまでのきみの人生。取るべき選択肢は無数にあったのに、自分ではなにも選択せず、ただ現状に取り残され、大きなうねりに飲み込まれていることに、常に安堵することを選んできた。それが心地よかった……!」
違う……!
反論したかったけれど、はっきり答える自信がなかった。
彼の言い分には、納得できる部分もあったからだ。
「彼女の写真をみたよ。まったくの偶然だけれど、少しだけ娘と顔立ちが似ているかもしれない。たしか名前は……」
「あなたという人は……」
ぼくは彼を、近くの椅子のところまで連れていった。
すまない、といいながら彼はぐったりと肩を落とした。
さすがに飲みすぎだ。
「……一体なにが目的なんですか」
「最初から、いってるじゃないか……。きみに、娘を託したい。わたしの願いはただそれだけなんだ……。自慢の娘なんだよ。どうだ。きれいだろう……?」
たしかに、見た目はきれいだった。
幻想の世界の生き物のように、美しかった。
今でも心に痛みを残す、思い出のなかの美化された初恋さえ、霞んでしまうくらい。
けれど、その立ち振るまい、身のこなし。まるで野生児のようじゃないか。
言葉を喋ることすら、できないらしいじゃないか。
「し、しかし、お嬢さんは……」
ぼくは、思わずいってはいけないことを口にしかけた。
けれど、老紳士はぼくの言葉の真意を取り違えた。――いや、わざと、そう受け取ったのかもしれなかった。
「そうだとも。娘は……あまりにもきれいすぎる」
うっとりと遠くをみるように、彼は続けた。
「無菌の環境でもきちんと育つように、多少、遺伝子はいじってある。だが、それを考慮しても、この美しさは突出している。芸術だ……」
反論の言葉が喉まで出かかる。
しかしそれは音として産まれることはなく、奥でつかえてへばりついたままになった。
……そうだ。
この子は、きれいすぎる。
「やはり、きみはきれいなものが好きみたいだ」
老紳士はぼくの顔をじっと見つめ、やがて、口角をあげた。
「娘を見て、きれいだと感じたのは、きみの感性が繊細で、研ぎ澄まされているからだ。……感受性の高い人間ほど、娘の存在は、現実離れして見えてもおかしくない。当然だ。なぜなら、あの子は無菌なのだから」
「むきん……?」
その単語が、鼓膜の表面をすべっていった。
一瞬、意味がわからなかった。
ワンテンポおいて、ようやくそれが『無菌』を意味することに気づいた。
老紳士は、椅子に腰掛けながら、とうとうと語り始めた。
「赤ん坊は、産まれ落ちた瞬間はみな無菌状態だ。
しかし、外界に触れ、空気を吸い、母乳を飲み、手、指、おもちゃ、床、壁……いたるところを舐め、目につくあらゆるものを口に含むうち、次々に菌に感染していく。
そのようにして取り込む数は膨大だ。やがて、それらの多くは腸内に定着する」
その話は知っていた。
人間の常在菌……とくに腸内細菌は、消化や免疫の維持のために必要な役割を果たしていると。
「人体を構成する細胞の数は、約37兆個。
そして、同程度、いや、おそらくそれ以上の細菌が、我々の体に棲みついている。つまり、私たちの体の半分は細菌。私たちの半分は、他者だ」
老紳士は、声を身をかがめながら、見上げるようにぼくを見つめた。
「では、私たちはいったいなんだ? 人間か? 細菌の集合体か?」
空気がわずかに、震えた気がした。
「人体には膨大な数の細菌がいる……という話は、聞いたことがあります。しかし、常在菌は人体にとって必要なもので……」
やっとのことで、ぼくは答える。
「それだけじゃない」
老紳士は言葉を続けた。
「数十兆個の細菌が、私たちの感情や思考にまで影響を与えているというじゃないか。
無菌状態で育てられたマウスに、他の個体の腸内細菌を移植すれば、その性格も変化する。感染するんだよ。性格が。魂が。
私たちが自分の本質だと信じて疑わない、人格さえも、細菌次第というわけだ。それでは、自由意志は? 人間の尊厳は? そんなもの、どこにもない。どこを探しても、ないんだよ。まるで人形……! 細菌の乗り物じゃないか……!!」
飲み過ぎだ、とぼくは思った。
しかし、同時に義憤に似た感情がふつふつと湧き上がってくるのをこらえずにはいられなかった。
「それではあなたは、社会や汚れから守るために、お嬢さんを監禁したんですか。人間の尊厳? お嬢さんの尊厳はどうなんですか。これは、犯罪ですよ!」
老紳士はぼくの抗議になど耳を貸す気はないみたいだった。
ふらふらと立ち上がり、恍惚とした眼差しでガラスのほうに歩いていった。そして、透明なガラス越しに、白い少女に頬を寄せる。
彼は目を閉じた。
まるで、何か大いなるものに包まれているかのような、穏やかな表情だった。
ガラス一枚隔てたその向こうでは、野生児のような少女が壁面に舌を這わせていた。
磨かれた床。
空調の音だけが鳴り響く、一欠片の塵も浮いていない清潔な部屋。
無菌。
フィルターで濾された空気を吸って、密閉容器で加熱処理されたものだけ食べて生きれば、無菌状態で育つことも理屈の上では可能なのだろう。
「おい!」
彼女にぼくの声が届くかどうかはわからない。
しかし、ガラス越しの彼女に向かって、かまわずに叫んだ。
「きみは……いいのか? 本当に……これで、いいのかよ!!」
すると、彼女の視線が、こちらに向けられた。
じっと見つめ返してくる。興味津々に、ぼくのことを観察しているみたいだった。
彼女の色素の薄い赤い瞳の瞳孔がわずかに収縮するのを、ぼくはみた。
やがて、彼女はとろんとした表情になり、新雪のような白い頬にほんのりと朱が混じった。
おもむろに、座り込む。
そして、右手を自らのスカートの中に滑り込ませ、ふとももの間に……。
彼女は頬を紅潮させたまま、こちらを凝視した。
そして、ぎこちなく身をよじらせた。
荒い呼吸が、ガラス越しに伝わってくる。
手や指先を野性的に激しく動かし続け、口をぱくぱくさせながら、うっとりとした目でこちらを見つめ続ける。
一瞬ぎょっとしたが、それが何を意味するのかすぐに理解してしまった自分を恥じて、ぼくは思わず目を背けた。
……とてもじゃないが、みていられなかった。
「おやおや」
紳士は感慨深げに声をあげた。
「年頃の娘だ。若い男を見て、発情したんだろう。きみのことを気に入ったみたいだよ」
ぼくは気づいてしまった。
眼の前のガラス越しの少女は、人のかたちをしているだけ。
ぼくたちとは、決定的に違う。
これが人間であるものか。
「私が死んだら、この屋敷と財産のすべてを、きみに譲ると約束しよう。遺言状も、もう準備してあるんだよ」
老紳士はさも当然であるかのように、そう口にした。
「……お断りします。――ぼくはこれから、警察に行こうと思います」
「残念だが、そうはならないんだよ」
彼のその断定するような口調に、冷たいものが背中を走った。
そこでようやく、自分の置かれている立場を理解した。
「ま、まさか……ぼくをここに閉じ込めるつもりでは……」
密閉された空間。
さきほど、少女がおそらく全力で突進してもびくともしなかったガラスケース。
おそらく、防弾レベルの強度を持っているに違いない。
この空間には、逃げ場がない。
ぼくのような平凡な人間がひとり姿を消したところで、金と権力があれば、真実などいくらでも捻じ曲げられるのでは……。
一気に、全身の温度が奪われる感覚が走った。
呼吸がつまる。肺の奥が、指先が、氷のように冷たくなっていく。
「親愛なる友よ」
老紳士は、穏やかに笑った。
やさしく、慈しむような声だった。
「そんなことはしないさ。きみに嫌われたくないからね」
そして、言った。
「そして、きみが警察に行くことはありえないんだ。……なぜならすぐに、自分のほうから娘と一緒にいさせてくれと願うようになるからだよ」
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