後編

 王宮の廊下を歩いていると一人の女性が複数の侍女を引き連れ、ヒルデガルドへと向かってきた。公爵令嬢であるマデリンだと気づき、廊下の端により、彼女が去るまで頭を下げる。

 しかし、彼女はすぐに去ろうとせずに、ヒルデガルドの前で立ち止まった。


「あら、いやだ。太陽のごとく輝く王宮に影を差す者がいるわ」


 マデリンが笑いだすと周りも、ヒルデガルドに着いている侍女さえも彼女をかばうようなことはせずに一緒につられて笑い出す。

 彼女はヒルデガルドがエミットの婚約者になってからこうして絡むようになった。

 外から来たよそ者にその地位を盗られたと影で嗤われているらしく、彼女の高いプライドがそれを許さないようで、よく嫌がらせをされるようになった。


 王妃の部屋がある方向から彼女は歩いてきたので今日も呼ばれて茶会をしていたのだろう。


 聖樹のお告げによる婚約であってもヒルデガルドとの婚約を認められない者もいる。王妃もその一人であり、彼女はヒルデガルドを見たくもないと言い、会おうともせず、こうしてマデリンを呼び出して、自分が認めるのは彼女だけだと周りに示しているのだ。


 しかし、何故か聖樹の決めたこととして、誰もが積極的に婚約を辞めされるために動こうとしないのだ。それはヒルデガルドを認めないと言っている王妃やマデリンであっても例外ではない。婚約を辞めさせるために何かしてくるだろうと期待していたヒルデガルドたちはこれにはガッカリした。


 それだけ、聖樹がこの国にとって絶対的な存在なのだろうが、ヒルデガルドにしてみれば誰もが聖樹のいいように踊らされているようで気味が悪い。



 いつもなら、マデリンが満足して立ち去るまで何も言わずに頭を下げ続けるのだが、ヒルデガルドにある考えが浮かんだ。

 ここで彼女を挑発すれば、いつも見下している相手に馬鹿にされ、プライドを傷つけられたとして、ヒルデガルドとエミットの婚約を何が何でも止めさせるために行動を起こすのではないだろうか。

 ダメでも、何かが変わるのではないかと考え、ヒルデガルドは頭を上げ、微笑む。


「申し訳ございません。ですが、私がここにいることに何の問題があるのでしょう。もうすぐここは私のものになるというのに」


 今まで何を言っても大人しく、言い返してこなかったヒルデガルドが反抗してきたのでマデリンは驚いた。


「あ、貴方、何を言っているの」


 狼狽しているマデリンに対してヒルデガルドは笑みを崩さない。


「何を、とは? 言葉の通りですよ。

 あ、申し訳ありません。殿下の婚約者にもなったことのないマデリン様には関係ないことでしたね」


 その言葉がマデリンの神経を逆なでしたらしく、恐ろしい目で睨み付けてくる。

 だが、日頃から魔物と対峙しているヒルデガルドにしてみれば、何も怖くない。


「聖樹のお告げがなければ、私が婚約者だったのよ!!」


「もし、貴方が婚約者であったとしても、殿下が愛しているのは私ですから、婚約を破棄されるのではないでしょうか。まぁ、マデリン様、可哀想」


 マデリンが持つ扇から音がした。怒りにまかせて壊してしまったのだろう。


「もう少し、こうしてお話したいのですが、教育係が待っておりますので、これで失礼します」


 挑発はこれで十分だ。マデリンに礼をし、呆気に取られて動かない自分の侍女を置いて、ヒルデガルドは歩き出し、誰にも聞こえないほどの声で呟く。


「嫌みの何が楽しいんだが、僕にはわからないな」


 今まで嫌みを言ってきたマデリンに初めて嫌みで返したことで、彼女と同じ場所に落ちるような感覚がして、ヒルデガルドは不快になった。これが楽しいと思っている人の気が知れない。


 立ち止まり、窓から見える海を眺めた。海は波もなく、穏やかで、空の青を反射し、輝いている。

 嫌みを言うよりもあの海の向こうにある世界に思いを馳せる方が余程有意義だ。

 もし、この国から出ることが出来たら、何がヒルデガルドを待っているのだろう。そう考えると胸でもやもやしていた何かが消えた。




 それからしばらくすると、エミットとマデリンが一緒にいる姿を見ることが増えた。

 彼はヒルデガルドに見えるようにマデリンを抱き寄せ、マデリンは勝ち誇ったような目を彼女に向けてきた。


 おそらく、マデリンに嫌みを返したと聞いて、ヒルデガルドが言い返すほどに意識している彼女を利用して、エミットは自分も意識してもらいたいと考えているのだろう。


 マデリンの方は、エミットを盗られたとヒルデガルドが悔しそうにする顔を見たくて彼を誘ったのだろうが、親しくしている二人を見ても彼女の作り物のような笑顔は崩れることはなかった。


 彼女の目に何の感情も浮かんでいないことに気がつき、二人は怒りを募らせる。




 屋敷の使用人の様子が変わったのを感じたヒルデガルドはルイスたちと協力して魔法を使い探ると、マデリンと親しくしている姿を見せつけているにも関わらず、何も変わらない彼女に業を煮やしたエミットにマデリンが婚約を破棄すれば、さすがのヒルデガルドもすがりつくだろうと言ったらしい。

 もし、そうならなければ、誰にも知られない場所でヒルデガルドを閉じ込め、躾けてやればいいと。


 どうやらこの計画には王妃の協力もあるらしい。王宮が自分の物になるとヒルデガルドが言ったと聞き、息子との結婚も間近という焦りもあってようやく婚約破棄へと動き出したらしい。


 王妃の指示もあり、国の息が掛かっている屋敷の使用人も彼女たちの意思通りに動く。彼らは気づかれていないと思っているようだが、仕事はより一層おざなりになり、そわそわと落ち着かなくなった彼らを見れば、何かあるとわからないはずがない。


 ルイスたちはようやく、ヒルデガルドの婚約が破棄されるのだと歓喜した。

 喜びを隠し、詳しく調べていると、今度の公爵家の夜会でヒルデガルドだけに招待状を送り、計画を実行するらしいとわかった。




 素知らぬ顔で会場に出てみれば、情報通り、エミットは婚約の破棄を宣言してきた。

 笑顔を崩さず、あえて、彼を煽るような態度を取ると面白いように乗ってくる。

 婚約破棄の紙に名前を書くと、ヒルデガルドを縛っていた何かが切れるのを感じたと同時に彼女の魔力を奪っていたあの正体不明の気持ち悪い気配も消えた。


 これで自由になったのだと浮かれる気持ちを抑え、会場を後にする。

 そのまま、馬車に乗れば、屋敷ではないどこかへ連れて行かれることはわかっているので、誰にも見つからないように公爵家を出て、家族で相談した集合場所である森へと向かう。


 森に入ってすぐにヒルデガルドはドレスを脱ぎ捨てる。

 ドレスはエミットが贈ってきたもので、レースだ、フリルだのが大量に付いた悪趣味な物で、ヒルデガルドは自分のものなのだという彼の執着心の塊のような気持ちの悪いものを早く脱ぎ捨てたくて、たまらなかった。


 ヒルデガルドの好みである動きやすいシンプルな服に素早く着替え、両親の待っている場所まで走った。




 ヒルデガルドの耳に波の音が聞こえてくる。足が濡れないように気をつけ、二人は並んで波打ち際に佇む。波は打ち寄せては引くことを繰り返し、それをただ黙って眺めた。

 風が気持ちいいが、乱れた髪が気になり、耳に掛ける。そのときに彼から貰った髪飾りに触れ、思わず頬が緩む。


 海を見るとあの頃を思い出し、気持ちが落ち込むかと思ったが、そうはならなかった。


 顔を上げ、今にも雨が降り出しそうな曇り空なのに海を見て嬉しそうにしている彼の方をじっと見ていると、ヒルデガルドの視線に気づいたようで見つめ返してきた。


「何だ?」


「いやさぁ、アッシュ君って海、好きなの? すっごいキラキラした目で見てるから、そうなのかなって」


 いつもは、大人の落ち着きを見せる彼だが、自分が知らない世界のこととなると、まるで子供のような顔をする。このことを知っているのは、今、この瞬間は自分だけなのだと思うと自然と笑みがこぼれる。

 それは、令嬢時代のような作り物のような笑みではなく、心からの笑顔だった。


「そうだな。カーステンの手記で知っていたが、初めて見たときは本当に感動した」


「初めて?」


「ああ、俺の住んでいたところの近くに海はなかったからな。あの人たちと一緒に見たのが初めてだった。」


 嬉しそうに頬を緩ませていたアッシュだったが、何かに気づき、ヒルデガルドに謝ってきた。


「あ、悪い。ヒルデは見慣れてて、珍しくもなかったんだよな。」


 申し訳なさそうにするアッシュにヒルデは首を横に振る。


「いや、僕もこんなに綺麗な海は初めて見るよ」


 暗い雲の切れ間から太陽の美しく輝く光が海を差す。

 黒い海は光が差すその部分だけ煌めき、光の柱を精霊が行き来しているように見えるほどの神々しい光景だった。


 自由を望み、何度も窓から見た海が、今はただ純粋に美しいと思える。彼が隣にいてくれるから、そう思えるのだろう。




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最後に出ている男性は『自由になりたい冒険家は世界を見たい』という作品の主人公になります。ヒルデはこちらにも出ているので気に入ってくださった方は読んでみてください。

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日食の人形令嬢は自由を望む 黒木 森 @kuroki-sinn690

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