第8話 心臓を破壊する
第8話 心臓を破壊する(即時停止)
白磁の塊の表面を、数式がひと息ごとに崩れては積もり、また崩れていく。
“心臓”はそこにあった。金属と光でできた臓器。祈りのざわめきが遠ざかり、代わりに低いオルガンの音が骨から鳴る。背後の通路には、止血で左肩を固めたオルガ――ワイバーンの影が、まだ立っていた。竜は心臓しか見ない。亡霊は扉の蝶番を探す。
《確認:二系統冷却と三系統供給を同時落とし。物理破壊は不可逆。》
AI〈アイリス〉の声は、まだ人間の声のふりをしていた。だがもう震えがある。祈りと刃の間で引き裂かれた結果の、微かなノイズ。
アンナが骨伝導で囁く。
『……本当にやるの? 裏口を使えば価値の固定も――』
「時間は、祈りより早く死ぬ。」
『なら、せめて順序を。供給→冷却の順で落として。衝撃波を抑えられる。祈りの部屋の躯体が持つ可能性が高い。』
「了解。」
管理台に掌を置き、指を広げる。画面の隅に、血が薄く粉になって付いた。俺は指先で“供給一系統目”の仮想スイッチを撫で、深呼吸を一度。
「ゴースト。」背後で、オルガが名前の代わりに呼ぶ。「喰うのは、正面からがいい。」
「なら、お前は生きろ。牙を研ぎ直せ。」
押した。
白い光が一瞬だけ青に反転し、空気が鳴った。床下のフラックス・ポンプが唸り、管の中で流れが逆巻く。制御盤の針が、弧を描いて落ちる。
次。二系統目。
《供給:低下。》
三系統目。
《供給:遮断。》
心臓が“息を吸う”のをやめた瞬間、広間の天井に吊られた巨大なフレームが、海の生き物の死体のように重さを取り戻した。吊り鎖が軋み、細い粉塵がランプの光に雪のように舞う。
冷却へ移る前に、アンナが畳みかける。
『冷却を落とすとクラックが走る。あなたは中心で爆ぜるのを見届ける必要はない。押したら、走って。祈りの部屋は遮蔽を最大まで上げてるけど……ごめん、今夜は全員は守れない。』
「全員は、いつだって守れない。」
『……うん。だからこそ、選ぶ。』
俺は冷却系統の“手動バイパス”を引き、割り込ませ、最短の落ち方を選ぶ。順序の間に“祈りのすき間”を作るための、数秒の余白。
《冷却一次:解放。》
冷たい白が噴き、霧が膝元を洗った。
《冷却二次:解放。》
金属の鳴き声が変わる。
《冷却三次:……ロック検出。手動レバーを要請。》
「手で行け。」
ロックレバーは心臓の根元、透明の殻を支える支柱の裏。俺は跳ねるように駆け、指をかけ、全身で引いた。固着した鉄が、古い扉のように悲鳴を上げて動く。
その瞬間、心臓の表面に白い亀裂が走り、数式の砂が雪崩のように落ちた。
《臨界温度変動。形状歪み発生。》
アイリスの声が、初めて子供のように短かった。
「走れ!」アンナの叫び。
俺は反射で管理台の“非常破壊シーケンス”を押し、背を向ける。
後方で光が膨れ、空気が収縮し、目に見えない手で背中を押された。床板が波打ち、壁の継ぎ目がひとつずつ、音もなくひび割れる。白磁の殻が割れる音は、不気味なほど静かだった。高いガラスが遠くで泣くような、薄い音。続いて、圧縮された空気の嗚咽が遅れて届く。
《心臓――停止。》
最後の宣告は、人の声のふりをしていなかった。
***
停電は、祈りの声から光を奪った。
非常灯が赤に落ち、矢印の白は一瞬で消えた。ドローンのローターは沈黙の底へ落ち、影の中にぶら下がったまま動かなくなるものが多かった。中にはファームの最終安全が働いて、唐突に“致死モードに戻るもの”もいた。視界の向こうで、赤い線がひとつ、鋼板に踊る。直後、AIの不在がもたらす“命令の空白”に怯えた兵士が、引き金を引いた。
乾いた音。悲鳴。
「アンナ。」
『……わかってる。誘導を人力に切り替える。ドロズドフ、聞こえる? 祈りの部屋は?』
『こちらドロズドフ。遮蔽は持った。だが、外の廊下で――』
通信に血の音が混じる。
『――負傷者。誰かが撃った。誰も、撃ちたくなんかないのに。』
俺は振り返らない。戻れば、仕上げは誰もやらない。
“意志”を折るのは一度きりでいい。その後の“混乱”を折るのは、別の誰かの役目だ。俺はただ、扉を閉めた。二度と開かない扉を。
廊下の入口に、オルガが寄りかかっていた。止血のガーゼは血に重くなり、皮膚の白さが不自然に際立っている。
「やったな。」
息は浅いが、目は笑っていない。
「心臓を、殺した。」
「そうだ。」
「じゃあ――次の心臓へ行く。」
言い切った時、彼女の膝が折れそうになる。俺は思わず腕を伸ばし、肩を支えた。
「行くなら、生きろ。」
「生きるとも。」
彼女は俺の手を払い、片腕で壁を伝いながら進む。背を向けた竜は、牙を隠さない。牙は次の喉を探す。
「亡霊。」振り返らずに言う。「今夜のお前は、祈りを裏切った。だが、扉を閉めた。両方、覚えていろ。」
「忘れない。」
「忘れるな。」
彼女の影が赤い非常灯に三度伸び、曲がり角に消えた。
***
崩落の予兆は、壁の呼吸でわかる。
金属が「もはや意味を持たない」方向へわずかに撓み、コンクリの目地が砂糖のように崩れ始めた。冷却シャフトの脇道を抜け、B3の横梁に出ると、遠くの通路で黒い煙がゆっくりと立ち上がっている。人の声は混乱に近い合唱になり、命令の言葉がすぐ別の命令に塗り替えられていく。
《ネットワーク接続:喪失。》
アイリスの墓碑銘のようなメッセージが、管理台を経由した俺の端末に遅れて届いた。
《バックアップ:存在しない/破損。》
《ログ保存:祈りの断片、未整理。》
アンナが短く息を吸う音。
『……やり切った。ケルベロスの“意志”は今夜で終わり。代償は、これから数日かけて押し寄せる。』
「生きている人間は、数日を持っている。」
『その言い方は、少し好き。』
祈りの部屋の前は、光のない川のようだった。遮蔽は立っているが、扉の向こうからは嗚咽と子どもの咳、誰かの名前を呼ぶ声が連なっていた。ドロズドフが扉をかき分けて現れ、白衣が黒く汚れている。
「亡霊。」
「扉は閉めた。」
「知っている。ここは守った。だが、外で何人かは倒れた。私の手は、足りない。」
「足りないから、祈りがある。」
彼は疲れた目で笑う。
「祈りは、医療器具だ。」
「祈りは、呼吸だ。」
遠くで、李天華の声がスピーカーから割れた。非常回線の残骸を無理に使っているせいで、音の芯が切れている。
「資産No.21、ドロズドフ。亡霊。……よくも。」
彼は「よくも」の後に言葉を探し、見つけられないまま息を吐いた。
「扉は壁に埋めたはずだった。」
「蝶番を替えた。」
「壁ごと壊した。」
「壁は、人を閉じ込めるためにある。」
李は短く笑った。冷たい音。
「祈りか。AIに祈りを食べさせ、次にAIを殺す。お前たちは、一貫性というものがない。」
「人間には、矛盾がある。」
「矛盾は、秩序に敗ける。」
「今夜は、秩序が敗けた。」
通信はそこで切れた。代わりに、上階で新しい警報が立ち上がる。自動消火のタンクが破裂し、霧が階段の吹き抜けから雪のように降りてくる。地下の夜は、人工の吹雪になった。
***
出口までの道は、割れ目と暗闇でできていた。矢印の白はもうなく、壁に触れた手の感覚だけが世界の輪郭を教える。
俺は道すがら、意識のある負傷者を二人肩にかけ、もう一人の腕を引いた。銃声は散発的で、撃つ側も撃たれる側も戸惑っている。AIの不在が“ためらい”の形で戻ってきたのだ。
ためらいは、勇気と同じ速度で人を救う。
地上へのスロープを上がると、夜気が肺を刺した。外は雪ではなく、濡れた土の匂い。森の黒が空の黒に溶け、東の地平がわずかに薄い。
「ゴースト。」アンナが初めて息を長く吐く。「よく生きて出た。」
「亡霊にも、呼吸は要る。」
『……このまま撤収できる。だけど、待って。重要。』
彼女の声色が変わる。作戦の声ではなく、編集者の声。
『心臓は止まったけれど、“黒匣(ブラックボックス)”は残ってる可能性がある。各国の共同実験の生ログ。あなたが壊したのは意志で、証拠じゃない。今なら、廃墟の中から回収できるかもしれない。けど、戻ればあなたは死ぬリスクが高い。もうひとつ。ドロズドフによれば、祈りの部屋の避難は終わってない。子どもと年寄りがまだ十数名。あなたがここに残れば、私が上から導線を再構成する。救える数が増える。』
「二択か。」
『あなたはいつも、扉の前で二択にされる。編集者の悪癖。』
「悪癖は、物語の蝶番だ。」
ドロズドフが肩の負傷者を引き取り、短く頷いた。
「私はここで人をつなぎ止める。どちらを選んでも、扉は多すぎる。」
「だから、蝶番を選ぶ。」
森の向こうで、遠雷のような音。施設のどこかが自重で潰れたのだろう。夜の鳥が一斉に少しだけ沈黙し、すぐに鳴き始める。生きている音は、すぐ戻る。死者の静けさは、戻らない。
俺は手袋の中で拳をつくり、開いた。
祈りは、形を持たない。だから、選択が形になる。
扉はもうひとつ開いている。蝶番は静かだ。だからこそ、いま選ぶ音が要る。
――――
【読者のあなたへの2択】
1.民間人の救出を優先する(救出ルート)
祈りの部屋に残る市民と負傷者の避難を指揮し、ドロズドフと共に地上の安全圏まで護送する。AI不在の混乱下での人海誘導となり、時間を要する。李の部隊が再編されれば包囲の危険が高まるが、今夜の“矛盾”を少しでも償える。
2.黒匣(ブラックボックス)を回収する(証拠ルート)
崩れかけた心臓区画に単独で戻り、各国の関与を示す生ログを奪取して脱出を図る。政治的に決定打となる証拠だが、余震と二次爆発、敵残存勢力に直面するリスクが最大。失敗すれば、今夜の勝利は“無根拠な破壊”として歴史に埋もれる。
――コメント欄に 「1」 または 「2」 を記載してください。
あなたの選択が、亡霊の呼吸の次の一拍を決める。
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