最終話 祈りの呼吸(救出ルート)

走る。

心臓を殺した広間から、俺は踵を返した。背後では白磁の殻が崩れ、金属が泣き、空気は熱と寒気のあいだで震えていた。AI〈アイリス〉はもういない。導く声は消え、残ったのは人の息と、ためらいの時間だけだ。


骨伝導に砂のようなノイズが混ざる。

『ゴースト、聞こえる?』アンナが言う。『黒匣は後回し。祈りの部屋にはまだ十数名。ドロズドフは踏みとどまってる。通路は崩落が二箇所。煙が上がってる。呼吸を守って。』


「戻る。」

自分でも驚くほど、声は静かだった。刃よりも静かで、祈りに近い。


非常灯の赤が廊下を薄く染め、矢印の白はほとんど消えている。床のグレーチングは所々でめくれ、壁の目地が砂のように崩れて靴の底にざらついた。ドローンは天井から糸の切れた飾りのようにぶら下がり、ものによっては唐突に生き返ってレンズを向け、また沈黙する。命令の空白が、機械にも人間にも同じ音をつける。乾いて、短い音だ。銃声が一度、二度。遠くで誰かが泣く。名前を呼ぶ声が、壁に吸われて曲がる。


祈りの部屋の前は、光のない川のようだった。遮蔽壁の内側に、子どもの嗚咽と老人の咳と、短い祈りの言葉が折り重なっている。扉を押すと、空気は汗と薬品と血の匂いで重く、ざわめきは生き物みたいにうごめいた。


「戻った。」

俺の声に、白衣が振り向く。ドロズドフの目の下には青い影が落ち、前髪には細かな粉塵が降り積もっている。

「戻ったのか、亡霊。」

「全員で出る。」

「扉は?」

「閉めた。」

彼は一度だけ目を閉じ、そして短く頷いた。「では、扉の数を数え直そう。」


祈りの端末はまだ幾つも点いていた。バッテリーの残量表示が微かに揺れ、画面の端に「終戦」「帰宅」「明日」という言葉がいくつか重なっている。あの少年がこちらを見上げる。煤で黒い頬に涙の跡が尾を引いて、鼻の頭が赤い。

「扉はまた閉じるの?」

「今度は開けたままにする。」俺は言った。「蝶番を替えたから。」

少年は意味を分からないまま、しかし安心したように頷いた。分からないものでも、人は頷ける。頷くことが、呼吸の代わりになることがある。


「編成する。」俺は言った。「三列で行く。先頭は俺。中央に負傷者と子ども、ドロズドフ。後尾に動ける大人を二人つける。手は離すな。走りすぎるな。止まりすぎるな。息を合わせる。」

「器具は?」ドロズドフが問う。

「担架を作る。ベンチの板とケーブルで即席だ。端末は三台だけ持つ。灯りと、風のために。」

「風?」

「煙を割るには、たとえ小さくても風が要る。」


祈りの端末の小さなファンを逆回転させ、手持ちの布で筒を作って前方に風を送る。馬鹿げた工夫だ。だが、こういうものが人間を通す。少年は端末を抱えた。端末はいま、願いの箱ではなく、小さな灯台だ。


出る。

遮蔽壁が左右に割れ、息が海水のように流れた。廊下の向こうから黒い煙が低く迫り、床の上を這ってくる。大人の胸の高さにはまだ薄い空気が残っている。背の高い男は腰を折り、子どもは抱え、負傷者の肩を三人で分け合う。動ける者は動けない者の足になる。祈りは誰かの足音に乗る。


最初の崩落は近かった。梁が斜めに落ち、通路の半分を塞いでいる。鉄は冷たく、重く、もう使われた意味を手放している。俺は肩で梁を受け、背中で押し上げた。骨に音はない。だが、肉は叫ぶ。叫びは外に出さない。出せば、列が乱れる。

「通れ。」

順番に、細い隙間を潜る。背負われた老人の靴が俺の腰に触れ、さっきより柔らかい重みを置いていった。少年が端末の風を梁の向こうへ送る。ドロズドフがその風に合わせて咳のリズムを整え、子どもに呼吸の数え方を教える。「四で吸って、四で止めて、六で吐く。そう。うまい。」


梁の向こうで、男が立ち止まった。迷いの背中。銃を持っている。制服は敵の色。彼は俺ではなく列を見ている。俺は梁を支えたまま、空いている手のひらを見せた。

「市民だ。」

彼は銃口を俺に向け、すぐ床に向け、また俺に向け、そして下ろした。

「……通れ。」

その声は若かった。命令の声ではなく、自分の声だった。彼が自分の声を持っている間、人は救われる。彼は梁に肩を入れ、数秒だけ、俺の反対側から重みを持ち上げた。列が通り過ぎるあいだ、彼の肩は震え、手は汗で滑った。端末の風が彼の頬を撫で、彼はその風に驚いたように笑った。

「これは?」

「祈りだ。」

彼は頷き、それがどういう意味か分からないまま、しかし頷いた。梁が床に戻るとき、彼の指はわずかに挟まれ、血が滲んだ。彼は顔をしかめ、そして踵を返して走り去った。銃は背中で揺れ、撃つ音はしなかった。


次の角で、ドローンがいきなり目を開いた。レンズが赤く光り、微かな高音が空気の継ぎ目を刺す。アイリスのいないドローンは、親のいない子供のように、危険な方へまっすぐ進む。

俺は上着を脱ぎ、レンズに投げかけ、布をからめ取るように手首で回した。ドローンは短く暴れ、すぐに止まった。床に置く。布で包み、足で押さえて動きを封じる。金属は恨まない。命令がなければ、ただ止まる。

「行け。」

列は再び動き、音は、足音と咳の音と、かすかな風の音だけになった。


曲がり角の向こうで射撃音が三つ重なった。壁に当たった弾が石灰を舞い上げ、白い粉が雪のように降った。少年の睫毛に粉がつき、目を瞬かせる。

「怖い?」

「ううん。」

「嘘は祈りを弱くする。」

「……怖い。」

「それでいい。」

俺は少年を抱き上げ、端末を持つ手が落ちないように肩の上で固定した。少年の心臓は小さく速く、俺の首筋に当たっていた。その拍動が俺の拍動と一瞬だけ合い、すぐにずれた。ずれることが、生きていることだ。合いっぱなしなら、止まっている。


地上へのスロープに差しかかると、空気の匂いが変わった。外の湿った土と、松の皮と、遠くの水の匂い。夜の色はまだ濃いが、東側が薄く、それは色ではなく温度で分かった。スロープの出口は半分潰れ、鉄の柵が歪んでいる。人ひとりがやっと通れる隙間。ドロズドフが負傷者の足元を支え、俺は隙間の縁を手で覆い、服で刃を押さえて皮膚を守った。人はひとりずつ通る。祈りもひとつずつ通る。まとめては通れない。


出口の前に、再編成された部隊がいた。数は多くないが、通せんぼには足りる。彼らは銃を構え、しかし撃たない。撃つという動詞は、命令と祈りのあいだに挟まれて、細く震えていた。先頭の男の瞼が迷い、後列の女が顎を固くしている。彼らは命令を待っているが、命令の根が切れている。

俺は両手を広げた。銃は背に回し、刃は見せない。

「市民だ。」

「お前は亡霊だ。」

「亡霊の背中に、今日の市民がいる。」


沈黙。

次の瞬間、俺の左で誰かが咳き込み、右で誰かが名前を呼んだ。ドロズドフが短く咳払いをして、白衣の裾を直した。少年が肩の上で小さな声で言った。「ぼく、お腹いっぱい食べたいって祈った。」

その声は、銃声より届いた。

先頭の男は長い一秒を噛みしめ、そして銃口を下げた。後列の女も、続けた。彼らの肩から、わずかに力が抜ける。

「通れ。」男が言う。「五分だけだ。」

五分。祈りには十分だった。列が動き、彼らの間を通る。女兵が一瞬、老人の肘を支えた。彼女は目を合わせず、しかし丁寧だった。銃床が地面に触れて短い音を出し、その音は誰のものでもなかった。


外は、夜明けの手前だった。空の黒は深く、地平は灰に近く、森の黒はまだ冷たい。冷たい空気が肺を刺し、刺されたところから体が目を覚ます。人々は抱き合い、座り込み、泣き、笑い、咳をする。祈りは声にならず、息になっていた。

ドロズドフが地面に腰を下ろし、額の汗を袖で拭った。

「亡霊。」

「あと何人?」

「数え直す。」彼は苦笑した。「数えることが、生きている証拠だ。」

「亡霊も数える。」

「亡霊も、祈るのか?」

「亡霊の祈りは、呼吸だ。」


少年が俺の肩から降りて、地面に足を置いた。土の感触に驚いたように指を曲げて伸ばし、呼吸を大きくした。鼻の頭はもう赤くない。

「生きたいって祈ったら、ほんとうに生きられた。」

「祈りは、誰かの背中に乗る。」

「ぼくのは?」

「今は、俺のに乗ってる。」

少年は頷き、今度の頷きには意味があった。


背後で、施設のどこかが自重で潰れ、鈍い唸りが地面を這ってきた。黒い煙が遅れて空へ昇り、朝の気配と混ざり合う。遠くで鳥が鳴き、すぐ別の鳥が応えた。生き物は、空白を埋める。AIが消えた場所は、人の声と音が埋める。

アンナが通信の向こうで、小さく笑った。「よく、呼吸した。」

「編集者はいつも言葉を選ぶ。」

「あなたが選ばなかった言葉を拾うのが、私の役割。」

「俺は扉を選ぶ。」

「蝶番もね。」

通信がふっと軽くなり、彼女は作業に戻った。上空ではヘリの音が遠く転がり、近くの木々はまだ風を持っていない。


少し離れた影に、見慣れた背中があった。

頬に薄い傷を持つ女。左肩を固め、片腕で木の幹にもたれ、煙草の火を点けていない。オルガ――ワイバーン。

「竜は、心臓を喰えなかった。」俺が言った。

「亡霊は、扉を閉めた。」彼女は応えた。「それから、背中になった。」

「牙は研ぎ直すのか。」

「もちろん。」彼女は煙草を折り、ポケットにしまった。「次の心臓を探す。世界は心臓だらけだ。」

「そのあいだは?」

「少し、眠る。」

彼女は笑わなかった。俺も笑わなかった。

「生きろ。」俺は言った。

「お前も。」彼女は言った。

竜は森に溶け、影になり、朝の中に消えた。


ドロズドフが立ち上がり、避難の列をもう一度組み直した。市民はまだ震え、誰かはまだ泣き、誰かはもう笑っている。担架の結び目を固くし直し、端末のバッテリーを確認し、小さな風をまた作る。風は煙ではなく、今度は朝の冷気を運んだ。

「亡霊。」ドロズドフが呼ぶ。「ここからは、私たちの足で行ける。」

「わかっている。」

「あなたは?」

「影に戻る。」

「どこへ?」

「次の祈りへ。」

彼は頷いた。「扉は今度こそ、開けたままだ。」

「蝶番は静かに。」

「静かすぎると、また忘れる。」

「そのときは、音をつける。」

「どんな音だ。」

「呼吸の音だ。」


俺は一歩だけ後ろへ下がり、全員の背中を見た。背中は祈りの形をしていた。大きい背中、小さい背中、曲がった背中、まっすぐな背中。背中は言葉を話さないが、嘘もつかない。息をする背中が、世界を少しずつ前へ押す。


東の空が、灰から薄い青に変わり始めた。森の輪郭が柔らかくなり、遠くの屋根に霜が白く残っているのが見えた。どこかで犬が吠えた。人間が返事をした。誰かが小さな歌を口ずさみ、別の誰かがそれに重ねた。歌は短く、しかし十分だった。


俺は影へ入った。

影は冷たく、しかし空っぽではない。息をすると、影も息をする。

AIは沈黙し、心臓は止まった。だが、祈りは止まらない。祈りは呼吸だ。呼吸があるかぎり、亡霊にも仕事はある。扉は閉めも開けもする。蝶番はそのたびに鳴る。今日は静かに。明日は少しだけ音をつけて。


骨の内側で、金属はもう軋まなかった。

代わりに、息が鳴った。

その音は、祈りの音だった。


――おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ゴースト・プロトコル ―戦火に潜む選択―』 湊 マチ @minatomachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ