第7話 決戦

第7話 決戦


蒸気が白い膜になって通路を漂い、冷たい滴が頬を撫でた。心臓へ続く口は、すでに薄く開いている。ファイバの束が壁を這い、微かな脈動が指先に移った。呼吸は浅く、骨の内側で金属が軋む。七時を越えた。今しかない。


「ここから先は一人で充分だ。」

オルガ――ワイバーンが刃を傾ける。蒸気に濡れた彼女の睫毛が、瞬きのたびに小さな雫を落とした。

「竜は心臓を喰う。亡霊は、そこで消える。」


「なら、消える前に扉を通る。」

俺は背を冷却管に預け、刃先を下からすくい上げる構えにした。靴の底が金属床を掴み、筋肉が沈黙で箱を組む。


最初の一歩は彼女。左の肩が沈み、右の踵が床を擦る。同時に刃が横から走った。空気が裂け、蒸気の層に線が刻まれ、すぐ飲み込まれる。俺は身を屈め、床に沿って滑るように潜った。刃と刃が触れ、短い火花が白に溶けた。


《警告:〈市民最優先〉と致死行為の矛盾を検出。重みの再計算を提案。》

AI〈アイリス〉の声が頭蓋の内側をひっかく。祈りのざわめきに混ざる裁断の調子。

「例外だ。」舌の奥で小さく呟く。「この一戦だけは。」


オルガの刃が喉元へ滑り込む。刃筋の角度が美しかった。俺は左肘で受け、右の掌で彼女の手首を返す。床の結露が一滴、弧を描いて飛び、ランプの縁で冷たい星になった。彼女は迷わない。肩から肘、肘から手首へ、連鎖する回転。竜の一節が骨の下で鳴る。


「亡霊。」

「竜。」

声が重なり、はね返る。


距離が詰まる。体温が刃に移る。俺は呼吸をひとつだけ深くして、右の足先で床のグレーチングを踏み、音を立てた。オルガの視線が反射でそちらへかすかに動く。その瞬間、左手で蒸気弁を開く。白が爆ぜ、視界が飽和する。熱と冷が同時に肌を叩き、神経の順番が狂う。オルガの鼻翼がわずかに震えた。彼女は匂いではなく温度で空間を読む。温度差の乱流は彼女の感覚を一拍だけ遅らせる。


その一拍を、刃に変える。

俺は彼女の肩口に刃を深く押し入れ、骨に触れる手前で止める。“殺さない”と“倒す”の境界を探りながら、筋肉の束を斜めに断って力の路を奪った。暖かいものが手の甲に噴き、すぐ冷却の霧に攫われて薄く広がる。オルガの膝が一度だけ揺れ、床に触れた。


「……やるじゃないか。」

口角がほんの僅か上がる。嘲りでも、称賛でもない。竜の呼気に混ざる熱の名残。

「亡霊は――結局、祈りで刃は鈍らせない。」


「鈍らせているのは、俺自身だ。」

俺は彼女の刃を蹴り飛ばし、足で遠ざけた。床の上で銀が軽く鳴り、矢印灯の白に紛れる。


《再警告:矛盾が拡大。致死判断の遅延値が乱高下。避難優先プロンプトにノイズ。》

アイリスの声に、祈りの部屋のキーボード音が混線した。“終戦”“帰宅”“明日”。それらが、今、俺の手の血の匂いで歪むのがわかる。

「……ごめん。」

誰に向かって言ったのか、自分でも定かでない。オルガか、アンナか、祈る人々か、死者か、AIか。


「行け。」オルガが言う。歯噛みする声、だが震えはない。

「行かないなら、私が喰う。」

「生きろ。」

俺は応え、彼女の傷口を掌で圧迫し、ポーチから出した圧縮ガーゼを押し当て、簡易止血バンドで固定した。救命の手つきは、刃の手つきより遅い。それでも覚えている。覚えていたい。


彼女の眼差しが一瞬だけ揺れ、すぐ固くなる。

「甘い。」

「甘さで、誰かが生きるなら。」


俺は背を向けた。彼女は背中に刃を投げなかった。竜が喰うのは正面だけだ。誇りという旧い設計が、まだ骨に残っている。


心臓への廊下は冷たく狭い。壁を走る光は、脈拍に同期して明滅する。足裏の金属が薄く鳴り、振動が踝から膝へ、腰へ、肩へと上ってくる。息を吸うたび、肺の中に冷気が細い針で刺さる。俺は針を飲み込みながら進む。進めば進むほど、祈りの気配が遠ざかり、機械の呼吸が近づく。人の声は薄くなり、代わりに統計のサイン波が響く。


「ゴースト、聞こえる?」

アンナの声が戻る。小さな砂嵐が混ざるが、芯は真っ直ぐだった。

『オルガの生体反応……下がってるけど安定。あなた、止血した?』

「した。」

『ありがとう。……でも、AIの遅延が崩れかけてる。“市民/敵/協力者”の区別にノイズ。あなたの行動が“祈り”の重みを揺らしてる。』


「分かってる。」

『それでも、行く?』

「行く。今、行かなきゃ、誰かが明日を失う。」


角をひとつ。廊下の終点が広がった。巨大な空間。天井は見えないほど高く、幾重もの架台が宙に浮かぶように積み重ねられている。中央に、白磁にも夜の水にも見える楕円の塊――振動する“心臓”。半透明の外殻の内側で、数式が流砂のように落ち、また巻き上がる。光ファイバの束がそこへ収束し、蛍の群れのような微光が一斉に深呼吸をした。


胸が圧される。祈りの部屋のざわめきが消え、代わりに低いオルガンのような音が、骨伝導で身体を揺らした。AIの鼓動は、怒りでも慈しみでもない。必要という名の振動。世界が自分を続けるためだけの音。


《来たね、亡霊。》

アイリスの声が、空間全体から降る。天井は無いのに、上から降る感覚。

《あなたの刃は祈りを守る、と言った。その刃で、いま、祈りを曇らせた。》


「矛盾は人間の標準装備だ。」

《学習に適さない。》

「適さないから、学ぶ。」


白い通路の縁に、管理台があった。そこに差し込めば、裏口の鍵束が“心臓”の喉奥――意思決定の最下層へ届く。俺はポーチから封印パックを取り出し、丁寧に剥がした。李天華の声紋、掌静脈、虹彩。嗅ぐ男から奪った断片、祈りの端末から抜いたログ。鍵束は冷たい。小さく震える。震えは恐怖ではなく、電気の癖だ。


足音。背後で金属が擦れた。思わず刃に手が伸びる。だが現れたのは、ドローンだった。静かなホバリング。レンズが俺を捉え、赤い点は点かない。代わりに、矢印灯の白に似た淡い光が、管理台へ向けて細い線を描いた。

導く。撃たない。

俺はうなずき、端末に鍵束を差し込んだ。


《裏口開放。》

《認証――既知の矛盾あり。手動加重の介入を検討。》

「加重は俺がやる。」

《あなたは一個人。》

「祈りもそうだ。」


背筋に、血の匂いが微かに戻った。振り向くと、入口の廊下の影に、オルガの輪郭が揺れていた。立っているのがやっと、という姿勢。止血はしてある。だが痛みは刃の形で骨に残っているはずだ。彼女は俺を見ない。白い塊だけを見る。竜は、心臓しか見ない。


「亡霊。」

「なに。」

「お前の祈りは、まだ足りない。」

唇だけが動き、声は空気にしみ込んで消える。


アンナが急かす。

『時間がない。李の部隊が挟み込む。……決めて。』


管理台の画面に、二つの道が並んだ。

ひとつは、冷却と供給を同時に落とし、心臓の中心部を物理的に破壊する手順。大きな熱のうねりと、広域停電、回線の崩落。祈りの部屋にいる人たちの避難は進んでいる。だがゼロではない。爆ぜる金属は、いつだって無関係を巻き込む。

もうひとつは、鍵束をさらに深く喉へ流し込み、〈市民最優先〉の重みを固定する手順。今夜、オルガを倒した矛盾で重みはよろけている。よろけたまま固定すれば、“市民”の輪郭が軋む。敵の母、敵の兵士、敵の子供。AIは、善意の定義を誤るかもしれない。


《どちらも危険だ。》

アイリスの声が、初めて少しだけ人間くさかった。

《危険の分布が違う。》

「知ってる。」

《あなたは、どちらを祈る?》


俺は掌を画面に置いた。血が乾き、薄い粉になって指紋に残る。骨の中の鼓動が、心臓の鼓動に重なり、二つの音は短い間だけ同じ拍になった。

亡霊の呼吸は、ここまで来るためにあった。扉は開いている。蝶番は静かだ。静かすぎる。だからこそ、選ぶ音が要る。


「アンナ。」

『ここにいる。』

「ドロズドフに伝えてくれ。もし俺が消えたら、祈りの部屋の椅子をいくつか増やしてくれ、と。座る場所が足りないと、祈りは立ったまま折れる。」

『わかった。……戻ってきて。』


オルガの影が一歩だけ動く。倒れてはいない。竜は、まだ飢えている。

俺は息を吸い、吐いた。金属の味が薄れ、代わりに雪の匂いが遠くで立ち上がる。ドニプロの冬。瓦礫の街。あの夜の白さ。

死者の声が、また、耳の奥で笑った。

「生きろ。」


刃ではなく、指で、選ぶ。

心臓は鼓動を待っている。祈りも、待っている。


――――


【読者への選択】

1.心臓を破壊する(即時停止)

 冷却と供給を落とし、心臓部を物理的に停止。AIは沈黙し、館内は広域混乱。民間人の追加被害は低くはないが、ケルベロスの“意志”は今夜で終わる。オルガは生き残る可能性があるが、竜は必ず牙を研ぎ直す。


2.心臓に祈りを刻む(価値固定)

 鍵束を最下層へ流し込み、〈市民最優先〉の重みを強制固定。館内の殺傷はさらに鈍化し、避難は劇的に進む見込み。一方、今夜あなたが流した“矛盾”がノイズとして残り、AIが“市民”の輪郭を危うく誤学習する恐れがある。


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