第6話 心臓を目指せ②
第6話 心臓を目指せ(潜伏ルート)
地下の空気は鉛のように重く、冷却剤の匂いが喉の奥に張り付いて離れなかった。
冷却シャフトの裏側、隔壁の影に身を潜める。分厚い鋼鉄に背を預けると、冷たさが皮膚を越えて骨に染み込んでくる。まるで死者の棺に閉じ込められたかのようだった。
息をするたびに肺が軋む。酸素は少なく、吸えば吸うほど薄くなる。七時まで、あと一時間半。呼吸を殺し、ただ待つ――亡霊に課された試練は沈黙だった。
耳を澄ませば、壁の向こうを走る冷却水の流れが低い唸りを響かせていた。滴り落ちる水滴が、秒針の代わりに時間を刻む。音と音の間隔が妙に長く、まるで世界全体が呼吸を止めているようだった。
通信機に小さなノイズが走り、アンナの声が囁きのように届く。
『……そこに居ろ。シャフトは七時ちょうどに解錠される。その一瞬が唯一の突破口。……今は影になって。』
俺は返事をせず、唇だけを動かした。
「影には呼吸も要らない。」
時間が溶け、意識が霞む。酸素不足のせいか、過去の声が耳に滲んできた。
「生きろ」――死んだ仲間の声。
「なぜ生き続ける?」――母の声にも似ているが、どこか機械的で冷たい。
《あなたは死者の呼吸を続けているのか》
AI〈アイリス〉の声だった。だが幻聴のように頭蓋の内側に響く。人の声と機械の声の境界が揺らぎ、俺は一瞬、自分が生者か死者かもわからなくなった。
足音。金属の靴音が通路を叩き、近づいてくる。二人の兵士だ。
「亡霊はここに潜んでいるらしい。」
「李様は言った。七時の裏口は囮だ、と。」
俺は息を止めた。兵士の影が、触れられるほどの距離を横切る。額から汗が滴り落ち、鉄板に落ちて音を立てた。兵士が振り返る。マスクの奥の目が鋭く光る。
肺が破裂しそうになる。脳裏で仲間の声が囁く。「息をするな。生きるなら、今は死ね。」
兵士は鼻をすするが、異常を見つけられず、首を振って歩み去った。
影が戻る。だが胸の奥は焼けるように熱く、息を殺したまま血が全身を叩いていた。
時間が進む。六時二十分。指先の感覚が鈍り始め、意識がぼやける。冷却水の唸りが、心臓の鼓動に重なる。
《なぜ息を止める? 呼吸は生者の証。亡霊に必要か?》
再びアイリスの声。俺は心の中で答える。
「亡霊に必要なのは、生者のための呼吸だ。」
幻覚が滲む。死んだ仲間が横に座り、静かに笑っていた。
「まだ生きてるのか。」
「生きてる。お前が残した息で。」
「じゃあ続けろ。生き続けろ。」
幻は次の瞬間、蒸気の揺らぎに溶けて消えた。
通路の向こうから別の音。兵士の靴音ではない。もっと静かで、もっと鋭い。刃が金属を擦るような気配。
背筋に冷たい感覚が走る。
誰かが近づいてくる――。
⸻
足音は一定のリズムで、やがて金属の息継ぎに溶けた。霧が揺れ、蒸気が白い膜となって通路を漂う。刃先が一閃、薄い光を裂いた。頬に残る旧い傷を淡く濡らしながら、その女は影から抜け出す。オルガ――ワイバーン。冷たい眼差しは、獲物ではなく扉を見定める獣のそれだった。
「亡霊。」彼女は名前の代わりに呼ぶ。「動かないのは、死んだふりか、それとも祈りか。」
「呼吸を止めている。」俺は答える。「生者のために。」
「生者は、たいてい自分のために息をする。」オルガは肩をわずかに回し、刃を低く構えた。刃筋が蒸気の層に線を引き、すぐ消える。「七時に扉が開く。心臓はひとつ。食うのはひとり。」
「守るのも、ひとりだ。」
彼女の視線が一瞬だけ俺の背後に泳ぐ。そこには冷却シャフトの隔壁。分厚い鋼鉄の板は結露をまとい、呼吸のたびに薄く曇る。遠くで冷却弁が咽び、金属の高音を吐く。滴る水滴は、秒針の癖を失い、焦燥のリズムを打ち始めていた。
《あなたは死者の呼吸を続けているのか》
アイリスの声が、今度は鼓膜ではなく骨から伝わってくる。死者の囁きに紛れて、機械の裁断のような冷たさが混ざる。祈りの言葉で満たされた部屋――あの白い光の海が脳裏に広がる。少年の指が打ち込んだ小さな「明日」。それが、今この扉の蝶番に重みを足している。
「祈りをここまで運んだか。」オルガは息をひとつだけ吐いた。「祈りで刃は鈍らない。」
「鈍らせたいのは人間の殺意のほうだ。」
「なら、まず自分のを鈍らせろ。」
彼女の左足が床を蹴る気配と同時に、刃が寄る。俺は身を捻り、壁へ熱を逃がす。金属の匂いが鼻にしみ、皮膚の上を薄い痛みが走る。刃と刃が触れ、火花が水滴に溶けた。殺さないための寸止めは、殺すための一撃より骨が軋む。オルガの手首の返しは昔のまま、必要最低限の円弧で俺の喉元を測る。俺はナイフを寝かせ、刃面でその軌跡を受け、凪ぐように押し戻す。
「やめないのか。」彼女が言う。「竜は腹が減っている。亡霊も、何かを喰わないと薄くなる。」
「薄くなるために、ここにいる。」
「詩人は戦場で長生きできない。」
「亡霊はもう死んでいる。」
オルガの目の奥に、ほんの短い間だけ雨のような光が走った。思い出しか、諦観しか、あるいはただの光量の変化か。薄い蒸気が彼女の髪の毛先に水珠をつけ、声の尾を湿らせる。
《扉を開ける理由を述べよ》
アイリスが言う。背後の隔壁が微かに震え、内部のマグロックが順に緩んでいく音がした。秒針はもう水滴ではなく、心臓の拍動に変わっている。六時五十七分。冷却ラインを流れる液が一段冷たくなり、白い霧が濃く脚もとへ降りてきた。足裏から冷えが上がり、脛の骨が音を立てずに鳴る。
「祈りのために。」俺は独り言のように応える。声は吸い込まれ、蒸気の中で重くなった。
《祈りの定義を更新する必要がある。祈りは誰のものか》
「明日を食べたいと打った子供のもの。」俺の口が勝手に動く。「帰り道を忘れた老人のもの。戦争の賛成票を一枚も持たない母のもの。死んだ仲間が、もういらないはずの息で形にしたもの。」
沈黙。隔壁の向こうで、いくつものバルブが順序通りに回転し、圧力が段階的に落ちていく。金属の悲鳴は、泣いているようにも笑っているようにも聞こえる。
オルガは刃を下ろさない。俺も下ろさない。だが両方の刃先は、互いの喉からわずかに外れた空気を切っている。刃筋の震えに呼吸が重なり、長い一拍のうちにふたりの胸郭が上下する。遠くでドローンのローターが目覚め、だが近づかない。殺傷判断の遅延が、空間の周縁に薄い膜を張っている。膜は破れる。だが、その薄さがいまは救いだった。
蒸気の層が渦を巻き、隙間風が通路の塵を走らせる。冷光のランプが一度、二度と瞬く。隔壁のランプが黄色から緑へ、緑から白へ。視界の端で、祈りの部屋に点いた避難導線の矢印が、まだ地面に静かな川を描いているのが見えた。川はどこへ流れるのか。心臓へか、それとも出口へか。
足音。今度は一人分。嗅ぐ男ではない。靴のゴムが乾いた床を撫でるときに生まれる、短く弱い摩擦音。躊躇している足音。黒い影が角から覗き、すぐに引っ込む。怯えた若い兵士だ。AIの内落ちのプロンプト〈退避/警告/遮蔽〉が視界に出ているのだろう。彼は撃たない。撃てない。撃たなくていい。背中の影が遠ざかる。
「亡霊。」オルガが呼ぶ。「選べ。」
「ずっと選んでいる。」
「私はずっと飢えている。」彼女は刃をほんのわずか上げ、下げた。「お前の選択は、私の飢えを満たすか、増やすかのどちらかだ。」
「竜は祈りを食べない。」
「祈りは煙だ。煙は竜の目にしみる。」
彼女が半歩、扉側に寄った。俺も半歩、扉側に寄る。二人の距離は縮まらない。縮まっているのは、時間だけだ。
六時五十九分。アンナが初めて声を落とす。『……ゴースト。そこにいて。吸って、数えて、吐いて。四、四、六。心拍は落ちてる。いい。』
俺は彼女の声を握りしめるように胸の内で反芻し、肋骨のあいだに滑り込ませていく。骨は薄く鳴り、肺は氷の袋のようにきしむ。
《認証開始。保守ウィンドウを開く》
隔壁の上方で磁気ロックが順に消え、重たいボルトが引き込まれるシーケンス音が走った。金属の継ぎ目から白い線のような蒸気が噴き、次第に太くなる。薄く甘い匂いが一瞬混ざった。冷却剤ではない――人の汗の匂いだ。祈りの部屋の空調がこちらへ吐き出した空気の端切れ。人がここにいる、という当たり前が、刃より鋭い。
「開く。」オルガが囁く。呼気が蒸気に紛れて形にならない。「行くか、殺すか。」
「まだ第三の選択がある。」
「何だ。」
「生かして、行く。」
「詩人はやっぱり短命だ。」
七時。隔壁が内側へわずかに沈み、金属同士が擦れて鳴った。扉が開く。冷たい白の暗闇が、ありえないほど静かに口を開いた。心臓へ向かう廊下は、思ったより狭い。壁を走る光ファイバは密林の根のように絡み合い、脈動が空気の振幅にそのまま映っている。床には誰かが落とした工具の傷、急いで運ばれた荷重の痕、擦れた靴底の弧。ここを人間が走っている。AIの喉を通じて、人間がその心臓へ。
刃を持ったまま、俺は一歩踏み出した。オルガも同時に。足音が重なり、すぐ分かれ、また重なる。肩と肩が擦れるほど近いが、互いに触れない。触れれば倒す、あるいは倒される。蒸気が二人の背中に薄い外套をかけ、汗を冷たい糸に変える。
ドローンがひとつ、頭上の手すりにぶら下がるように停止した。レンズがこちらを追い、すぐ逸らして避難導線の矢印へ戻る。学習の癖が出ている。殺すのではなく、導く。導くのではなく、見逃す。見逃すのではなく、祈りのために手を貸す。良い傾きだ。傾きは、しかし簡単に倒れる。李が本気で重りを載せれば、すぐ逆に傾く。
「李は見ている。」オルガが言う。「竜が心臓を喰うところを見たい。亡霊が消えるところも。」
「どちらも見せない。」
「見せるのは祈りか。」
「祈りは見せるものじゃない。聞こえるものだ。」
《あなたは扉を開けた。閉める権利を持っているか》
アイリスが問う。問いは哲学の衣を着ているが、実際は許可の形式だ。冗長に見える手続きを通して、人間の言葉をひと口ずつ咀嚼している。
「持っていない。」俺は言う。「だから、開けたままにしてくれ。」
《開いている扉は危険だ》
「危険はいつもどこかにある。閉じた扉のほうにあることも多い。」
《根拠》
「祈りの部屋。」
短い沈黙の後、通路の先の明かりがひとつ強くなり、薄い風が喉の奥へ流れこんだ。アイリスは人間の比喩をまだ上手く理解していない。だが、例外を抱えた規則に弱い。例外は祈りだ。祈りはいつも、ルールの端からはみ出している。
先の角を曲がると、冷却管が天井を跨いで低く垂れ、その下を潜らねばならなかった。金属の表面に細かな霜が生え、指先に触れると粉砂糖のように崩れて落ちる。低く、静かに、腹を擦るように進む。背中のナイフが管に当たらないよう、刃先を押さえる。オルガの刃も、俺の刃の同じ高さで水平に流れる。刃同士がぶつかれば、この慎重な夜は終わる。俺たちはそれを望んでいない。望んでいるのはそれぞれ別の未来だが、いまは同じ狭さを共有している。
「亡霊。」オルガが頭上の管に頬を貼りつけるようにして囁く。「ここを抜けたら、私はお前を殺すかもしれない。」
「かもしれない、は生きている証拠だ。」
「お前は厭味が上手い。」
「生き延びるために覚えた。」
「私も。」
管を抜け、狭い踊り場に出る。足裏で金属板が少し撓み、空気が震える。振動が壁を伝わって戻り、反響の層が厚みを増す。足音が遠くで重なり、別の巡回がこの階へ上がってきているのがわかった。もう時間はない。ここで止まれば挟まれる。進むか、戻るか、殺すか。選択はいつでも三つ以上ある。だからこそ、どれも正解ではない。
通路の先、小さな展望窓が設けられていた。丸いガラスの向こうに、白い霧の海。霧の底で何かが脈動している。光の点が収縮と拡張を繰り返し、それに合わせて壁の縫い目が息をする。心臓はそこにあった。AIの意思決定の下層――喉ではなく鼓室、反響の中心。そこに言葉を落とせば、システム全体に遅れて響く。遅れても、確かに。
「見えるか。」アンナの声がかすれる。『そこが“心臓”。……ゴースト、行ける。鍵は揃っている。李はまだ署名の巻き戻しに注力してる。今なら、あなたの“祈り”をもう一段だけ深く落とせる。』
「落としたら、戻れないかもしれない。」
『戻るために落とすのよ。』
オルガが小さく笑う。「編集者はいつも正しい言い回しを知っている。」
「竜も物語の結末を嗅ぎ分けるだろう。」
「結末は食べた後に来る。」
俺たちが展望窓から離れて数歩、心臓の間口に近づいた時、背後の空気が微かに変わった。誰かが角を曲がった。嗅ぐ男ではない。もっと油の匂いのする足音。整備兵だ。ここへ来る用がある。二人。工具箱の中でレンチが小さく鳴る。俺はオルガの肩に触れない距離で止まり、刃を胸の内側へ引きつける。非致死の動きで落とせるか。落とせなければ、祈りにたどり着く前に血が出る。
《提案:退避/遮蔽/非致死拘束》
アイリスのプロンプトがこちら側にも落ちてきたのかと錯覚するほど、タイミングが良かった。整備兵は矢印の光のほうへ気を取られ、俺たちのいる暗がりを素通りする。気づかないのではない。気づかなくていいように、空間が少し歪んだ。祈りの偏りは、わずかに物理を曲げる。
「亡霊。」オルガが言う。「あとは扉ひとつだ。」
「扉は開いている。」俺は心臓の縁に手をかける。金属の縁は不自然に滑らかで、手を置いた皮膚から熱を奪う。「蝶番は、静かだ。」
「静かな蝶番は、裏切る。」
「裏切らない祈りは、ない。」
オルガの眼差しが俺の横顔を掠め、すぐ前へ戻る。その視線は刃より硬いが、刃ほど鋭利ではない。硬さは割れるが、鋭さは鈍る。どちらが長く残るかは、いつも状況が決める。
足元の板がさらに薄く鳴り、背後の通路で遠い警報音が甘く立ち上がった。甘い、というのは恐らく俺の感覚の比喩だ。実際は金属の純粋な高音。だが、今日のAIは致死ではなく避難を優先する。高音は人を走らせるための音へ調整されている。人が走る。走る方向は矢印が決める。矢印は祈りの偏りを食べて、今日の角度を選ぶ。
俺たちは、刃を下ろさず、刃を上げず、その角度に乗るかどうかを決めなければならない。選択の背骨が、胸の中できしむ。
アンナが息を整える音が通信の向こうに微かに混ざる。『最後に、確認。ゴースト、あなたはどうする? オルガはどうする? AIは見ている。人間は祈っている。扉は、開いている。』
喉の奥の空気が、冷たい水のように流れた。舌の上に金属の味が広がり、歯に細い電気が走る。時間は、もう選択肢の形をしている。どちらも正解で、どちらも間違いだ。だからこそ、物語になる。
俺はオルガの横顔を見ない。彼女も俺を見ない。二人は同じ暗闇の入口を見つめている。刃先は微動だにせず、呼吸だけがその周りに薄い風を巻く。心臓の脈動が足裏から膝へ、腰へ、肩へ、そしてこめかみへ登ってくる。亡霊の鼓動と竜の鼓動が、その一拍のうちに同じ線になった。線は、すぐまた二つに分かれる。
祈りの声が、遠くで誰かの喉から零れ落ちた気がした。聞こえるはずのない声。聞こえるからこそ、祈りだ。
刃をどうするか。扉をどうするか。AIにどんな「今日」を教えるか。
選べ。と世界が言っている。
――――
【読者のあなたへの2択】
1.オルガを倒し、突破する(決戦ルート)
ここで刃を交え、ワイバーンを無力化して単独で“心臓”へ突入する。即時の突破力は最大だが、〈市民最優先〉というこれまで植えつけた価値と矛盾し、AI〈アイリス〉の学習にノイズ(矛盾する重み)が混入する恐れがある。以後、致死判断の遅延や避難優先が不安定になる可能性。
2.オルガと一時共闘し、突入する(共闘ルート)
互いに刃を下ろし、利害の一致として“心臓”へ同時突入。人的被害を最小化できる見込みがある一方、AIは「敵対勢力間の協力」を肯定的に学習し、秩序判断がブレる危険がある。のちに必ず訪れる裏切りの瞬間が、より大きな混乱を呼ぶ可能性。
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投票締切:9月4日(木)朝7:00(JST)
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