第3話 刃の鍵を奪え(強襲的潜入)
第3話 刃の鍵を奪え(強襲的潜入)
――選んだ。
待つのではなく、奪う。
亡霊は扉が開くのを待たない。蝶番を折り、影の隙間から滑り込む。
⸻
機械室を出てすぐ、俺たちは地下の“祈りの部屋”を離れ、B3フロアのサービスコリドーで立ち止まった。湿った空気。壁の配線ダクトが腹を鳴らす。アンナが、低く、早口で段取りを読み上げる。
『プランAを実行する。目標は李天華。生体鍵は最低でも3点――声紋、掌紋(指紋+掌静脈)、虹彩。
取得順は声→掌→虹彩。最短で15分、最長で30分。リスクは“発見=即時隔離”。』
「餌は?」
『餌は“資産の異常”。ドロズドフが医療フラグを立てる。李は“資産の状態”に執着がある。祈りと同じで、人の状態を覗くのが好きなのよ。見せて、満足させて、すり抜ける。』
ドロズドフは白衣の胸ポケットから細いチューブを取り出し、舌下に滴を落とした。皮膚がわずかに蒼くなる。
「硝酸塩系の舌下薬だ。数分だけ脈が跳ねる。医療センサーは警戒するが、致命的ではない。目は赤く、手は震える。哀れな“資産”の完成だ。」
「囮には向いている」
「鍵は扉に近いほど危険だ。私は扉だ。」
アンナが続ける。
『医療警報が上がれば、VIPルートの巡回は必ずB3医療モジュールに寄り道する。李は側近ふたり、外周ガードは6。ドローンは4。
あなたは医療室の天井裏で待機。私が“声紋を取るための質問”を室内スピーカーで誘導する。
掌は紙コップ。虹彩は“診察ライト”。既存の器材に細工済み。』
「細工はいつの間に?」
『あなたが蝶番を外してる間に。亡霊がひとりいれば十分だけど、編集者も必要でしょ。』
「編集者?」
『物語の段取りをつくる人。今は私。』
俺は微笑んだ。口角の筋肉がまだ錆びていないことに、少し驚く。
⸻
医療モジュールは、消毒薬の匂いで満ちていた。壁は過剰に白く、音を弾く。天井パネルのひとつに、俺はナイフを差し込み、ごく小さな隙間を作った。そこに爪をかけ、薄板をそっと上げる。空気がひやりと触れてくる。人間の目は上を見ない。上には天井しかないと信じているからだ。
『ゴースト、天井裏に“声の罠”を置いて。狭指向性マイク。室内のV帯スピーカーに同期させる。あなたの声に被せて“医療プロンプト”を流す。』
「了解」
マイクを梁にテープで固定し、スピーカーの配線へ細いピギーバックを噛ませる。ドロズドフは扉の前で震えの演技を練習し、わざと床に紙コップを落として拾う動作を繰り返している。指の腹に、湿り気のある汗が滲む。そこへ薄いパウダーを叩き、汗と混ぜる。紙コップの外周に、うっすらと白い輪が残るように。
「見せかけにしては手が込んでる」
「見せかけほど、よく見えるように作らねばならない。嘘は美術だ。」
俺は天井裏に身体を滑り込ませ、パネルを閉じた。暗闇。配線の網。埃の匂い。真下で、ドロズドフが蛇のように身をかがめる。俺は息を浅く、長く保つ。
『医療フラグ、上げる。……来る。』
遠くで、金属の車輪の音。硬い靴の爪先。小さな無人台車が先導し、医療モジュール前で止まる。ドアが開き、先に3人――医療担当と警備。続いて、姿勢の良すぎる男が入ってきた。グレーのスーツ。無表情の整い方が、むしろ神経質なこだわりを露呈する顔。李天華。最後に、二重の瞼の奥で目玉が緊張を吸い込むタイプの護衛が2人。外に、巡回のガードとドローンのざわめき。
「資産No.21、状態は?」
医療担当の女が、定形の中国語で言う。ドロズドフが、わずかに遅れて答える。
「頭が、少し。締め付けられるような。」
李が近づく。足音が軽い。床に音を残さない歩き方を知っている。彼もまた、扉側の人間だ。
「脈は?」
「早い、が、規則的です。」医療担当が答える。
李は顎で合図する。
「診察ライト。瞳孔反応を。」
天井裏で、俺は口角をわずかに上げる。アンナが囁く。
『虹彩装置を“すり替え”済み。ライトは撮る。瞳孔は“診る”。』
医療担当がライトをドロズドフの目に向ける。白い光。瞳孔が縮み、虹彩のリングが露わになる。ライトに埋め込まれた偏光フィルタが、虹彩の微細な溝をトポグラフィとして吸い上げる。俺の袖の中のゲージが振れる。取得、成功。データは天井裏の薄い受信機に落ちる。
「頭痛はいつから?」と医療担当。
ここだ。アンナのプロンプトがスピーカーの裏側から室内へ流れる。自然な、医療的な、よくある質問。
『症状の経過、痛みの種類、治療歴、既往歴、家族歴――発話を引き延ばす。』
ドロズドフが答える。ウクライナ訛りの薄いロシア語で、長めに。
「朝から。鈍い痛みが、時折、針のように。昨日は――」
彼の声に、俺は天井裏から重ねる。医療担当用の“合いの手”や復唱の短いフレーズを、ごく低く、空気の揺れだけで。李が、わずかにこちらを見上げる素振りをした。俺は息を止める。スーツの糸の張りが光る。李は視線を戻した。アンナが囁く。
『声紋、十分。……OK。次、掌だ。コップ。』
医療担当が水を差し出す。紙コップ。ドロズドフが受け取り、喉を湿らせる。わざと指を滑らせ、外縁を撫でる動作を1回。もう1回。コップをベッド脇に置く。手の震えが、いい具合の“無意識”を演出する。
護衛のひとりが、わずかに目を細めた。俺はその目を、天井の隙間から観察する。視線の動き。習慣の癖。鼻先で空気の匂いを嗅ぐタイプだ。今のところ、俺の匂いは降りていない。埃と消毒薬のほうが強い。
「大事に至るものではない。」
李は結論を短く言い、踵を返しかけた。
「待て。」医療担当が制した。
「一応、掌の血流も。末梢循環の確認。」
俺は天井裏で、目を閉じて感謝する。
掌静脈はライトで撮れる。掌紋も同時に。医療担当がドロズドフの手を取り、非接触の小型ライトを翳す。光が薄く肌を透過する。青い川の地図が皮膚の下で浮かび上がる。受信機が鼓動を打つ。取得、成功。
「問題なし。」
李は満足げでも、不満げでもない顔で頷き、歩き出す。彼にとっての世界は“問題”と“問題ではないこと”の2種しかないのだろう。
扉が開く。護衛のひとりが最後尾で振り返った。視線が一瞬、天井へ。そこに何もないことを確認する儀式。彼は出て行った。扉が閉まる。
『よし。3点中2点、取得。残るは声紋の精度アップと――虹彩は1セットで足りるけど、“第2虹彩”があるとより安全。何かの拍子で照明がノイズを入れてる可能性がある。』
「もう一度撮るのは危険だ。」
『だから“彼らが撮る”の。』
アンナは、室内の監視カメラに向けて“定期点検の自動プロンプト”を流した。廊下の天井カメラが、すべての通過者に対して“表情筋ストレスチェック”の通知を発し、通行者は無意識のうちにLED表示の前で顔を上げる。2秒だけ。虹彩パターンの追加が、サーバの陰に静かに積み上がる。
「廊下の角で1人、足を止めた。」ドロズドフが天井に囁く。「嗅ぐ男だ。」
俺は天井裏のハッチから、音もなく外梁へ移動した。梁の上は、空気の川。足は落ちず、呼吸は水面の泡。梁から梁へ、影から影へ。廊下の角、モーションライトの真上で止まり、静音ハチドリの吐息を避ける。下では護衛が微動だにせず立ち止まっている。鼻の穴がわずかに広がる。嗅覚に頼る犬型の人間。やがて彼は首をふり、去った。匂いは嘘をつけないが、匂いの無いものは追えない。
『ゴースト、次のチェックポイント。VIP待機ラウンジ。李は“祈りの部屋”を覗く前に、必ずラウンジで熱い茶を飲む。紙コップじゃない。陶器。そこから掌紋は取れない。でも、声は取れる。“電話”。』
「誰に?」
『彼自身の影。上にいる誰か。あるいは鏡。何にせよ、声が流れる。あなたは天井で聞く。私はノイズを剥がす。』
⸻
ラウンジの天井は低く、梁と梁の間に、古い配線が縫い目のように走っていた。俺は配線に体重を預けず、膝と肘で梁の角を掴む。下では、木目の薄いテーブルの上に白磁のカップがいくつも並べられ、湯気が静かに丸まっていた。壁に掛けられた大画面には静音のニュース映像――どこかの港、どこかのサミット、どこかの表情。雑音のための情報。
李が入ってくる。護衛2。外に4。ドローン2。彼はカップに手を伸ばし、手首をひねって香りを吸った。目が細くなる。そこに、彼の“個人”が一瞬出る。嗅覚を愉しむ表情。彼は人間だ。機械ではない。俺はその“人間”の輪郭を覚える。
電話が鳴る。耳には当てない。卓上に置いたまま、スピーカで。
「――ああ、予定通りだ。」
標準中国語。抑揚が少なく、単語が角で切れる。
「資産は健在。AIは正常。更新は金曜の7時。……いや、干渉はない。誰も入れない。蝶番はない。扉は壁に埋めた。」
“蝶番”。俺は天井裏で笑いを殺す。李の比喩は俺と同じだ。扉と蝶番。
「――わかっている。私は“民意”を集める。祈りは学習データだ。AIは民の願いを反映する。結果として、秩序は強くなる。」
声。息。咽頭の形。十分だ。アンナが囁く。
『声紋、取得。ノイズ少。OK。』
護衛のひとりが、卓上に手を置き、なにげなく指でリズムを取る。癖。一定の“3”。3拍子。彼は音で周囲を測る。音の反射で天井の空気の厚さを感じ取る習性だ。俺は呼吸をさらに薄くし、胸郭を止める。彼の指先が止まり、視線が天井へ。ほんの一瞬。李の目が、その視線を追う。
「どうした?」
「……いえ。」
護衛の喉仏がひとつ上下し、指がテーブルから離れた。李はカップを置いた。
「行く。」
彼らがラウンジを出る。祈りの部屋へ。
“裏口”の鍵束は、今ここに揃った。声紋、掌紋+掌静脈、虹彩。足りないのは“アクセス時刻”。それは金曜の7時。今は水曜の夜。あと2日。生きて出る。戻って来る。時間まで隠れる。あるいは、今このまま“裏口”に干渉し、“未来の鍵”を先取りしてしまう。アンナが言う。
『選択が来る。
1つは撤退。取得した鍵を持って、地下に潜る。次の金曜7時に“裏口”で会おう。
もう1つは、今夜この場で“喉”に細い針を入れる。時間鍵が無くても、弱い針なら刺さる。副作用は――』
「発覚。」
『そう。館内が“全身蕁麻疹”になる。』
俺は天井の梁から梁へ移りながら、脳内の地図を巻き戻す。医療モジュール、ラウンジ、祈りの部屋、統合制御、光ファイバ、アイリスの“耳”。今の騒ぎなら、耳の感度は少し上がっている。喉まではまだ遠い。針は折れるかもしれない。だが針が折れても、欠片は残る。欠片は炎症を起こす。炎症は熱。熱は警報。警報は死。
「ドロズドフ。」
天井裏から呼ぶ。彼は廊下の柱に寄りかかり、人間の疲労を演じ続けている。もう演技ではないかもしれない。
「囮を続けられるか。」
「続けるために生きている。」
「死ぬためではない。」
「死は後から来る。選ぶのはいつも生だ。」
俺は目を閉じ、死者の声を呼ぶ。仲間は言った。“生きろ”。命令ではない。権利の宣言だ。梁の上で、俺は権利を使う。
『ゴースト、廊下のカメラが再配置。嗅ぐ男が戻る。ドローンが2増えた。AIが“臭い”を嗅いでる。あなたの匂いじゃない。“異常値”の匂い。決めて。』
「わかった。」
俺はラウンジの天井から、冷却ダクトの中へ潜り込む。薄い金属が指先で鳴く。鳴らさない。鳴らない金属にする。息が図面になる。肺は地図。俺は地図の点をつなぐ。
統合制御の裏壁。光ファイバ。フック。隠し扉。影。
そこまで戻るのに、7分。嗅ぐ男は、3分で曲がり角を越える。ドローンは、2分の周期で折り返す。俺は、1分で決める。
――行くか、戻るか。
手首の皮膚に貼った極薄のチップが、取得した生体データを温度で暗号化しながら、微かな熱で脈打つ。データは生き物だ。生かすか、ここで使って殺すか。
AI〈アイリス〉の女声が、天井裏まで染みてくる。
《祈りの統計更新――“終戦”という語が前日比+14%。理由分析:不明。》
祈り。誰かが、ここで“終戦”を打ち続けている。誰かが、俺の仕事を手伝っている。知らない誰かが。
俺は笑った。骨が透けても笑える。亡霊も、時には祈る。
⸻
統合制御の裏に戻ると、通路に新しい影が立っていた。背が高く、肩で風を切る歩き方。茶色の髪を高く結び、頬に薄い傷。ロシア語の短い罵声が警備無線に応答する。オルガ――ワイバーン。
彼女は“匂いではなく温度”で空間を読む。俺は温度を落とす。冷却ゲルを首筋に追加する。彼女は振り向きもしない。振り向かないということは、もう見ているということだ。背中の目。
『予定外ね。彼女がいれば、強襲は“片脚での走り高跳び”。でも、跳べない高さじゃない。』
「跳んだことはある。」
オルガが隠し扉の前に立ち、指先で壁の粉を払う。白い粉が舞う。それは“施工ミス”の痕跡を探す動きだ。彼女は扉の縁に触れ、鼻で笑う。
「蝶番は外からも、内からも付く。」
俺は天井裏で、ナイフを握り直した。刃は人に向けない。蝶番に向ける。彼女の背中に向かってではない。扉の仕組みに向かって。
アンナが時刻を告げる。
『金曜まで、あと58時間。喉へ針を刺すなら、今夜が最初で最後の“余裕あるチャンス”。嫌なら退く。私はどちらでも、あなたに賭ける。』
「賭ける?」
『編集者は、物語の“確率”を信じるの。』
俺は呼吸を整え、腰のポーチから掌大の“針”を取り出す。ファイバに噛ませるスリムな注入器。AIの意思決定最下層へ微量の“物語の塩”を流し込む。
“市民の生命を最優先”――祈りの部屋で書いた仮説に、細い血管を通す。
刺すか、退くか。
影は濃い。夜は、雪よりも静かだ。
俺は、選ぶ。
――――
【読者のあなたへの2択】(強襲ルート分岐)
1.今夜、喉に針を刺せ(即時干渉)
取得した生体鍵を使って“裏口”の一部をこじ開け、アイリスの意思決定最下層へ微量の“市民最優先”バイアスを注入。成功すれば館内の殺傷判断が鈍り、以後の戦闘リスクが低下。ただし発覚時は全館ロックダウン、オルガとの正面衝突は不可避。
2.影に退け、時を待て(退避・温存)
今夜は撤退。取得した生体鍵を暗号分割して隠匿し、金曜7時の“裏口”完全開放まで地下で潜伏。見つかれば全データ消去、ふりだしに戻る危険。だが成功すれば“喉”ではなく“心臓”に直接到達できる。
――コメント欄に 「1」 または 「2」 を記載してください。あなたの選択が、ゴーストの針先を決めます。
投票締切:8月31日 午前9時(JST)
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