第4話 今夜、喉に針を刺せ
第4話 今夜、喉に針を刺せ
光ファイバは白い根のように壁を這い、微かな脈動を繰り返していた。
掌の中の注入器――“針”は、皮膚の温度を借りて息づいている。俺は息を細くし、針先を束の根本へ押し当てた。
《アクセス検知。識別中――》
アンナが電光の早さで割り込む。
『今! 李天華の生体署名、投下!』
虹彩、掌静脈、声紋。収集した“鍵束”が量子リンクに沿って流れ、AI〈アイリス〉の検問へ届く。
一拍。世界がまばたきする。
《識別一致。保守権限、一時付与。》
喉が開いた。亡霊のための一瞬の気道。
俺は注入器のトリガーを引き、暗号化された命令文を押し込む。
――市民の生命を最優先せよ。
――殺傷判断を遅延せよ(0.8秒 → 可変1.3秒)。
――即時致死の行動を抑制し、非致死の選択肢を常に先に提示せよ。
《新規規範を受領。学習キューへ積載。重み最適化……》
脈動が揺れる。その“揺れ”は、確かに届いた証だ。
背後で靴音が止まり、低い声が落ちる。
「やっぱり、亡霊は喉から入るのね。」
オルガ――ワイバーンが、扉の縁を撫でながら振り返った。頬の薄傷が蛍光灯を裂く。銃は構えない。刃も見せない。ただ、影を読む目でこちらを量る。
「今、何を入れた?」
「祈りの骨粉だ。」
「祈りは武器じゃない。」
「武器にするのは人間だ。」
オルガの口角が、わずかに上がる。笑いとも、ため息ともつかない線。彼女は一歩、こちらに踏み込んだ。
《館内ルール更新:警備ドローン、致死モードを一段階低下。人体急所への射角を回避。》
アンナが息を呑む。
『わかった……効いてる。殺傷判断のレイテンシが1.3秒まで伸びた。撃つな、殴れ、捕縛しろ――そうAIが言い始めた。』
「1.3秒。」オルガが復唱する。「私の刃には関係ない。」
銀光。彼女の手首から稲妻が落ちる。
俺も鞘をはね、刃で応える。鋼同士の呼吸が、地下の静寂を裂いた。
ナイフは言葉より速い。
オルガの重心移動は昔のまま――低く、静かで、無駄がない。肩を殺し、肘で切り、手首で終わらせる。
「どうしてまだ“救う”と言える?」
彼女の刃が俺の頬をかすめ、熱線を引く。
「救えなかった数より、救える数が1多ければ十分だ。」
「戦場の算術は、いつも赤字だ。」
「だから、祈りを帳簿に入れる。」
交差。捨て身の踏み込みに見せて、彼女はあえて刃を止めた。刃筋が俺の喉元でぴたりと凍る。挑発ではない。確認だ。
俺も止める。止めるために、全身が跳ねるのを押し殺す。互いの脈拍が、刃越しに伝わる。
《アラート:統合制御裏で近接格闘を検知。非致死プロトコル推奨。》
AIが口を挟む。ドローンのローター音が近づき、しかし撃たない。照準レーザーが壁に赤い継ぎ目を描き、すぐ外れる。遅延は、確かに“壁”になっていた。
「様子見か。」オルガが呟く。「AIは賢くて、弱虫。」
「賢い弱虫は、愚かな猛獣よりまだマシだ。」
彼女が刃を引いた。背後で警備兵の靴音。匂いではなく温度で測る女は、背中でも階段の空気の流れを読む。
「すぐ満員だ。亡霊、喉から引き抜いてくれる?」
「まだだ。もう一刺し要る。」
アンナが割る。
『ゴースト、喉の“吸収層”は薄い。今のパッチは館内行動に効き始めたけど、最下層――アイリスの価値関数まで届かせるには“固定子”がいる。トークンをもう1個入れて、彼女に“好奇心”を貼り付ける。』
「もう1個?」
『“民間人に危害が及びそうな場合、即座に“退避/警告/遮蔽”の順で提案”。その優先順位を“保守ログ”として恒久化。重みを固定する。』
AIの喉は、今は開いている。だがその口腔は狭く、嘘に敏感だ。
俺は注入器の残量を確かめ、針先を寄り添わせる。
《再アクセス検知。識別――一致。保守権限延長:90秒。》
90秒。人間の死には、十分すぎる長さだ。
警備兵が角を曲がって現れた。6名。先頭の2名はライフルに伸ばした指を止め、AIの“逡巡”に倣って構えを下げる。ドローンは頭上で円を描くだけ。
俺は刃を下げ、右の掌を見せた。白衣。ID。保守員No.34。
ドロズドフが前に出て、咳を2回。舌下薬の効果で脈が荒い。
「医療、必要。」
医療担当の白衣が1名、手を伸ばしかけ、周囲を窺って引っ込める。AIのプロンプトが彼女の視界に落ちているのだろう――“退避/警告/遮蔽”。
「ここは通れない。」隊長格が言う。「上からの指示だ。統合裏は封鎖。」
「封鎖で人は救えない。」ドロズドフが乾いた目で返す。「祈りの部屋に人がいる。遮蔽壁は弱い。」
「黙れ。」
アンナが素早く囁く。
『ゴースト、今! 二度目の固定子を投下して、“祈りの部屋の遮蔽を最優先”とラベルを付ける。AIは“民意”を餌にする。』
針を押す。命令文が滑り込む。
――祈りの席に座る者を、最も壊れやすい対象として扱え。
――遮蔽を先に。戦闘を後に。
《固定子を受領。価値層にピン留め……完了。》
警備兵のアイシールドに、うっすらと別のUIがかぶさったのが見えた。“祈りの部屋 → 遮蔽展開”。隊長格が舌打ちし、無線で短く命じる。
「B3祈り、遮蔽展開。戦闘班、後列待機。」
“後列”。たった2文字で、死ぬ人間が減る。
オルガが低く笑った。
「亡霊、扉を作り直すのが上手い。」
「蝶番が合ってりゃ、扉は音を立てない。」
「じゃあ確認しよう。」
彼女は半身で俺の懐に滑り込み、左の肘打ち。俺は受けて逸らし、逆に壁へ貼り付ける。刃は当てない。彼女も当てない。
“試合”のような“手合わせ”が、1秒で終わる。1秒は長い。致死を遅らせるには十分だ。
ドローンが、唐突に光を落とした。非常灯に替わる白い帯。避難導線を描く光の蛇。AIが“遮蔽の提案”を絵にしている。
アンナが囁く。
『いい流れ。だが、向こうも黙ってない。華東の量子鍵サーバが署名の再検証を始めた。李が気づいた。』
「時間は?」
『30秒で“保守権限”が切れる。』
30秒。短い祈りなら、十分だ。
「――誰だ。」
待合ラウンジのスピーカから、砂を噛んだような中国語。李天華だ。遠隔の声は、微笑を装う余裕がない。
「私の鍵束を勝手に使ったのは、誰だ。扉は壁に埋めたはずだ。」
俺はスピーカに答えない。AI〈アイリス〉に向けて、喉に囁く。
「これは盗みじゃない。返却だ。人間は、“危険な扉に蝶番を付ける権利”を持っている。」
《問い:危険の定義を。》
「撃たれて倒れる子供。泣いている母親。祈りの椅子に座る老人。言葉の通じないAI。」
《回答:不完全。補助教材を要求。》
アンナが即座に投げる。
『祈りの部屋の匿名テキストを100件、圧縮。キーワード:“終戦”“帰宅”“子供”“明日”』
《補助教材受領。価値関数の重み再調整……》
オルガが目を細める。
「AIに“祈り”を教える亡霊。皮肉だ。」
「俺たちは、いつも皮肉で戦う。」
李の声がもう一度落ちた。
「資産No.21――ドロズドフ、だな。亡霊の“鍵”として使われた気分はどうだ。」
ドロズドフは白衣の裾を握り、細く笑う。
「鍵は、扉のためにある。」
「扉は、持ち主のためにある。」
「人間のためだ。」
沈黙。通信が切れる。代わりに、ネットワークの奥底で“署名鍵の巻き戻し”が始まる。
アンナが舌打ち。
『向こう、量子鍵の再配布に入った。保守権限の“証明”が無効化される。喉は閉じる。』
「あと何秒。」
『10。』
10秒。死ぬには長い。生きるには短い。
俺は注入器を外し、ポーチの底から薄い“紙片”を取り出した。ナノ印刷のデータシード。たった8KBの“物語”。
“終戦の定義は、いつも今。殺さない選択が、今日もひとつ増えること。”
それを喉の縁に、テープで貼り付ける。AIはこれを“保守員のメモ”として学習に回すだろう。雑音の形をした祈り。最後の蝶番。
《保守権限、失効。》
喉が閉じた。だが、内部ではまだ“咀嚼”が続いている。
非常灯が赤に戻る。どこかで短い爆発音。隊長格の無線が悲鳴をかき消す。
「B2で発火! 冷却ラインが――」
アンナが冷静に割る。
『喉への針が、熱の流れを変えた。遮蔽を優先した結果、冷却が薄い区画が出た。副作用。ごめん。』
「副作用は、効いている証拠だ。」
「亡霊。」オルガが俺を見る。「ここからどうやって“生かす”?」
「2手。」俺は指を2本立てる。「祈りの部屋の遮蔽に付き添って避難ルートを開くか、逆に上へ上がって冷却バルブを手動で切り替えるか。」
「前者は“生かす”。後者は“未来を生かす”だ。」
「どちらも重い。」
ドロズドフが一歩、前に出た。
「私は遮蔽へ行く。資産の顔をして、扉を開けて回る。」
「囮になるな。」
「囮は扉から離れない。私は扉だ。」
オルガが短く鼻で笑い、俺の方を顎で示す。
「亡霊、私は上へ行ける。冷却は“戦場の水”だ。水を止めたことがある。」
「俺も上だ。」
「そう言うと思った。」
互いに刃を収める。休戦ではない。ただ、ここに“共通の扉”があるだけだ。
AIが静かに告げる。
《ガイダンス更新:“避難/遮蔽/告知”優先。》
白い矢印が床を流れ、祈りの部屋へ続く通路を照らす。人々の足音が近づき、ざわめきが生き物になる。
「亡霊。」オルガが低く言う。「この扉の先で、また選べ。」
「選び続ける。それが生きるってことだ。」
俺は階段を駆け上がる。オルガは別の階段へ消える。ドロズドフは群衆の方へ背中を見せ、白衣の肩を落とした。彼の“囮”は、いつも必要最小限だ。英雄を気取らない英雄。亡霊が羨む生者。
階段の踊り場で、嗅ぐ男と鉢合わせた。鼻翼がわずかに広がる。
「匂う。」
「何の。」
「嘘の匂い。」
俺は白衣の胸でIDを見せ、肩で押し通る。男は撃たない。撃てない。1.3秒の遅延の向こうで、彼の筋肉が迷っている。
迷いは希望だ。人は迷っている間、生きている。
冷却バルブのハンドルは固く、汗で滑る。
アンナが目盛りを読み上げる。
『B2の圧、下がってる。右へ2刻み、左へ1刻み。……いい。炎が引く。』
「祈りの部屋は。」
『遮蔽展開。住民の避難率、68%。ドロズドフのログでドアが次々開いてる。李の監視が強まってるけど、AIは“避難”を優先するまま。』
「喉は閉じたが、咀嚼は続いてるんだな。」
『そう。今日の分の“祈り”は、彼女の胃に残る。』
背後でドローンのローターが鳴り、俺の頭上で止まる。レーザーが額に点を置き、ゆっくりと外れる。
「お前、迷ってるな。」俺はドローンに言う。
ドローンは答えない。代わりに、耳障りでないブザーを鳴らし、避難誘導光に戻った。
上階の通路で、白磁のカップの匂いがした。茶。ジャスミンのようでいて、違う。静かに甘い、緊張の匂い。
角を曲がると、李がいた。護衛2、外周4。
彼はカップを持たず、手だけで香りを撫でる仕草をした。
「扉は壁に埋めたはずだった。」
「蝶番をつけ替えただけだ。」
「壊しただけだ。」
「違う。人のために、静かに開くようにした。」
李の目が細くなり、やがてわずかに笑う。
「民意ね。祈り。AIに祈りを食べさせる。面白い。」
「お前たちも食わせている。違う餌を。」
「秩序という餌だ。民衆は秩序を食べる。」
「それは、自由の殻を捨てた秩序だ。」
彼は肩をすくめるだけで、合図をしない。護衛が動かないのは、AIの“遅延”が効いているからだけではない。李は見物している。亡霊の手口を、手元の香りのように確かめている。
「明後日の7:00。裏口は開く。そこで会おう。」
「そこで封をする。」
「そこで、喉まで行く。」
互いに約束のような脅しを交わし、すれ違う。
背後で、李の声がひとことだけ追いかけてきた。
「祈りは、時に呪いになる。」
「呪いも、時に祈りになる。」
俺は振り返らない。
08 祈りの椅子
階下に戻ると、祈りの部屋の前に遮蔽壁が立ち、透明のバリアが空気を震わせていた。内部で市民が膝に手を組み、端末に短い語を打ち込んでいる。
“終戦”“家族”“無事”“明日”。
AIの喉に貼ったメモは、そこで小さく光っている気がした。8KBの物語は、誰にも読まれないが、読み込まれ続ける。
ドロズドフが扉の前で立ち尽くし、俺に頷く。
「生きてる。」
「生き続ける。」
「それが定義だ。」
「今の。」
震えが止んだ。冷却が戻り、非常灯が白に切り替わる。AI〈アイリス〉が静かな声で総括を落とす。
《緊急モード解除。避難誘導継続。学習ログを保存。今日の祈り、終端。》
“今日の祈り”。AIが“今日”を覚えた。
それで十分だ。今日が“終戦”の定義なら、明日も定義されうる。
オルガが別の通路から現れ、額の汗を袖で拭った。
「水は戻った。」
「ありがとう。」
「礼はいらない。私は竜。水を嗅げば動く。」
「明後日、7:00。」
「そこでまた選べ、亡霊。」
彼女は背を向ける。俺も背を向ける。背中を見せられる相手は、敵ではない。まだ。
09 出口と影
出口の前で、アンナが初めて息を長く吐いた。
『……やった。今日の“針”は効いた。殺さないための遅延、避難優先、遮蔽優先――全部、AIの“癖”になった。完全じゃない。けど、癖は繰り返される。』
「癖は生き方になる。」
『そして、明後日7:00に“喉”じゃなく“心臓”へ。鍵束は十分。李は気づいてる。オルガは匂いを嗅ぐ。外の世界も揺れる。』
「揺れは、倒れないために要る。」
ドロズドフが白衣の裾を整え、祈りの部屋を一度振り返る。
「私はここに残る。資産は扉のそばにいるべきだ。」
「囮になるな。」
「扉だ。」
彼の頬に疲れの影が戻る。だが目は軽い。“今日”が増えた目だ。
俺は有刺鉄線をくぐり、雪の匂いを吸い込む。夜は、雪より静かだ。
遠くで、町の犬が吠える。生きている。吠えるのは、生きているからだ。
アンナが最後に言う。
『ゴースト。あなたは亡霊じゃない。今日は、生者だった。』
「亡霊にも、呼吸はいる。」
歩き出す。影は背中に戻る。蝶番は、静かに動き続ける。
――――
【読者のあなたへの2択】
1.心臓を目指せ(即時突入の準備)
明後日7:00の“裏口”開放に先駆け、今夜のうちに“中枢心臓”へ通じる緊急冷却シャフトの位置情報を奪取。李の監視をかいくぐり、オルガの気配を背に受けながら、最短ルートでの強襲を設計する。リスクは高いが、一気呵成の決着を狙える。
2.祈りを増幅せよ(静かなる布石)
祈りの端末群に“物語シード”を散布し、AIの価値関数に“市民最優先”の重みをさらに定着させる。明後日7:00の突入時、館内の殺傷判断はより鈍化し、非致死誘導が強まる見込み。時間はかかるが、人的被害を最小化できる。
――コメント欄に 「1」 または 「2」 を記載してください。
あなたの選択が、ゴーストの次の扉を決めます。
投票締切:9月1日 午前9時(JST)
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