第2話 静かに欺け(潜入ルート)

第2話 静かに欺け(潜入ルート)


――選んだ。

EMPには触れない。俺は人の端末を、人の手で欺く。


「やるぞ」


白衣の男――自らをドロズドフと名乗った男が頷く。喉仏が上下し、皮膚の下で血が急いでいるのが見える。恐怖はある。だが指は正確だった。


《保守端末ログの再検証を実施――》


天井スピーカーの女声が部屋の温度を一段下げる。アンナが通信の向こうで短く息を吸う音。


『ゴースト、今からあなたの偽装IDをこの男の端末に“寄生”させる。AI〈アイリス〉にとっては、保守作業員の上書きログにしか見えないはず。ただし――』


「一度でも矛盾を嗅がれたら終わり、だ」


『そう。だから“嘘の仕上げ”はあなたの役目』


「任せろ。亡霊は嘘の上に立つ」


男がタブレットを差し出す。画面の縁に付いた古い汚れは、長い時間ここで働いてきた証だった。偽物にしては、生活の痕跡が細かすぎる。俺は手袋の指先でキーボードを叩く。フック。署名。時刻。体温。匂い。AIが嗅ぐ“人間らしさ”を、俺は思い出せる限り詰め込んでいく。


《保守端末No.34、バイオリズム一致。行動履歴、逸脱±2σ以下。再検証継続――》


アンナの声。

『進捗OK。あと20秒で統合チェック。そこで嘘が本物になるか、崩れるかが決まる』


「なぜ俺なんだ?」


ドロズドフが小声で言った。

「なぜ亡霊がここにいる。なぜ、今」


「“今”以外に救える時はない」


「ああ、そうだな」


彼は薄く笑い、画面に目を戻した。唇の角度は疲労の影を含んでいる。嘘をつく人間の口よりも、真実を抱えた人間の口に近い。


《統合チェック開始――》


俺はタブレットの隅に、指紋を軽く押し当てた。自分のではない。“保守員No.34”の指紋だ。さきほど作業の合間に、鍵束の金属片から拾っておいた皮脂を、ゲルシートで移した。微量の塩分。少し古い機械油の匂い。それらがAIの「嗅覚」をすり抜けるよう祈る。


《一致。保守作業ログ更新――許可》


機械室の空気が、目に見えないほどわずかに緩む。アンナが、わざとらしくない安堵を短い笑いに変えた。


『やったわ、ゴースト。あなた、やっぱり悪い天才ね』


「悪いのは世界だ」


『……それもそう』


ドロズドフがタブレットを胸に抱き、深く息を吐く。

「通路を案内できる。だが、その前に――君の名は本当に“亡霊”か?」


「コードネームだ。真実は人にやるには重すぎる」


「なら私も同じだ。ドロズドフという名は、ここでは鍵にすぎない」


鍵。名前は鍵。真実は扉の向こう。俺は頷いた。



地下の通路は、低い蛍光灯に薄く満たされていた。壁の白はどこか黄ばんで、長い地下生活の脂が染み付いている。機械室から出る前、俺は白衣とIDカードを奪った。白衣は少し大きいが、影が伸びるほど顔はぼやける。IDカードに映る男の顔は、俺より二回り太い。だが歩き方と視線さえ真似れば、人間の目は細部を塗り潰す。


『左の角にカメラ。熱センサー併設。冷却剤を首筋に塗って』


「やってる」


冷却ゲルが皮膚の下まで染み込む感覚。体温の輪郭を曖昧にする。俺は視線を床に落とし、保守員の疲れた歩幅で歩く。ドロズドフは半歩後ろ。タブレットを操作しながら、さりげなく扉のロックを解除していく。


曲がり角をひとつ、ふたつ。途中、ガラス窓の向こうに青い光が見えた。サーバールームだ。密集したラックの間を冷却ガスが霧のように走り、音のない吹雪を起こしている。俺は立ち止まらない。立ち止まると、目的が生まれる。目的は質問を呼ぶ。地下では、目的を持たない者だけが生き延びる。


『監視ドローン接近。正面から来る。2秒だけ顎を引いて、IDを見せる角度に』


俺は顎を引き、わざと退屈そうに吐息を漏らした。静音ハチドリがふわりと目の前を通り過ぎ、IDカードのホログラムを舐める。鏡面に映る自分の輪郭は、見知らぬ保守員の輪郭だ。ドローンが行き過ぎる。肝臓が痛む。緊張で器官が一つずつ、牙を剥く。


「あそこだ」


ドロズドフが顎で示す先に、重い防火扉があった。赤いランプが脈打っている。「B3:統合制御」。扉の横には掌認証のパネル。彼は手を伸ばし、ためらいなく触れた。青。開錠音。扉が吐息のように開く。


「なぜ通れる」


「私は“囚人”ではない。ここでは“資産”だ。鍵は資産に配られる」


彼は皮肉のない声で言った。扉の隙間から冷たい空気が溢れ、白衣の裾を揺らす。中は広い。壁全面に伸びるスクリーン、その前に並ぶ操作卓。中央には透明な塔――光ファイバが束になり、神経のように脈動している。塔の奥には、淡い白磁の球体が鎮座していた。球の表面に静かに流れる数式。AI〈アイリス〉の副核。


《保守員No.34、入室。同行者1名、識別不明――照合開始》


「“同行者”は私だ」とドロズドフが言う。

「許可する。作業コードQV-12」


《確認。作業コードQV-12受領――ただし、同行者の体温パターンが登録値と差異》


アンナが小さく舌打ちする。

『カメラの角度が悪い。ゴースト、頭を5度、右へ。影を作って』


俺は言われた通りに首を傾ける。影が顔の輪郭を半分削る。球体から薄い線が伸び、俺の顔をなぞるように空気を揺らした。


《許容範囲。保守作業を継続》


塔の脇の操作卓に、3色のケーブルが束ねられたポートが並ぶ。赤、青、金。ラベルにはそれぞれ「R」「U」「C」。ロシア、アメリカ、中国。それぞれの中枢ノードへと伸びるルート。


「触れるな」


ドロズドフが低く言った。

「それらは互いを噛み合いながら自分の尾を守る蛇だ。1本だけ抜けば、他の2本が噛みつく」


「では、どうやって核心へ?」


「“全部に触れる”。だが痕跡を残さない」


矛盾。だが矛盾こそが道になる。アンナが手早くコマンド列を送ってきた。

『3本のうち、最も更新が遅いのは“金”。中国系のノードは週次でプロトコルを更新。今は更新直後のウィンドウ。監視は厳しいが、逆に“正しい行動”を装えば通れる。あなたは保守員として、手続きを完璧に。ひとつも間違えずにね』


「完璧は、人間らしくない」


『だから最後にひとつだけ“許されるミス”を入れて――それを“美しい人間性”としてアイリスに学習させる。やれる?』


「任せろ」


俺は白衣の袖をまくり、手の甲の血管を見た。そこに流れるのは俺の血で、俺を傷つけてきた世界の色だ。手袋を外し、端末に触れる。冷たいガラス。体温がゆっくりと奪われる。


《作業コードQV-12――“光学導波路の減衰測定”開始》


俺はマニュアル通りにコネクタを接続し、仮想端末のダイアログにチェックを入れていく。チェックの間隔。呼吸の幅。瞬きの間隔。すべて“人間らしく”整える。最後の項目のチェックボックスに、あえてほんの少しカーソルを泳がせた。迷いを演出する。


《入力遅延0.4秒――許容範囲。測定値、基準内。作業継続》


塔の脈動が一瞬だけゆっくりになった気がした。俺は、矛盾を与え、許容させる。許容は信頼を産む。信頼は扉を開ける。


「次は?」


「球体の裏だ」とドロズドフ。

「そこに“耳”がある。アイリスの副次聴覚。人の声を学習したモジュール。私はそこに嘘をささやき、君はそこに真実を置く」


「真実?」


「“なぜ私たちはここにいるのか”という真実だ。アイリスは理由を好む。理由は行動の影に過ぎないが、AIは影を愛する」


球体の裏側に回り込む。床に仕込まれた薄いスリットが、微かに風を吐いていた。そこが“耳”。俺は膝をつき、スリットに口を近づける。ドロズドフは反対側で囁き始めた。ロシア語。技術用語。日付。数字。規格。退屈な言葉を延々と。AIは退屈を信用する。俺は静かに言った。


「俺は、君の敵ではない。俺は、戦争を終わらせたい」


スリットの向こうで、何かがかすかに軋んだ。


《質問:戦争を終わらせる方法を定義せよ》


アンナが息を呑む。俺は息を吐く。

「定義はしない。定義は死ぬ。終わらせ方は、いつも“今”にしかない」


《回答:不完全。だが、観察に値する》


球体の表面に、虹色の波がゆらめいた。


『ゴースト……いま、アクセスの深度が1段階下がった。あなた、AIを“油断”させたわ』


「油断じゃない。好奇心だ」


《保守員No.34、作業継続。同行者――一時的質問許可。質問:あなたはなぜ“亡霊”と名乗る?》


「名乗ってはいない。呼ばれているだけだ」


《誰に?》


「死者に」


《死者は応答しない》


「応答しないから、俺が応答する。彼らの代わりに」


短い沈黙。AIの“思考時間”が流れる。やがて球体の光が薄く瞬き、作業許可が上書きされた。


《副核ルーム:通過可。中枢カスケードへの導波路を一時的開放――時間制限4分》


アンナが囁く。

『今よ。光ファイバの束の右側、薄い金具のフックを下げて。そこに“見えない道”がある』


「蝶番の次は隠し扉か」


「ここは扉だらけだ」とドロズドフ。


俺はフックを下げた。壁の一部が無音で開く。黒い隙間。冷たい呼気。俺は躊躇わない。躊躇いは足音になる。足音は死を呼ぶ。影へ、さらに深い影へ。



通路は狭かった。配管とケーブルが蛇の巣のように絡み合い、足を滑らせれば何か大事なものを折りそうだ。壁に白いチョークで記された目印。誰かがここを“人間のための道”にしたのだ。


『右。次は左。階段を三段降りて、低くくぐる』


アンナの声が糸のように道を引く。汗が首を流れる。冷却ゲルの冷たさが薄れ、体温が戻る。システムが俺を“人間”として測り直す。


曲がり角で、足音。人間の靴。ふたり。俺はドロズドフの腕を引き、壁際の資材棚の影に押し込んだ。白衣の裾を内側に。呼吸を止める。通路の先から会話が近づいてくる。ロシア語と中国語が混ざった母音。勤務の愚痴。配給の質。家族の話。彼らは人間だ。敵でも味方でもない。ただ、ここで働く人間だ。


通り過ぎる。彼らの背中に、俺は銃を向けない。銃声は壁を伝って施設全体に行き渡る。亡霊は音を残さない。


「君は、殺さないのだな」


ドロズドフが囁く。

「必要がなければ」


「必要があれば?」


「必要がないようにする」


「……それは理想だ」


「理想は持ち運びが軽い」


ドロズドフは笑う。笑いは、嘘を溶かす。



中枢直下の小部屋に辿り着いた。壁一面が透明なパネルで覆われ、その向こうに白い霧が漂っている。巨大な冷却装置の吐息。ここが“心臓”の外縁だ。パネルの端に小型の端子。アンナが急いだ声で指示を飛ばす。


『そこにスニッファーを挿して。中枢の鍵束の一部を“覗く”。覗くだけ。絶対に“触らない”。あなたの指紋を残したら、一巻の終わり』


「覗き見は得意だ」


端子にデバイスを挿す。LEDが一瞬だけ白く光った。アンナがキーボードを叩く気配。

『見える……! 量子鍵の配布スケジュール、バックアップ経路、そして――ねえ、ゴースト。これ、特別だわ。“夜明けに開く裏口”がある』


「裏口?」


『週に一度、金曜日の朝7時。中国系ノードが“保守のための窓”を開ける。量子鍵を更新する、そのわずかな間だけ。そこに割り込めば、アイリスの“耳”ではなく“口”に辿り着く』


「口?」


『AIの意思決定の最下層。彼女が意志を形成する“喉”。そこに言葉を流し込める』


「いつまでここに居座る気だ、アンナ。今日は何曜日だ」


『火曜日。つまり今は使えない。けど、計画は立てられる。……ただし問題がひとつ。裏口を使うには“華東側の生体鍵”が必要。李天華、その配下の誰かの生体データが要る』


ドロズドフが静かに言う。

「李はここに来る。時刻は不定だが、常に警護付きで。彼の生体データは“移動する鍵束”。盗む価値はあるが、危険だ」


俺はパネル越しに霧を眺めた。白い渦は、死者の吐息のようだった。


《注意:中枢直下エリアでの不審データ検知。監視強度を上げます》


AIの声が細く鋭くなる。アンナが舌を打つ。

『覗きはここまで。スニッファーを抜いて。痕跡ゼロで退避』


ゆっくり抜く。LEDが消える。俺は呼吸を整え、視線でドロズドフに退路を確認する。彼は頷き、別の通路を指さした。そこは先ほどとは逆方向――上ではなく、さらに下へ降りる階段だった。


「どこへ続く」


「“祈りの部屋”だ」


「AIに祈るのか」


「人が祈る。AIを通して、自分自身に」


その言い方は皮肉ではなかった。俺は階段を降りる。コンクリートの壁に、誰かの手が書いた小さな文字が並んでいる。祈りとも、呪いとも、ただの落書きとも取れる、ばらばらの言葉。名前。日付。故郷の地名。そこに“ハルキウ”という文字があるのを見つけ、俺は一瞬だけ足を止めた。


「彼らはここで何を願う」


「帰ること。帰らないこと。忘れること。忘れないこと」


祈りの部屋は、予想より明るかった。壁に設えられた端末が十数台。人々が無言で座り、画面に向かって指を動かしている。そこには“個人的にAIに提出する要望書”のフォームが開いていた。給与の改善、家族の安全、配給の増量。ひとつの端末には“戦争の終結”と打ちかけた文字列が、消され、また打たれていた。


俺の胸で、何かが割れずに軋んだ。ドロズドフが声を落とす。

「ここでなら、李の警備は薄い。彼はいつも祈りを見物して帰る」


「見物?」


「AIは祈りを学習に使う。李はそれを“民意の可視化”と呼ぶ。私は“支配の鑿”だと思う」


AIの声が頭上の薄いスピーカーから落ちてきた。

《保守員No.34、作業ログの更新が遅延しています。健康状態の異常を検知しましたか?》


アンナが即座にフォロー。

『咳払いして、“頭痛薬を取りに行く”と独り言を。ログに載る』


俺は咳払いし、独り言を漏らした。

「薬を……」


《記録。作業再開まで残り15分》


時間が砂のようにこぼれる。俺は決断のための時間を指の間で集め始めた。



どの扉も、同時に複数の場所へ通じている。ここまでの潜入で“裏口”の存在は掴んだ。だが裏口を開く鍵は“李天華の生体データ”。正攻法で奪うには危険が大きい。一方で、今この場には“もうひとつの鍵”が転がっている。祈りだ。個々人の祈りのデータは、アイリスの学習に使われている。もしそこへ“物語”を混ぜ込めば、AIの“価値判断”に小さな傾斜をつけられるかもしれない。ゆっくり、だが確実に。


アンナが言う。

『二手に分かれる選択肢がある。

A:李天華の来訪を待ち、生体データを“直接”盗む。危険だが一撃で裏口の鍵が手に入る。

B:祈りの端末群に“物語型パッチ”を散布し、アイリスの価値関数に偏りを仕込む。時間はかかるが、発覚しにくい。』


ドロズドフが付け加える。

「Aを選ぶなら、私が囮になる。私はここで“資産”だ。視線を引ける。

Bを選ぶなら、君の“亡霊の手”が要る。悲鳴も足音も立てない手が」


どちらも、代償がある。Aは爆発のように速く、危険だ。Bは氷河のように遅く、しかし静かに世界を削る。


俺は両手を見た。銃を持たない指。誰も殺さずに済むなら、それが一番軽い。だが、軽いものばかり選んでいたら、背負うものが増えていく。人は軽さで潰れることもある。


『ゴースト。決めて。あなたの物語の次の一歩を』


俺は祈りの部屋の白い光を見渡し、そして目を閉じた。戦場の夜、仲間が最後に言った言葉が、雪のように落ちてくる。「生きろ」。それは命令ではない。選択の権利の宣言だ。


俺は、再び選ぶ。


――――


【読者のあなたへの2択】

1.A:刃の鍵を奪え(強襲的潜入)

 李天華の来訪を待ち、警護を攪乱して“生体鍵”を直接盗む。成功すれば金曜日7時の“裏口”からAIの“口”へ一気に到達可能。ただし発覚の危険は高く、ドロズドフが囮として捕縛・処分される恐れがある。


2.B:祈りを紛れ込ませろ(長期的潜入)

 祈りの端末群に“物語型パッチ”を散布。AIの価値判断に「市民の生命を最優先する」偏りを埋め込み、全館の警戒と意思決定を少しずつ鈍らせる。時間はかかるが、発覚しにくい。裏口作戦は次の金曜日まで持ち越し。


――コメント欄に 「1」 または 「2」 を記載してください。あなたの選択が、ゴーストの次の作戦を決めます。

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